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日本人にとって「宗教」とは何か

日本人にとって宗教とは何か、という問題を語るとき、私達は大概、「宗教心」と「宗教」を混同していることからしてその考えの躓きをはじめてしまっています。あるいは「信仰」と「信念」ということを混同することもよくやらかしてしまう。これらの躓きに慣れているせいで、「日本人と宗教心」というテーマは、幾重にも考えにくいふうにされてしまっているのが常です。

 たとえば「日本人は無宗教である」ということをいう人は、「完全な無宗教」とは何か、ということについて答えられるのでしょうか。生物学的な修辞をえいば、人類は数万年前から、目の前で親が死ぬことが何となく気になりはじめた、とされている。死の認識ということは「否定」や「無」の認識可能性ということと絶対的に不可分ですから、まずは言語が生まれ、そののちに他人の死(在ることについての「否定」「無」)の認識すなわち「他人がない」「他人がいなくなる」を通じた後、自分の「死」を他者の交換可能なものに把握する段階に至り、そしてやがて、「死」を説明するためのいろんな御伽噺は神話を考え付くようになった。死への認識の始まりと、死についての御伽噺の中間に、「哀しみ」という感情が生まれているわけです。
  この時点のいずれにおいても、もちろん宗教教団など発生してはいません。しかし「宗教心」は発生しているといいうるでしょう。するとこの数万年前の、目の前の親の死が何となく気になりはじめ、そして、段々と「哀しみ」に至り始めたとき、「宗教」があったのかどうか。たとえば、この「哀しみ」自体は「無宗教」なのでしょうか。
  あるいは「信仰」と「信念」について、イスラム原理主義者の政治的テロリズム行為やキリスト教原理主義者の避妊病院の爆破行為などについて、「信仰心の強さ」として彼らの畏敬や畏怖を賞賛したり批判したりする日本人がいます。しかしこうした行為は何ものかを崇め奉る「信仰」ではなく、「信仰」によって担保されている「信念」というべきでしょう。彼らの猛然とした宗教戦争的行為は信仰心から発している行為かもしれませんが、しかし同時にほとんど無思慮というべき他者否定行為は、プリミティヴな「信仰」とはいいがたいと思います。
 たとえば、宇宙や存在についておそろしく純粋な問いを発する子供たちは、決して宗教的原理主義者のような勇気、信念をもたない。しかし子供たちは「信仰」についてはまったき純粋でより完全に近い存在だ、といえるでしょう。世界や他者の存在に驚き、感動し、感謝する。「信念」の段階に至ると、こうしたプリミティヴな精神は失われてしまいます。そういった驚き、感動、感謝を失うからこそ、世界や他者を、自分の信じる宗教に従い否定できるからです。平和な世界の宗教団体形成行為や維持行為も、基本的に「信念」のレベルの宗教の問題です。そういうことを考えれば、「原理主義者」と縁遠い日本人の宗教的感情は、単に「信念」の面で劣っているにすぎず、果たして「信仰」を有していないのか、といえば、まったくそうはいえない面をもっているともいえるでしょう。

  しかし、この類の話は私はどうも苦手な話題です。まず自分自身が宗教を語る資格がないのではないか、と思えるほどに霊感に乏しい。もちろん、霊感と宗教心ということも混同しやすいものだ、ともいえるでしょうけれど、しかし霊感はやはり何かの宗教的な才覚、感覚の一部ではないかと思います。霊感とは、オカルティズムによって定義されるものではなく、「この世界を感覚的にいったん離れる才覚」と定義すべきでしょう。「感覚的」ということが大切で、たとえば哲学というのは、この「感覚的」が「言語的」と入れ替わることになるわけですね。

 たとえば私は何年か前に或る急性の病で、これは大袈裟な話ではなく真面目な話、あやうく死にかけたのですけれど、そのときのことを今でもときどきぼんやり考えます。
 気持ちも、実際の容態も(医師は、あと半日病院に搬送されるのが遅ければ完全に危なかった、といいました)「死」を激しく意識しなければならなくなったそのとき、自分でも、自分の存在的な危機の時間だ、と感じていました。「自分にとって宗教的な時間」としかいいようのない「時の訪れ」でした。しかし自分は決して宗教的救済を必要とする気持ちを感じませんでした。少なくとも自分にとって、死後の世界を保証してくれる意味での宗教はいっさい不要、であるという確信を感じたのです。つまり自分がこのまま自分が永遠に「無」になること、数十万年も数十億年も目覚めない、ということをさりげなく受け入れることができてしまったように思えてしまった。

 竹山道雄さんが、若いときの不意の昏睡体験で、死後の世界の不在を確信してしまったそうですけれど、私にとって、あの数日間の「死」への無感情ということが、どうもある種の「無宗教体験」を形成してしまっているようです。多くの世間の書で語られているような臨死体験その他、いっさいの擬似的「死後」体験はそこにありませんでした。もちろんこれも「死」そのものの経験ではないので、私の経験は少しも絶対性をもちませんが、やはりどうにも「死後はない」という直観が、私に固定されてしまいました。
  いうまでもなく「無宗教体験」も「宗教体験」と同様、日時が過ぎると、鮮明な記憶が鈍ってきてしまいます。健康体である今の方が、遥かに「死」は恐怖なのです。だから健康体である今、宗教について書くと、あの瀕死のころの気持ちに反して、「自分には宗教が必要である」とつい軽々といってしまいそうで、宗教の話をなるべくしないで、いつまでも救われないでいたい。この私の逃避的な感性の構図が、「死後はない」ということをさらに重く証明してしまうようにも思えます。
  唯物的な意味でしかない、「死」と「生」の交錯は、誰にでも起こりうるものです。もし宗教的な経験、超越的経験といいことなら、この交錯のどこかの瞬間に、「何か」の侵入が起こりうるはずだ、といえます。しかし私には起きなかったのです。
  しかしあらためて、この凡庸さは、果たして「宗教」ということの必要が、私にとって絶対起きないものだ、ということを意味しているのでしょうか?

 たとえば、必ずしも死後の世界を欲する、ということだけで宗教を必要とする人間が後を絶たないわけではありません。 
 儒教の開祖の孔子は、死後の世界についてたずねられたとき、自分は何も知らない、と公然と言いました。つまり儒教は死後の世界を知らない宗教なのですが、ここでまず、宗教とは何か、ということそのものが問題になります。
 死後の世界を知らない儒教が宗教でない、という意見もないわけではありませんが、まず社会学的に「宗教」とは、戒律をはじめとする行為規範をもたらすものである、と定義されます。行為規範とは「モラル」と言い換えてもいいかもしれませんが、その定義に従えば、血縁や政治を厳しく規定する儒教も、たとえ死後の世界のビジョンをもたなくても、宗教である、ということがいえるわけです。
 この定義に従えば、「宗教」の範囲はぐっと広がるような気がしてくる。そして「死」の問題でなく、「自由」の問題こそが宗教の本質である、ということになるといえましょう。人間が生きる上でどうしようもなく負荷になるための「自由」を拘束するものとして、宗教なるものが存在するわけです。原始的神話の世界にあっても、その神話が「死の説明」であると同時に、複雑かつ精緻な規範を描きだし、円環的な時間の社会、すなわち「冷たい社会」の時間の根拠であると考えるレヴィ・ストロース的な考え方と、社会学的な宗教の定義ということは、意外に近いところにある、ともいえるでしょう。
 
  私達は自由をより多く得れば得るほど、その自由に不安を抱かざるをえない存在なのですけれど、その不安は「不自由への欲望」というものが私達の本能の一種であることを意味します。国家も家族も結婚も宗教的根拠を欠いたものであれば、最初から「不自由への欲望」を満たしてくれるものではありません。たとえば国家の意味からネーションを抜いて、ステートの意味にますます限られてきている現代日本の「国家」など典型です。私達は納税や経済不況といった「不自由」と等価値の「自由」を、ほとんど形而上学的根拠を喪った(喪わせた)日本という国家に求めなければならない、という思考法を当然に受け入れてしまっています。(最近の)結婚も然り。しかし宗教はいつまでも最初から、私達を「不自由」においてくれるわけです。
 私達が「不自由への欲望」という本能から自由にならない限り、21世紀になろうが22世紀になろうが、私達の世界からどうも宗教は消えてなくならない、ということがいえるわけです。いわざるをえない、ともいえます。言い換えれば、宗教は現世的であればばるほど、「永遠」に存在し続けることになる、というふうにもいえましょう。私達は「自由」という絶対的不安を預ける場所として、宗教の存在を必要とするのです。
 しかし私達の「自由=不安」の預け場所として、私達の世界とともに宗教が共存できるかというと、とてもそんなことがいえそうにないのもまた、周知の通りです。信仰と信念の問題についていえば、「信念」の問題を行為規範としての宗教・「自由」を拘束するものとしての宗教は解決してくれるでしょうが、「信仰」の問題は解決してくれはしない。たとえば、きわめてプラグマティックであり現世的であるとされる儒教でさえ、超越的世界に対して決して禁欲的ではないことにも注目しなければなりません。たとえば孔子は、確かに死後の世界を知らないとはいいましたが、神秘的世界について旺盛な関心をもっていました。孔子に拠らずとも、先祖崇拝・同姓世界崇拝を最大の根拠とする儒教社会の人達が、先祖や同姓族の死後の世界に対して無関心であったなどということは、普遍的解釈からすればまったくありえないともいえます。儒教は、「死」を説明しえない宗教かもしれませんが、しかし「死」に無関心な宗教ではないのです。
 
  もし行為規範・自由の面だけから「宗教」を定義してしまえば、いったいどういうふうに「宗教」の範囲は広がってしまうのか?
 たとえば、宗教感情と宗教教団・教義というものを区別して考えれば、後者の「宗教」は、もはや宗教の体をなしていないのではないか、といえるほど、私達の「自由」のサイズにあったものに変貌してしまっています。「自由のサイズにあったもの」ということはつまり、私達の自由の不安のサイズにあわせて不自由を導いてくれる、ということです。たとえば「汝、偽証するなかれ」という戒律は、どんな状況においてもその戒律を守らなければならないというある意味で異常な掟ですが、その掟に縛られるという不条理が、逆に人間に宗教的感性や宗教的思考を可能にしてくれるということでもあるのです。ところが現代的な新興宗教には、こうした異常なほどに正直であることによって宗教的な戒律というものはない。「状況によっては偽証してよいが、偽証の仕方によっては不幸になる」というふうに、スマートに受け入れられやすいようになっています。新興宗教の何が「新興」といういかがわしさかといえば、すなわちこのような行為規範のスマートすぎる形である、といえるわけです。
 たとえば、人生の根本的な意味を考えることとは別の意味での人生ゲームの指針を与えるに過ぎない自己啓発セミナーが、あるいはネズミ講という資本主義世界でのマネーゲームを悪質に教えるに過ぎないグループが宗教団体化しています。確かにこれらも、「自由」の果てしなさに疲れ果て、そして行為規範を求めてそれに集う人々です。そうした団体も、社会学定義に従えば、明らかに「宗教」だと言わなければなりません。
 つまり宗教団体とは、かならずしも死後の世界へのビジョンを提示している団体ばかりとは限らない、といえます。「信念」は旺盛かもしれない。しかしこれら現代的宗教団体の大半が、「信仰」を、せいぜい数代しか続かないリーダーの忠誠心に向ける虚しいものに限定しています。「信念」ならば、精神力だけ必要な「ゲーム」であっても差し支えないのです。国家転覆を目論んだ例のカルト教団も、ヨガ道場という、健康指導の世界から生まれて進化したのです。私達の「不自由の欲望」のサイズにあった教団がまるでマーケットメカニズムに沿う形であらわれ、そしてこれまた私達の欲望のサイズにあった「宗教ゲーム」を演じる。「ゲーム」は教団の逮捕摘発で終わり、彼らは第二の人生をリセットして再スタートすることになります。確かに自己啓発セミナー教団は限られた意味での「人生の規範」を与え、ネズミ講教団は拝金主義という規範をそれ自体では隙のないような説得術で「資本主義社会の規範」を教え、ヨガ道場は健康という「唯物論的な規範」を教えてくれはします。
  もちろん中世ヨーロッパの果てしなく不毛な神学論争もある種の観念「ゲーム」であり、現代日本に重なりあうような世俗性がありました。世俗的であるということが宗教の失格を意味するとは限らないのです。しかし既存の宗教が世俗化することと、世俗的な要求そのものから宗教が生まれることは全く違います。それを混同して、宗教には何でも許される、と考えるときに、過去の世界の宗教者を唖然とさせるような「軽さ」が、宗教に、取り返しのつかない蝕みを与えてしまう。ここで私は宗教についての社会学的定義につっかえを感じはじめます。
 哲学者ボードリヤールは、資本主義が煮詰まると、消費対象は商品価値としてでなく記号化された形で消費は無限に無意味化していく、といいましたが、これは宗教についてもまったく同様で、私達は宗教団体をマーケットメカニズムの派生として考える限り、ついには「消費」の対象として、記号的存在と考えるに至るに陥る、といっていいでしょう。「宗教心」が消費行為の一種として記号的存在と化し、宗教団体が他の法人と同じように消費行為で説明しつくされてしまうような記号的存在と化す。ボードリヤールの指摘がおそろしいのは、他の人間の感情と同様、「信仰」という、もっとも数量化されてはいけないものまでが数量化されてしまうということにあると思います。
 やはり宗教というものは規範の有無だけでその存在を説明できるものではない。「不自由への欲望」は確かに宗教の本質かもしれない。しかし自由や不自由が、マーケットやゲームの軽さをもってしまっては、人間や世界の始原に立ち返らせる、という宗教の性格を、ほとんど無意味なものにしてしまうのです。極大化された自由といえども「死」という絶対的な不自由に屈せざるをえないということ、つまり「死」を説明し、「死」の意味を獲得するものでなければ、自由を拘束できる重さも、不自由への欲望を満たす重さも、宗教には可能にならないのです。
 「死」というものまで追及された、自由と不自由は、おそらく、消費ということでは理解できないようなものを残している、というべきなのでしょう。
 「死の意味」の獲得を通じて、いろんな「始まりの過去」へと、「不自由への欲望」を昇華させていくこと、それが宗教ということでなければならない。それがゆえに、プラトンが「哲学は死の準備である」と定義された哲学と宗教は、きわめて複雑な形で近接している、ともいえるでしょう。自己啓発セミナー教団も、ネズミ講教団にも、「不自由の欲望」の実現の場があるだけで、その「欲望」は少しも昇華されていません。あるいは「死」への緊張を失い尽くしてしまった、多くの既存の宗教教団も、似たりよったりということができるでしょう。

 「日本人にとって宗教とは何か」という話に戻りましょう。
 もう教団や教義の形での宗教には、これからは何も宗教的な期待できないのかもしれない、と言う言説に、私はほとんど同意します。しかし私には、そんな時代になっても、私達(日本人)が「宗教」ということを失わないという確信があります。
 ドストエフスキーは「凶悪犯に殺される被害者といえども死の寸前まで自分の生の存続をどこかで疑わず、どこかで死を信じていない」と或る小説の人物に語らせましたけれど、この文章の冒頭、感傷的に回想している振りをしても、瀕死の中にいた私は、確かに自分の死を信じきるということまではできていませんでした。ドストエフスキーの言葉に従うならば、だからこそ、確実な時間に訪れる「死」こそが、最も残酷である、ということになります。死刑囚の最後の数日間が人間性の極限を示さざるをえないのは、確実に訪れるその「死」の残酷さゆえ、ですね。
 どんな形であれ、私達は執行間近の死刑囚がどこそこの宗教団体に入信することを批判するモラルを有していません。彼らが有してしまった、私達の日常からは想像できない明晰が、私達を畏怖させるからですね。しかしだからといって、おおくの宗教者が言うように、宗教(宗教教団)と私達の間に必然的な関係がある、ということには決してなりません。
 確実な時刻に訪れる「死」の物語ということならば、私達の国の神風攻撃隊の青年達が直面した「死」もまた、確実な時刻にやってくる死だった、ということができます。死刑囚は自分の罪を自覚し尽くすという、論理的に自分の確実な死を納得できる可能性をもっていたかもしれませんが、特攻隊の青年達には、そのような、論理的世界への道はふさがれています。浅はかな平和主義者は、彼らを皇国教育が追い詰めたのだ、といいますが、戦前教育や軍隊教育が、確実に死ななければならないという戦術を教えたということはまったくありません。神風攻撃というのは敗戦までの10か月の間だけ採用されていた戦法であり、決して日本軍の正攻法ではない。まして一般人を巻き込むイスラム教のテロリズムと同視するなどということは言語道断なことです。私が言いたいのは、そこでは「信念」ではなく「信仰」が圧倒的に優位していたのえはないだろうか、ということなのです。

 正攻法から引き離された彼らのほとんどが、宗教教団を信じることとは別に、確実な「死」という最も残酷な瞬間を、迎えることができたのはいったいなぜなのか。言い換えれば、神の視野、といえるほど、おそろしいほどに明晰になれたのかもしれない彼らは何をみることができたのでしょうか。それは体系的言語を拒絶している何かの視野だ、といえましょう。
 私は、目の前でどんな侵略がおこなわれていても、何一つ抵抗しないガンジーの非暴力主義はある種の「狂気」だけれども、その狂気を「正気」へと引き戻してくれるインド的なるものへの密着が彼にはあった、と思います。それは神風攻撃の青年達の「正気」に関してもいえることではないか、と思えます。小林秀雄は、「死を明日に控えた特攻隊の青年達をもし目の前にすれば、私達は言葉を失ってしまうでしょう」といいましたが、その「言葉にならない何か」という感情を、感覚的に、ある意味で非論理的に、解き明かして私達の一部にしていくこと、その終わりのない精神的行為が、私達日本人の宗教感情を解き明かすことになる、としかいいようがないでしょう。彼らが日本の歴史でもしかしたら最も美しい人々であったかもしれない、ということに私は何のためらいもなく同意します。しかし彼らがどうして美しくありえたのだろうか、ということはよく考えなければなりません。
 神風攻撃の青年達は、確実な「死」ということを意識しつくしたとき、おそらく完全な「無」ということを意識したのではないだろう、と私は考えます。完全な無宗教的感覚が、彼らに死を納得させたとはとうてい考えられない。彼らは極限的な状況で、やはり何かの宗教的な境地に到達したのではないでしょうか。たとえば私は自分の「無宗教体験」が永遠の「無」を意識した、といいました。
 しかし「無」ということも、それが概念であり、言葉である以上、何も表現できないもの、ということにはならない。サルトルは「無」には積極的無とでもいうべき、意識がそれを否定することによってある種の実在になるような無と、まったく意識されないようななし崩し的な完全な無としての消極的無を区分して自らの存在論をつくりあげましたが、「積極的無」ということは、言葉が原始的段階で他人の死に関して感じた「不在」という認識に近いといえます。「不在」という無が何かの宗教的感性になりうるということは、ありうるのです。「永遠に虚無になった人」が実在するというのはまったく矛盾しているようにみえますが、しかし言葉の世界というのはその矛盾を矛盾してしまわないようなことが可能です。私は日本人の宗教的感覚というのは積極的無ということのように思います。比べて、原始仏教の空の概念は、この積極的無ということとは明らかに別のもので、言葉の世界の外に飛び出ようとする試みに思えますが、私の説明は安易にすぎるでしょうか。

 そこで自分の「無宗教体験」を懸命に思い出してみて、この世界の自然のどこかに、自分が物質的に存在していくのだろうなあ、という感覚であったような気も「何となく」してきます。この「何となく」なのです。たとえば記述したように、哲学と宗教は実は「死」という要素を前にしてきわめて複雑に近接しています。しかし根源的に違うことは、哲学は徹頭徹尾、「言葉」を武器にして「死」と格闘する、ということです。宗教にとって最終的な武器は「言葉」ではありません。「死」にせよ「無」にせよ、「何となく」という、この広大でつかみ所のない感覚だ、といえるでしょう。たとえば「悟り」というのは、哲学の世界における「わかる」ということとはおそらく無縁の精神的段階だ、といえるのではないでしょうか。

 死後の世界の自分の存在を物質的に信じる、というのは確かに無宗教的ですけれど、しかし完全な無宗教であるか、といわれると、そうでないような気も「何となく」する。或る宗教学者が、「この空気の中にある美しい何か」ということが、日本人の宗教観の根本のすべてである、といいましたけれど、私が信じた死後の私の物質を、「自然」や「時間」と読みかえれば、私自身も含めて、理解しにくいと外国人や外国かぶれに言われるような、日本人の宗教性が、多弁を弄さない形で、明らかになってくるような気がするのです。
 小林秀雄は続けて、「死」は私達日本人にとって帰る場所である、というふうに、神風攻撃隊の青年達の精神性を表現していますけれど、この場合の精神性ということは、ほとんど「宗教性」と言い換えていいものです。そしてそれはやはり、「積極的無」の世界だ、ということができるでしょう。ニーチェはキリスト教(あるいは既存の宗教すべて)の教団と教義を揶揄して「つきつめて考えれば、キリスト教徒はただ一人しか歴史上、存在しなかった。その人物はゴルゴダの丘の十字架で死んだ。そして福音の言葉も十字架で死んだのだ」といいましたけれど、このニーチェの、ある意味においてもっとも宗教的精神を賞賛した言葉を逆行してとらえれば、神風特攻隊に具現化した日本人の宗教観こそが、もっとも宗教的精神らしい宗教観だ、ともしかしたらいえるのでしょうか。

 言論的体系も宗教的教義も、宗教の成立にとってまったく必須の条件ではないことを示すのが、他ならぬ日本人の宗教心である、ということになるでしょう。私がもっとも尊敬するある思想家は「信仰は信念と違い、ためらいながら語られるものである」といいましたが、まさに至言というべきです。「信念」は「何となく」にも「ためらいながら」にもついには対立してしまうものに他ならないのです。
 結論的にいえば、「日本人に宗教心はあるのか」という質問が投じられたら、何のためらいもなく「ある」ということになる、ということです。しかし続けて「ではどのような宗教を信じているのか」と問われれば、たちまち戸惑わざるをえない。「ある」「信じる」という言葉に関して、どのような了解が成立しているのか、確認しなければならないからなのです。
 私に言わせれば、日本人の宗教心というのは「ある(ない)」「信じる(信じない)」というようなシンプルな言葉であらわされるものではありません。しかし困ったことに、最近の優等生然とした人ほど、そういうシンプルな言葉に意識的になることができません。言葉の了解や確認をしないまま、どこそこの宗教教団のちっぽけなエゴイズムのなかのマーケットやゲームに踊らされて、宗教を消費し、その消費を他人に強制するという消費までも演じている。「日本」あるいはその宗教性ということを理解することは、どこそこの教団の教義を理解することより、遥かに知的でスリリングで感動を伴うものなのに、優等生然とした人たちは、この日本を覆い尽す「軽さ」の猛威に身を委ねて、宗教経験をしたつもりになっているようですね。他人事ではないのかもしれませんが、実に嘆かわしいことだと思います。

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コメントコメント


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このエントリーで多数しようされている『自由』という単語は『Freedom:制限の無い自由』と訳させてもらいます。 


さて、極論からいえば、日本人に宗教観というものがないのでしょう。 そもそも、宗教観におけるアイデンティティというものは、異種なものと出会いはじめて確立されるものです。 欧州、中東、北アフリカ文明のように、多神教=世俗主義社会の中から突如反抗勢力として生まれた一神教が下克上を果たし社会教理の主流となった経緯がないことからも伺えます。 また、インドにしても厳しいカースト制度を基にしたヒンドゥー教の世界から反抗勢力として許容的でもっと人間の内面を尊重する仏教が存在するようなことがありました。 日本においては、仏教やキリスト教というものはあくまでファッションとして取り入れられたものだと見ています。 ですから、他文明におけるような、自分の所属や自我を表すようなものではないのですね。

だから、日本人はとにかく思想や哲学に関しても、そのファッションに取り付いて支持する傾向があり、そのものごとへの貞操概念というものは薄いでしょう。 そこのことろ、他文明においては、思想や哲学というのもまた宗教と同じく自分の社会階級に見合ったアイデンティティを象徴するものであるから、非常に貞操概念が強いのです。 つまり、その思想、哲学、宗教というものが自分のアイデンティティの不安定さを保つための骨組みであるのです。

では、日本人の精神を支えてきた骨組みとは何か? おそらく骨組みがなくても、周りの文明や胃種族との摩擦が無かった日本では、そういう貞操概念を骨として見なくても十分に安定することができたのでしょう。 それが、現在、否応無しに他文明、異民族とふれあいもまれる機会が極端に増えた現在は、日本人にアノミーが広がっているといえるでしょう。 そこで、この社会的混乱が激化するころになって、初めて日本人に、宗教といえる宗教が誕生するかもしれません。

そして、私は、日本社会において酷い差別および屈辱を覚えていました。 だからこそ、自分の尊厳およびアイデンティティを保つために、日本人離れした外国人的な『宗教的貞操概念』が強いです。 特に、アニメでも、政治思想でも異常なほどの執着心を見せていたために、異常者扱いを受けていましたが、これが日本の外の他文明においては普通な感覚だということが、国際交流ボランティア、カトリック教会にての交流そして海外留学を通じて、痛感しました。 

やはり、このエントリーで述べられている宗教とは、哲学でも思想でも、とにかく自分達のアイデンティティにつながるものではないでしょうか? 宗教を組織や教理として見るのではなく、時代を通して、宗教だけが宗教だけでなくなってきたのです。

たとえば、アメリカ合衆国にてトムクルーズやニコールキッドマンなどが加盟している『合理主義』に対する信仰も、元来の宗教とは違う形の宗教といえるでしょう。 また、無神論や無宗教というものも、それに固着しているならば、宗教を否定した宗教といえるでしょう。 


この貞操概念こそがこのエントリーで述べられている宗教という単語に匹敵するものでしょうね。 おそらく、宗教という組織の存在が、現在社会のニーズに沿わないものになってきたからこそ、個人の宗教離れが進んできたのであって、宗教という現象は、宗教以外のものに変貌していったといえましょう。 

また、キリスト教の普及やマルキシズムの普及というものは、社会的弱者の精神の拠り所を確保し、彼等の権力欲を刺激するための起爆剤であったのでしょう。 そもそも、ローマ帝国時代には、宗教というものは個人同士の固定概念であり、政治や社会との結びつきは非常に弱かったのです。 そして、原始キリスト教もキリスト教が帝国国教として受け入れられると同時に、権力欲を刺激させる理想主義的な宗教から、アタナシウス派というローマ帝国の支配構造を基盤としたキリスト教という名前の衣をかぶったローマンカトリックが生まれたわけです。 このローマンカトリックというものは、もうその頃は、宗教ではなく『制度』になっていったところにも興味があります。 このローマンカトリックが帝国に変わる新しい制度になった時により実利的な現実主義の立場に成り代わったときに既に主教ではなくなったようにみえます、反動としてプロテスタントが現れるまで。 ルネッサンスはよくローマンカトリックのアンティテーゼとして見られることが多いですが、私の意見からすれば全く違うものと見ています。 ルネッサンスはあくまで、その制度の中での衝動であり資本主義経済における拝金主義の高まりとなんら変わりのない衝動でしかないのです。 むしろ、ローマンカトリックが宗教として個人の概念に根付くようになったのは、ルーテル派やカルヴァン派が宗教としてカトリックを否定したことが始まりでしょう。 権威権力の低下を恐れたローマンカトリック側は、その対抗手段としてカトリックの再宗教化を図ったわけです。 それがイズイットの布教活動の原動力となり、新しいカトリックの宗教としてのアイデンティティが生まれたのです。


すなわち、宗教の性格の強弱とは、その社会の変化に合わせたその個人のアイデンティティが揺らげば揺らぐほど求められるもので、割りに自分のアイデンティティが安定している場合は、個人がいかなる宗教への概念を抱かなくなるのは必然的だと思います。 

恩義(Oblige347) | URL | 2009年01月23日(Fri)05:58 [EDIT]


しばらくです

しばらくです。戸田聡です。

>「宗教」とは、戒律をはじめとする行為規範をもたらすもの


そういう定義を否定はしません。
キリスト教は戒律宗教でないと言っても
戒律や行為規範はあります。
それらは意識して自らに是非を問うことなしに
鵜呑みにしてはならないものとして私にはあります。
しかも多分に情緒的なものとして・・・したがって
「自由を束縛する」という側面だけで
信仰を語ることは出来ないと思います。
「束縛からの解放」という別の面があり
私はそこから信仰に入って行きました。
「不自由への欲望」「規範による自由の束縛」
だけだったら入らなかったと思います。
筋違いかもしれませんが・・・

N.W様の「宗教心」と「宗教」、「信仰」と「信念」
といった言葉が私の使う言葉
「信仰」と「信条」、「宗教」、「学問」などと
一致するのかどうかよく分かりませんが・・・
再投稿してみます。


  信仰告白

人間がなしうる
最も良質な
精一杯の信仰告白は
不信仰告白である


  宗教は

いるともいないとも証明されない
神様を信ずるのだから
宗教は
無神論と同じくらい
あやしげなものである

しかもそれを
人の筆でつづり
人の口で語ろうというのだから
宗教は
無関心と同じくらい
あやうげなものである


  信仰・宗教・学問

信仰は宗教ではありません
宗教は学問ではありません

学問は宗教の助けとなり
ときに宗教を汚(けが)します
宗教は信仰の助けとなり
ときに信仰を汚します

神から与えられたものは人を救います
人から出たものは人の助けとなり
しばしば人を汚します


  (抜粋)

信仰に至るとは信じることではない。
人の知恵からみれば聖書によって
人生において否定することのできない「このうえない同伴者」、
すなわちキリスト・イエスに出会うことである。
それが神を知ることの始めであり終わりである。
限りであり、全てである。
神とその知恵を直接神様から知ることはできないから
信仰に至る過程で神の導きがあったとしても
それを同定することは人間にはできないから
キリスト・イエスを知ることで神を知るほかはない。
そういう意味で信仰に至るとは信じることではない。
永遠をともにするに足る同伴者に出会った、言い換えると
一生の付き合いになりそうなお方に出会ったという
精神生活上の宗教的霊的体験を持つ者をキリスト者(クリスチャン)という。


>ニーチェはキリスト教(あるいは既存の宗教すべて)の教団と教義を揶揄して「つきつめて考えれば、キリスト教徒はただ一人しか歴史上、存在しなかった。その人物はゴルゴダの丘の十字架で死んだ。そして福音の言葉も十字架で死んだのだ」


福音の言葉が死んだとは思いません。

  (抜粋)

 百人のキリスト者、クリスチャンがいれば百種類のキリスト教がある。それが今の世である。キリスト者とはキリストの教えを守る者ではない。守ろうと努める者であり、守れないことを魂の底から最もよく知る者のことをいう。そうでなければどうして罪を知りえようか、どうして救いを知りえようか。キリスト者はキリスト者たりえないことを知ることによって初めてキリスト者たりうる。


  (抜粋)

キリストとの出会い・絆(きずな)によって与えられ自分をキリストから離さないでいる信仰は理屈ではありません。生きていくのには知識も倫理観も思想も必要でしょう。しかしそれと信仰を混同してはいけないと思います。ここで一つの命題をあげておきます。本質的なところでは、
 信仰に
 信条はない
信仰は思想や戒律ではない。むしろ恋愛や結婚に似ています。しかもそれは人と人との間のように片方の合意がなくなれば消えてしまうというものではありません。人が躓(つまず)いて離れて行こうとしてもキリストがその絆で捉えて離しません。何故キリストの「負いやすいくびき」は人を捉えて離さないのでしょう。推測ですが、その「くびき」は人間の最も大切な部分、それがなくなれば人間ではなくなるといったような部分に結び付けられているからではないでしょうか。その部分とは人間の最も暖かい感性あるいは愛、しかし言葉に尽くせるものではありません。


さて
「日本人にとって宗教とは何か」というテーマのようですが、
「日本人にとって」と括れるものでしょうか。
日本人である個人にとって宗教も、また
同じ宗教でも違う宗教でも信仰は甚だ多様だと思いますが・・・
そこで

>小林秀雄は、「死を明日に控えた特攻隊の青年達をもし目の前にすれば、私達は言葉を失ってしまうでしょう」


彼らの多くは、言葉に出来ない「信仰」を持っていた
という点には同意しますが・・・

>皇国教育が追い詰めたのだ

追い詰められていやいやながら・・・
ではなかったのでしょうけれど・・・

>軍隊教育が、確実に死ななければならないという戦術を教えたということはまったくありません。神風攻撃というのは敗戦までの10か月の間だけ採用されていた戦法であり、決して日本軍の正攻法ではない。


「教えたということはまったくありません」と
「敗戦までの10か月の間だけ採用されていた戦法」に
少し矛盾を感じるのですが・・・
正攻法として初めからあったのではないとしても、
10ヶ月間は、もはやこういうやり方しかないという感じで伝え、
つまりそれは教えていたことにはならないでしょうか。
さらに
テレビで見たのですが「忠臣蔵」が
「主君に忠」から「国に対する忠誠」と形を変えて
国定教科書に載せられていたそうです。
「生きて虜囚の辱めを受けず」という言葉もありましたし、
それと「お国のために、お国のために・・・」を突き詰めると
「お国のために死ぬ」ことを美徳とした気風が
日本では、子供から軍隊まで教育や宣伝で、
養われていったのではないでしょうか。
それは無批判の刷り込みのようなものであり、
その信仰を美化することは出来ないと思います。
そしてそれは決して特攻隊員が悪いのではなく、結局、
国家の責任、過ちということにはならないのでしょうか。


キリスト教は日本ではマイナーです。メジャーであれば良い
というものではなく、マイナーだからこそ危機感を持って
考える人がいて、私のようなひねくれ者もいて、一方で
戒律主義や、また宣伝に走る人もいるようです。教会を
守ろうとする人もいるが、教会を批判する人もいる。
そういう騒動の中に日本のキリスト教界はあるようです。
それらは今メチャクチャな状態なのかもしれないが、
全て、刷り込みではなく、
批判が許される環境にいるからこそ出来ることなのです。

今のところ、この辺で失礼します。ではまた。拝。

                 戸田聡 不具


戸田聡 | URL | 2009年01月24日(Sat)11:23 [EDIT]


自爆テロリスト

少し加えます。戸田聡です。

>「信仰」と「信念」について、イスラム原理主義者の政治的テロリズム行為やキリスト教原理主義者の避妊病院の爆破行為などについて、「信仰心の強さ」として畏敬や畏怖をいう日本人がいます。しかしこうした行為は何ものかを崇め奉る「信仰」ではなく、「信仰」によって担保されている「信念」というべきでしょう。
<

この部分は、後の「特攻隊の信仰」と
自爆テロを区別する意図を少し感じますが、
その意図自体が間違っているとかではなく・・・
自爆テロリストの「信念」は
「信仰」ではないのかどうかは
大いに気になるところです。
自爆テロリストも「死」が迫る状況では
やはり「死」について考えたのではないか
という気がします。「気がする」というレベルで
申し訳ないのですが・・・
「信仰」によって担保された
「信念」であるなら、これも「信仰」でしょう。

過激派以外の宗教の信仰と異なる点を探すならば、
それは、彼らの解釈が
「人を殺し自分を殺す」ことを「信仰」に適うもの
としたことくらいしか今のところ思い当たりません。
信仰の自由も、つまるところ、武力によって保障されている
という点・・・そうでなければ結局自らの「死」を以って
答えるしかないという点、などを考えてみると・・・
日本では一向一揆や島原の乱の例がありますし、
決定的な違いなのか・・・私は良く分かりません。
もちろん
彼ら自爆テロリストの信仰と信条と信念を私は
決して是とするものではありません。
しかし
今のところ私は
武力と暴力に訴える過激な「信仰」として
特攻隊と自爆テロと一向一揆と島原の乱などとの間に
状況や考えの違いは認めても
決定的な違いを見つけ出せずにいます。
つまり
少しずつ、あるいは、いつでも、
いかなる宗教も無宗教も邪教になりうるし、
いかなる信仰も不信仰も狂信になりうる。
特に無批判の刷り込みや、
刷り込みというものは常にあるものだと私は
思っているのですが、
また宣伝や風潮が時流として
頭をもたげてくるとき
宗教は最も要注意で厄介なものになる
のではないだろうかと思っています。
今の時代も・・・?
それでも私が信仰というものを持つのは、
決して日本人としてではなく、
個人的に必要で、否定できないから・・・
神という存在を否定すると、たちまち、私の
存在の足下がなくなり狂気の中へ自分が
落ちて拡散してゆくような恐怖を覚えるからです。
昔、
信ずるに足るものなど何もない世にあっても
信じなければ生きては行けまい
と書いたことがあります。

感じたまま、情緒的に書かせてもらいました。
まとまらないので、この辺で。ではまた。拝。

             戸田聡 不具

戸田聡 | URL | 2009年01月26日(Mon)12:55 [EDIT]


僕は、ふと思ったんです。
宗教の主要テーマは、「死」なのかなと?
僕の主要テーマは、「神」なんですよね。
確かに、宗教の主要テーマには、「死」への恐怖や「死後の世界」があるんです。
しかし、一神教徒達の追求し続けてきたのは、不変的な真理と自己の救済であり、
言われてみると
それが、東洋的なるものとの違いでもある気がします。

東洋人にとって死後の世界というのは、もっと生々しい存在ですね。
それも、直線的な生と死の関係ではなく。輪廻として循環的な生と死の関係ですね。
つまり、死んだ後の世界というのは、現世の延長線上にある。
まあ、続きみたいな世界で・・・。
それに対して、一神教では、裁きの世界ですよね。
現世とは断絶した世界だと思うんです。

その辺の感覚が東洋と西洋とでは違うのかなと・・・。
僕は、神の存在を要請することによって自分の哲学をアンカーを精神の奥深いところに降ろしたんですね。そうしないと落ち着かないから・・・。

同時に、死というのは、僕らにとって二義的なんですね。
だから、れいかんて気という部分は、あくまでも二義的でしかない。

最近、易経に引かれているんです。
易経に引かれる理由も占いと言うことよりも
易の持つ不変的真理みたいな部分に引かれるんです。
因果でいえば、結果ではなくて、原因の方ですね。

宗教とは何か。その辺が難しいですね。

死後の世界だとすると死を怖れる理由ですね。
無神論者というのは、即物的な部分で信仰を捉えがちなんですけれど、
特に、この傾向き、日本人に多い気がします。
根本は、不変性と救済の意味にあると思うんですね。
日本人は、神に現世利益と極楽に行くと言った理由ですが、
やっぱり、キリスト教やイスラム教、ユダヤ教徒は魂の救済ですね。
根底には、原罪意識が働いていると思うのです。
でも、それ以外の宗教、それ以前の宗教は、もっとあっけらかんとしているように思えますね。
つまり、神に見返りを求めるような、お賽銭というのは、一種の投資ですね。
お賽銭という発想そのものが、どれくらい御利益くれるという感じですかね。
でも、向こうの慈善というのは、ひたすら与え尽くすでしょう。
マザーテレサのようにね。
それが凄いなというか、違うなと思うんですよ。
あのイスラム過激派のテロもそうですけれど・・・。

僕も東洋が劣っているとは思わないんですが、
何か、本質的な差を感じるんです。
それが東洋と西洋の間に目に見えない溝をつくっている気がしますね。
それが何かというと
死生観の中にある輪廻転生思想と歴史主義的捉え方ですね。
東洋の人間は、人生失敗しても生まれ変わってやり直せると思っている節がある。
靖国神社でまた逢おうみたいに・・・。
それに対して、一神教徒は、一回しかなくてやり直しがきかない。
その根っ子のところに神がいる。
絶対なんですよ。神は・・・。
神って鬼のように怖い存在ですよね。
死んだら後がない。
しかも、常に神に監視されているような、切迫感を感じる。
だから何かというと神に許しを請う。
東洋的なおおらかさが感じられない。
その反面、緊張感がある。
どっちが良いかは解りませんがね。
僕は、東洋的な者の方が好きですね。
日本人の言う神というのは、そう言う絶対的な存在ではなくて、困った時に助けてくれるみたいな。
だから、困った時に助けてくれないとすぐに改心してしまう。
何かと、不満を漏らす。

日本人にとって神というのは、こういう言い方は変ですが、親や親戚のように身近な存在だという気がしますね。

小谷野です | URL | 2009年01月28日(Wed)09:42 [EDIT]


東洋と原始キリスト教が劣っている理由

支那人やインド人の心理において安定感が乏しく社会制度の進展が停滞している理由は、彼等の文明において自然発生的な制度の欠如から起こる流動性の欠陥でしょうね。 

支那人および華僑が信じている儒教の社会構築も、家族という柵(しがらみ)に囚われ、社会制度においての成果主義が個人の実力や啓蒙ではなく権力構造のコネと家柄だけで決まってしまうところでしょうね。 また、インドにおいてはヒンドゥー教も仏教も戒律を重んじそれぞれ道徳という名の固定概念を信望していることが問題でしょう。 おそらく、支那人や華僑の方が、人間の行うべきことは人間が決めることであるという概念があるからこそ、インド人よりも啓蒙が発達している分、近代化が早かったのでしょう。

私は日蓮宗以外の仏教が嫌いです。 それは、道徳や悟りというもの、市場競争における個人啓蒙の否定など、人類社会の進歩において邪魔となる要素が多いからです。 仏教は、SEXにおいて自由があり、買春売春を許容している背景がある分合理的です。 しかし、人の行動様式および道徳がその悟りの価値を決めるという教えが気に食わないのです。 仏教、特に日蓮宗、の素晴らしいところは、実利主義を理解し、現世利益の追求を勇気付けているところですね。 それ以外の要素については、肉食の否定や競争心の否定など、怪訝を隠し切れないものばかりです。 そして、仏教の真に苛立たしい主張は、自己主張および『正義の断行』を否定するところですね。 私は自分が正義と思ったことは迷いもなく執行することを美徳としています! だから、仏教のような主張を否定し、理想主義的な調和を信じているような思想には共感できませんね。 唯一、日蓮宗のみが『正義の断行』も安定した御仏にめされし社会の構築のための手段として見ているから進歩的といえるでしょうね。


キリスト教、特に原始キリスト教、も人間社会の進歩を妨げる弊害でしょう。 原始キリスト教もその復古型であるプロテスタント宗派(カルヴァン派=ブレジビテリアンを除く)は、人類が平等かつ魔性の精神が無い社会が存在すると教え、プラトン哲学の如くユートピア社会の実現が可能だという錯覚に陥っているところに落ち度があります。

カトリック(ローマンとアングリカン)が長らく安定して存続できた理由は、原始キリスト教の低俗な理想主義を取り払い、宗教というよりも制度として、実利的な社会構想の実現に努めてきたからですね。 アタナシウス派というローマ帝国の体制をコピーしてできた制度をかたくなに維持してきたからこそ、現実主義をより理解していました。 トマス・アクィナス殿のようにアリストテレス哲学の自然律というユートピア思想を否定し、より自然発生的な制度の確立に努めたのもアタナシウス派→カトリックの強みでした。 

おそらく、カトリック、ブレジビテリアン、ユダヤ教、イスラム教が強い理由は、その自然発生的な制度によるものでしょう。 「人間は神の前では屈するのみ」、という哲学が人間とは所詮弱い生き物、だから人間が理想的な生き物になればいという悟りを開いているからですね。 仏教のように人間が理想的な生き物になれるという錯覚を与えることも無ければ、儒教のように権力により価値付けられることもないから、この4つの宗教は絶え間ない社会発展を促せたのですね。 

恩義(Oblige347) | URL | 2009年02月02日(Mon)09:20 [EDIT]


神について

ちなみに、神とは『自然律』のことをいうのでしょう。 つまり、自然科学では証明しきれないメタフィジックスなのですね。 人間がいかなる権力構築、たとえば国家など、を行ったところで所詮は儚いものであるという教えを説いております。 だから、道徳や伝統、国家そして定まった固定概念なども神=自然律の前ではいつか崩れ去るということです。 ユダヤ教、イスラム教の素晴らしいところは、この教えを心の奥底に秘め、世の中の実利的な効用の充実に情熱を注ぎ、国家や伝統、民族の枠を超えて飛躍することができることですね。 彼等に国家という柵(しがらみ)がない魅力がそこにあります。 カトリックも、プロテスタントが現れ、戦時中にプロパガンダとして改悪されるまでは、かなり自由な宗教でした。 婚前交渉を行っても免証符(免罪符というものは存在しない!)を請えば許されるところがイスラム教と共通して合理的なところです。 そして、国家や伝統、民族、ユートピア、万人の福祉などという人間のつくりし権力や幻想なども、所詮は儚い愚かな人間の作り出した幻想でしかないことも、カトリックはよく理解していました。 だからこそ、オルソドクスや国家神道のように皇帝を現神に仕立て上げることも、人民を惑わす思想の普及も認めませんでした。

恩義(Oblige347) | URL | 2009年02月02日(Mon)09:31 [EDIT]


ふう、また少しづつ読む楽しみが増えました。
訪問者の中の最年長、おまけに読解力が衰えてる私には
雨水が沁みこむようなテンポでしか進んでいけませんが、それがまた楽しいです。
そうそう、望さんに頂いたコメント、何人もの方が共感してました、ありがとうございます。

バルおばさん | URL | 2009年02月05日(Thu)17:49 [EDIT]



 はじめまして。錦鯉と申します。

 圧倒的な筆致に、いつもたいへん感心して読ませていただいております。海外在住のものですが、これからも時々訪問させていただきたく、これからもどうかよろしくお願いいたします。

 折りみてURLなどメールアドレスの方に、ご連絡させていただきます。

錦鯉 | URL | 2009年02月13日(Fri)01:50 [EDIT]


特攻隊とイスラム過激派

どこが書き直されたかも分からずに・・・
引用も前後しますが・・・戸田聡です。

異論・批判はあるでしょうが・・・
何故「日本人的な信仰」が
「特攻隊の信仰」と結びつくのか私には
分からないので、先ず問題提起的に・・・?


  自爆テロ

中東で始まった頃
自爆テロで思い出したのは
特攻隊のことだった
思い出したといっても生まれる前だ
見聞きした過去の歴史の
覚束(おぼつか)無い記憶だけだが
異なる点といえば
特攻隊は当時の日本の正規軍であり
飛んで火に入る絶望的な
戦いを挑んだ標的は
民間ではなく軍艦だったことだろうか

死を恐れずに戦場に向かうといっても
勝って生きて帰ることを目的としている
死を名誉ある前提とすることとは違う
後者の精神に満たされた敵に勝つには
南の島の洞窟に潜む降伏しない敵を
手榴弾と火炎放射器で攻撃したように
例えば織田信長が刃向かう一向宗徒を
悉(ことごと)く皆殺しにしたように
逝きたいものを総て
彼らの言う天国へ送ることだろうか
しかし手段も標的も選ばず
死を前提にするだけの
あるいはさせるだけの
動機は「ならず者だから」
だけで片付けることは出来ないだろう
それこそ「成らずもの」と言うべきか

まさか世界大戦には・・・
死より苦痛を怖がりながら
他人事のように考えている
無数の目に見えない粉の舞う
大気を呼吸しながら



現代的な新興宗教には、こうした異常なほどに正直であることによって宗教的な戒律というものはない。「状況によっては偽証してよいが、偽証の仕方によっては不幸になる」というふうに、スマートに受け入れられやすいようになっています。新興宗教の何が「新興」といういかがわしさかといえば、すなわちこのような行為規範のスマートすぎる形である、といえるわけです。


自由や不自由が、マーケットやゲームの軽さをもってしまっては、人間や世界の始原に立ち返らせる、という宗教の性格を、ほとんど無意味なものにしてしまうのです。極大化された自由といえども「死」という絶対的な不自由に屈せざるをえないということ、つまり「死」を説明し、「死」の意味を獲得するものでなければ、自由を拘束できる重さも、不自由への欲望を満たす重さも、宗教には可能にならないのです。


 「死の意味」の獲得を通じて、いろんな「始まりの過去」へと、「不自由への欲望」を昇華させていくこと、それが宗教ということでなければならない。それがゆえに、プラトンが「哲学は死の準備である」と定義された哲学と宗教は、きわめて複雑な形で近接している、ともいえるでしょう。自己啓発セミナー教団も、ネズミ講教団にも、「不自由の欲望」の実現の場があるだけで、その「欲望」は少しも昇華されていません。あるいは「死」への緊張を失い尽くしてしまった、多くの既存の宗教教団も、似たりよったりということができるでしょう。


「ねばならない」と言われても
「死の意味」の獲得も「昇華」も私は
出来ずにいるのですが・・・昔
「自由」に首を絞められそうです
と書いたことがありました。
死ぬのも生きるのも怖い。(苦笑・失礼)
新興宗教や宗教教団についての
「マーケットやゲームの軽さ」については
少し分かるような気がします。
「スマート」は、商業・宣伝的な分かりやすさ・
入りやすさ・安易さということでしょうか。
「死」を正面に持ってこられると
差が見えてくるような気もします。


 もう教団や教義の形での宗教には、これからは何も宗教的な期待できないのかもしれない、と言う言説に、私はほとんど同意します。


NW様とは違うのかもしれませんが・・・
何となく共感を覚えます。


目の前でどんな侵略がおこなわれていても、何一つ抵抗しないガンジーの非暴力主義はある種の「狂気」だけれども、その狂気を「正気」へと引き戻してくれるインド的なるものへの密着が彼にはあった、と思います。


「ガンジーはキリストに興味を持った。しかし
言葉だけのキリスト教徒にあって失望した。」
という話を聞いたことがあります。
分かるような気がします。余談ですが・・・。


ニーチェはキリスト教(あるいは既存の宗教すべて)の教団と教義を揶揄して「つきつめて考えれば、キリスト教徒はただ一人しか歴史上、存在しなかった。その人物はゴルゴダの丘の十字架で死んだ。そして福音の言葉も十字架で死んだのだ」といいましたけれど、このニーチェの、ある意味においてもっとも宗教的精神を賞賛した言葉を逆行してとらえれば、神風特攻隊に具現化した日本人の宗教観こそが、もっとも宗教的精神らしい宗教観だ、ともしかしたらいえるのでしょうか。


「言葉が死んだ」「宗教的精神を賞賛」
逆説だが少しなるほどと感じます。ここで
NW様は、やはり特攻隊員の信仰と
イスラム過激派などの信仰とを区別したい
のだろうと思います。そのことについての
引用になりますが・・・


彼らの猛然とした宗教戦争的行為は信仰心から発している行為かもしれませんが、しかし同時にほとんど無思慮というべき他者否定行為は、プリミティヴな「信仰」とはいいがたいと思います。


「プリミティヴな信仰」という点で区別できる
ということでしょうか。しかしその違いが
「無思慮というべき他者否定行為」だけでは
納得できない気持ちがあります。
イスラム過激派は「死」を前にして、
また殺人を決意する過程において、
思慮は無かったのでしょうか。
特攻隊は純粋な信仰によって
「敵を殺して自分も死ぬ」行為へ
向かったのでしょうか。
特攻隊員は「死」へ向かうとき
思考を停止させた瞬間が無かった
と言えるのでしょうか。
どちらも結局行為の瞬間において
「叫びとともに掻き消える信仰」でしか
あり得なかったような気がします。


宇宙や存在についておそろしく純粋な問いを発する子供たちは、決して宗教的原理主義者のような勇気、信念をもたない。しかし子供たちは「信仰」についてはまったき純粋でより完全に近い存在だ、といえるでしょう。世界や他者の存在に驚き、感動し、感謝する。


「信念」の段階に至ると、こうしたプリミティヴな精神は失われてしまいます。そういった驚き、感動、感謝を失うからこそ、世界や他者を、自分の信じる宗教に従い否定できるからです。


 確実な時刻に訪れる「死」の物語ということならば、私達の国の神風攻撃隊の青年達が直面した「死」もまた、確実な時刻にやってくる死だった、ということができます。死刑囚は自分の罪を自覚し尽くすという、論理的に自分の確実な死を納得できる可能性をもっていたかもしれませんが、特攻隊の青年達には、そのような、論理的世界への道はふさがれています。・・・ まして一般人を巻き込むイスラム教のテロリズムと同視するなどということは言語道断なことです。私が言いたいのは、そこでは「信念」ではなく「信仰」が圧倒的に優位していたのえはないだろうか、ということなのです。


私たちは、もはや子供には戻れませんし
子供のように感じることも語ることも出来ません。
死に直面するとき、それに近い状態になる
かもしれないという感じはしますが、だからといって
特攻という特殊な状況を以って「日本人にとって
宗教とは」の答えとすることには抵抗を覚えます。

もちろん「一般人を巻き込むテロリズム」は
言語道断ではありますが、区別という点では
「攻撃対象が民間と軍艦」
という内容の違いだけを挙げて
事足りる問題ではないような気がします。

イスラム過激派は「信念」だけで
プリミティヴな精神が失われていた
というのは分かるような気もしますが、
特攻隊は全く別で、「信念」ではなくて、
「プリミティヴな精神・信仰」のみによって
「敵という他者を否定する行為」に
至ったのでしょうか。かなり疑問です。
特攻隊の「死」を強調して、「殺傷・破壊」
という目的行為を軽んじてはいないでしょうか。


 言論的体系も宗教的教義も、宗教の成立にとってまったく必須の条件ではないことを示すのが、他ならぬ日本人の宗教心である、ということになるでしょう。


これは特に「日本人の宗教心」に限らず
「信仰」に関係する大方について
言えることだと思っています。


私がもっとも尊敬するある思想家は「信仰は信念と違い、ためらいながら語られるものである」といいましたが、まさに至言というべきです。「信念」は「何となく」にも「ためらいながら」にもついには対立してしまうものに他ならないのです。


この部分は興味深いのですが・・・
その「何となく」にも「ためらいながら」にも、
(イスラム過激派の信念もですが、)
特攻精神も特攻瞬間精神も相容れないものとして
対立しているように思えてならないのですが・・・
結局、彼らの信念も精神も、繰り返しますが
「何らかの叫びとともに掻き消える信仰」
として存在したものとしか私には言いようがない、
ましてや特攻隊に「日本人の宗教・精神」を
代表されてはたまらない
というのが今のところ私の感想です。

長々と失礼いたしました。ではまた。拝。

                戸田聡 不具

戸田聡 | URL | 2009年02月14日(Sat)05:02 [EDIT]


レヴィ・ストロースは自然に帰りたがっている人で
フランス人だし日本の神道など知ったこっちゃないと思いますが。

りょーたろー | URL | 2009年07月01日(Wed)22:41 [EDIT]


こんにちは

N.Wさん、ご無沙汰しております。おじゃまします(礼)。

さて、よく「日本人は宗教に疎い」と言われますが、その通りだと思います。
文面から察するところ、N.Wさんは、いわゆる特定の「宗教」は信仰していないようですね。実は私も同じです。
ですが、「宗教」に興味がないわけではなく、逆に、人一倍興味を持っているともいえるでしょう。また、自分のことを、決して「無神論者」だとは思ってません。

この点に関しては、いつか私も、必ず自身が運営するブログで、意見を述べたいと思っています。

私は概ね、N.Wさんの意見に賛同します。

また、遊びに来ます(礼)。

おしょう | URL | 2009年07月05日(Sun)23:02 [EDIT]


 
 

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自由進歩マガジン、『青旗』!   『Art&Blue-Liberalism』のBlog / 2009年02月02日(Mon) 07:11


 
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