倶楽部ジパング・日本

「オウムの季節」と日本人のこれから

   親戚の中学生と話していて、愕然としたのですが、もう「地下鉄サリン事件」を知らない、という世代がずいぶん多くなってきています。一連のオウム真理教事件は、ある意味で、すでに「昔話」になりつつあるようです。しかし、考えてみれば、地下鉄サリン事件をはじめとするオウム真理教の事件の季節から、10年以上の歳月が経過しつつあるわけです。関係する裁判も判決・決審するものがずいぶん多くなってきている。
1950年代後半の、「もはや戦後ではない」という流行語ではないですが、「もはやオウムの季節ではない」という言葉が相応しい時期にさしかかっているのでしょう。一度だけですが、私はテレビ討論番組の観客で、麻原彰晃のすぐ近くに数時間の間いたことがあります。坂本事件と地下鉄サリン事件の中間の時期(1991年)のことで、まだオウムが犯罪集団かどうか世間に判明してなかった時ですが、それでも、パネラーの麻原彰晃の真後ろの観客席は、皆怖がって誰も座りたがらない。興味本位で座った私は、その数時間、麻原のいろいろを観察する機会を得ました。切れすぎる位の頭の回転のよさ、その反面、他人の人間性への様々な計算性をにおわせる態度、確かにいろいろな意味で異常な能力を兼ね備えた人物だと私は直観しました。ただ、事後的に考えて、彼が本当に歴史的に名を残すほどの大犯罪者だったかどうかは、全く疑問だといわなければなりません。彼の俗物性がかなりレベルの低い、しかし甚だしいもので、パネラーの誰某に、妙な媚び方をしたりしていました。あれは巨悪的な組織の長の風格ではなく、全く正反対のもの、中小企業などでよくみられる、上司への取り入りのようなものだったように思えます。オヤオヤと思える凄味の反面、妙なところで小さい人間だな、というのが私の感想でした。麻原の印象というのは「中途半端な巨悪」という、オウム事件そのものの印象だったように思います。そんな私の貴重な体験を面白がってくれる人も今では少なくなりました。いろんな意味で、もはや「オウムの季節ではない」ということなのでしょう。
   もちろん、被害関係者に残された気持ちはこれからも残るだろうし、オウム真理教自体は未だに健在で、あの事件が風化していない、という意見も正しい。けれど、直接的関係者でない人達にとって、明らかに事件は過去のものになりつつあります。日本全体にとって、オウム事件というものは同時代的でない、ということです。しかしそれは言い換えれば、同時代的でなくなっただけだ、ともいえます。「もはや戦後でない」と言う言い方が、二次大戦と日本のかかわりへの考察を忘却してよい、ということを意味するのでないのと同様、「もはやオウムの季節でない」という言い方が、あの季節におけるオウム事件と日本のかかわりがもう過去のものになった、ということを意味するものではありません。同時代的でなくなった、ということは、教訓や反省を引き出す歴史的事実になりつつある、ということでもあるわけです。「生きた過去」としてのオウム事件の受け止めというのは、むしろこれからの日本において始まる、ともいえるでしょう。しかし、日本人の多くが、あの「オウムの季節」から何かを学ぼうとしているか、というと、いろんな面での疑問が湧いてきます。
   たとえば、憲法改正の具体的審議が国会や総選挙で議論されそうな気配になりつつある。戦後初めての憲法改正の現実化が迫りつつあるということ、それは間違いなく非常に好ましいことです。しかし、その好ましさ自体とは別に、憲法改正論の進行において、「オウムの季節」が日本の今後に与えた影響というものを意識し内実が果たしてどれだけあるのだろうか、と私は非常に訝しく思います。
   自衛権の明記や、各種国民義務・愛国心教育の必要性の明確化には全面的に同意しますが、そうした改正論の主要面とは別に、国内の犯罪集団に対する国家の対応について憲法論は、さほど国民の関心を集めていません。犯罪を犯すのは個人であるというのが現行の法体系の原則ですが、強固な組織体系をもった集団が、個人を超えたレベルで存在した場合、集団に対する法的対処を、各種法律のレベルでなく、憲法のレベルでも考えてよいのではないか、ということですね。個人処罰だけでは対処できない犯罪状況ということですが、破壊活動防止法の団体適用が否定されたのも、憲法的価値観のバックグラウンドがない、ということも大きな原因だったわけです。もちろん、現行憲法には、団体犯罪への国家のあるべき対処、その対処の状況が生じた場合における国民の権利義務などは記されていません。   
   あるいは、思想信条の自由のパラドックスということも考えなければならないでしょう。「パラドックス」ということは、「思想信条の自由」は、それを保障する国家の存立を根本的に破壊してしまう「革命の権利」までも保障するのか、ということですが、諸外国の憲法の多くは、自己の憲法体制への革命的破砕の思想と実行に関しては、明確にそれは憲法の保護対象から外れる、ということを明記し、このパラドックスに対処しています。ところが、これまた、現行憲法には全くその規定が見られません。現行憲法には、諸外国の侵略行動が存在しないかのような空想的平和主義が感じられるのとあわせて、国家転覆を企てる革命集団が国内に存在しないが如き、これまた空想的な平和的時間を予定しているように思えます。そして、このパラドックスは、憲法にのみ存在していて、各種法律においては必ずしもそうではない、ということもいえるところが、非常に奇怪なのですね。
   たとえば、麻原彰晃をはじめ、判決各被告への刑法の適用をみると、殺人罪・殺人予備罪(および共同正犯)の適用がほとんどです。判決のほとんどは量刑的には妥当なものといってよいと思います。が、それから一歩踏み込んだ、内乱罪(刑法77条)の適用の是非は、あまり議論されていない。ストレートに麻原達に内乱罪を適用すべきだった、ということではないですが、麻原達の行為が究極的に進行した場合、この内乱罪に該当するおそれがある、ということが、司法にかかわる議論や世論にもっとあっていいと思います。内乱罪は必要的共犯といって、最初から集団犯罪を予定している犯罪類型ですが、これが野放図な精神的自由の保障を説く現行憲法とどのような整合性があるかどうか、は殆ど議論されてきませんでした。不思議なのは「内乱罪違憲説」というのを説く左派的な政治家や法律家も全くといっていなかった、ということです。
    大体、この国に、国家の秩序破壊を計画実行した者に対して、殺人よりも遥かに重い刑罰を適用する刑法77条のような条文が厳然としてあること自体を知る人があまり多くない。麻原達は国家の中枢機能の破壊や天皇・皇族の殺傷をも目論んだわけですから、これは故意のレベルでは内乱罪に接近しているともいえるのです。もっとも、内乱罪は犯罪結果が何かということが難しい犯罪で、「既遂」が何かということについては非常に争いがあります。既遂に達してしまえば、国家体制は破壊されて、「犯罪者」達は新政権の英雄になってしまうというロジックも成立するからですね。そこで、抽象的な危険発生そのものが犯罪結果であると説明する考えが、多くの法律学者によって説明されてきました。内乱罪の適用に関し参考になるのは戦前の2・26事件で(現行刑法は戦前から全面改正なく継続しています)この際は刑法上の内乱罪の該当が肯定された後、適用法として、軍刑法の反乱罪が被告に適用されました。つまり、政府の中枢を計画的に破壊殺人し、革命的な新政権成立の危険性(彼らにしてみれば「可能性」でしょうが)が、内乱罪の犯罪結果だ、ということになります。しかし、内乱が政治的目的である以上、政治的自由や宗教団体への寛容を最重視して説く現行憲法は、刑法77条の厳しい量刑とは矛盾している、といわざるを得ません。ゆえに犯罪の集団性への取り締まりに付加して、政治的自由や宗教的自由の最重視と、内乱罪の重い量刑との間の矛盾の間を説明する条文が、新しい憲法にあってしかるべきではないか、と思います。「内乱罪・違憲説」を左派の論客が主張してこなかったのは、平和主義が空想的なものである以上に、現行憲法の精神的自由が空想的なもので、内乱罪との整合性を考えてこなかったから、つまり何も考えてこなかったから、ということだと私は思いますが、これを、憲法改正後の国民意識が継承しないように、なるべく留意するのは当然だとも思います。戦後左派が護憲的でいられたのは、政治的主張というような代物ではとうていなく、憲法と、周囲の現実・他の法律とのかかわりに単に無思考であったからに他ならない、という一例がここにもあるといえましょう。
   「無思考」の例は、テレビメディアの次元でもたくさん見受けられます。ゴールデンタイムに、何とか総理大臣という番組をもっているあるコメディアンは「憲法9条は数百年後には世界の理想だ」としたり顔で言っていますが、彼は国家は対外的な防衛だけでなく、刑法77条のような「体内的な自衛」を法体系にもっていることを果たして理解しているのでしょうか。
ついでにいえば、我が国の刑法81条には、外国と通謀して国内に軍事侵攻させた場合の外患誘致罪というものが内乱罪の後に続く形で規定されています(ただし、外患誘致は必要的共犯ではありません)この犯罪は、刑法の全犯罪の中で唯一死刑の量刑しかなく、全刑法の中で一番の重罪になっています。外患誘致が具体的にどういう犯罪類型のイメージをもつか、ということですが、スパイ処罰の究極形態、と考えるのがまず妥当でしょう。そのコメディアンのいうように、憲法9条が遠い未来の理想ならば、刑法81条もその遠い未来に廃止されることが理想と考えなければなりません。なぜなら、刑法81条は明らかに国土への侵入行為の存在を想定し、それに対して、刑罰システムが最大限の量刑でもって作動することを前提としているからです。ところが、この外患誘致罪が存在していることに関しての議論は憲法的平和主義を理想とする人物の議論には、内乱罪同様、いっさいみられません。もちろん、「外患誘致罪・違憲説」なるものも全く存在しない。憲法的平和主義なるものが刑法その他の具体的法律から切り離した形で(考えない形で)展開される全くの空論だということがよくわかる例なのですが、国の「自衛」とは、対外的なもの・軍事力的なものだけでなく、このように、刑罰システムによっても存在するものだという自覚が、改正後の憲法体制にあっては必要ではないか、ということです。つまり「侵略」だけでなく、「犯罪」によっても、国家はその存立を脅かされる可能性がありうる、ということです。外患誘致罪は対外的「侵略」と、国内的「犯罪=内乱罪」の境界線に位置する犯罪類型ともえいましょうが、いずれにしても、憲法9条が存在した戦後体制にあって、この刑法81条は公然と存在し続けて、国家の「自衛」に資する役割を担い続けたということへの無思考は、オウム事件の後も継続している、と言わなければならないでしょう。
   以上の憲法論、とりわけ、憲法改正論と「オウムの季節」とのかかわりは、私達の間で考えなければならないことのほんの一例というべきでしょう。迫真ある議論はどこにもあまり見られず、それが私達の言論空間の空虚を示していますが、ここで、話をオウム真理教集団そのものに向けて、もう少し、私達日本人に与えた精神的影響とオウムの関連を掘り下げて考えてみることにしましょう。「オウムの季節」が同時代的だった頃は、オウム真理教の行為を表面的に嘲笑することに、メディアは集中していました。麻原の俗物性を叩くのはいいとしても、私には途中から、本来、彼らに感じなければならない恐怖感を覆い隠すための作為の過剰な嘲笑にしか思えないようになりました。「安心」するために、麻原への嘲笑をおこなっているのだとしたら、オウム事件の本質を確実に見間違う、ということですね。
このことが、実は、憲法論・憲法改正論にオウムの記憶が存在していないことと関係している。究極的な犯罪集団・悪魔というものが、この国に居るはずがない、という日本的共同体の了解が、メディアの作為を生み出していた、と私には思えるところがあります。麻原がいくら食欲と性欲において俗物であっても、それは彼が犯したおそるべき犯罪の数々とは全く関係ない。にもかかわらず、そういう俗物性の報道が、実は彼の犯罪の究極性を軽減してしまうように暗にはたらくメカニズムがあったように、あの頃の過剰報道を考えるべきではないか、と思います。だから、麻原が死刑になるというだけで世論は充足し、憲法改正論をはじめとする様々な国家的主題に、「オウムの季節」の記憶を登場させることをしないのではないか、と思います。
     たとえば、オウム真理教事件当時の討論番組の再放送をみて私がどうも空恐ろしくなるのは、彼らが実は凶悪犯罪者だった、ということよりも、彼らに「言葉」が全く通じない、ということだと思います。これはかつての連合赤軍はじめとする左翼過激派の「言葉が通じない」とは意味を異にします。左翼過激派の人達の「言葉が通じない」は、彼らの歴史観・政治観の硬直化した狂信によるもので、実は彼らは、「理解不能」という、ある意味で理解の範疇にあったのですね。ところがオウムの場合は、「狂信」や「硬直」という言葉にすら収まりつかない異常性がある。「地震兵器」なり「地球脱出」といったファンタジーが、世間一般からするとエリートの評価を受ける幹部の口から大真面目に語られ、それを論難する人達の見解をものともしない。これは「軽さ」というものですらない、というべきでしょう。私にとって、これは嘲笑の対象ではなく、恐怖感を抱かせる対象といわなければなりません。言葉が通じないとすれば、彼らに対しては、法律その他の外形的な有形力しか通用しないということになるからです。
    連合赤軍事件の時は、いかにも日本的平等主義の方法で、家族を連れてきて「早く戻ってきて」という戦術が有効でした。しかしオウムにはその方法さえも殆ど通じない。「言葉」が彼らの中で解体しているのですから、いかなる説得も通用しない。言葉が解体していれば、国家や家族が解体しているのは当然というべきでしょう。家族制度に対して、郷愁がないほどまでに溶解しつくしたところに、麻原のファンタジーが脳内を支配しているのですから、「早く戻ってきて」という言葉さえもが意味をもたないのは当然なのですね。連合赤軍事件から20年以上の時間がこの国で経過し、言葉というものが何もかも通用しないというところまで記号化してしまった人達が、しかしなお、オウム真理教のファンタジーを信じることができ国家転覆犯罪を企てることができた、ということは、実は私達日本人にとって、解決困難な大問題なのではないでしょうか。
      改めて彼らの発言を思い起こすと、「自分たちを陥れようとする巨大な政治的陰謀集団の存在」「神戸大地震はアメリカ軍の地震兵器による攻撃である」「ハルマゲドンの際の地球脱出」といった空想世界が、彼ら大人たちの口から、公然と語られる。私達を騙そうとする嘘、ということならばそれはそれで「言葉」として成立している、ということもできましょう。ところが、騙そうとしているのか、ということからして、定かではない。たとえば(宗教教団ではないけれど神話の虚構ということだったら、二十世紀で最も優れていた)ナチスだったら、どんなに荒唐無稽なファンタジーを語らせたとしても、一定の巧みな言葉の戦略の中に閉じこめられていて、正気の世界に住む鋭い批評家を唸らせたに違いありません。ところがオウム教団の支離滅裂な言葉の物語には、策略・腹黒さといったものさえ見当たらない。それでいてオウムの連中は「信じている以上、信じていない人からとやかく言われる筋合いはない」という現代的な価値相対主義の防護服だけは、論理的にきっちりと身につけているのですね。
ナチスの神話は神話に消化されきらないファンタジーを孕みつつも、ドイツをはじめとするゲルマン世界を席巻しましたけれど、オウム真理教のファンタジーは、言葉が通じないという荒唐無稽なファンタジーであるというまさにそのことだけで、ナチスの何十分の一かの犯罪行為をあやうく完成しそうになったということは、やはり驚くべきことといわなければなりません。ナチスは言葉の戦略を駆使するということを通じて悪魔的な規模の成功をおさめたという「わかりやすさ」があるのですが、オウム真理教は、彼らと彼らの周囲の言葉の無戦略によって、ぞっとするような言葉の静けさのなか、自分たちの犯罪の成功を実現した、奇妙な「わかりにくさ」がある、というべきでしょう。この「わかりにくさ」からして、何とももどかしいのですね。この「わかりにくさ」は、果たして「軽さ」と単に言い換えていいものなのかどうか。
    新聞を読むと、時々彼らの裁判での言葉が掲載されているのが目につきます。もちろん彼らのほとんどが、オウム真理教の信仰から離れている。あの荒唐無稽なファンタジーの数々も今では否定している。しかし精気を失って、反省の言葉を喋る(新聞を通じて伝わってくる)彼らが、精気に満ちて犯罪行動に走りテレビでファンタジーを語っていたころと、どうしても共通しているものをもっているとしか思えない、変わっていないとしか思えないところがある。たとえば彼らは裁判等で、彼らは、ファンタジーを語っていたころの自分を、マインドコントロールされていた、とよく嘆いていますね。マインドコントロールという言葉は、いったい誰が流通させたのか、言うに実に易しい言葉ですね。彼らが信じていた、荒唐無稽なファンタジーはそのどれもが、これ以上ないというくらいもろい言葉による社会や自己の解釈によって、出来の悪いプラモデルのようにできていたわけですけれど、今、マインドコントロールという言葉を使うようになった彼らが、果たして出来のいいプラモデルをもつことができるようになったのかどうか。彼らの多くは法廷で泣いています。
気持ちがわからないわけではありませんけれど、しかし本当は、マインドコントロールされていた(という)自分が、どうして平然とあれほどのファンタジーを語れたのか、という驚きが自分と言葉の関係を思い出してみて、あってしかるべきだと思います。驚いている人が誰もいない。たとえば科学的に相当な見識をもっている人物がなぜ「地震兵器」なるファンタジーを信じることができたのか、それを信じていたときの自分がなぜ「自分の言葉」をもたないでいられたのか、ということへ意識が届かない限り、彼らの反省的意識もまた、軽薄にマインドコントロールという言葉を使っているに過ぎないことになります。ですから、彼らの「反省」もまた、ファンタジーを信じたことと同レベルの空虚にあるのではないか、ということも、当然成立するのではないか、と私は思います。いくら泣いているのをみても、彼らは何も変わっていないように私には思えてしまう。判決や結審で、彼らが正常な世界に復活した、という記事を目にしても、私は少しも安心することができません。
     真の反省的意識というのは、当たり前であった自分の日常に驚いて、それを疑うことから始まるのではないでしょうか。戦争への熱狂がミリタリズムによる洗脳と嘆くのは容易いですが、その熱狂が、実は平静になった自分の何気ない一部だという驚き、あるいは疑いを感じる、ということは大切なことですね。たとえば私達の世界は政治も学校も消費広告も、ある意味でマインドコントロールだらけの世界に生きているわけですが、その複雑な意味の認識を飲み込んだ上で、「私はマインドコントロールされた」といっているのかどうか、私は新聞で彼らの新聞記事を読む度に、首をかしげているのですね。
     実はオウム真理教だけではありません。少なくない若い人たちが、同じように私の前にいたのですけれど、どうも宗教にはしる若い人達の言葉の軽薄さが気にかかります。それは宗教に携わる世界の人々の言葉というのは「重い」ものなのだ、と勝手に思い込んでいる私の、無意味な徒労なのでしょうか。
     たとえばオウム真理教とは比べ物にならないくらい穏健な宗教団体に熱心に傾斜している年下の友人が「自分の教義により世界を救済したい」という言葉を叫んでいました。本当は「世界」とは、「救済」とは、という言葉の前で、私達は立ち止まらなければならないのですね。言葉というものも、他のマテリアルな物と全く同じくちょっと目を離すと、またたくまに消費社会の消費対象物に成り果ててしまいます。世の中には「世界を救済せよ」というアジテーションをどうしても聞かなければ気持ちが落ち着かない一定の人達がいる。その人達の出費が、「世界を救済せよ」という講演をすることによって高収入を得る、平板なヒューマニストの評論家を存在させ、「世界」「救済」という言葉のマーケットを存在させてしまうことはおかしい。「世界」や「救済」という言葉が、パンやビールと同じ軽さをもっては断じて困るのです。しかしこの世界ではどうもそういう変なマーケットがかなり存在しているのですね。しかし、困ったことにこれは本質論だと思いますが、宗教にとって言葉というのは、ギリギリのレベルにおいて、手段に転落してしまう危うさを常にもっています。たとえば私は、キリストやブッダの言葉からして対話的でない、と思いますけれど、宗教的対話は、常に一定の方向へ世界を誘導する技術を意味することを避けられない、ということがありますね。実は私達の多くが軽蔑する、ディベートの言葉の軽さと同じ性質のものがあるのですね。あるいは宗教の言葉は非常に自由でないもの、のようにみえますが、決してそのようなことはない。教団・宗教的集団が一致すれば、どのような意味の変更も可能になります。
    私は以前、アルコール摂取を否定するモルモン会のクリスチャンが、聖書で葡萄酒を飲むキリストが実はグレープジュースを飲んでいたのだ、というのを聞いて唖然としたことがありますけれど(苦笑)世俗化しないレベルでさえ、こうした言葉の危うさがあるのですから、世俗化した宗教というのは、或る意味で20世紀的消費社会と徹底的に類似した面をもっているのだ、ということを改めて感じるべきなのでしょうね。カトリック教会の「告白」という言葉の制度が、世俗化したときに免罪符というマーケットになってしまった世俗化が、今現代の日本ではほとんど全面的といっていいほどの勢いで進行してしまっているのですね。私は宗教を阿片だとは思いませんが、本質的におそろしいことは、言葉をどうにでも組織できてしまうというこの宗教の本質が、何かの時代的なきっかけで、歯止めのきかない「言葉のマーケット」の世界に突入してしまう、ということなのですね。カトリック教会の世俗化、マーケット化は、新教運動の過熱化によって終息しましたが、戦後日本に関しては、どうもそのことは際限なく進行しつづけています。私に不安を抱かせる宗教に集う青年達は、まことに現代的で、或る意味で素直な青年達というべきなのですけれど、彼らの素直さはもちろんのこと、私達の世界の宗教の言葉を、ついにはオウム真理教のファンタジーのレベルにまでおとしめてしまった、時代的なきっかけというのは、いったいどのようなことなのでしょうか。
   言葉の軽さ、ニヒリズムということと日本の戦後的状況のかかわりにテーマが近づけば、三島由紀夫の名前を出さないわけにはいかないでしょう。あるいは戦後的状況のかかわりを抜きにしとしても、言葉とニヒリズム、ということに激しく意識的であったということにおいて、彼の右に出る人物はまずいないといっていいでしょう。「人間の真の絶望とは、人は実はパンのみで生きていくことができるという絶望がゆえに自殺を試みたにもかかわらず、その自殺を一日だけ延ばしたとき、その絶望が自分を生かしてしあうという、人間にとっての最後の絶望のことをいう」とは彼が「美しい星」という小説で登場人物に言わせたことですが、さしあたり、古今東西の書で、これほど見事なニヒリズムの定義は存在しないといっていいでしょう。彼はニヒリストは自殺する、などという浅はかなことは決して言いません。ニヒリズムとは、何も信じない、ということの徹底なのですから、どのような価値を信じるいる振りもすることができる、つまり最高の偽善者であるということすら約束されているということになるのですから、自殺という意味すら信んじられていないのは当然のことなのですね。だから三島さんがニヒリストであったかどうかを問うこと自体が無意味ということになる。本当のニヒリストであったら、ニヒリストとしての正体が現さないよう、この世界から完全な仮面を被って去っていったから、なのです。しかしニヒリズムに、何でもあり、かというと、決してそのようなことはありません。三島さんの慧眼はその地点をしっかりと見据えています。
    「ニヒリズム」ということが、虚無そのものでなく、言葉として存在する以上、何かしらの実体が存在する、という逆説の存在の可能性は否定できないですね。たとえばニヒリズムという言葉が流行する、ということは三島さんにとってやはり耐えがたい言葉の軽薄さだった、というべきでしょう。「世界」や「救済」という言葉が消費されるという耐えがたさ以上のものが、「ニヒリズム」を求道者ふうに使う人達の軽薄さに感じられたに違いありません。たとえば「ニヒリズム」という言葉を軽々しく使い、宗教勧誘する人物、というのが確かに私のまわりに何人か(何例か)存在しました。ニヒリズムはいけない、だから宗教に入ろう、という、単純といえばこれ以上単純なものはない理屈というべきです。
    私に言わせれば、宗教勧誘も立派な言葉の「消費行為」なのですが、そういうことでのニヒリズムという言葉の消費はいけない、ということは少なくともニヒリストの倫理としていっていいような気がします。おそらく三島さんにすれば、無神論的な立場をとるヨーロッパの知識人が、有神論者以上のいかがわしさをもっていたようにみえたに違いありません。神の否定をはじめとする壮烈な観念語を使いながら、決してヨーロッパの進歩的知識人は、神がいない世界の恐ろしさを、彼らの日常で、体感させるようには行動しないではないか、という不満ですね。私が某カルト教団の「マインドコントロール」という言葉に関して抱いた不満と、もしかしたら同じようなものだったのかも知れません。虚無を見据えていないニヒリズム、神がいるときと同じように振るまう無神論の哲学に、三島さんは、日本よりも或る意味でラディカルに進行してしまった「消費社会=宗教」の病理を、おそらくみてとろうとしたのではないかと思います。
     たとえば20世紀最大の宗教は、マルクス主義とそれに協賛する左派的な平和主義という、政治宗教だったといえる面があるのですが、三島さんは、ありきたりの進歩主義的平和主義を弄するバートランド・ラッセルのことを「ああやって反戦集会に出てはありきたりのことをいう。ああやって一生、言葉を浪費して生きていくことに、みていてものすごい徒労を感じますよね」と皮肉ります。あるいはサルトルの社会政治参加(アンガージェマン)という言葉を揶揄して「ひょこひょこ歩く、体力のさっぱりない男(サルトル)が、五月革命で、体制派が誰も責めてこない、ちっぽけな劇場を守って、それがアンガージェマンだなんていう、おおよそあんなダンディズムに反する男はいないよね」というあたりも、なかなか痛快です。ラッセルの「反戦集会」を「教団の集い」に、サルトルの「アンガージェマン」を神仏その他の宗教用語に置き換えれば、彼らはそのまま、現代の宗教団体の殆どに該当する、といえるのではないでしょうか。何か、本質的でない、違和感を感じさせながら、なぜか、マーケット的に「宗教」が成立してしまう(ラッセルやサルトルのファンによって成立してしまう)背理は、実はこのあたりが起源だったのではないでしょうか。
    1970年に亡くなるラッセルは「自分は年を取って頭が使いものにならなくなったから、論理学を捨てて、(頭を使わなくてすむ)平和運動をやったのだ」と自己告白とも皮肉ともとれることを言い残し、その10年後、サルトルはサルトルで、「どんな動物にも存在する母胎的統一を通して、真の友愛、を発見しなければならない」と彼のシャープな実存主義哲学を完全に自己否定する哲学的遺言を残してこの世を去りました。
     二人は共同で、ベトナムでのアメリカ軍の侵略を断罪する知識人法廷なるものを開いたりしていますが、私にいわせれば、彼らのやったことは、何もかもが偏っていた、むなしいものに過ぎない。結論からいえば、三島さんの皮肉や揶揄は、これ以上ないというほどに的確です。しかもマルクス主義という巨大な政治宗教も、平和主義という政治的信仰も、1950年代から、実質的に破産に向かいつつあったにもかかわらず、1960年代から、革命の情熱という宗教的瞬間を取り戻すため、世界中の左翼知識人がある虚偽を仕組んだ、ということで、もうしばらく生き延びることができた、ということを想起するとき、彼らのむなしさは一層際立ちます。「虚偽」とは、先進国でしか革命がありえない、というマルクスの宗教的預言を無視する、ということで、革命がありえない第三世界での革命を新しい正義という、ことでした。結果は周知の通り、文革やらポルポトやら、ほとんどすべてがソビエト的収容所国家の再現をもって終わることになります。ここで、オウムの荒唐無稽なファンタジーを思い起こすことは決して見当はずれでないように思えます。宗教が神話をつくりかえる、ということは、宗教にとって普遍的ですが、しかし、この段階でのマルクス主義の神話作り変えは、完全に原初形態から違うものに作り変えられる軽さをもっています。キリスト教において神の名前と存在を変更したに等しい。オウムにしても、チべット密教とハルマゲドンは全然関係ないのに、いとも簡単に接続してしまう。そのことを教団内の誰もが疑わず、そして誰もが信じるという驚くべき滑稽さ、ですね。もはや「神話」は、パソコンゲームの世界のように、いくらでも作り変えられる、教祖や幹部の個人的記号の世界に過ぎない、ということです。
     サルトルにせよラッセルにせよ、第三世界での正義を真剣に、宗教的に信じたのは確かでしょう。しかし彼らは、マルクス主義にせよ、平和主義にせよ、自分達の世界(ヨーロッパ)から輸出したものだ、という自負もまた、もっていたということができる。しかし彼らの世界では左翼な政治思想はとっくに世俗化して、言葉のマーケットの世界に弄ばれるものに転落していたのです。マルクス主義は構造主義の台頭により過去の遺物の烙印をおされ、平和主義は一次大戦後の敗戦国ドイツの管理の失敗で、ヨーロッパではすでに過去の遺物に成り果てている。起こりうる国ですら起こりえない革命が、起こりえない国で起こるということを信じる、という宗教的饗宴に、三島さんは、すでにマーケット的、ゲーム的に成り果てた「宗教」の姿の本質を、おそろしいほど明晰に見抜いていたということができましょう。見抜いているからこそ、三島さんは、左翼青年のヒーローだったラッセルやサルトルの「言葉の消費」を、宗教者的ゲームと皮肉ることができたのです。
     しかし、饗宴はもしかしたら饗宴に終わらないのではないか、と思わせるほどまで、わが国では熱狂的なものになる。いわゆる全共闘運動の暴走ですが、ここに三島さんの悲劇が始まることになります。私は以前の文章で、「人間の精神には敵が絶対必要で、自分は無理にでもその敵をつくりださなければならない」という彼の言葉を紹介しましたけれど、彼はマルクス主義という、虚偽をはたらいてまで延命している「宗教」に対して、それに期待するという虚偽を演じて、自衛隊プラス反共勢力と容共勢力の一大対決という夢想の中に、自分の行動をおいてしまうという物語へと、急速に自分を傾斜させていくことになるのですね。三島さんにすれば、天皇制度を否定するマルクス主義勢力は、やはり無神論という政治的宗教であったわけですけど、有神論と無神論の宗教戦争はこの国においては、結果的に何も起きることはありませんでした。
     左翼運動は一部が過激化しただけで沈静化し、自民党は六十年代後半の何度かの選挙で議席を増大化させ、日本全体が、中流化という何も起きない世界へと、ゆるやかに選択されていくことになります。マルクス主義も平和主義も、薄められた「宗教」の一種の中で、つまり「軽さの地獄」の中でしか存在を許されないようになってしまいました。三島さんの自決は決してパフォーマンスとか、政治的党派の理屈で説明できるものではありませんね。彼は,虚偽を演じつづけた政治的宗教(マルクス主義)の世界に対峙しつづけた自分の虚構を、或る意味で虚構でなくすために、マーケットやゲームの論理を拒否した自分の言葉の世界を示してみせた、ということに他ならないのですね。「キリストという人間が死ぬことによってのみ、彼は自分の言葉を実体にすることができた」と彼はある座談会で言いましたけれど、言葉が軽薄さを拒否するためには、やはり何か絶対的な行為が言葉の背後に存在していなければならない、そうでなければ言葉は無限にファンタジーや相互無理解の方へと溶解していってしまう、ということなのです。裏を返せば、宗教者の言葉に「重いもの」があってしかるべきだ、という私の古臭い考えは、決して徒労ではない、ともいえる。
    キリストをはじめとする歴史上の多くの宗教者は、言葉の背後に、言葉を重いものたらしめる行為を、しっかり刻んできたのですね。私達(まだ私は生まれていなかったのですけれど)は三島さんの自殺、ということを、言葉の問題として消化できないことにより、70年代、80年代、90年代と時間が流れる中で、まるで蒸留酒が発酵するように、言葉が全く通じないカルト教団の発生という、ほとんど歴史必然的な状況を招いてしまった、というべきでしょう。起源を遡れば、三島さんの誠実と、政治的宗教教団の不誠実の対決、ということまで行き着くことができるのではないでしょうか。そう考えるとオウム真理教がテロリスト化ある時期から、アメリカ帝国主義やら政治的陰謀集団やら、戦後左翼が好んだファンタジー用語を使い始めたのは面白いことです。彼らも、軽薄さをギリギリのところで拒否するとき、七十年前後の左翼勢力の宗教的概念によって、テロリズムの対象となる世界を意味づけた、といっていいでしょう。わからない・通じないことだらけの彼らの中で、かろうじてわかりやすいことというべきでしょうか(笑)しかし、ファンタジー用語を使い始めたこと自体はわかりやすいとしても、教団に集う若者がそれを、軽薄以前の恐ろしい軽さで信じ込んだということの謎は、依然として考えなければならない何かであるように私には思えます。オウムの問題というのはある意味で20世紀末的な軽さの限界点という「終わり」の面と、それすらも飛び越えてしまった「始まり」の面を両方をもっていて、ゆえに観察する私達を混乱させてしまうのではないでしょうか。
    オウム問題を日本人の精神の次元ということで考えると、このように、「言葉」の問題に行き着かざるをえない。そして、三島由紀夫が鋭敏に見抜いていた、戦後世界の底なし沼のニヒリズムの問題に帰着せざるをえない。そこらあたりのことへの認識が行き届くような議論をしない限り、「オウムの季節」と私達日本人のこれからのかかわり方も、実質的なものになりえない、ということでしょう。改憲論からニヒリズムの問題まで、トータルに、「オウムの季節」を考えていかなければならない、ということでしょう。私が麻原彰晃の後姿に数時間感じたものは、戦後日本の底なし沼を教示する貴重なものだったのかもしれません。

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あいかわらず

非常に深い記事です。ニヒリズム論など勉強になりました。

実は私もオウムに関して知っていると言えるのか微妙な年代です。あのころ私は小学生ぐらいだったので。

実は私は死刑廃止論者であったこともあります。しかしその説を引っ込めたのは組織犯罪があるということに気づかされたからです。彼らは個別犯罪者とはまた違った心理で犯罪をする。それに対する処置は死刑しかないと考えたのです。

素晴らしい記事ですが論点が多岐にわたっているため(そしてそれら一つ一つがすべて素晴らしいため)コメントするほうとしてはしづらいですね(笑)。

耕 | URL | 2007年02月23日(Fri)07:30 [EDIT]


コメント 序章

こちらでは始めまして! 半分ぐらいのところ、カトリックについて説明しているところ、までまずは読ませていただきました。 よる10時に大学から帰ってきたばかりで今日は疲れていますので、続きは明日にでも読ませて頂きます。

まず最初に厳しいようですが、カトリック史観における日本の歴史教育に対する徹底的な批難であり、NW様への指摘をさせていただきます。

>カトリック教会の「告白」という言葉の制度が、世俗化したときに免罪符というマーケットになってしまった世俗化

たしか『メンショウフ:免省符』です! 免罪符ではありません! 日本ではいまだカトリック信者たちの強い指摘を無視して免罪符という間違った訳を教えていますが、違います!! カトリックの世界では、罪とは人間が罪を認識して初めて神から許されるのですから、このお札をもらっただけでは免罪はなされません! カトリックがこれを普及させたのは、罪を免除するのではなく、罪を改める『機会』を与えるためです。 むろん商売であることは確かでしたが、定義上の問題でカトリック教理についての理解が大分誤解されています!

私自身、4年前までカトリックに改修する予定でして、そのころは毎週日曜日に教会に通っていましたし、カトリックに見切りをつけた今でも、共同体との係わり合いはありますので、カトリック教理についての知識はそれなりにあります。



さて、オウムに対する話をしましょう。

オウム真理教の事件が多発したのは丁度私が中学生のころ。 そう、人の人格形成の基礎を築き上げる時期です。 むろん、このオウム事件は私の政治社会思想に大きなインパクトを与えたのも言うまでもありません。

おそらく、この出来事も私をキリスト教国家にあこがれるように仕向けた一因であるのでしょう。 もともと、10代全般を通して私の人生は暗闇のどん底でして、日本社会への恨みに満ち、脱日本を精一杯唱えていた時期でもありました。 そしてまた、宗教的概念の弱く、国家が邪教駆除へ出動しない背景に非常に遺憾を覚えていました。 そこで、西洋史に興味を持ち始めた頃、新約聖書の壮大な物語に見せられたときに、キリスト教一神教の文化的影響力の強い西欧世界が文化において、オウムのような邪教を社会が懐疑心をもって駆逐する姿勢に至極共感いたしました。

むろん、上記の思想は今現在において大分修正されましたが、このオウム事件が私の人生の選択に影響を与えたのは確かです!



実は、ヨーロッパはアメリカよりも宗教離れが合理的な形ですすんでいますから、オウムのような邪教に自然的な懐疑姿勢を持つらしいです。 

また、社会学にて『Crime and Deviance: 犯罪と果敢』について学んだときに、オウム真理教などのオカルト邪教集団が出没する原因を経済社会的な視点で導き出しました。

以前、カトリック教会に毎週通っていたころには、政教一体を支持する社会を支持していました。 それは、社会において安定した歴史を得て成熟した宗教教理が社会の道徳基盤を築けば、社会問題平定への道しるべを示し、オカルト教団の駆逐をより明確に明示できると信じていました。

しかし、カトリック教会に熱心に通って、一時期は常に十字架を切らないかぎり心が落ち着かないぐらい改修した時期もありましたが、性に関する価値観や中央集権的な権威主義教理に嫌気がさし、終いには『お客さん』に転向いたしました。 
そもそも、宗教という存在そのものは、それこそ社会政治思想と同じく、存在をみとめ各思想ごとに照らし合わせながら、それぞれ己が存在を高めていき、個人一人一人が自分の生き方を自由選択していければ良いという理論に達しました。  それに、もし国家が政教一体を持ち出したならば、その国家の法体系や慣習法は一部の宗教的理念により制御されざるをえませんから、洗礼をなんらかの理由で施されなかった個人や他宗教に起源を持つ家族出身の個人らが、慣習法において差別を被り、政治的影響力を削られるわけです。


オウムのようなオカルト的な邪教集団が出没する理由として、社会だけでなく経済構造的な理由もみいだします。 むろん、この社会構造においての根源は、貧困やアノミーなど現代工業社会における問題からです。 

『犯罪と果敢』においては、オカルト教団などの存在は社会的基準から逸脱した存在の一つである『deviance: 果敢』に当たります。 果敢にも社会的に機能的なものもあれば機能障害的なものもあるのです。 もし、オウムが社会的に混沌をもたらし『数多の個人の自由(Libertyの定義)を犯した』ならば、それは社会的機能障害にあたるわけです。 

これへの対処方を『Cooperate Liberalism: 共同的自由主義』的観点に則しますと、『福祉』が重要なキーワードになるわけです。

この機能障害的なカルト教団が形成される背景として、社会的な差別や経済成功から阻害された個人が規範と救いの道を求めて、このような集団に帰化する傾向があるわけです。 ここで、社会において一定の規律を強いて制御したところで、また別の集団が現れるか、もし果敢な個人が増えた場合に国家そのものの存在が果敢化してしまう可能性があります。

ですから、国家や社会という存在は価値観的に中立かつ合理的な政教分離的視点に立ち、より宗教団体や機能障害をもたらす思想を客観的に分析し、合理的かつ寛大な解決策を提示する必要があります。

まず、彼等が信仰を信じ、教祖への病的な完全服従を行うまでの課程として、あまりに個人主義化された社会において、個人が社会の規範からはずれた(貧困、家族問題、差別)場合に、彼等の心を救う存在に見える強烈な教理に洗脳され易くなります。 

…ちょっと、頭が疲れてきましたので、続きは明日また書かせていただきますが、一つ明確に明示しておきます。

私は、宗教的概念においては大分、共産主義的な概念に感化される傾向が出てきました! その背景が徹底した政教分離を推し進めるアメリカ民主党に共感(クリントン夫妻には反抗しているが)したりしているわけです。 むろん、宗教そのものの存在自由は認めますが、教育や法もしくは慣習法そして血統などにおいて、宗教的価値観の関与をある程度強制的に制御する誘引を設けることを支持しています!

恩義 | URL | 2007年02月23日(Fri)08:42 [EDIT]


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| | 2007年02月24日(Sat)11:58 [EDIT]


宗教とストイシズム

NW様の文章の後半を拝読していましていろいろとうなずくことが多かったです。

確かに政治思想とはいわゆる宗教的なものも多いというところです。 特にマルクス主義という古典的宗教世界である有神論であり皇帝崇拝などをあがめる習慣を徹底的に弁証法を用いて批難したわけですが、彼の思想もどこか神秘性とストイシズムに満ち溢れ、大衆扇動を行うために用いられた政治哲学であることは伺えます。 

そもそも、宗教的なものというものは理想とともに禁止事項や規制事項が顕著に含まれているということです。 マルクス主義というものは神やスピリチャリティというものを完全に否定し、その代わりに『人間』とその集団である『党』への忠誠を促そうとしたわけですね。 これは、フランス革命後の民主主義的な議会において、まとまりのない政治に対し、党による結束と突き進むための目標の明示を掲げることの重要性をさとったという背景もあるのですが。 特にマルクス主義において『禁欲』の精神が伺えるところが、まさに宗教的であるというのです。 そもそも、宗教においての禁欲とは、その禁欲をしている時期を通してある程度の痛みと苦痛を回りの人間とともに味わうことにより、神についての意識を高めるという目的があるのです。 カトリックにおいて、一昔前(ポーランドではいまだに行われている)に金曜日には肉を食してはならないという風習があったのですが、これは土曜日の朝のミサに行く前に体を清めるという理由なのですが、『我慢をする』という心理的効果の方が実は重要なのです。 古典的なマルクス主義においても、革命による痛みというものや労働への美徳という精神、そして神やスピリチャリティーというこころのすがり所を捨て去ることを強調する背景が正にストイックであります。

まあ、現代台頭した新マルクス主義というものはより、その宗教的なストイシズムを取り去り、他の大半の政治哲学と同じく、実利的で柔軟性の高い、一つの解決策としての思想として、再生しておりますが。

今現在世界において、宗教的政治哲学とは、アメリカから発信したネオコンサバティブが顕著な例でしょうが、説明が長くなりますので、この場での説明は控えさせていただきます。


やはり、オウムであれ、宗教的政治哲学が台頭する背景に共通するところは、常に社会的激動の中もしくは社会コンセンサスの停滞にあるのでしょう。 そのDeviance=果敢の存在の理解は、Sin(道徳的犯罪)とCrime(法律的犯罪)の分別がつきにくい日本人にとって、難しいでしょうが、この果敢の度合いにより社会の安定度というものが伺えるのです。 DevianceとCrimeという存在は実は紙一重であり、社会的に許容されないが法律で規制されない状況をDevianceという定義づけをおこなっています。 といってもSinとDevianceというものも紙一重であり、Sinというものはそれこそ宗教や哲学において定義されるものでありDevianceというものは社会の常識や価値観により定義されるものといいましょう。 オウムが実際に事件を起こす前は、Deviantとして見なされていたでしょう。 そのDevianceの中でも常識や価値観以上に社会的に不快と見なされる存在であり、ほぼ社会的機能障害の部類に入っていました。 日本においては、支持がでるまで、法律で規制されるまで、放置しておくという習慣がありますが、外の世界においては処置の対象とされます。 やはり、日本の文化の中に何か起こらないかぎり、もしくは他人任せで物事を解決する悪癖があり、それがオウムが犯罪を犯した時点での事後処理となり、オウムが悪いと一方的に唱えるだけで、社会問題への目を向けなかったところにありましょう。

私が明示することは、もし不快な社会的機能障害に分類されるDevianceが台頭した場合に、社会が病に冒されていることを悟り、それを無理やり切り落とすのではなく、社会が自然治癒できるように、経済、社会そして道徳などを考察するべきということです。

恩義 | URL | 2007年02月24日(Sat)19:44 [EDIT]


この60年で失ったもの

日本社会が抱える「洗脳」問題に関する長文だが素晴らしい論考である。ただ、難解すぎるのが残念。ある意味で、パネル展&講演会「この60年で失ったもの ー大東亜戦争に次ぐ第二の敗戦とは何かー」と軌を一にするところがあるように思えた。

パネル展&講演会
「この60年で失ったもの ー大東亜戦争に次ぐ第二の敗戦とは何かー」
●パネル展 入場無料
日時/平成19年3月1日(木曜)から4日(日曜)
   午前10時(初日は12時)から午後7時(最終日は5時)
会場/文京シビックセンター1階・展示室1-A
交通/東京メトロ丸の内線・南北線「後楽園駅」、
   都営大江戸線・三田線「春日駅」から徒歩1分
●講演会 入場無料
「第1部」西村幸祐氏(ジャーナリスト)「反日マスコミとメディアリテラシー」
「第2部」栗原宏文氏(メディアリテラシー研究会代表・元愛媛大学教授)
     「メディアリテラシーで歴史洗脳を解く」
 ※「メディアリテラシー」とはメディアの情報操作に加担しない能力のことです
日時/平成19年3月3日(土曜)午後2時30分から5時
会場/文京シビックセンター26階スカイホール

主催/「美しい日本を考えるパネル展」実行委員会 
連絡先/090-3273-7933 亀田

詳しくは
http://tsukurukaitokyo.hp.infoseek.co.jp/190205panel.pdf
をダウンロード下さい。

知足 | URL | 2007年02月25日(Sun)10:58 [EDIT]


12枚のパネルと15本の四コマ漫画

パネル展「この60年で失ったもの――大東亜戦争に次ぐ第二の敗戦とは何か」12枚のパネルと15本の四コマ漫画を一挙に掲載しました。是非、ご覧下さい。
http://www.k5.dion.ne.jp/~hirokuri/panelten.html
四コマ漫画は私の元教え子がボランティアで貢献してくれたものです。著作権上、「無断転載・転用・一部改変等禁止」でお願いします。

知足 | URL | 2007年02月25日(Sun)10:58 [EDIT]


うわ、?!凄い文章です!

こんにちは、ご無沙汰しております。いつかじっくりと対談しましょう。

当ブログが、今ちょっと小競り合い状態ですので早々に片付けて来ますね。

よーめん | URL | 2007年02月25日(Sun)17:46 [EDIT]


コメント(途中)

オウムについて考えるなかで、言葉の問題に向かわれたわけですが、言葉に向かう前に、「絶望」について一度お考えになってみてくださいませんか。もうひとつのうさねこ研究室の方の論考の方でも感じたことです。「絶望」についてのご意見を伺ってから、全体的な感想をまとめさせていただきたいと思います。

部分的には、バートランド・ラッセルについて書かれたことが気になりました。「自分は年を取って頭が使いものにならなくなったから、論理学を捨てて、(頭を使わなくてすむ)平和運動をやったのだ」と言ったことをはじめて知りました。この言葉のカッコ内の「(頭を使わなくてすむ)」の部分は、どなたが付け加えられたものでしょう。教えていただけますでしょうか。

あやこ | URL | 2007年02月25日(Sun)19:30 [EDIT]


感想ありがとうございます

 こんばんは。管理人兼authorのN.Wです。
 (耕さんへ)
 いつもコメントありがとうございます。過分なお褒めの言葉、痛みいります。論点が拡散的になっていくのは私の悪い癖ですね(苦笑)耕さんの方のホームページにも近々、感想を書かせていただきます。これからもよろしくお願いします。
 (恩義さんへ)
 長文のコメントありがとうございます。ここ「倶楽部ジパング・日本」は「うさねこ研究室」に続いて立ち上げたブログですが、段々アクセスも増えてきています。「うさねこ研究室」でもいつもお世話になっていますが、こちらの方でもこれからよろしくお願いいたします。
 カトリックの免罪符についての指摘、非常に納得しました。私は旧大学受験生の多分にもれない世界史理解をしているところがあって(苦笑)こういう間違いに気づかないところが多々あります。「免除」と「機会」は確かに全く違いますし、「罪」というものに対する捉え方も、キリスト教社会と非キリスト教社会では全く違います。違うのはかまわないのですが、違うことをよく認識して論考しなければならないですね。
  禁欲主義という恩義さんの宗教の定義を言い換えると、宗教は「規範」を与えることだといえると思います。たとえば儒教という東アジア最大の宗教は神も来世も全くありません。大体、孔子自身が、来世のことを全くわからない、と言っています。しかし、理想社会への規範というものに関しては、一神教以上に非常に厳しいものがあります。マルクス主義も、ある時期から、政治思想から明らかに宗教になってしまいました。類似したものとして、フランス革命時のロベスピエールの理性崇拝などもありますが、世界全体に猛威をふるったこととしてはマルクス主義に及ぶ思想宗教はないといっていいでしょう。マルクス主義というのは無階級社会実現=千年王国のために、社会全体に禁欲主義の規範を敷き詰め、敵対する思想に対して次々とブルジョアイデオロギーのレッテルを貼り、異教扱いしていきます。党=教会と考えれば、どうみても宗教であり、法社会学その他では、マルクス主義を宗教として分析する見解は、ほぼ定着したものだといってよいと思います。
 恩義さんがおっしゃるように、宗教性を取り払い、マルクスの見解をあくまで一社会科学者として扱う立場が、ようやく復活しつつあるというのは、大変好ましいことだと思います。
 (知足さんへ) 
  いつも丁寧なコメントありがとうございます。ついつい抽象的論考にはしってしまって、読むのにご苦労をおかけしてしまいました。これに懲りることなく、これからもお付き合いよろしくお願いします。トラックバックの方もありがとうございました。
 (よーめんさんへ)
  よーめんさん、頑張っていますかー。同じく憂国・愛国のために、私も頑張りますよー。お時間があるとき、じっくりと語り合い、議論しあいましょう!
 (あやこさんへ)
 ラッセルの言葉は加藤尚武さんその他の思想史の本から引きましたが、()をつけたのは私自身です。特に文意を変えるものだとは考えていません。ラッセルらしい皮肉な自己批評・自己戯画の言葉として、思想史家では案外有名な言葉なようですし、私自身もラッセルらしいなと思います。
 絶望についての考えを、ということですが、私にとっての絶望は、「関係性」について考えるときに生じます。たとえば「死」について、私達は「別れ」という絶望を意識するとき、どうしようもなく虚しくなります。関係性のどうしようもない終焉だからです。誰某への愛情が高まったとき、しかしこの人とも「死」によって別れなければならないと考えることは、すさまじい虚しさを感じさせます。「死」の後に自分があったとしても、人間や世界との関係性がいっさい絶たれてしまう、ということは、私達にとって何よりの絶望です。
 これを言葉において考えると、言葉が通じないという、関係性の寸断や混乱もまた、私を絶望させてしまいます。関係性の構築の基本は言葉によって、何らかの意味の共有の可能性を感じていくことだと思います。私達の世界が急速に虚しいものになりつつあるのは、言葉による関係性の構築を、多くの人が放棄しつつあるから、というふうに思います。しかし、絶対的不幸である「死」と比べて、言葉が通じないという絶望は、再び、構築に向かうことができる、という可能性をなおもたらしてくれるものだともいえると思います。

N.W | URL | 2007年02月25日(Sun)22:24 [EDIT]


今書けること

戸田聡と申します。
53歳、無職です。一応クリスチャンのつもりです。
「うさねこ研究室」の「自殺について」に
かなり頻繁に投稿していました。
こちらには初めてです。宜しく。
「オウム真理教」についてということなので
宗教人として興味があるというか、「自殺」と同様、
無視できないものを感じますので投稿しようと思うのですが、
なかなか難しくて考えがまとまりません。
書けるところから書いてみます。
知識が乏しいので、間違いがあればご指摘下さい。

> 戦後初めての憲法改正の現実化が迫りつつあるということで、間違いなくそれは非常に好ましいことです。
<
> 自衛権の明記や、各種国民義務・愛国心教育の必要性の明確化には全面的に同意します
<

次のようなことは護憲派の人たちが
すでに言っていることなのでしょうが・・・

憲法改正には危惧感を抱いております。
どちらかと問われれば私は反対です。
憲法改正をするのであれば自衛隊、さらには
その前身である警察予備隊を作ったときに
改正すべきであったと思います。
しかしそれは出来ず、現行憲法の拡大解釈をもって
警察予備隊→自衛隊→海外派兵に至っている。

つまり憲法の拡大解釈という前例を重ねてきている
というところに危惧を覚えるのです。
前例があるということは裁判や政治においては
大きな影響を持っています。

改正された新憲法が、さらに拡大解釈される恐れが
あるのではないかという危惧であります。

現行憲法も、さらなる拡大解釈の恐れはあります。
しかし自衛隊のイラク派遣も人道復興支援という
大義名分を付けなければならないほどに
ぎりぎりの解釈のところまでは来ているように思われます。

憲法が改正されたからといって
直ぐに軍国主義や戦争に走ることはないでしょう。
しかし何十年〜百年というタイムスケールで考えた場合、
さらに、内的外的を問わず、何らかの大きな危機的状況
が加わった場合、等々を考えてしまいます。
為政者も国民も世代が代わった頃になりますが、
現行憲法のブレーキはもはや利かないわけです。
とんでもない為政者が現れて「平和を乱すものを
やっつけることは貿易立国日本にとって自衛権の行使である」
みたいなことを言い出し、大衆を煽りながら、
少しずつ戦争しやすい国へと変えてゆく危険性というものを
先ず問題提起しておきます。

次に愛国心教育について。
無条件に、この国を愛せますか。
私は「ノー」〜せいぜい両価性です。
(私の私自身に対する感情も似たようなものですが)
生存権を脅かすほどの激しい競争社会、3万人以上の自殺、
とげとげしい人間関係、残酷な犯罪、等々問題山積の
この国を無条件に愛せますか。
愛することを教育するならば、当然
愛するに値する国を作らなければならないと思いますが。
国民の生存権も守れないで何が国家か
・・・と言いたくなるほどです。
愛国心教育をするならば大切なことは
自分の国を評価し批判できる精神を
養うことを含んでいなければならないと思います。
「日の丸」「君が代」「国家に忠誠」を押し付ける
教育であってはならないと思います。

そんなことは分かっていると言われそうですが
「日の丸」「君が代」法制化から
憲法改正への動きを見ていると、
どうも違った方向のように思われてなりません。

思想信条の自由について。
反体制的な思想であっても「思想」に留まる限り
自由だと思います。でないと国家を批判することも、
犯罪になり、できなくなるのではないかと・・・。
国家転覆計画や内乱を唱える思想についても、
「既遂」になると英雄になってしまう
というのはもっともですが・・・
事前の逮捕・取り締まり・拘束はしてはならないと思います。
私が学生の頃には平気で暴力革命を主張する人がいました。
そういう思想の違いで殴り合っている姿もよく見かけました。
(私は自分のことしか頭にないノンポリでしたが)
とはいえ時代は変わり外からも内からも、いつどこで
攻撃されても不思議ではない時代になってきたからには、
それに気づいたからには、それなりの対処は必要です。
それで結局、私が大事だと思うのは思想集団についても
宗教団体についても情報収集ではないかと思っています。
犯罪の可能性を早期発見して、監視することだと思います。
そして可及的に軽微な犯罪の段階で取り締まること
しかないのではないでしょうか。そのためには
囮捜査も盗聴も必要かもしれません。盗聴については
悪用を厳しく取り締まる制度が前提になりますが。

刑法・刑罰について。
今、死刑はどういう方法で行われているのでしょうか。
絞首刑?電気椅子?注射?いずれにしても私は
今の死刑制度には反対です。改正すべきは刑法ではないか。
死刑と無期懲役のギャップが大きすぎる気がします。
終身刑というのは日本では聞きませんが、どうなっているのかな
・・・アメリカの死刑のない州では終身刑とか、懲役何百年とか
聞いたことがありますが、いっしょですよね。
遺族の無念を考えるとき殺人を殺人で終わらせるのはいけない
という理由だけで死刑廃止論を主張するつもりはありません。
思いつきに過ぎないですが、
(人為的)死刑の代わりに自然死刑
というものを極刑として考えます。これは
終身刑ですが、仮釈放なし、生涯独房、加えて
いかなる医療的処置も受ける権利を剥奪する
という点で他の終身刑とは異なる刑になります。
人によっては死刑より酷い刑かもしれません。
この極刑と無期懲役の間に上の2条件や待遇の差で
段階的な終身刑を設けたらどうだろう
なんてことを考えてみたりしています。
内乱罪や外患誘致罪の事は知りませんでした。
自然死刑なら適用しやすくなるかもしれません・・・
法務大臣が判を押す=殺すこと、にはならないから・・・?

さて本題ですが、まず私には
洗脳とマインドコントロールの違いがよく分かりません。
どちらも多様な情報の自由に選択された入力が遮断されて、
一方向の情報だけが入力され煽られ続けるときに
起こることのような気がします。

> 私達の世界は政治も学校も消費広告も、ある意味でマインドコントロールだらけの世界に生きている
<

同感です。私などは
虫の居所の悪い日など
CMが「金を出せ」「なくなるまで使え」という煽り
にしか聞こえない・思えないことがあります。
教育となると、それ以上のすり込みが起こる危険があるので
上に述べたように愛国心教育に注文を付けたくもなるのです。

オウム真理教の人たちが何故ファンタジー的妄想に
疑いをいだかなかったのか、よく分かりません。
上に書いた状況に加えて元々社会に対して強い
精神的欲求不満があって、それとは違う情報の欲求が
強かったために一方的に与えられる情報に対して
無抵抗に吸収することしか考えられなかったからでしょうか。

麻原は宗教以前にも
詐欺まがいの商いか何かをしていたと聞いたことがあります。
それらがうまくいかなくなって選んだのが宗教・・・だから
それなりに読書など勉強もしていたのではないかと思います。
つまりプロの詐欺師なのでしょう。いかに人を引き付けるか、
いろいろな宗教についても熱心に学んだのだと思います。
私などがキリスト教について学ぶよりも遥かに熱心に、
チベット密教・仏教・キリスト教などについて。だから
オウム真理教には「解脱」「キリスト・イニシエーション」
など無断で借りた言葉が出てきます。ちなみに弟子の名前の
「マイトレーヤ」は弥勒菩薩で「クッティシガルバ」は地蔵菩薩
のことらしい。後に般若心経の本に載っているのを見ました。
プロの詐欺師である麻原はすべて計算づくだが、
行為や言葉が不思議になればなるほど
常ならぬものを求める信者たちには
信じやすい幼稚なほどの素直さが
素地として状況としてあったのかもしれません。

あのファンタジーは麻原の計算だけなのか、あるいは
途中まで意外にうまくいったものだから彼自身にとっても
妄想になっていったのか・・・よく分かりませんが。

比べるに値しないという
クリスチャンもいるだろうけれど
私は敢えてキリスト教とオウム真理教を比べてみます。
前者は非暴力。後者は暴力も辞さず。
しかし歴史的にはキリスト教も過ちを犯しています。
前者の教祖は死を覚悟していた。そして孤独のうちに死んだ。
後者の教祖は死を覚悟していたとは、とても言えない。
前者は情報の遮断をしない。
 修道院も、よく知らないけれど、していないでしょう。
後者は、特に出家信者には、情報遮断をしていた。
前者は金を求めなかった。後者は布施を求めた。
しかしキリスト教にも金を求める教団があったようです。
また一般に教会では献金というのがあります。
前者は教祖だけで作った宗教ではない。
後者は教祖が既成の宗教を真似て作った。
「愛」とか「救済」とかは後者も主張するでしょうから
省略します。また「奇妙な教え」という点では
キリスト教を奇妙と感じる人もいるでしょうから
これも省略します。さらに
「あるがままに受け入れる」という点では、
かなり共通しているのです。
キリスト教の教会の門をたたくのは、ある程度勇気が要る。
むしろオウム真理教のほうが勧誘に乗ればよいわけで
門は広いとも言える。
「狭き門より至れ」という
聖書の言葉はありますが・・・。
比べてみると、思ったより、誰にも分かるような
明確な線を引けない。私が忘れていることがあるのかな
・・・成立過程や教えの内容はもちろん違いますが・・・。

こういう私も
キリストにマインドコントロールされているかもしれない。
というよりキリストにマインドコントロールされたい
という気持ちがあります。というのは教えを守れず、
かえって疑ってキリストを裏切ることが多かったからです。

宗教は怖いものです。
先ずそれを知り、
すぐでなくても疑うことが必要になると思います。
容易に狂信に陥る可能性を知っておく必要があります。
常に人間という立場から考え続けること、
また問い直すことが必要です。
一生考え続けることが信仰だと言ってもよいでしょう。
人間(性)について考えることを忘れなければ、
それでも自分にとって否定できないものであるなら
信仰は助けにも救いにもなりえます。

キリスト教についての私の考えですが・・・


  信仰告白

人間がなしうる
最も良質な
精一杯の信仰告白は
不信仰告白である


  宗教は

いるともいないとも証明されない
神様を信ずるのだから
宗教は
無神論と同じくらい
あやしげなものである

しかもそれを
人の筆でつづり
人の口で語ろうというのだから
宗教は
無関心と同じくらい
あやうげなものである


  信仰・宗教・学問

信仰は宗教ではありません
宗教は学問ではありません

学問は宗教の助けとなり
ときに宗教を汚(けが)します
宗教は信仰の助けとなり
ときに信仰を汚します

神から与えられたものは人を救います
人から出たものは人の助けとなり
しばしば人を汚します


まとまらないまま、今書けることを一応書いて
俎上に載せました。ご意見・ご感想をお待ちします。

また何か思い付いたら書いてみます。失礼。

               戸田聡 不具


戸田聡 | URL | 2007年03月01日(Thu)00:22 [EDIT]


哲学家K.T.です。

1993年、私が御茶ノ水の大学に通っていた頃、学内よりも秋葉原にいた時間の方が長かったのですが、当時は、オウム全盛で、「ゲッキ安、ゲッキ安、チョーゲッキヤ〜ス〜〜〜!!」と、絶叫するマハポーシャのビラ配りが、アキバの名物でした。就職活動で渋谷の会社に行った時も、就職活動そっちのけで、マスコミと警察に取り囲まれた青山支部を見に行きました。
 破壊活動防止法と思想信条の自由は確かに矛盾します。
まぁ、「諸外国の侵略行動」と言えば、「戦争を放棄する」と憲法で明言している国が、アメリカのいかなる侵略戦争も一貫して賛成しているわけですから(そうせざるを得ないとは言え)、日本という国は、筋が通らないというか、最初から矛盾だらけなんですね。
「何とか総理大臣という番組をもっているあるコメディアン」は、強引に皮肉を言って芸風をビートたけしに似せようという意図がありますね。悪い芸人さんではないけど、彼以外に面白い人、頭のキレる芸人さんが全くいないというのも事実。「オレは頭がいいんだ」という空気が伝わってくる分、矛盾も多いですし、私にはあまり頭良さそうには見えないですね。ただ、『サ○ジャポ』のメンバーの中では一番マシです。
 ところで、最近の東国原英夫知事ってなんか上祐さんに雰囲気似てません? いや、東国原知事を支持していますけど。フライデーされましたが・・・。
 戦後世界とは、仰るように、戦争していない分、ニヒリズムがあると思うんですよ。ニーチェが「戦争こそが美しい」と言うように、私個人に関しては、戦争は、1億2千万人が味方で、全ての若者がサッカーの日本代表のようにヒーローであり、死に場所も用意されている(ただし、当然疫病や、核、特攻、空襲による死はむごたらしい)。反面、平和とは、1億2千万人の敵と、一人で戦うようなものなのです(ただし、物質的には恵まれていて、身の危険もない)。三島さんに関しては、
かなり自分に近い自己陶酔型の人なので、あえて本も読まないようにしています・・・。
[前の記事に書き込んでしまいました。きちんとチェックしていたのですが・・・。可能であれば、そちらの書き込みは削除願います。]

SELECTIVE MIND | URL | 2007年03月03日(Sat)13:45 [EDIT]


知識についてではなく総論として

N.Wさんは、ラッセルの「自分は年を取って頭が使いものにならなくなったから、論理学を捨てて、平和運動をやったのだ」という発言に注釈を加え、

「自分は年を取って頭が使いものにならなくなったから、論理学を捨てて、(頭を使わなくてすむ)平和運動をやったのだ」とされましたが、

私ならばカッコ内は、「(論理学をするには頭がもう使いにならない自分でも役に立つことのできる)平和運動をやったのだ」とすると思います。カッコをつけることで文意は明らかに変わっていると思います。

ラッセルは自分のやっていることを卑下するような精神の持ち主ではないと思います。
論理学をやるには実際40代前後までが限界だといわれます。スポーツ選手と同じです。ラッセルは自分の頭が働かなくなったこと(選手生命が終わったこと)を卑下しているのではなく、現実に働かないからそうだと言っているにすぎません。


絶望というのは希望がないことです。N.Wさんがおっしゃるように、たとえば誰かにもう二度と会う希望がかなえられないとき、絶望します。これは言葉が通じないことと同じです。何をいっても何も理解してもらえないとき、人は絶望します。真に絶望したとき、この世の中の誰にも絶対に理解されないとはっきり確信したとき、人は死にます。

自分が最も愛する人に理解されないとわかったとき、人は他の誰かからいつか理解されるかもしれないという希望を見出すことはできません。だから絶望して自殺します。

N.Wさんの言葉は、生の表面をなぞり続けているように感じられます。N.Wさんは、ほとんど絶望したことがないからなのでしょう。幸運なのです。

「私達の世界が急速に虚しいものになりつつあるのは、言葉による関係性の構築を、多くの人が放棄しつつあるから、というふうに思います」とおっしゃいましたが、

私たちは言葉による関係性の構築を「放棄」することはできません。それは死を意味するからです。放棄したりしなかったりを、生きながら選択できるものではありません。

私たちは他者との関係を求め続けます。それが「生きること」です。他者との関係構築がかなわなくなったとき、死を選びます。

死は「絶対的不幸」ではありません。絶望が絶対的な不幸であり、死はその結果にすぎません。絶望して自殺を図っても死なずに助かった人はいくらでもいます。

あやこ | URL | 2007年03月04日(Sun)00:12 [EDIT]


>あやこさん

 それは他者に対する一方的な「依存」ではないでしょうか。
関係がなくても、ニーチェ、ルソー、レヴィ=ストロースが言うように「自然」もあります。 
 たとえ他者の助けや関係がなくても、絶望はその人の意志によって克服できます。他者に一方的に依存しないことを覚えることです。承認や愛を求めることそれ自体が依存だと私は思います。

>この世の中の誰にも絶対に理解されないとはっきり確信したとき、人は死にます。

 その「確信」とはどこから来るのでしょう?
 たとえ、人間関係がなくても、誰も認めず、愛さずとも、他者とは「客観」それ自体なのであって、「敵」ではありませんね。言葉は文明そのものです。デリダの言うように、言葉があるから、人間は動物のような争いごとを避けられるのです。争いを避けているのですから、人に依存しなくても、それは大きな進歩ではありませんか。

>私たちは他者との関係を求め続けます。それが「生きること」です。

 そうですかね。私は自分の芸術的な理想を実現させることです。「関係を求め続ける」ことが重要なのはその通りですが、その分束縛もありますし、気も使いますし、自由は減じます。生きることは、「人それぞれ」です。

また、ハイデガーは「言葉によって、人間同士の差異が深まる」と言っています。すなわち私たちとは差異そのものではありませんか?

 「関係」という重しに束縛されず、もっと気楽にというか、「人間関係刹那主義」的に物事を考えられてはいかがでしょう。

SELECTIVE MIND | URL | 2007年03月04日(Sun)13:20 [EDIT]


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| | 2007年03月06日(Tue)03:48 [EDIT]


コメントありがとうございます

(戸田聡さんへ)
  「うさねこ研究室」に続いて、こちらにもコメントを記していただき、本当にありがとうございます。こちら「倶楽部ジパング・日本」の私のスタンスは「うさねこ研究室」とはかなり異なりますが、どちらが浅い・深いということはないと思います。とらえる視点を異なるものにしているということですので、これからもこちらの方にもいらっしゃってください。
  「マインドコントロールされたい」という面もある、という戸田さんの指摘に、感銘をうけるところがありました。私達の世界は際限なく「軽さ」が進行しているのですが、しかし本質論から離れるということまで「軽さ」が進行してしまうのは怖ろしいことですね。「最近の宗教はオウムのような教団が多くなり・・・」という人が多いですが、宗教にはそもそもそういう危険きわまりないものだ、という理解ですら、「軽さ」が拒んでしまっている、ということがあるのです。ただオウム自身がその「軽さ」でガラス細工のようにつくりあげられていて、その犯罪のスケールの多さと反面のあまりの脆さは、いったい何だったのだろう、と思わざるをえない面がある。それが私の指摘したかったことでごさいます。
 (SELECTIVE MINDさんへ)
 ようこそいらっしゃってくださいました。「うさねこ研究室」に続いて、こちらの方でも、K・Tさんの鋭いコメントを今後も期待しています。
 私もオウム真理教の店に面白がった一人ですけれど、しかしあの騒ぎが、オウムの本質を色々と見えにくくしてしまい、そして私達がオウムと同次元にしてしまったという面は、いくら反省しても足りないと思います。麻原がメディアの哄笑のレベルにとどまる俗物で救われましたが、彼があと一歩、優れた自己制御のできる人物だったら、事態はもっと破壊的なことになったに違いありません。それがアメリカの同時多発テロとオウム事件の違いというべきかもしれませんね。
  おっしゃるように、平和主義の方がニヒリズムに近いんですよね。私は唯一、平和主義を肯定する論理があるとしたら、このニヒリズムをしっかり飲み込んだ平和主義だと思うのですよ。楽観的ヒューマニズムをもったニヒリズムは殆ど偽者というべきでしょう。
 そのまんま東さんと上祐さんですか・・・上祐さんが都知事選でたら、案外いいとこまで行くかもしれませんね。 

(あやこさんへ)
  私の認識が甘いのは認めますがしかしSELECTIVE MINDさんが言われるように、「関係」というのは、それが深まれば逆に負担になり、私達を苦しめる場合も非常に多いわけです。たとえば心中というものがありますが、心中は、関係を絶対的に高めあうために、死を選択するという背理の世界です。関係構築が生の破壊に向かう例というべきでしょう。心中は私達の文明にとって、それほど重大な異常事とは思えません。
 ラッセルについてですが、私はラッセルの論理学・哲学での偉大さは承認した上で、彼は言葉の軽さを弄した人物と考えています。そこのところの評価があやこさんと違うのでしょうが、たとえば彼は自由学園みたいのをつくって彼が園長をやるのですが、本当に自由な学園で、服装も規則もバラバラで少しも学校として機能しなかったという話があります。最初からそんなことしなければいいし、あるいはその後、何かの絶望を考えることをすればいいのではないでしょうか。あるいは彼は4度結婚してしますが、そのことを個人的なエピソードにとどめればいいのに、仰々しく結婚論をたちあげ、人間の自由にとって結婚制度は有益か、みたいなことを言ったりする。私にいわせれば、こういう「自由」をめぐっての言葉の使い方は、ラッセルの伝記を色々読んだ中で、実に厚顔無恥なところです。よほど自由に安住しているから自由について論じていられるのでしょうが、私にとって自由はそういうものではありません。こういうラッセルの言葉を信用したり感動したりするラッセルのファンはいろんなことろで出会ってきましたが(前の少子化対策問題相の猪口教授も授業中、事あるごとにラッセルへの崇拝を語っていました)そういう人達の言説は好きになれないという以上に、体質が違う、としかいいようがありません。

N.W(うさねこ) | URL | 2007年03月09日(Fri)01:15 [EDIT]


あくまで私見として

N.W様へ。戸田聡です。
コメントありがとうございました。
なかなかまとまりませんが書いてみました
文章と詩のようなもの投稿します。

「キリストにマインドコントロールされたい」
と思うのは、ある程度本気なのです。しかし同時に
キリスト者として相応しい信仰生活をしていない自分
というものを意識することでもあります。
 キリスト教の教派によっては
「自我に死んで、聖霊に身を委ねる」聖霊体験
というものを重視する教派もあります。私は
聖霊体験というものに対して超常的な何か
胡散臭いものを感じていて、それを主張する
ある人に「難しい境地のようなもの」だと
批判的な気持ちでした。でも何度かMLで
メールのやり取りをしているうちに、必死の思い
みたいなものが伝わってきて、その人の現実生活
における苦労を少し知ったこともありますが、
それ以上にその人の信仰が祈りの明け暮れである
ということを知って結局彼の信仰観も聖霊体験も
否定できなくなりました。科学や論理以上に
必死さに打たれたといってもよいでしょう。私自身は
依然として聖霊体験なるものを経験していないし
祈ることによって私が若干の安らぎを得たときでも、
感情の表現や発散による心理的効果ではないか
と思ってしまいます。つまり私と彼とが
有意義な関係を持ちえた接点はクリスチャンは常に、
少なくとも折に触れてしばしば、罪や自分の無力を
意識せざるを得ないことによって人間としての内省
を強いられるということではないかと思っています。
 キリスト者が祈る姿というのは
しばしば、叱られるのを待って坐っている子供
の姿に似ているような気がします。ですから
こんなに悩んでいて実際は無為・無力でしかないのなら、
いっそこの肉体をそっくり委ねお任せして
キリストが動かしてくれたらいいのに
という気持ちです。
つまり日々のあらゆる場面で、罪に直面し
反省・内省を避けられないということがあります。
しかもその内省さえも正しい内省とは限らないのですから
しばしば疲れて、祈りは喘ぎのようになり、
無思考に陥ります。いつまでも無思考では、
いられないけれど無思考になることはあります。
そんなとき神様がどうしたらよいか直接
教えてくれるわけではない。それでまた
考えてしまう毎日になる必然を、
キリストに絆された者は持っているのではないか
とも思います。キリスト者には
聖書という教科書がありますが、
聖書が常に現実的な指示を出してくれるわけではない。

オウム真理教と違って
神あるいは教祖が直接指示を出すということがない、
言い換えれば
神もキリストも現世で直接交わることが出来ない
ということが
信仰が考えることから人を自由にさせないという逆説
になっているのかもしれないなぁと思ったりもします。

神あるいは神の代理みたいな人が命令を下すとき
キリスト教も邪教に陥る危険性がある。しかしもし
本当のキリストが現れたとき私は本物か偽者か
判断できるほど賢くはない。様子を見て判断するか、
偽者として無視してしまうかもしれない。

オウム真理教と
私が考えるキリスト教信仰との
決定的な違いを見出そうと思って書き始めたのですが、
妙な話になってしまいました。まあ
キリストは人間離れした超常的な空想的夢想的思想や
妄想を押し付けたり、人間離れした特に暴力的な命令を
下すことはしないでしょうけれどね。
また考えてみます。最後に拙作幾つか載せてみます。

先ず冗句みたいなものから・・・


  夜明けのテロリスト

与えられなければありえなかったのに
人生切り取り放題と言わんばかり
聞いてもしようがないのは
成功者の格言めいた話だ
しかもそれが誰にとってもお宝のように
賛美する脇役や端役
騒ぎ立てる石ころや石焼きイモだ

夜は腹が減る

体は動物のように正直だな
賢者の話なら聞いてもよいが
賢者が賢者だと
わかるほど賢くはないのでね


  真実

宗教人のあわれみは
ときどき気色が悪かったりするので
やめておいたつもりの男が
自分を憐れんだり憎んだりするので
きっと地球は丸いのだなと
あくびをして考えてみるに

子供を戦場に送って死なせたり
科学者を殺したりした中世の教会を経て
まだ教会というのがあるのは
昔のことを悪者にして
あれらは間違っていて
あれらは悪かったと
言えるおかげさまだったりしている

地球が太陽のまわりを回っていることは
今は誰でも知っているけれど
相変らず日が昇ると言い日が沈むと言っている
感覚というものから
科学はどんどん遠くなっていく

宗教人の求める真実が
遠くなりませんように
軽々しく人を憐れんだり
憎んだりするときに
お前が間違っていて
お前が悪いと言ってもらえる
お叱りと憐れみがそばにいて下さいますように

面倒は嫌いなので
青信号を
緑信号と呼ばなくてすみますように
急に地平線や水平線がまるくなったり
地球が昇ったり沈んだりしませんように


次に地下鉄サリン事件の後1996年ごろに書いたもの

  光の子

 心の真っ直ぐな人、愚直なほど素直な人、教えられたことを受け入れるほかにないほど心寂しい人は幸いである。仮に光の子と呼ぶことにしよう。
 しかし光の子は真っ直ぐであるがゆえに道を誤れば悪い方向へ猪突猛進してしまう危険を持っている。しかもいったん信じてしまうとなかなか改めるのが困難である。今の世にまれな宝を持ちながら導くもの・信じていく過程の善し悪しによって義人ともなり悪人ともなりうるほどに危うい人である。
 人は一生に二度以上親を持つことがある。最初は肉親の親あるいは育ての親である。二度目以降は人生を根底から変えてしまうような感動的体験である。後者はその後の人生を決めてしまうほど大きな影響を持つ。
 原体験ともいえる二度目の出会いを親と呼ぶのは、人は最初に乳を与え抱き育ててくれた肉親を親と認識するのと同じだからである。成長してから苦難や悩みに直面したとき最初に救いの手を差し伸べてくれたものを親と認識するのである。それは宗教であるかもしれず思想であるかもしれず人物であるかもしれない。それらは多かれ少なかれある種のしがらみのようなものを伴っているものである。気をつけなければいけないことは今の世に生きているという現実の中で、その親となるものが必ずしも常に善いものであるとは限らないということである。悪いしがらみに取り込まれる危険は誰にでもある。
 人は無人島にでも住まないかぎり、しがらみというものから自由にはなれない。しかし人生の父として母として自分を取り巻き支配するしがらみを選ぶことはできるかもしれない。よいしがらみに出会った人は幸いであるが、善いしがらみか悪いしがらみかを区別するのはたやすいことではないと思う。そして始めは善いしがらみでも悪くなっていくことだってあるだろう。
 大切なことは自分が良心を持った人間・人格であることを常に自覚して内省することであろう。いかなるしがらみの中にいても人間離れしないことを深く強く心に刻み付けておくことである。人間離れした親は人間離れした子を育てる。人間離れしたしがらみは人間離れした命令を下し隷属を要求する。そして光の子はその純粋性のゆえにしばしば誰よりも先にその犠牲になるのである。
 三度目の親を持つことがあるとすれば、その出会いは二度目の親との出会い以上のものであるはずだ。それは二度目の親との決別を決心させるほどに人間的な感動を伴う、あるいは否定することのできない、あくまで人間的体験である。物や肉体に起こった奇跡はやがて忘れ去られる。魂に起こる奇跡は決して忘れることはない。


それから平和と自由について・・・
先ずイラク戦争が始まったころだったかに書いたもの

  暴君

擬勢を張る暴君は
民衆に犠牲を強いる
抑止を無期限に継続し
最小限度の準備をしておく
抑止が正常に働いている間は
暴君は軍拡も戦争もできない
そして暴君が死ぬのを待つ
暴君もそういう思惑を知るだろう
もし抑止に耐えられず事を起こせば
その時こそは大義が成る
という方法もあっただろうに
今は核の時代
放置してはおけないと
事が起こってからでは遅いのだと
力ずくの為政者は
民衆に犠牲を強いる
平和平和・戦争反対と叫ぶ人々
しかし平和を脅かす恐れのある者が
いざ自暴自棄になって暴れ出せば
今は大量殺戮の時代
平和を願う人々は犠牲を強いられる
つまり今の時代
平和に徹するということは
粛々として死を覚悟することである


(※ここでの「大儀」は、
あくまで政治戦略上の大儀です。
いかなる戦争にも真の大儀はありません。
平和を叫ぶのは自由だが、
攻めなくても攻撃される今の時代に
平和に徹するということを考えると
こういう書き方になりました。)


  自由の祈り

涸れたか
尽きたか
一生の間に
どうしても言っておきたいこと
死ぬも生きるも自由
死んで屍になるも自由
生きて屍になるも自由
活路を見出せるなら
それも自由
「自由」に首を絞められそうです
そう祈れば
過去でも未来でもない
遠くでも近くでもない
いつも木霊のように返ってくる
人はそのように造られている
その自由さえ奪われた者たちを
汝は知っているか


最後は個人的なことで・・・失礼しました。

              戸田聡 不具


戸田聡 | URL | 2007年03月09日(Fri)23:26 [EDIT]


駄文を書いているヤブーと申します。
「倶楽部ジパング・日本」さまブログが刺激的なので、勝手にリンクさせていただきました。どうぞお許しください。v-435
時々勉強に伺います。

ヤブー | URL | 2007年03月28日(Wed)20:28 [EDIT]


ヤブーさんへ

 ようこそ、はじめまして。管理人のN.Wでございます。
 リンクしていただいたとのこと、大変嬉しく思います。できれば相互リンクに発展させていきたいので、ヤブーさんのホームページのURLなどを、ホームページに記載してある私の連絡先にご連絡いただければとても嬉しく思います。
 これからも末永くよろしくお願いいたします。

N.W(うさねこ) | URL | 2007年03月29日(Thu)15:54 [EDIT]


 
 

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