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「管理」されるイメージと文化



犯罪の多発ということがマスメディアでよくいわれます。このまま犯罪が増加を続ければ、いずれこの日本の社会は身動きが取れなくなってしまうだろう、というきわめて暗い認識です。しかし「暗い認識」であるにもかかわらず、それを語る人達がそれほど暗そうではなく、「暗い認識」を再生産している気配、これが犯罪報道の世界の常態です。少しも暗そうでなく、その「暗い認識」が語られ、誰が話しても同じような言葉が新聞やテレビに現れ、数日もたてば忘れ去られていきます。
    カントがその実践理性論で、本当の悪とは悪をなしたかどうかではなく、悪を他人事のように語る精神的闘争状態のなさだ、ということの切実さが露ほどもこの国にはないかのように思えます。殺人事件の殺人という行為を倫理的に批判することは、実は途方もないほどの不可能性をもっているかもしれないのです。なぜならば私達の大部分は、殺人行為や殺人の故意と無縁なまま、その一生を終えるだろうからです。それなのに殺人を論じることが果たしてできるのだろうか。このことは少なくとも私にとってはいつまでも解決不能な大問題です。にもかかわらず、マスメディアでは連日、夥しい数の「犯罪批評家」が現れては消えて、犯罪とそれを生み出した土壌について、様々な言葉を視聴者に投げかけています。
    犯罪はもちろん由々しきことで、被害者の心中を察するに、同情の言葉をどれほど並べても足りないものがあるでしょう。しかし当たり前すぎることですが、倫理的応報をくだすのは裁判所であり、またある意味で犯罪捜査機関であって、別にメディアではない。ならば犯罪があった事実のみを伝えるのがメディアの役割なのでしょうか。さにあらず、でしょう。大体、事実そのものを伝えるということ自体が絵空事であって、報道段階において報道的事実を選択しているという段階からして、メディアが純粋客観的である、ということは不可能です。主観主義と客観主義の対立をいえば、メディアはそもそもが主観主義的なものです。にもかかわらず、客観主義の御面を被った上での主観主義ということが、メディアの主観主義をかなりタチの悪いものにしている。主観的でしかありえない宗教を、客観的に語るという根本的な虚偽を知らない振りをして主観的に語る宗教学者一般を、「哲学銀行の出納係」と手厳しく批判したキルケゴールに倣えば、彼ら犯罪批評家は「犯罪学銀行の出納係」とでもいうべき存在なのでしょうか。
  「犯罪とは何か」という哲学的・思想的探求をメディアで語るべきだ、ということを言いたいわけではありません。まさかそんな時代が来るはずもないでしょうが、メディアの語りが哲学的になってしまうということの方が、ある意味で哲学の危機や哲学の根本的喪失といえるかもしれないと考えるべきだからです。あるいは統計的なデータを観ると、我が国の犯罪率は欧米に比べてまだまだ圧倒的に低く、また犯罪の種類によってデータの観方も色々と異なるのはいうまでもないですがしかし、こういう反対事実のカウンターオピニオン的事実もせいぜい、メディアの擬似客観主義の範疇にあることでしょう。一昔前に比べれば、犯罪は我が国において、全体的に増加しているといえる、ということになれば、ああそうか、ということで話が平行線になったり短絡的に決着してしまうだけでしょう。しかし「犯罪の増加とは何か」ということ、つまり犯罪と社会とのかかわりへの考察の欠如、ということになると、話は違ってくるように思います。
    たとえば、家庭内暴力や児童虐待の話です。日本で家庭内暴力や児童虐待が「増加」しているという。おそらくそうなのでしょうし、またそれに対しての反対事実の指摘も可能でしょう。しかしたとえば、アメリカで数万の件数毎年起きているような、父親と息子が母親を略奪愛して凶悪事件化するというような、生々しい性愛がらみのものが「増加」すれば、たちまちメディアの犯罪批評家の安穏とした饒舌は深刻な沈黙へと変わってくるのではないでしょうか。量的な犯罪の増大ではなく、アメリカの犯罪の質的な現状が日本に全くそのまま現出したときに、日本がそのことに果たして耐えられるかどうか。この一例だけでも、メディアの「犯罪学銀行の出納係」が、全く狭い射程でしか「犯罪」や「悪」を議論していないことがたちどころに判明してしまいます。犯罪報道はイカモノの三文サスペンス劇場と似たかよったかのあまりにも脆いフィクションに過ぎないということでしょう。
    アメリカでは、近親相姦を通り越して近親間のレイプはほとんど日常的な風景になっているといわれています。或る刑事学説によれば、20人に1人の女性が、幼年期に、男性の家族に、何らかの性的な行為をおこなわされている、ともいいます。ですからアメリカでは、強姦罪というのは家庭内でのそれが深刻に増えており、幼児性愛が、親子間のものという二重の異常性を背負っている。恐ろしい世界ですが、恐ろしいとだけいっていても何も成りません。近親愛の禁止が文明の発生であるという人類学の通説に従えば、まさにアメリカは文明崩壊の危機に瀕していて、しかし世界の政治的主導を行い、文明的先端をはしっているという奇妙な事態を生じている、というふうに考えることもできるわけです。アメリカが犯罪大国だから、ということで話を片付けるのは容易いですが(犯罪発生率自体はアメリカよりイギリスやスウェーデンの方がはるかに高い)日本での家庭内暴力や児童虐待の増加が、アメリカの現状のような、ほとんど文明の根幹にかかわる「悪」の進展とかかわる可能性もある、ということについて、おそらく犯罪批評家の「深刻な認識」は何も答えられないに違いありません。つまり、「犯罪の増加」が、文明社会の根幹を崩壊させるかもしれないという真の危機感がない。
   犯罪というものは、そもそもが文明破壊的なものをもっているものなのです。だからこそニーチェは「あらゆる犯罪には煌くような存在の輝きがある」と断じたのです。「我が国がアメリカのようにならないようにしよう」というような政策的発言は実は何も言っていないことに等しい。文明は、破壊への激しい危機感があるからこそ、すべてをかけて秩序を求める、ということになる。実は懐疑主義ということもそこから生まれます。ほとんど破滅的な犯罪発生状況になれば、人間への懐疑や自己への懐疑が生まれるのが必然だからです。「悪」は他人事ではないからです。これらのほとんどが、日本の犯罪批評には全く欠けているといわざるをえない。きわめて逆説的な言い方ですが、或る意味において我が国には「犯罪」がリアルに存在しえない国だ、ということもできるのです。
    かくして我が国こそが「犯罪の増加」と文明や国家の関係について、ほとんど考察を欠いているという指摘も可能になってしまう。毒気は、毒の量がほどほどだから、毒を抜くことを楽しんで、それを論じながら食することが可能なのです。「犯罪とは何か」という哲学的考察と一生無縁なままな人間が大多数でも、社会にとって、さしたるマイナスはないでしょう。しかし「犯罪の増加とは何か」について考察がないということ、言い換えれば文明や社会にとっての「犯罪」の意味が不明であるということは、文明的態度の喪失の一つであって、なかなかに深刻なことだといわなければならないでしょう。妙な言い方ですが、メディアの犯罪報道に、私達は或る意味で「安心」してしまう。更に奇妙に聞こえるかもしれませんが、犯罪の毒性が、マスコミによって保護防衛されている、ということもいえるかもしれないのです。あるいは私達が不安になるのは安心できないような犯罪状況が起きたときで、安心できるような解釈へと、必死で逃れようとする。空気と水と安全はただだ、というのが日本の思想だと山本七平はいいましたが、犯罪は安心できる軽いものだ、というのも、日本人の思想だということができるでしょう。犯罪が起きたと伝えられるとき、なぜ安心すること(安心しようとすること)が私達はできるのかでしょうか。
   おそらく、私達は何かの絶対的な評価というものを既にしているからこそ、安心という精神状況を得ることができるのでしょう。アプリオリといっていいほどに固定的なものだといってよいのかもしれませんが、私達の中に秘められたアプリオリ的なるものと、報道的現実が一到するときに、私達は未来と現在が連続したかのような感覚に浸り、安心して、犯罪に言葉を投げることができるのだ、といえるのではないだろうか、と思います。アプリオリ的なるもの、とは、アプリオリなものと錯覚しうるような、日本人にとって完全に近いからくりがそこにあることを意味するといえましょう。
    どんな犯罪が、ということでなく、「どんな人が犯したか」ということに関しても、私達はアプリオリな価値判断を有している場合が多いことに気づかされます。たとえば政治家の職にある人達が贈収賄系の犯罪を犯した(嫌疑をかけられた)ときでも、私達は自分でコントロールできる範囲の怒りを言うことができる。もちろん私は政治家の贈収賄犯罪はけしからん、と思います。しかしそうした情報に触れるとき、自分の中に、アプリオリな判断といっていいほど固定的にイメージ化されたもののフィルターを通じて、彼らの行為を考えてしまっていることをどうも認めざるをえない。どうも「贈収賄犯罪」ということにリアルに向きあっていない。犯すべき人間が犯したのだ、私の思っていた通りのことが起きた、という認識からどこかで自由でないのです。政治家犯罪への、私達の、ともすればサディスティックな、同情の余地のない価値判断というものは、何とも不思議なくらいのものです。政治家とはそういう職業なのだ、という認識なのです。政治家を選挙システムによって選択している選挙民としての正統なる怒り、という正論ではとうてい納得できない何かがそこにあるというべきでしょう。
    日本の政治家をイタリアのマフィアになぞらえたら政治家の方々の激怒を買うかもしれませんけれど、イタリアがマフィアを社会から排除できない(しない)理由というのは、イメージ論から掘り起こせば、国民国家の形成の何処かで、ナショナルなものの光景の一部としての刷り込みがあったのだ、と考えることができるでしょう。イタリアでマフィアへの悪口を言うことができないということではぜんぜんない。むしろ悪口をいい、マフィアの排除を言うという言説を際限もなく再生産しているまさにそのことによって、マフィアはイタリア人の精神性とともに固定化しているのだ、ということがいえるのではないでしょうか。そしてそのことによって、イタリア人は、マフィアとの対立を裏返しに放棄しているといえるのではないでしょうか。その社会にとって必要不可欠なイメージというものは自然な形で管理されるといっていいでしょう。日本人の場合、「犯罪」というものが一種のイメージ管理として存在しているのではないだろうか、と私は思います。極論すれば、日本ほど「悪」を厳重に管理してしまおうとする文化も、他にはないといえるのではないかと考えます。
   たとえば、田中角栄的手法が政治的悪としてずいぶん次元の低い宣伝をさんざんあちこちのメディアでされてきました。しかし、私からすれば、田中的手法を月並みに批判する人々政治家あるいは政治家的な立場の人間にこそ、安易な田中的手法が見受けられる。これはひとえに、田中的手法への批判が、イメージの世界だけでおこなわれてきたことによります。中国ほどひどくないですが、我が国は明らかに複雑なコネクションを重視する世界であって、田中批判を期に、それが革命的に改められたということは全くない。ある哲学教授が「東京大学にヴィトゲンシュタインが教員公募してきたとしても、書類に彼を推薦する教授がいなかったらふるい落とされるだろう」といいましたが、地方公務員就職などまで含めて、就職斡旋をすることが、国民規範的に公正に反することである、というふうに考えるモラルは依然として確立されていません。「頼みます」「お願いします」の世界です。当たり前のことで、イメージ的に田中的手法を批判することと、自分の存在論として田中的手法を自己検証することは、全く別のことになってしまっているからです。
    それはまさしく「犯罪」というものへの態度と同一で、しかもその「犯罪」が今度はイメージ管理の武器になって、「政治家」というものを意味づけることになるのです。「日本には優れた政治家がいない」などと嘆く前に、いかに私達がメディアとの共同の作為で、私達が政治家というものの意味を管理しているか、自省してみればいいでしょう。全く同じように、「家庭内暴力」も「児童虐待」も、依然として刷り込まれたときのままのイメージで、私達は安心して怒ることができる。刑罰と倫理ということは密接に関係しているものですが、しかし本当の激しい犯罪というものは、刑罰の実際を忘れるくらいの倫理の問題がそこにあるからだ、という言い方が可能です。しかしメディアでの犯罪報道での批評家の「怒り」は、刑罰論に終始している。これほどの犯罪者は厳罰に処すべきだ、という類のロジックなのです。しかし、「怒り」は本来は刑罰論とは別個のところで徹底されるべきものなのではないでしょうか。
     考えれば考えるほど、「許された悪いこと」をつくりだそうとするのが、マスコミの作為の目的だということがわかってきます。「人はよくあって未だに自分を満足させる可能性のあるものを改変することを容易に肯んじない」とヴァレリーは言いました。「許された悪いこと」との共存という文化の根源的なパターンを、日本人はそう易々と変えようとしないのでしょう。歴史的なことをいえば、近代日本で繁栄が謳歌された時代というのは明治以来、星亨(帝国議会制度の確立期)、三木武吉(戦後再建期)、田中角栄(高度成長期)といったダーティなイメージを背負う政治家を必要としてきたのです。もちろん政治家にも予想されない犯罪が頻発しはじめたら(たとえば予想しにくいことではありますが、政治家が殺人事件を起こしはじめるとか)私達は「政治家犯罪」へのこの何とも不思議な安心感というものを失うことになるでしょう。
     繰り返しになりますがどうも、「犯罪」というものの意味づけが、この国の巨大なぬるま湯の神話の一部でなければならないような作為を、メディアとその受け取り手である私達は失うことができない。何処の国でもメディアの悪癖というものはあるのでしょうが、どうも我が国の場合は、「犯罪」というものに関して、それが甚だしいものなのではないでしょうか。私達は政治家は時として予想されたかのような犯罪を犯すのだ、というモラル意識を有しているという甚だ矛盾した精神神話をもっているというべきなのでしょう。そしていろいろな犯罪について、こうした予定調和的なものがあって、それを乱さないようになるでしょう。
    「犯罪(あるいは犯罪者)へのアプリオリな価値判断」というものを考えるとき、犯罪の現実があって私達は物語を描くのではなく、物語があって犯罪のイメージがディファレンスを伴い生じるのだ、というとらえ方は、主体がまずあって主体の思惟・意思が生じるのではなく、客体である書物のイメージがあって、そのずれを繰り返すことよって、私達は「思わされて」思惟や意思が生じる、というデリダをはじめとするポストモダニズムの主張を何処となく思い出させるものです。たとえば、近代純文学からテレビドラマのシナリオに至るまで、汚職に塗れた政治家というのは箒で掃いて捨てるほど現れる。そのイメージ化はたとえば近代以前の時代にまで及び、江戸期は同時代の欧米や中国に比べて圧倒的に汚職が少ない世界だったにもかかわらず、近代以降の社会の政治世界のイメージを、江戸時代にほとんど乱暴な形で投入するという物語を延々と再生産して、物語から、江戸時代と現代社会の政治家への価値判断をしてしまう、ということをしている。
   私は人間の主体性に否定的なデリダの思想的主張には、昔からあまり賛同できません。デリダ的なロジックというのは俗化したときにたいへん危険な面をもっていて、たとえば実存主義をはじめとする既存の思潮のすべてに視覚中心主義のレッテルをはって、あたかもかつてのマルクス主義のような権威的暴走を来たしかねないのです。しかし少なくとも「犯罪」に関しての私達の思惟のからくりの解体においては、非常に有効であるような気がします。私達があまりにも物語という(文字)客体ということと主体性の間が固定化しきっているから、です。物語があるからこそ現実が作り変えられる、という主張が一面をとらえているということです。多くの人が江戸時代をおぞましい汚職時代と錯覚しつつ、反面、水戸学という、司馬遼太郎曰く「近代になり日本人の柔軟性を奪うことに最大に貢献した思想を確立しようとした」徳川光圀の問題性を和やかに覆い隠してしまう、という物語装置が、今でも毎週ゴールデンタイムで発動しているわけです(笑)
    このような「犯罪物語化」(あるいは登場人物化)の垂れ流しは何も政治家を対象としたものに限ったことではなく、大学教授や元警官やらも、犯罪物語の登場人物化のテクノロジーに乗って現れ、「大学教授」や「警官」への私達の思惟そのものを左右している、ということが少なくないのですが、反面、どういうわけかマイナスイメージの登場をなかなかしない職業もあるのです。
     その好例中の好例が、たとえば判事だといえます。法廷ドラマや法廷小説がありふれている中で、判事の倫理を扱ったストーリー、つまり欲望や絶望といった人間的な業を背負った判事というのは、純文学からテレビドラマまで、わが国の物語にはほとんどないような気がします。これは私の寡聞のせいなでしょうか。判事が自分の身を持ち崩すような恋愛をしても不思議ではないのに、なぜかそういう物語は私が追う限り、ほとんど流通していない。性犯罪や凶悪犯罪に手を染める、とまでは言わないまでも、賄賂や情痴にかかわって判決を捻じ曲げる判事の物語があっても不思議ではないのに、と私には昔から不思議に思えて仕方ありませんでした。実際そういう判事がいないから読者や視聴者がリアリズムを感じられないのだ、という意見もあるかもしれませんが、報道事実的な言い方をすれば、実際は判事による犯罪は政治家に比べても、皆が思っているほど少なくはないのです。
    あるいは、馬鹿らしいと思いながらけっこういつも何気なく私がみてしまっている、江戸時代の時代劇ドラマでの「悪代官」「悪奉行」というのは、どうみても政治家的存在として描かれ、判事的存在ではない。代官・奉行というのは判事的な色彩が強い官職であったにもかかわらず、です。面白いことに、代官や奉行が、買収されたり個人的な欲望で、誤判決をくだすという判事的場面の「悪」というのは、ほとんど描かれることはない。代官や奉行の「悪」の場面は、政治家的場面、せいぜい行政官的場面での賄賂の授受や民間への暴力というものに限られます。ここにも、意図せざるイメージの管理を見て取ることができるといえましょう。「犯罪を犯さない(犯してはならない)」判事というイメージに、私達は何かを感じなければならないのでしょう。日本以外の国、諸外国の国民文学やメディアドラマのこのことに関しての状況は、いったいどうなのでしょうか。「犯罪物語」の配置による国民意識の形成ということは、どこの国においても、日本ほど明瞭なものなのでしょうか。
    ヨーロッパ大陸法の世界では、判事あるいは判事的存在というものに対しては、まるで日本の政治家に対してのように、非常な不信感をもっています。フランスでは司法機関が貴族階級に買収されることは頻繁でした。艶笑文学に登場する判事も少なくない。ドイツに関していえば、近世の時期に、魔女裁判や動物裁判(動物を起訴して被告にして裁くという奇妙なことが、16世紀から17世紀に頻発した)などでとんでもない判決をくだし、そのまま近代へと引き継がれているという印象があるといえましょう。あるいはナチス時代にしても、判事がナチス法の適用者である、という印象が極めて強い。いくら私達が日本の戦時体制時、特高警察や検察をミリタリズムの手先として批判することがあっても、判事が、戦時体制の手先であるという印象は、不思議なことにほとんどないのではないでしょうか。アングロサクソン世界だけでなく、ヨーロッパ大陸法の世界にあっても陪審制度の要求は強く、歴史的に何度も導入されているのですが、それは判事をはじめとする司法機関が、政治家や行政官と同じような不信感を抱かれているからに他ならないのです。犯罪物語による管理から全く免れている判事・司法官のイメージを固定化して有している私達からすれば、こうしたことは理解しがたいことです。
  イメージがメディア的に生成管理されるということがいけないということではぜんぜんありません。犯罪についてリアリティを有しているアメリカにしても、たとえばキリスト教的な宗教世界に対して、イメージの管理や防衛をしていることは容易に想像できることです。ただ少なくともいえることは、そのレベルの管理を施されている限りは、その文化的要素がその文化的ナショナリズムにおいて自立性を確保できるということはとうていありえないということです。ましてその文化的ナショナリズムの要素が世界に誇るべきナショナルアイデンティティを形成することはとうていありえない。真の意味での批判的対決が放棄されているからです。「犯罪」が然りであり、「政治家」が然りであり、実は不自然なほどに過保護にされている「判事」すなわち日本の司法文化というものもそうである、というふうに私は思います。




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集団というもの

今回の記事を読んで、社会とか人間集団には何らかのイメージ(幻想)が必要なのではないか、と思いました。

国家はマスメディアによって作られた「想像の共同体」であるということが言われますが、結局人間は社会を営む上で何らかの「想像」から逃れられない、もしくは無自覚的であるかもしれないが必ず「想像」を再生産してしまう。その下敷きになっているのは文化とか歴史のはずです。

関係あるようで関係ない話になってしまいましたが、人間集団がイメージ、幻想、想像によって成り立っていると言うのは社会を考える上で非常に大事なことであるように思われました。

耕 | URL | 2007年12月21日(Fri)00:47 [EDIT]


どうも! 早速拝読させていただきました。

なるほど、日本における犯罪率の増加とアメリカにおける犯罪の質の悪性化を比較した、犯罪と文明との比較論、誠に参考になりました。


ただ小生が犯罪というものを考察するときには、随時Durkheim(日本ではデュルケムってよばれている)のマトリックス図の理論を応用しますね。

まず、犯罪にも社会にとって有益なものと有害なものが存在している。 そもそも、犯罪(Crime)とは果敢(Deviance)の延長とも捉えられ、その果敢が増加するほど、社会の変革が求められるという理論です。 恐らく日本の社会はそのDurkheim殿が社会学の研究をなされていた普仏戦争後のフランス社会の荒廃した状況において見出されたものから覗えるように、現在日本の社会もある種の変換機であり、その最中に混沌が生じている状況だとも言えるでしょう。


そして社会経済学的な立場から言えば、日本の相対的貧困が世界第二位に躍り出ている状況が原因でしょう。 ロバート・マートン殿の社会学理論では、その嫉妬心なるものから犯罪を引き起こす傾向も強いと説いています。


恐らく犯罪の発生する要因として、日本人の悪しき性格である、『臭いものには蓋をしろ!』という諸問題を合理的に解決せずにあいまいに解釈して隠蔽してしまう性格から来ているのでしょう。

この日本人の特性を非常によく表している表現として、貴方がメディアの力といつのまにか大衆が政治家を監視させていること、Wittgenstein殿のような人間が日本の大学に入るのにもコネがなければ出来ないというような、いつのまにか『管理されている』ということに納得いたしました。 

政治家の有能性を説くよりも大衆(小生は『衆愚』と呼んでいます)の見えざる力が特出な性格を持つ政治家を世間から遠ざけている可能性がありますね。 つまり、今の日本は典型的な衆愚国家と呼んでも差支えが無い状況ですね。 

ここで、小生などがネオ・プラトニズムを主張して、日本を改善するなれば開発独裁の色彩を持つ優秀な人民から選ばれた指導団体による政府および社会の転覆を一時期主張してきた理由が彷彿されるでしょう。

小泉政権の季節が終わり、政治もまた刺激の少ない季節に入りまして、ここデフレを含む経済諸問題および犯罪の悪質化などの社会諸問題の具体的合理的解決手段の見出せない日本がどのような方向に舵を切っていくか解りません...。

恩義(Oblige347) | URL | 2007年12月21日(Fri)20:56 [EDIT]


単純な感想その他

いつも場違いな戸田聡です。
興味深く読ませていただきましたが
哲学は分からないので、連想したことや、
思ったことをそのまま書いてみます。

暇なもので、最近よく、夜のニュース以外に、
昼間のワイドショーを見ることもあります。

ワイドショーでNW様のような哲学者が
コメンテイターとして、この論文のようなことを
言えば「あの訳の分からないことをいうヤツは誰か、
けしからん」ということになるのでしょうね。(笑)
メディアの報道することは視聴者と価値基準を
同じくしていなければ、視聴率が下がる→打ち切り
という宿命を持っているからでしょうか。

また「ベタ」と言われるサスペンスドラマの
再放送なども見ることが多くなりました。
暇つぶしで、感動することは殆どありませんが。

主人公が刑事か弁護士である場合に
主人公が犯人であったり、早々に殺されたりする
ことがないのはドラマの構成上
仕方ないのかもしれませんが、
脇役である場合には刑事や弁護士が犯罪者、
あるいは悪役を演じるストーリーはあったようです。

でもやはり判事・裁判官が犯罪者であったという
ストーリーは殆どないようです。
裁判官はドラマの中でも聖域?なのでしょうか。

また昔見た刑事ドラマで
「俺たちに犯罪はなくせねえ」
で始まるドラマがありましたが、
途中でこの台詞はなくなりました。
クレームでも付いたか
圧力でも掛かったかと思ったものです。
つまり正義の味方である主人公の刑事が
「俺たちに犯罪はなくせねえ」では困る・・・
視聴者が安心できるものでないといけないという
暗黙の了解に反するからだったのかな?

単純に言うと「聖域」「正義の味方」「暗黙の了解」
が「アプリオリ」に関係しているのでしょうか。
「アプリオリ」・・・私には難解な言葉ですが
「刷り込まれ、安心をもたらし、否定されない先入観
あるいは価値基準」みたいな意味でしょうか。

「許された悪いこと」は、それだけだと私にとっては、
少し語弊があるような・・・「(刷り込みによって)
予想(物語化が)可能な範囲だと思わされている悪いこと」
という意味でしょうか。

>主観的でしかありえない宗教を、客観的に語るという
根本的な虚偽を知らない振りをして主観的に語る宗教学者
<

あり得ることだと思います。例えば牧師の説教などは
信仰という、客観とはおおよそ無縁な基盤を
共有するとき人生において一定の意味を持ちます。
それを知らずに真実と思い込もうとすれば、
ただでさえ現実とのギャップに苦しむのに、
裏切られた感~狂気・凶行に至る可能性があります。
聖書の解釈も同様でしょう。
一方で聖書の文献的考察によって聖書の記事と史実
を明らかにしようとする方法も一般的です。例えば
「4つの福音書はいずれも、その名を冠された人
によって書かれたものではない」と参考書などには
書いてあります。これは、推測としては、客観的だ
とは思うのですが、あくまで推測の域で、
本当の史実は分かるはずもないことだし、私は
詳しく分かる必要もないことだと思っています。
史実はどうあれ、信仰は別ですから・・・


最後に私が個人的に殺意を抱いて一歩間違えば
大変なことになっていたと思っている1作と、
「暗い認識」と関係・・・ないかもしれないけれど
書いた1作を載せてみます。


  憎みあう兄弟

当時まだ高価だったコンタクトレンズを
買う買わないで言い争って
父と息子は対峙(たいじ)していた
一触即発
睨(にら)み合っていた
日頃から乱暴であった息子
それが病の始まりであるとも知らずに
息子の弟は
もし父が負けたならば
兄の頭蓋(ずがい)を
一撃のもとに粉砕せんと
後ろ手に棍棒(こんぼう)を持ち
父の背中と兄を睨んでいた


  目撃で渡る世間

天災であれ人災であれ
安全な所から
災害を見た目撃者が語る様子に
悲しみではなく何か
わくわくしているような表情
を垣間見ることは珍しくない

一人の酷い死体を
突然見たときには
忘れられそうにない悲惨な光景が
気持ち悪さとともに
目撃者から笑顔を奪うかもしれない
皮肉なことに
災害が大きいほど
屍の数が多ければ多いほど
屍が直接見えないほどに距離が
適度に遠ければ遠いほど
悲惨と感じる共感は薄れてゆく
わくわく・・・どころか
ときには目撃者が
嬉々として語ることだってある
それはもはや悲劇の共感ではなく
珍しいものや面白いものや
すごいものを見たという
興味と好奇と
興奮にさえなっている
肉親か大切な人が一人でも
犠牲者に含まれていたら
そんな顔は出来ないだろうに・・・

そう言う自分も
テレビに映る災害の悲劇を
あたかも映画を見る観客のように
傍観していることがある

他人の不幸は蜜の味・・・?
人の性(さが)や常(つね)だ
と言って済ませてよいのだろうか
そういう心が集まって
渡る世間も社会も出来ているのだ

感覚がもたらす感情を警戒して
意識して注意をもって知覚し
内省を繰り返すこと
を怠っていると
自らの心のうちに
渡る世間より怖い鬼も
悪魔もモンスターも棲んでいて
それらの内なる残酷な心性が
共感というものを麻痺させようと
人間的感情を奪おうと
常に狙っている



いつも疑問形と的外れのコメントばかりで
申し訳ないですが、今のところ以上です。
失礼いたしました。ではまた。拝。

            戸田聡 不具


戸田聡 | URL | 2007年12月22日(Sat)07:51 [EDIT]


中途半端な読書感想文

私もニュースを見ているときに、犯人も被害者もどっちもまるで自分の事を言われている様な気持ちになることがある。
何か他人事じゃないなぁって。
誰でも起こりうることで、でも関わりを持つ事はまずなくて…
でもやっぱり私の事

昔高校の先生が言っていた言葉を思い出したよ。
犯罪は犯罪
みんな犯罪に理由を求めたがる
理由次第で善悪の判断が変わる
そんなのおかしいこと

やっぱり私は凶悪犯罪と呼ばれるものであっても、なぜか自分のことを言われているみたいになる。
なんでだろうね。

犯罪は悪い
それは確かな事実なのかもしれないけれど

それを超えた何かをいつも感じて
テレビを見ているよ

私の感想はそんな感じ
浅くてごめん。。。

由羽 | URL | 2008年09月12日(Fri)03:07 [EDIT]


神なき世なのですね。
神というのは、特定の神を指しているわけではなく。
神聖な存在。自己を超越し、自己を支配するなにものか。普遍的存在。絶対的存在という意味でですけれど・・・。
人間は、怖れを抱いて生きてきました。
自分の行いや罪について、裁きを受ける。
天罰のようなものを心のどこかに抱いて・・・。
しかし、その怖れをなくしてしまった。
そして、自分を絶対視し、自分を神とした。
天をも畏れぬ所業ですね。
最後には、その報いを受けることになるのでしょうけど・・・。

小谷野です | URL | 2008年11月01日(Sat)10:45 [EDIT]


8.
自分の事をどうしようもないと思っている方へ、
自分のどうしようもなさを嘆く振りを止めてください。何も変わりません。
あなたが本当に変わらなければ、その嘆きはどこまでいってもただの振りです。
どうしても変われないのなら、変わらずに出来る最善の道を探してください。
あなたをそそのかす者がいるのなら、その言葉にすぐには従わず、普段の振る舞い等からその魂胆をよく見極めて下さい。

元旦の鏡餅と門松、二月三日の豆撒き等の節分の儀式、
三月三日に草餅を食す事、五月五日に蓬や菖蒲を飾ること、七月七日にそうめんを食す事、九月九日に酒を飲む事、
球を蹴る事、目玉のような的を刺したり射たり撃つ事、その他鬼を調伏する為の行事や儀式を止める事をお勧めします。
多かれ少なかれ祟られます。

何処に行こうと必ず日本に戻ってきてください。この先何が起ころうと日本にとどまり続けてください。
あなたの中の「真心」と「良心」を大切にしてください。

虹の蛇 | URL | 2008年11月01日(Sat)12:36 [EDIT]


こんにちは

「チャンネル桜」をご存知だと思います。

そのチャンネル桜が今、経営の危機に陥っていることはご存知でしょうか?
映像メディアとしては、「保守」「中道右派」の番組として貴重な存在だと思います。

現在「2000人委員会」として、一人1万円の支援を実施していて、
月2000万の予算で今後も放送を継続できるそうです。

毎月1万円が高いと感じる人には、1000円から支援も大丈夫とのこと。

「保守」とはいえ、細かい点では貴殿の思想と違うかも知れません。
が、映像メディアとして広く「保守」の考えを広める手段として
大きな役割をしていると思います。

このほどの「国籍改正法案」の問題性に着目し、YouTubeやニコニコ動画では
数十万回閲覧され、多くの方に認知されたようです。
(無論、多くのブログ主さまのエントリーも大きな役割をしていたのは承知しております)

これをお読みの方々に、賛同いただけると幸いです。
また、ブログ主さまに対しては、ぜひともブログ内で「チャンネル桜」の告知をして頂けると
嬉しく思います。

http://www.ch-sakura.jp/
ちなみに私は「チャンネル桜」とは何の関係もない、ただの有志です。

ブログ主さま、削除してもらっても構いません。
読んで頂いてありがとうございます

マルコ | URL | 2008年12月15日(Mon)22:31 [EDIT]


マルコ様へ

 コメントありがとうございます。最近はコメントのご返事は書いていただいた方に直接ご返事することにしているのですが、マルコ様のコメントへのご返事は特に、ここに記すことにいたします。   

 チャンネル桜の件、よく存じております。二千人委員会の件も知っており、その運動・支援に心より賛同しております。多くの知己とともに、水島社長とチャンネル桜の危機の救済にかかわっております。

 ただ本ブログは論文ブログでございますので、チャンネル桜支援の内容の文章を表面に掲載することは今はすぐにはできない状況でございます。コメント欄及び、私の個人的活動の範囲内での、チャンネル桜の支援ということに限ることにしたいと思っております。マルコ様におかれましては不本意かもしれませんが、私なりのそのような方針での支援としていきたいので、どうかご理解いただければ、と考えております。

 何かございましたら、またいつでもコメント欄あるいはメールアドレスにご連絡いただければ幸いに思います。

N.W(うさねこ) | URL | 2008年12月16日(Tue)00:46 [EDIT]


ユニークブログ
日本国土国益防衛委員会 武装蜂起歴史研究会
http://erwds7eg8hyt.blog.fc2.com/

健史 | URL | 2011年07月23日(Sat)19:14 [EDIT]


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| | 2012年11月22日(Thu)13:48 [EDIT]


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| | 2013年01月18日(Fri)04:28 [EDIT]


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| | 2015年07月29日(Wed)21:06 [EDIT]


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| | 2015年09月03日(Thu)22:21 [EDIT]


 
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