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21世紀の政治「敵」について


 論壇誌がつまらない、売れないという言説をよく耳にする。実際、多くの論壇誌が休刊を余儀なくされている。だがこうした批判的な言説を正しいものとして鵜呑みにすることにも私は賛同する気持ちになれない。今の論壇誌がつまらない、売れない、という諸氏の言説の何割かに、「おもしろく」「売れていた」頃の論壇誌に戻れば、ふたたびよき論壇誌の時代が復古するだろう、というような楽観主義が見受けられる。しかし私には、そうした「楽観主義的批判論」にはとうてい組する気にはなれない。
  たとえば、 左右の政治的言論対立において、保守派言論人の多くは依然として、共産党や日教祖に「反ナショナリズム」を見出す。ところがたとえば昨今、論壇誌で、雅子妃をめぐる論争というものが保守派的な陣営の方から提出され、そののち華やかにおこなわれ、それは今もある意味において続いているといえる一つの状況がある。私本人としては、雅子妃問題についての事実論争、価値論争に大いに関心はある。しかしそうした論争的意味をいったん別にして、この論争をやや遠距離から眺めてみてまずいえることは、この雅子妃の問題意識というものが、従来の左右対立というものと異なっているものから提示されているということである。
 「敵」という概念がある。だが「敵」という概念がいったい何であって、そして「敵」がいったい何処にいるのか、ということは、わかりやすいようにみえて、実はたいへんな難問なのである。たとえば、孫子の兵法以来の重要な戦史の原理の一つに、「敵なるもの」が明確である敵に対しては、準備さえ怠らなければさほどおそれるに足りない、という原則がある。戦史的に言えば、むずかしいのは、敵に対しての準備よりも、「敵なるもの」を見定める認識力を備えるであって、正しくいえば、この認識力をもつことこそが政治の延長である戦争、そしてもちろん、政治そのものにとっての最重要の準備であるといえよう。
 この最適でわかりやすい例の一つは、第二次大戦のときのアメリカである。アメリカにとって日本は確かに「手ごわい敵」であった。しかし戦後しばらくのアイゼンハワー大統領が岸首相に嘆いて言ったというエピソードが語っているように、アメリカに擦り寄ってきた中国の方がはるかにアメリカにとって本質的に厄介な敵であり、文明的にも理解をはるかに遠くせざるをえない存在であった。しかもその中国が共産帝国化してしまったのである。アメリカは「親しい」ということの意味を間違えたことによって冷戦という難問の時期を背負ってしまったといえる。
 これは国際政治から国内政治、あるいは、個人的な人間関係にまで共通して言うことのできる原則である。「近い」ということは「親しい」ことをまったく意味しない。哲学者ハイデガーは「接近は謎だ」と言ったけれども、この言葉は、政治の世界の比喩としてもまったく該当する。「敵らしい敵」に対しては、人間も国家も自然と平生から警戒態勢をとる。がしかし、「敵らしくない敵」に対しては、警戒態勢をとらないという自分自身の認識力との闘いが待ち受けているのである。

 皇室問題に話を戻せば、従来の保守派的思考では、「皇室を守ること」が従来の唯一の政治的結論であった。けれど、そうした思考法は、アメリカの誤謬と同じような、非歴史的思考だ、といわなければならない。保守派が考えるような伝統破壊的傾向というのは、共産党や日教祖的のような「敵らしい敵」ではなくて、もっとも守るべきものだと思っていた「親しい」皇室そのものから生まれる可能性がある、という発想がそもそも正しかったのである。
 これは皇室の歴史を少しでも追えばまったく明瞭なことなのだけれど、しかし近代史しか見ない大概の保守派も進歩派はこんな簡単なことを見落としている。皇室・公家勢力が源平の武家勢力に敗退と後退を余儀なくされた最大の要因は、「皇室の敵」である武家勢力の「敵意」にあったのではない。後白河法皇はじめとする皇室・公家勢力の政治力の貧困さ、敷いていえば、「日本史」の波長にあわせようとする政治力の欠如、皇室内部に巣食っていた「思想」こそが皇室の勢力を弱めてしまったのである。「皇室の敵」は皇室内部に、見えにくい形であったのである。これは南北朝時代の皇室にもあてはまる。宋学の悪影響をうけて、中華皇帝型の皇帝支配を目指した後醍醐天皇の思想そのものが実は、「皇室の敵」だったのである。
 あらためていうならば、雅子妃問題についてのジャーナリスティックな論争には、様々な結論があってしかるべきであろうが、それを別にして、「敵なるもの」がいったい何処にいるのだろうか、という政治的発想の本質という面に関していえば、非常に有意義なものだったといえよう。雅子妃が抱える戦後民主主義的思想が「皇室の敵」なのかどうかということで、保守派内部はおおいに論争しあった。繰り返そう。「敵なるもの」は見えにくい形であるからこそ敵なのである。

 「見えにくい形での敵」を見出すためには、認識というものは常に一つの枠組みの中でしか成立しない、という原則に立ちかえる一種の知的訓練が必要であるといえよう。たとえば私たちが大好きなお月見であるが、私たちは「月」というとき、月を見ながらの様々な人生的回顧、過去の文明での膨大な文学的表現、月開発の科学上の出来事、月をめぐるデータ、そうした様々な「月」を巡っての想念が統覚されて、「月」という概念を言うことができる。だが、たとえば地球にはじめてきた宇宙人と月について話そうとすれば、私たちはたちまち、自分達の中での「月」という認識の枠組みがまったく役に立たないことに気づくであろう。「月」そのものということを、嫌がおうでも想起しなければならなくなる。「敵」ということを認識することも同じである。「裸の対象」に向いあう知的訓練ができていなければ、私たちは、私たちの中だけの「敵」にしか出会えないであろう。
 ここ10年来、政治選挙がおこなわれる度に、「55年体制の終焉」ということを、お題目のように言う候補者がたくさんいる。最近はそういう候補者も少なくなってきたかもしれないが、私にはこうしたわかりのよすぎる主張には、まったくリアリティを感じられない。哲学者の内田樹は、「わかりやすいことはもっとも大切だけれども、わかりやすすぎることはもっとも警戒する必要がある」、といったけれど、これは政治的言説において特にあてはまることだといえる。「わかりやすすぎること」の流通は、私たちの感性を鈍感にして、認識の枠組みを保つことにしか資しない。
 「55年体制の終焉」を言う人はもちろん、「55年体制」すなわち自民党と旧社会党の保守革新の二大政党制のシステムが終焉したのだ、といいたいのであろう。しかしまずもって、「55年体制」というものが、ある瞬間に滅んでしまったのか、それとも次第次第に滅んでしまったのか、「終焉」の意味がわからない。たとえば、私の見たところ、今の民主党には、旧社会党勢力がおおぜい存在しており、「終焉」はしていないようにみえる。
 人間性というものをリアルに考えれば、人間は往年時の挫折を、老年時に再び取り戻そうとする。歴史が喜劇や茶番をもって繰り返す、とは(生理的に私がとてつもなく嫌いな)カール・マルクスの数少ない正しい言葉であるが、これはすなわち、「終焉」という言葉を、政治や歴史の世界では非常に気をつけて使わなければいけないことを示している。少しも終わってはいない。終わりそうにみえればみえるほど、「55年体制」に依存しなければならないというパラドックスが明瞭になるだけである。要するに、「55年体制」という認識の枠組みはまったく継続してして、新しい時代の到来の発見などは、まったくありえないのである。
 おそらく、「55年体制の終焉」を叫ぶ人にとって、そんなことはどうでもいいことなのであろう。「終われば新しい何かが始まる」という、ノーテンキな楽観主義によって、無意味なスローガンを繰り出したいだけなのである。しかし単にそれだけだとしても、その単純な行為そのものが、私にはさらに意味がわからない。55年体制というのは、自由主義体制と社会主義体制という二元論的対立によって観念的にも現実的にも成立していた。片方を狂信している人にとってはそれは二元論ではなくて一元論なのかもしれないが、とにかくそういう枠組みがあって壊れたのなら、新しい枠組みの可能性を提示することによって、「終焉」は一つの概念たりうる。その概念の提示の試みの思想的作業が、世界のいたるところで、あまりにも貧困である。「終焉した後」はどうなるのか?それを説明してから「終焉」を叫ぶのが、本来の人間の表現の常識というものではないだろうか?
 社会主義の残党がいるからそれを整理するまでは自由主義陣営や保守主義的主張の勝利などとはいえない、という主張は、もちろん、現実的には正しい面を含んでいるとは思う。だがしかし、残党を摘発しおえたのちはいったいどうなるのだろうか?そのビジョンを提示しながら、残党の批判や摘発をおこなうべきなのでないだろうか?それをしないからこそ、たとえば保守論壇誌についていえば、全体的状況は10年前や20年前に比べればはるかに「有利」になってきているにもかかわらず、議論そのものは覇気を失い、衰退や休刊を余儀なくされているのであろう。「自由主義社会を保持せよ」「保守主義を守る」といっていることは、皇室を守れさせすればそれが伝統主義そのものであると錯誤している旧来的な保守派と大差はない。見えにくいところに敵があるのだ、という歴史的思考法がここにも不在である。
 
 以上のことをふまえて、私は、従来的の政治的認識の枠組みから抜け出した、まったく新しい「左翼」の概念の一つを提示し、それが果たして保守派の「敵」たりうるか、ということを吟味してみたいと考える。そのことを語る上でのキーワードは、「マーケットメカニズム」ということである。 
 かつては、マーケットメカニズムというものは、反社会主義というただ一点の共通点において、自由主義陣営や保守主義的主張の親しい仲間であった。しかし、マーケットメカニズムというものの思想的位置づけというものは、実のところ、そう生易しいものではない。
 たとえば「アナーキズム」という思想分野がある。アナーキズムというと、社会主義とさして変わりのない過激な改革思想だ、というふうに思われる方が多いかもしれない。しかし「アナーキズム」というのは非常に広範な意味の射程をもった思想である。
 たとえば昭和初期に顕著であったけれど、近代国家に激しく反抗して、社稷をはじめとする農村共同体を保守しよう、という社稷主義という「古い」思想も、アナーキズムに含まれる。権藤成卿や萩原恭次郎といった社会運動家や詩人がこの社稷主義的アナーキストに含まれる。権藤や萩原は、天皇制を基本的に全面承認する。しかし、その天皇制は、古代日本、農村共同体と一体化していた天皇制度であり、そこから乖離した近代天皇制度は拒絶するのである。社稷主義的アナーキストの中には農本主義的右翼へと傾斜するものも非常に多く、権藤に至ってはは5・15事件に関与を疑われたほどであった。
 マルクス主義的社会主義が実のところ、近代国家の枠組みは少しも疑っておらず、その枠組みの上に、ユートピア的世界を夢想しているのに対して、アナーキズムにおいては、この社稷主義的アナーキズムに典型的にみられるように、近代国家批判という主題を、アナーキズム一般が共有していることがいえるのである。このように多様な面をもつアナーキズムの一角に、マーケットメカニズムを万能的存在とみる、アナルコ・キャピタリズムという思潮が存在する。私はこのアナルコ・キャピタリズムの思想こそが、21世紀の最大の左翼思想になると考えている。アナルコ・キャピタリズムを一言でいえば、商人と資本家のユートピアということに他ならない。

 アナルコ・キャピタリズムの思想そのものを理解することは、体系的にはきわめてむずかしく、アナルコ・キャピタリズムの思想の源流をどこに求めるかについては、思想史的に諸説ある。アナルコ・キャピタリズム的アナーキズムについて、思想史家の浅羽通明は、19世紀中期のアメリカに生じた、ジョザイア・ウォーレンたちボストン派という奇妙な思潮グループに着目している。このボストン派のアナーキズムは、ヨーロッパのアナーキズム思想とまったく異なり、国家や社会などの全体的価値観に、少しの優位ももたせない、徹底した個人主義思想を提唱し、その先に、無政府主義的資本主義社会を描く。現在でも、アナルコ・キャピタリズムの主張者が世界で集中しているのは、アメリカである。もちろんそのことは、アメリカの左翼が日本やヨーロッパのように、マルクス主義的傾向をあまりもっていないことも大きく関係しているといえる。
 しかしながらこのボストン派の思潮は、明治期以降の日本ではほとんど知られることはなかった。これはボストン派の思潮の無名ということ以上に、明治以降の日本の思想哲学が、アメリカにはあまり目を向けてこなかったことにも起因するといえよう。しかしヨーロッパにも、ボストン派の思想にきわめて近い主張をした思想家はいないわけではなかった。その1人に、マックス・シュティルナーがいる。
 私が注目すべきだと思うのは、このシュティルナーの無政府主義的個人主義は、アナルコ・キャピタリズムの支柱になると同時に、引きこもりやニートや精神的鬱の時代の感性に、非常に合致してしまう面があるということである。私にいわせれば、マルクスなど今や少しも「危険な思想家」ではなく(共感する若者はいないであろう)シュティルナーの方がよほど「危険な思想家」であるように思う。

  このシュティルナーの影響を受けた近代日本の重要人物に、戦後派文学の理論的指導者の1人であった埴谷雄高がいる。埴谷という人は非常に独特な思想的軌跡をたどった人物で、青年期、まずいったん、シュティルナーに心酔し、アナーキストになる。その後、レーニン主義に傾斜して、アナーキズムからマルクス主義に「転向」し、共産党に入党する。ところが思想犯として獄中で逮捕されると、獄中でカントを読み、その徹底した「個」の思想に激しい感銘を受けると同時に、カントの思想に、スティルネル的アナーキズムを見出し、今度はアナーキズムに再転向するのである。アナーキズムとマルクス主義の間で揺れ動いた埴谷は、マルクス主義と自由主義には共通する「近代国家」があって、アナーキズム特にシュティルナー的な個人主義にはそれがない、という視点を確保していったのである。
 戦後の埴谷は小説家として活躍しつつ、マルクス主義の硬直性を終始批判しながらラディカルな左翼的言論人のポジションを保ち、しかし資本主義の繁栄は疑問を持たずに楽しむという、一般人からすると理解しがたい思想的な推移を示した。彼こそは、「資本主義も個人主義もを肯定しつづける左翼」の代表ということができるであろう。
 たいへん面白いのは、埴谷が青年時代、獄中で、社会主義からの転向を強制されたとき、「天皇についてなんでもいいから肯定してくれれば釈放する」という官憲の言葉に対して、「宇宙が死滅するまでに人類は死滅する。そのときまでに天皇制はつづくかもしれないが、宇宙の死滅の後はつづかないだろう」というふうな上申書を書いて釈放されたことである。この埴谷の言葉ほど、アナルコ・キャピタリズム、すなわち無政府主義的資本主義の性格をよくあらわしている言葉はないといってよい。
 近代国家としての「日本」が取り払われること、それによって、「個」の完全な自由と確保を目指すこと、これが無政府主義的資本主義の目指すこところなのである。天皇制批判という左翼的テーマに関していえば、天皇が近代国家が取り払われた社会に適応すればよく、そもそもが批判の対象になるかどうかという問題からはずれる。この完全なる「個」の世界にあって、近代国家原理にかわるものとして登場(というより、すでにあるがより完全化される)ものこそ、「マーケットメカニズム」に他ならない。マーケットメカニズムの万能化によって、近代国家は歴史から退場する。アナルコ・キャピタリズム的アナーキストは、そういう思潮をたどるのである。
 それは左翼資本主義、とでもいうべきであろうか。近代国家は解体されてついには国家そのものが法人化・民営化されていくという、おどろくべき逆説的な反体制的思考。しかしそれは、社会主義などよりずっと身近で日常的に生じうる「左翼」である。「左翼」は階級的労働者ではなく、資本家や実業家にこそ生まれる可能性がある。あるいは、シュティルナーな埴谷の主張にしたがえば、完全な「個」の世界に閉じこもっている引きこもりやニートも、自分達を生かしてくれるものが近代国家ではなくてマーケットメカニズムであると判断すれば、もっとも先鋭な「左翼」になってしまう。
 守るべきものだと思っていた「自由主義社会」「資本主義社会」の中から生まれて、それによって近代国家を瓦解させてしまうのである。まさに守ってさえいれば安心だと思っていたその防護対象そのものから生まれるラディカルな過激思想だということができよう。

 マーケットメカニズムを徹底させていく思考実験の幾つかを少しばかり記してみよう。
 最小国家論を主張したアナルコ・キャピタリストのハーバード大学のノジック教授の主張にしたがえば、警察と民間警備会社を比べれば、先進国の幾つかでさえ、すでに後者の方がはるかに能率的で治安維持に役立っているという。日本においては、民間警備会社の利便性は認識されているとはいえ、まだそれを警察に代替させるべしというほどの警察不信はないであろう。しかし、警察が表面化しない形と規模で買収されるのは世界のあちこちの国で日常茶飯事であって、「治安」への期待は、近代国家からマーケットメカニズムに向けられつつあるという指摘は間違いではない。
 警察と民間警備会社の根本的相違は、一言でいえば「正統性」の蓄積の違いということにある。私たち日本人はあまりにも「国家」という思考法に慣れきっている。しかし、世界でもっとも安定した国家把握をしている日本でさえ、江戸時代から明治期への大変革のときには、近代的警察制度への「正統性」を感受することに、たいへんな苦労をしたのである。近代警察組織をすぐには信用できず、自警団組織に治安を委ねた地域もたくさんあったように違いない。国家そのものの「正統性」をつくることは至難の業である。しかし、個別的機構という面をみれば、「正統性」というのは、つくりだされるものであって、決して不変なものではありえないのである。
 あるいは、財政が完全に破綻している第三世界の国々の幾つかでは、社会福祉をもはや国家が運営できず、インターナショナルなマフィア組織がやっているという。このことも、いくら健康保険制度や年金制度が危機的状況にあっても、まだまだ日本では理解しにくいことであろう。だが私たちはここで、日本の近年の大規模災害で、暴力団的組織が自警団を組織し、必ずしも暴力的行為をするのではなく、公的機関が取りこぼしてしまうような救済事業さえも幾つかしていたことに注目するべきである。私はもちろん、そうした暴力団組織の救済事業をまったく支持しない。だが国家的機構ができず、通常法人もできないような救済を、巨大なネットワークをもった組織がおこなうということは、アナルコ・キャピタリズム的思考の実験としては、たいへん興味深いものなのである。
 マフィアにしても暴力団にしてもその実際は、私たちが日常的にイメージするよりはるかに総合的な組織である。特にマフィアはたいへん広範な力をもっていて、国家と対峙するものさえ少なくない。彼らには様々な秩序や掟があるけれど、近代国家よりはずっと柔軟にマーケットメカニズムに順応しているといえよう。とりわけラテン系国家におけるマフィアは、国によっては準国家的機能を有しているマフィアもたいへん多い。マフィアは麻薬販売のような違法行為もするけれども、しかし食料や衣類のマーケット維持などについても巧みな運営をするマフィアも少なくない。国によっては、マフィアは、裁判機関の代替のようなことさえしている国も存在するのである。
 財政破綻も機構腐敗も進行した国家においては、裁判所も完全に信用を喪失してしまっている。だから被疑者を警察に逮捕してもらって検察に起訴して逮捕してもらっても、まったく公平な応報を期することはできず、マフィアあるいは民間的組織に依頼した方が公平を期待できるという状況が生じうるのである。国会の信用が崩壊することがあっても裁判所の信用が崩壊することはありえない日本ではこのことこそが信じがたいであろう。しかし裁判所への信用というものもまた、近代国家が永遠に独占するものではないことは原理的には認めなければならない。
 日本においてもし、左翼資本主義が多数派になり国家が乗っとられた場合、皇室制度はどうなるのだろうか?アナルコ・キャピタリズムを詳細に分析する先ほどの浅羽通明によれば、国家全体を民営化しようとする論者は、近代国家を解体した後、皇室は、国内最大の宗教団体の教祖として存続すると考えるに違いない、という。皇室を階級的として過酷な運命に追いやることを考えるようなマルクス主義者のような「古さ」を、左翼資本主義者たちの革命思想はもたない、ということであろう。 
 こういうふうに記述しながら、私は記述すればするほど、こんな社会などありえない、変だ、と激しく訝しく思う自分を感じていく。それでいいのである。私は、21世紀の左翼、すなわち自分の思想的「敵」なるものとしてこの思潮を説明しているのだから。 
 アナルコ・キャピタリズム、左翼資本主義の性格を語ろうとすれば、幾ら紙幅があっても足りないであろう。近代国家という思考法に今のところは慣れている日本人にとってはあまりに奇抜で、それを解説する私も語るほどにその新奇さに取りつかれていってしまう。取りつかれていきながら、それを読まれる方のほとんども、「変だ」という感じをもたれるに違いない。警察や裁判所が民営化される社会など、今の日本で想像するのは不可能であるし、それが自然である。民主党左派や共産党・社民党といった「左派」に、国家機構全体を民営化せよ、という主張はみられない。逆に、国家による救済の役割の増大を主張しているということで、日本の左翼は依然として二十世紀的な古さを脱していない。これは論壇誌にあらわれる言論人の左翼性においても同様である。

 だが、その状況の根幹は、先年の世界的金融恐慌で一変しつつある、というべきであろう。
 先年来の金融恐慌以来、アメリカ政府が異常なほどのレベルで開始したドル国債の天文学的発行という事象を、私は、「ドル時代の終焉」というような、既存のパラダイム内の出来事というふうには、到底認識できない。
 アメリカ政府が強行していることは、一見すると、政府介入を是とするケインズ主義への回帰のようにみえる。しかしそうした認識は間違っている。そのほとんど無限大に向かってすすんでいくがごとき財政拡大の規模は、確実に完全破綻を迎える。つまりアメリカが歩もうとしているのは、国家の完全な破綻のプロセスに他ならない。アメリカのドル破綻は、一つの国家の財政破綻というようなものではない。
 その破綻がいずれ訪れたとき、欠点が爆発した近代国家を、果たしてアメリカ国民はどう扱うのか。巨額の税金出動をもってまで、近代国家を「救済」しようとするのだろうか。私には必ずしもそうだ、とは思えない。「財政破綻」も「救済」も、すべて、近代国家の枠組みを破砕するような形での意味のそれらの概念に化したものが出現するときに、近代国家の先端を走るアメリカに、今までとはまったく違った反体制的イデオロギーが出現する可能性は充分にありうるといえよう。近代国家への信用度は近代史において最低に近づいている。反面、マーケットメカニズムへの依存は、最大に高まりつつある、ということができるだろう。
 破壊的社会主義や観念的平和主義の主張は明瞭なものであったから、それを嗅ぎつけて、指摘糾弾することは容易であった。絶対的イデオロギーという「神々」を設定しておくことは、ある意味で私たちを考えやすくしていた。しかし「それはマーケット的に成立しないことなのだ」と私たちがいう言説そのもののうちの何割かに、近代国家や近代精神を瓦解させる、おそろしい破壊思想が宿っているのかもしれないという思考法に直面するとき、私たちは「見えない敵」に直面する。その「見えない敵」というものになんとなく気づきながら、しかしそれを明確化することがなかなかできず、結局のところ、20世紀的な古い政治対立図式に後退するところに、現在の論壇をはじめとする政治的言説の閉塞や衰弱の根源的理由があるのは明らかであるように感じられる。
 守るべきものだと思い込んでいた自由主義や資本主義の社会にこそ「敵」があるのだ、という歴史的思考法に加えて、私たちの存在や言葉の「間」にこそ、最大の敵があるのだ、という思考法に私は慣れていないのである。言い換えれば、「政党」や「個人」に、政治思想が宿っているという公式を修正しなければならないかもしれない。それほどの魔的な、そして見えにくい力をもっているもの、それがこの左翼資本主義という思潮なのであると考える。こうした思考法の転換こそがそれこそが20世紀的思考と21世紀的思考の分水嶺なのであって、今の私たちがその転換期にさしかかっているのだ、と考えれば、いろんな現象に納得ができる、と私は思っている。






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コメントコメント


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社会主義体制が崩壊し、所謂、左翼、反体制勢力が力を失ってきた。
かつての反体制や反権威闘争というのは何だったのかという空虚さがありますね。
結局、教条主義的な思想であって、本当の意味での独自性がなかった気がします。
思想や哲学がいずれの陣営にしても明確な敵を見失い。
虚しく彷徨っている様に思えます。
それは、現代の政治状況にも反映されている。
争点がなくてその場の雰囲気に流されている。
しかし、確実に歴史は変わろうとしている。

小谷野です | URL | 2009年07月16日(Thu)16:37 [EDIT]


「蒼き星々掲示板」様から転記:情けない政治家にカツを!民主党にメールを!

「蒼き星々掲示板」様から転記:情けない政治家にカツを!民主党にメールを!
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情けない政治家にカツを!民主党にメールを!
投稿者:金木犀 投稿日:2009年 7月16日(木)22時59分19秒 返信・引用 編集済

<貨物検査法案>の審議に応じない民主党!
民主党には、たくさんの拉致議連の議員がいるはずなのに、審議拒否に対して、異論を唱えないのでしょうか?

民主党の拉致議連議員には、力がないんですか?
それとも、名前だけの議連、バッジだけの免罪符ですか?

自民党も、醜い。
看板を次々変えて、自分たちで撰んだ代表を誰も支えない。みんなで貶めることばかり考えている?

次の総裁に誰がなりたいんでしょう?
誰がやっても、また、貶め、<下ろす>だけなんですね。
それぞれの議員にも、現在の状況に対する責任は、あるんですよ!

責任逃れの政治家ばかり、看板を変えたとしても、あなた達が、支えしっかりサポートしなければ、同じ事の繰り返しです。

現在の日本の状況を、にんまり眺めているのは、北朝鮮ですよ。

国連に訴え、世界に協力を求めているのに、日本が、この法案を通さないのであれば、どこの国が、協力してくれるんですか?


本質的に、拉致問題は、日本の問題です。
外国は協力の姿勢をみせるだけです。
実質的な行動をあてにしてはいけないのです。

日本が主体的に動くべきなのに、当事国が、他国頼みばかりで、なにもしないのだったら、同情さえも、得られなくなりますね!


家族は、今日集会の前に渋谷で訴えたそうです。

いつも、いつも、母国日本に裏切られる横田早紀江さん・・・

きっと眠れない日が続いているはずです。
その想いを、くみ取れない政治家ばかり・・・

以下ある方のメールに対する民主党の回答です。

――――――――――――――――――――――――――――――――

■表題:民主党です 貨物検査法案について
■回答内容:

ご投稿をいただきありがとうございます。
ご指摘の通り、直接的には「問責決議可決=審議拒否」によ
って、貨物検査特措法案が廃案ということになるわけですが、
不信任決議案や問責決議案の提出前から、与党幹部に14日に
「解散する」と伝えていた麻生首相には、今国会でこの特措
法を成立させるとの意気込みは見られませんでした。
民主党は特措法案に対する賛否を正式決定しておりませんが、
国連安保理決議の採択を受けて、国内法の必要性を訴える談
話を発表しております。
http://www.dpj.or.jp/news/?num=16223
民主党など野党が潰したと、お叱りを多数いただいておりま
すが、早期解散を与党幹部に示していた首相の責任も大きい
のではないでしょうか。
そして、不信任決議ではありませんが、参院での「首相問責
決議」は「麻生さんを総理大臣として認めません」との意味
を込めておりますから、決議を突きつけた麻生さんを相手に
審議をすることの方が異常なのです。
民主党の政策・方針もご理解いただきますようお願い申し上
げます。

-----
 民主党本部 ご意見メール担当
――――――――――――――――――――――――――――――――

この回答を読んで、自らの目標=政権交代のために、北朝鮮問題=<貨物検査法案>が成立しないのは、麻生政権のせいだと、責任転嫁!

そもそも、この法案は、日本か国家として世界に訴えている北朝鮮制裁のための法律です。
民主党が、主体的にこの法案を通すように積極的に動いても言い案件です。


家族が泣いています。

被害者が、泣いています!

 

先日も、秋田から、特定失踪者家族の訃報が届きました。
群馬の山下さんも、亡くなったばかり・・

日本は、こうして家族が1人1人亡くなっていくのを、唯眺めているだけなのでしょうか?

みなさん、せめて、メールしてください!

◆ 民主党に、『<貨物検査法案>成立に、協力せよ』 というメールを   ◆ 送ってください。

https://form.dpj.or.jp/contact/

http://www.dpj.or.jp/header/form/index.html


↑↑↑から、送れます。

モバイルは、こちら→ http://mobile.dpj.or.jp/form.html

拡散、転載大歓迎です。


拙サイトもよろしくお願いいたします.

フォルダ:保守運動はいかにあるべきか

http://bluefox-hispeed.iza.ne.jp/blog/list/folder/41901

ブルーフォックス@「蒼き星々掲示板」様から転記:情けない | URL | 2009年07月20日(Mon)08:57 [EDIT]


生存権・・・?

生存権を守れずして何が国家か
と前に書きました。私は
この権利に特にこだわっています。
生存権:(1)生物学的生存権
(2)存在権:尊厳を持って生きる権利
(3)生活権:目的や生き甲斐を持って
  生きられる権利
理想としてではなく実際に
生存権を守れるか
という観点から考えてみると、
ある程度、様々な主義主張の
無理や嘘も見えてくるような気もします。
国家は組織だから
生き甲斐を直接与えることは出来ない。
しかし(1)~(3)の土台を作ることが
国家というものの根本ではないのか。
自由・人権・内政・外交あらゆるものが
生存権に関わっており、
生存権が前提である。私は
国というものの根本を
そこから考えて見たいと思うのだが、
はぁ・・・。(嘆息)
国が強制力のみによるのであれば
財源が・・・財源が・・・
ということになる。
福祉のための献金など
自主的なものを考えれば
国民、特に富裕者の大半が
善人で博愛精神に満ちていなければならない。
たとい無駄であっても、試しに
その精神性を問うてみる政治家は現れないのかと、
甘くてユートピアだなぁという気持ちとともに、
一縷の、そして恐らく最後の、人類への期待を
人類の存続に託してみたいわけであります。
そして、その結果、どの主義主張も信頼できず、
どれにも組することが出来ないという現状です。

※(1)~(3)ですから
独裁国家における「逆らわなければ
食わしてやる」といったものは
生存権を守ることにはなりません。

今回は難しかったです。私のコメントは
幼稚で、まとまりませんでした。失礼。
生存も財源も危うい戸田聡より 不具

戸田聡 | URL | 2009年07月23日(Thu)12:16 [EDIT]


念のため

補足として:
基本的には私は
前コメントの生存権を守れるのなら、
どの主義主張でも好いし賛成です。
しかし(!)総ての制度・機構・機関を
民営にするということになると
生存権どころではなくなると思っています。
民間は営利目的の組織であり、
そういう組織・団体が財源を握ることになる。
そうでないものが一時的に生まれたとしても、
結局、自主に任せれば、そうなるだろう。
そうなると、いよいよ、人は篩に掛けられ、
自然あるいは人為的な、
野放し~野ざらしの、
「淘汰の時代」になるでしょう。本格的な
「姥捨て山」と「人食い」の時代になるでしょう。
効率とかの問題ではない、恐ろしい時代です。
そんなことは分かっていると言われそうですが、
一応念のため書いておきました。
          戸田聡 不具

戸田聡 | URL | 2009年07月23日(Thu)12:58 [EDIT]


敵とは?

>「55年体制の終焉」を言う人はもちろん、「55年体制」すなわち自民党と旧社会党の保守革新の二大政党制のシステムが終焉したのだ、といいたいのであろう。しかしまずもって、「55年体制」というものが、ある瞬間に滅んでしまったのか、それとも次第次第に滅んでしまったのか、「終焉」の意味がわからない。たとえば、私の見たところ、今の民主党には、旧社会党勢力がおおぜい存在しており、「終焉」はしていないようにみえる。


上の部分が気になりました。
NW様が敵視しているのは、
よく分からないけれど、ひょっとして
誕生するかもしれない民主党政権
のことなのでしょうか・・・???

自民党も民主党も私は
敵とも味方とも思っていませんが・・・
むしろ私にとっては、
既にご存知かもしれないが、(苦笑)
1.核武装推進派
2.改憲派
3.確率の値を以って、あるいは恣意的に、
 原発の安全性を断定的に主張し
 広めようとしている人々
4.「脳死は人の死」という前提の下に
 脳死移植を推進する人々
等々、とりあえず、以上の人々のほうが
よっぽど恐ろしいです。
甚だ不十分ながら今のところ以上です。

        戸田聡。不具

戸田聡 | URL | 2009年07月27日(Mon)08:51 [EDIT]


あなたの心の奥底に
あなたは小さく縮こまっているけれど
あなたは、あなたの傍らに、
何かの気配を感じませんか。
あなたが生まれるずっと以前から
あなたを暖かく包み込み、
あなたを優しく見守っている眼差しを
あなたは感じませんか。

あなたが生まれるずっと以前から・・・。

小谷野です | URL | 2009年07月27日(Mon)17:32 [EDIT]


哲学について

最近、数学史を最初から勉強し直しているんですが、勉強し直して気がついたことです。和算は、部分的には、西洋数学を凌駕するほど発達しながら、なぜ、普遍的な域に達し得なかったかという原因の一つが、所謂、学芸の域を出ずに、実用にも、又、対極にある哲学にも結びつかなかったことがあげられると思います。しかし、この事は、不思議なことに現代の政治にも言える。現代の政治を見ていると決定的なのが思想や哲学が欠如している上に、現実性がない。これが、数学のような純粋学問の世界ならば、まだしも、政治というもっとも生々しく現実に関わり、しかも、思想哲学が問われるべきところで、思想や哲学が感じられないというのは、一種のホラー、オカルトの世界ですよね。しかも、それが言論界でまかり通っているとなると、今の日本が成立していること自体が疑わしくなる。まるで、現代日本は、亡霊みたいですね。早く正気を取り戻さないと恐ろしいことになる気がしますね。

小谷野です | URL | 2009年12月07日(Mon)09:33 [EDIT]


『正論』拝読

『正論』掲載の玉稿を拝読いたしました。
わたしは福田恆存の評伝に取り組んでいるのですが、福田的に表現すれば「知識人の自己欺瞞」に対する批判ですね。まったく同感です。
それにしても望さんと『正論』という媒体との結びつきには時の流れを感じました。
『西尾幹二のブログ論壇』にも寄稿されているとか。
ぜひ拝見したいと思います。
最後に、わたしも『日本思想史ハンドブック』(新書館)という本に、福田恆存の保守思想と戦後日本文学について短文を寄せていますので、もし良かったからご覧ください。
またメールいたします。今後の華々しいご活躍を楽しみにしつつ。
川久保剛(元・紀尾井文学会)

紀尾井出身 | URL | 2010年12月28日(Tue)16:08 [EDIT]


川久保さまへ

 コメントありがとう!いやー本当に懐かしいですね!
 
 雑誌の方読んでくださりありがとう。

 とりあえず連絡したいので、ブログに記載してあるメールアドレスに、お時間あるとき御一報ください。

 本当にありがとう。   

N.W(うさねこ) | URL | 2010年12月29日(Wed)20:44 [EDIT]


 
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