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「政治的指導者」とは何か

「政治的指導者」とは何か・・・「戦争」と「平和」を巡る断章Ⅱ


   家康の天下統一・政権獲得のプロセスを少し斜めから追ってみると、二人の「凡庸な人物」がそれぞれ別の形で大きくかかわっているように思えます。一人は関ヶ原の合戦において、彼に勝利をもたらす決定要因をもたらしてくれた小早川秀秋であり、もう一人は、彼の統一事業を愚直に受け継いだ後継者である息子の秀忠です。秀秋と秀忠、この二人の「凡庸な人物と家康のかかわりを追えば追うほど、家康という人間のずば抜けた「非凡さ」をあますところなく証ししているということができるように、私には思われます。
   私達は「凡庸な人物」を「凡庸な人物」の次元でしかとられられない思考法に陥りがちです。これは天才を天才の次元でしかとらえられない、ということと表裏一体です。戦国時代において他に例をさがしてみると、会田雄次さんの「敗者の条件」に、今川氏真という、歴史上、全くゼロ評価を受けている人物に焦点があてられています。今川氏真は私達がよく知っている「凡庸な人物」の代表例といえます。
   言うまでもなく氏真は今川義元の息子なのですが、信長に討たれてしまった父の義元の芸術的性格のみを受け継いでしまった氏真の、その後の不思議な物語は、果たして悲劇的なものなのか、喜劇的なものなのか、これはなかなか判定できないところがあります。
   義元の死によって一時的に打撃を受けたとはいえ、実は今川家の軍事力と経済力は無傷に近く、いくらでも再建と反攻が可能だった。今川家の傘下にあった若き家康(松平元康)は、信長への反抗を諫言するけれど、家康はとうとうあきらめて、信長についてしまいます。いっさいの政治的状況に無頓着のまま、氏真は足利義政を模範とするかのような、風流の道を選択し、今川家はたちまち衰弱滅亡し、10年とたたぬうちに、今川家はおろか、氏真の消息も行方不明になってしまう。時は流れ、秀吉の天下の時代になり、秀吉と家康が京の街を視察散策していると、家康の耳になんとなく懐かしい、琴の音が聞こえてくる。その琴の音は、この世のものとはいえないほどの美しさで、果たしてこれほどの名手は古今東西いないだろう、というほどです。褒美をとらそうと思いその人物を連れてこさせたとき、秀吉も家康も驚愕してしまう。その音を奏でる琴の音の持ち主、それは流浪者の身に成り果てた氏真であった・・・という話です。
    家康と氏真の再会の話は、物語伝承化されてしまっている面もなきにしもあらずでしょうが、家康が関東転封以降、小規模ながら今川家を再建させたのは歴史的事実で、家康は人質に出されていたとはいえ、家康らしい巧みな気配りで、品川家と名前を変えさせて氏真を住まわせたのですが、それはともかくとして、会田さんが伝えるこのエピソードは、いくつかのことを私に考えさせます。
    これは悲劇なのか喜劇なのか。たとえばこういう比喩は安易かもしれませんが、今川家を現代の大企業家や政治家と考え、その家系に、その家系が求める能力とは別個の能力を有した天才的芸術家が現れ、あくまで我を通して、その道を極めようとした、という話は、私達の常識からすると、どちらかといえば美談の類に入るといえます。時代差を認識できなかっただけなのでしょうか。
    前近代社会にせよ近代社会にせよ、自分の能力とおかれている状況の「ずれ」に苦しんでしまう人間はいます。しかしそのすべてが「ずれ」たまま、というわけでもありません。たとえば、凡庸な人物でありながら、時代状況のキャスティングボードを握ったり、あるいは時代の趨勢を担う人物になることはある。そこに「凡庸な人物」を巡る歴史の大きな逆説があるのだ、ということができます。氏真が「凡庸な人物」として、歴史的人物としては転落を遂げてしまったのは、彼の政治的凡庸さを引き出したり利用したりする非凡さが、状況に欠如していたことを意味するのではないでしょうか。氏真の物語は、彼の才能や存在が時代差の賜物だった、ということではなくて、彼の存在、とりわけ政治的な凡庸さを、非凡な結果へと作り変えてしまえるような第三者の存在が認められない、つまり氏真の存在の孤独さ、凡庸な人物が凡庸な人物として終わってしまったということに求められるのではないでしょうか。喜劇か悲劇かということならば、それはある種の悲劇であったといわなければならないように思われます。
   話を秀秋と秀忠に戻しましょう。
   今川氏真は歴史的人物・・・キャスティングボードを握った人物という意味での歴史的人物・・・ではないですけれど、この両者、秀秋と秀忠はその氏真と明らかに違い間違いなく、日本史の展開の重要局面にいて、重大な決断や判断をくださなければならない立場にいた人物といっていいでしょう。
   いうまでもなく、関ヶ原の合戦で、秀秋が約束通り裏切るかどうかの決断は、その後の歴史的方向を明らかに左右しています。秀秋の裏切り行為がなくても、徳川家が滅びるというところまではいかないでしょうが、少なくとも、すんなりと江戸幕府が出現したとはとうていいえない。秀秋にはその意味は皆目見当がつかない。秀秋という人物は、秀吉の正妻であったねね(北政所)の甥にあたる人物で、当初は秀吉の養子に迎えられる予定の人物でした。これは秀吉の甥の秀次も同様なのですが、秀頼の急な誕生により、秀次は粛清され、秀秋は小早川家に養子に送られます。
   多くの歴史風評は秀秋を愚昧な人物と言いますが、歴史作家の童門冬二さんは、その風評が間違いであるとし、「神童」とさえ言われている子供だったと指摘しました。しかし「神童」が政治的能力をもっているとは限らない、とも童門さんは言います。政治的「神童」ではなかった秀秋は、10代にして、豊臣家の激しい後継者争いに巻き込まれる中で情緒不安定に陥ったのだ、つまり政治的能力が育成される前に、精神的混乱に直面してしまったのだ、というのが童門さんの指摘です。なるほどと思わせるものです。いわゆる「神童」が、凡庸な人物に転落するということは歴史上も、私達の日常的現実においても多々見られることですが、どんなことでも易々と飛び越えてきた天才的人物がハードルを踏み外し、不意に凡庸な人物のレッテルをはられてしまうのは、政治の世界への跳躍の場合が最も多いのではないだろうか、と私には思えてきます。こうして関ヶ原の当日、神童から凡庸に不意に転落した21歳の彼が、歴史的な場面を迎えることになるわけです。
  ここにおいて、「天才」と「凡庸」の不思議な交流が始まることになります。千里眼の如き人物眼を養ってきた家康の眼には、秀秋の性格も、秀秋の決断がもたらす意味も、わかりすぎるくらいわかっているのです。秀秋の臆病に期待しなければならない。凡庸な人間は、たとえ歴史的雰囲気が頂点に到達しているような場面にあっても、その雰囲気とのかかわりをもつことができないという、何かしらの関係性の欠如ということによって、凡庸たりうるのです。家康は、催促の鉄砲の一斉射撃を秀秋の陣に撃ち込むという、この歴史的場面に相応しくない「凡庸な人間」をコントロールするにふさわしい、実に歴史的場面にふさわしくない凡庸な脅迫的行動をあえて選択した、ということなのではないでしょうか。
   東西両軍のどちらが勝つかを臆病で情緒不安定に眺める秀秋に対しては、大義名分はもちろんのこと、もはや恩賞約束の再確認も、もしかしたら、どちらの形成が有利だ、ということもわからなくなっている可能性が高い。西軍の総大将の石田三成は、戦場での法的ルールである狼煙をあげさせて催促したり、ギリギリの状況下で、側近に「金吾殿(秀秋)は今こそ、行動を起こすべきだろう」などと美的な正論をいう「相応しい行為」を行ない続けています。三成の行動は家康と全く対称的で、秀秋への扱い方の相違が、関ヶ原の合戦の結着を左右した、ということができるでしょう。エリート官僚的な、能臣だが政治家ではない三成には、「凡庸な人間」への扱い方が、どうしてもわからない。人間そのものを観る目は欠如してしまっている、としたら、言いすぎでしょうか。「凡庸な人物」というのは、利益利害にさえ左右されない不安定な存在である、ということを、三成は理解しない。いっさいの政治的能力がないのですから、政治的方法以外しか通用しない、ということを、考えなければならないのです。ですから実は石田三成こそ、典型的な「凡庸な人物」という考え方もできます。
   「凡庸な人物」というのはイコール無能ということではない。多才であるにもかかわらず、政治的能力という難しい能力が欠如している人間のことを言うのであって、抜群の能臣であった三成が家康に破れたのは、石高や軍事力の差異ではなく、三成のただ一面の「凡庸さ」を引き出した、これまた巧みな、家康の「凡庸」へのコントロールがゆえ、ということができましょう。
   後継者の任免としても、家康は、能力的には軍事的政治的に秀でていた次男の秀康と、全く凡庸だけれども愚直であった三男の秀忠の両者を比べ、秀忠を選択しますが、これにしても、巨大な統治システムが完成しつつあった時代状況では、むしろそのシステムに追随するようなリーダーが相応しい、という判断があったから、というべきでしょう。秀忠は小早川秀秋のような精神不安定ではありませんでしたが、政治的に無能であることは全く共通です。しかしシステムが優先する時代は、指導者はむしろ凡庸な人物の方が好ましい、という歴史的逆説に家康はきちんと気づいていたわけです。「凡庸な政治家」自体が政治的悪なのではなく、「凡庸な政治家」を操作できない、介在すべき何かの欠如こそが悪なのだ、ということです。
   こうして家康という人間が使いこなした「凡庸な人間」の扱い方の妙が戦国時代の終焉と江戸時代の始まりを演出することになりました。今川氏真の悲劇を若き日において心得ていたことも、決して無駄な経験であったわけではないでしょう。家康をしたたかという評論は多いですが、私はこの「凡庸」さに対しての介在すべき何か、という知性、役回りということを意識していたことが、家康の凄味であったのではないだろうか、とさえ思います。
    少し長い前置きになってしまいましたが、第二次大戦にかかわる日本の指導者論の多くが、この「凡庸な人物」の責任をめぐり色々と展開されている、という議論の場にいる度に、私はどうしてもこうした、戦国時代の、「凡庸な人物」達のエピソードを思い浮かべてしまうということを言いたいと思います。繰り返しになってしまいますが、「凡庸な人物」は、決して人間全体が凡庸なのではない。状況とのかかわり、かかわりのなさによって、「凡庸」にされてしまう。そして、凡庸さが凡庸さの次元に閉じ込められてしまうときに、氏真のような悲劇になり、凡庸さをコントロールする知性の支配が及ぶとき、秀秋のように思いもがけない歴史的決断をさせられてしまったり、秀忠のように、政治的指導者としてそつなく業績を残すことがありうる、ということになる。そういうふうに、少し斜めに視野を広げて、凡庸か非凡かということを、政治的談義としておこなうべきではないか、と私は考えたいと思います。
     よく流通している歴史談義ですが、明治期の日清・日露戦争の頃は明治維新を成し遂げた人物が残存しており、戦争指導も戦争設計も巧妙であったが、比べて、第二次大戦の頃の日本にはそうした指導者がほとんどいなかった、といわれる。司馬遼太郎さんの歴史観に追随する人達が言いそうなことで、それは間違いなく一面の真実でしょうが、凡庸な指導者に歴史的責任があった、という論は、同時に、その指導者の周囲の政界や国民に、凡庸な指導者を使いこなせるくらいの確固たる知性やシステムが不在であった、ということを意味しているという面もある、と考えるべきではないか。私はそう思いました。凡庸さと非凡さ、この境を思考実験として考えさせる、近代史における大いなる人物の一人をここであげることができるように思います。
    昨年の終戦の日の周辺、テレビや新聞の繰り返された戦争特集で、東条英機氏のご遺族の方々が、スクリーンや紙面に繰り返し登場しました。今年の参院選は、ご遺族の一人が選挙にも出馬されました。すべて、彼がA級戦犯の筆頭ということ、と同時に、戦争突入の責任者だった、ということに起因し、それに対しての賛否ということがこれらの事態を引き起こしているといえるでしょうが、私としてみると、従来的な「東条=悪」論というのは、もはや旧説化といっていいくらいの稚拙な見解であると思います。東条氏のご遺族をあえて出すことによって、その旧説が復活したようにもみえなかったし、しかし逆に「東条=悪」論が決定的に否定された、ということもいえないような何かの奇妙さが「東条さんの復権」を巡る騒ぎにあったように私の目には映りました。東条さんのイメージが逆に掴みづらくなった、と考えるのは私だけでしょうか。東条さんの責任論を言うだけで、戦争指導者としての東条さんの実体があまり議論されていない。実はそのことが、「東条さんの復権」を巡っての騒ぎの本質ではなかったのだろうか、と私は考えています。
    「東条=悪」論が旧説化しているということは、「A級戦犯」という概念そのものが連合国側のフィクションであるという面がどうやら国民的コンセンサスとして認識されつつあるという気配、そして「A級戦犯」という概念の成立をもし認めたとしても、東条氏と同等かそれ以上の責任のある人物である近衛文麿(逮捕直前に自殺)や松岡洋右(裁判開始直後に病死)などの諸氏が東京裁判では不在で、その不在の分、東条氏に非難が重くのしかかっている不公平さの面が認識されつつあるということが、大きくその背景にあるといえるでしょう。彼の責任を追及するといっても「責任」そのものが法的に不成立であり、さらに、「責任者」が公平に裁判に登場していない、ということです。
    ですから、中国や韓国が言うような東条批判は、問題外であるといえるでしょう。そもそも、韓国(朝鮮)は1910年に併合されたのですから、「責任」を追及すべきなら伊藤博文など明治時代の政治的指導者を追及すべきであり、また二次大戦時の中国政府は元台湾政権の中華民国で、1949年に成立した中華人民共和国(共産党)とは敵対関係にあったのですから、当時の日本の指導者は「敵の敵」の指導者として把握するのが、論理的である、ということになる。つまり、A級戦犯というのはどう考えても連合国の虚構であるのですが、韓国も中国(中華人民共和国)も、その連合国の一員でもないのに、虚構を言う虚偽に参画しているという二重の虚偽の上に、彼らの東条批判は存在しているといわなければなりません。付け加えれば、1937年に開始した日中戦争を不必要に長期化させたのは近衛内閣で、東条内閣には何も関係はありません。陸相ですらありません。にもかかわらず、韓国でも中国でも、東条氏を悪の根本のように相変わらず政治宣伝している。「悪」が成立せず、「悪」としても他人物の「悪」を背負わされている、ということを明らかにすれば、東条氏は二重に免責される、ということが、東条氏について語るときのスタートライン的前提というべきでしょう。しかしここに至る道は長く、その意味で、ご遺族の心中に同情するということは私は正しいと思います。
    しかし、A級戦犯的な「悪」論は否定できるとしても、もう一つの「悪」論の可能性、つまり、「敗戦」ということについての責任はあるのかどうか、という問題に関しての議論の余地については私達はこれからも東条英機の歴史的意味を真剣に考えなければならない、といえます。つまり「刑事責任」「法的責任」という意味での責任ではなく、「政治的誤判断」としての責任という意味において、東条氏は免責されるのかどうか。
    東条さんを正面から描いた映画「プライド」のある場面をかりれば、東京裁判の弁護士接見で、「東条さん、あなたは日本人と日本民族に対しては有罪です、しかし貴方を起訴する外国に対しては有罪ではない、だからたとえ死刑が確実でも、この裁判を闘いましょう」という清瀬弁護人の言葉の前段に言う「有罪」の意味はいったい何か、ということです。日本人や日本民族にとって「有罪」であるということを判決するのは日本人や日本民族である私達に他ならない。実は清瀬弁護士の表現には考え抜かなければならない曖昧なものが感じられます。東条内閣と戦争突入時の日本の事情のかかわりを考察すると、「凡庸な人間」を操作する知性やシステムの不在としての日本の政治性のなさ、ということが、いろいろと見えてくるように私には思えます。「指導者が不足している」ということと、「指導者を操る術の不足」の関係ということですが、これは当時の日本に限られた話なのではなく、実は現代の日本政治にもかかわってくる可能性のある話なのではないか、と考えることができるように思えます。
     ここで東条英機という人間が、官僚組織の幹部という世界から、「政治」のただ中へと巻き込まれていった当時の歴史的経緯を少し整理してみることにしましょう。
     彼が首相に任命されたのは、日米戦突入のわずか一月半前であり(昭和16年10月17日)対アメリカ交渉は既に決裂寸前の状況でした。ここまでの国際政治的状況の悪化を招いたのは東条内閣以前の内閣の責任、とりわけ近衛文麿(内閣)首相の責任が圧倒的に大きい。もちろん第二次・第三次近衛内閣の陸相としてそれまで約一年、陸軍の対アメリカ強硬論と対ドイツ提携論を主張した東条の責任はあるのでしょうが、それならば、他の陸軍首脳も変わりなく責任があるはずです。この意味において、彼が特に重大な責任を負っていたとは考えられない。たとえばのちに終戦工作で非常な存在を示す、多くの歴史家にとって敬愛すべき阿南惟幾も、この時期、陸軍首脳として、ドイツとの同盟を強く主張しています。もちろんここでいう「責任」の意味は政治的誤判断ということにかかわる意味での責任ということですが、東条一人が政治的誤判断を誘導したり、あるいはそれに追随していたとはとうてい考えられないといえるでしょう。
    士官学校時代から陸相にいたるまでの東条という人物を追ってみえてくる人間像は、福田和也さんの言葉を借りれば、「日本的組織で人望を集める典型的人物」です。今なお、このタイプの人間はいろんなところに見受けられることができ、そして私達日本人の好感を自然に招くということができます。
   天才的直観をもった秀才とはいえないけれど、大変勤勉な勉強家である。しかしその勉強量はきわめて知識的なもので、深い見識を養うものではなかった、といえます。マイナス的に言えば、天才肌の石原莞爾の東条への有名な悪口にいわく、「見識なき東条上等兵」ということになるのでしょう。もっとも、軍人あるいは官僚が独創性を発揮することは近代国家としては好ましいことではないことですから、その意味では石原より東条の方が、軍人らしい軍人、ということもできます。独創的思想家・宗教家のタイプの石原が、歴史上は人気者であっても、もし現在、たとえば自衛隊の組織の中にいたとすれば、私達にはあまり歓迎はされないでしょう。日本人の特性といっていいのかどうかはわかりませんが、軍人らしい軍人、つまるところは役人らしい役人、が好まれる傾向にあるのが日本人の穏当さです。東条という人間を観察するときに、「役人らしい役人」という人生のコース、人間性形成のコースを歩んだ典型的な人間であるというふうにみえる。いうまでもなく、ヒトラーやスターリンのような、革命家的な人生、極端な外れものの人生とは全く対極的な人間であるということができるでしょう。
   当然、満州事変以来、石原自身の意志に反して悪流行してしまった陸軍内の独断専行は東条の最も嫌うところで、2・26事件では、統制派としての派閥意識もあったでしょうが、満州にいた東条は、東京にいた石原以上に、反乱軍討伐派の急先鋒でした。東条が酒色に深入りした気配は皆無で(酒を飲むときは、これ以上飲まないようにと瓶にペンで記しをつけていたというエピソードは有名です)面倒見や気配りには非常に長け、知人の困窮に関しては工面に奔走するなどして部下や近所人に人気があり、家族愛も実に深い人間である。首相在任時、恩寵金を自分の懐に少しも入れず細かく計算して官邸職員にお裾わけしたり、一般家庭のゴミ箱を自ら調べて、配給食料がきちんと行き届いているかどうかを調査把握するところなど、真面目で几帳面な、彼の人物像を伝えるエピソードはたくさんあります。
   しかし長所は同時に欠点でもある。彼はたいへん小心なところがあり、しかも自分の小心を全くコントロールできない面があって、敵対的な派閥や人物の存在を考えると、たちまちいてもたってもいられなくなる。これが実に彼の細やかな気の使い方の裏返しなのです。有名なのは陸軍内のライバルである石原莞爾への苛立ちで、石原の話が出ただけで、彼は何も仕事できないほどに苛立ってしまう。これがのちの、首相時の憲兵隊政治をおこなう精神的な源になってしまったといえるかもしれません。ここにまず一つ、東条という人間の重大な政治的欠点が現れています。
   「情報」を、国家的必要の次元で理解できず、個人的感情の段階でしか理解処理できない。自分への批判が、自分が忠誠を抱く国家の批判と同じに考えてしまう、というのは、軍や団体の指導者としては許容されることであっても、国家指導者としては、ほとんど失格というべきでしょう。東条の憲兵隊政治に関しては彼が一時期、出世コースからはずれて憲兵隊畑にいたことを原因とする説明も少なくありませんが、やはり彼の性格によるものが大きい、といわざるを得ない面があります。こういう人間が国家的指導者になったときに、憲兵隊のような情報組織が、私兵化してしまう必然性があるといるでしょう。情報組織の私兵化というのは、国家組織としてはほとんど致命的な現象だ、といわざるをえないでしょう。
    トータルに考えれば、東条のような人間は、とくに、アメリカとの戦争を目前にした状況では、最も不向きな指導者的人物であるように考えるのが常識的です。いくら大戦前夜の日本に政治的能力の高い人間が少なくなっていたからといって、この東条の政治的能力の欠如を多くの政府上層部が正確に認識していました。東条自身も、東条自身が首相指名に一番驚いたといわれるように、首相の座を狙っていたわけではありません。それでは、対アメリカ交渉が決裂寸前までいったところで無責任に内閣を投げ出した近衛(何度も繰り返しますが、彼こそが最大の責任者です)に代わり、なぜ明らかに政治家としては「凡庸な人物」である東条が後継首相に選ばれたのでしょうか。
    政治史上の異説として、陸軍青年将校が東条を担ぎ上げるべく暗躍した、という説もありますが、やはり通説通り、木戸幸一内大臣が慣習法を無視して東条を後継首相として単独推薦して既成事実にしてしまった、というのが正しいでしょう。首相選択は重臣会議の推挙によるものということでしたが、天皇の最側近である木戸はこのときだけ、その慣習に従いませんでした。後継首相について、重臣や政府の大勢は、穏健派で親アメリカ的な東久邇宮稔彦(戦後、首相)を後継に考えており、そのことで対アメリカ交渉の再建を考えていたのですが、木戸はあえてそれを拒否する。このとき東条を選んだ木戸の心情に関して、戦後も木戸が多くを語ることなく逝去したため、昭和史最大のミステリーの一つになっています。
    このミステリーは木戸という人間の思想が推し量りがたいので、いろいろな推測が可能です。木戸という人間は、穏健な保守的自由主義者とはとうていいえない人物ですが、しかしガチガチのナショナリストや、時局に便乗した統制主義者といえるかというと、そうでもない。大体、近衛くらいのレベルの、それほど定見をもたない、長袖者的な貴族政治家というのが妥当なとことでしょう。しかし優柔不断な近衛と決定的に異なるのは、一度決断すると、政治的策謀を強行におしすすめる策士の面をもっている、というところです。開戦に際しての彼の謎めいた行動とともに、終戦工作において、鈴木内閣と提携した彼のスピーディーな和平工作への動きは、近衛の歯がゆさとは全く対照的です。その木戸が、このとき、たった一人、東条を選択するという行動に出たのはなぜか、というふうに考えなくてはいけないでしょう。
    木戸を主戦派(対米戦争突入派)と考えるか、戦争回避派と考えるかで、違う結論が政治史学で議論されています。木戸を対米戦争突入派と考えた場合、主戦論の陸軍を代表する東条なら踏み切れると木戸は判断した、と考える。対して木戸を、対米戦回避派と考えた場合、東条は昭和天皇の命に非常に忠実な人間なので、回避派であった昭和天皇の意に従い、同時に陸軍を抑えられる人物でもあるので、アメリカ交渉を再開できると考えた、となる。しかしそのいずれも私には図式的であるように思えます。
    これに対し、政治学者の中西輝政氏がそのどちらでもない、非常に面白い説を唱えています。木戸は戦争突入前のこの段階ですでに、今回の戦争は突入しても敗色が濃厚である、と判断し、「敗戦後」を想定し、首相認定をおこなった、とします。戦後の皇室の戦争責任を回避するには皇族出身の東久邇宮や天皇側近の近衛では危険な選択であり、陸軍に全部の責任を負わせるために東条を選択した、という説です。木戸という人間を「思想」から離れて人間的にみると、明治元勲(木戸孝充)の孫という自負と、昭和天皇の最側近という自負をプラスアルファしていた人間というふうにもとらえることができます。この説の拠るところは、彼の関心は皇室の安泰ということのみに注がれていたということにあります。木戸のことを単なる主戦派とは考えないこの説は、たいへん魅力的な考え方ということができるように思います。
    ここで、東条という人間の人物が再び問題になってくる。昭和天皇の崩御の後に公開された、昭和天皇自身の最も自由な論といわれる独白録は、終戦直後に記録されたものですが、昭和天皇の人物眼を知る上で、非常に興味深いものです。この独白録の内容については、資料性を疑問視する向きもありますが、昭和天皇の生き生きとした息遣いが感じられるもので、昭和天皇の自由な意思に基づいた記録であることは間違いないように思われます。注意すべきこと、現代の日本人がきちんと読まなければならないことは、昭和天皇という人間が、表面的な公平さの裏で、人間の性格の好き嫌いを非常に強くもっている方だった、ということでしょう。
   たとえば昭和天皇は戦前から終戦後にいたるまで、東条を非常に信用していたことが繰り返し述べられている。天皇は東条以外に海軍の米内光政にも、飛びぬけて大きい信頼をおいていることです。米内と東条は世界観を正反対にする人物であると考えるのが歴史上、一般的見解ですが、にもかかわらず両者が昭和天皇に絶対といっていいほどに評価されていたのは、この二人には、どんなことでも隠し事なく天皇に報告する愚直さ・素直さという面で、非常に共通する面があったということに他なりません。昭和天皇は情報が正確に伝えられてこない孤立感、そして繰り返される陸軍の謀略的な軍事行動に、絶えず悩みや怒りを感じていたといわれますが、それは陸軍組織に対してだけでなく、自分の周囲の人間にも絶えず向けられていました。そういう陸軍への不信感に対照的に、東条や米内への信頼感は、実に人間的な、心からのものであったということができるでしょう。敗戦直後、の東条バッシングの嵐の中で、昭和天皇が、それら世論とは全く違う見解をもっていたことだけは確かだといえそうです。
   この昭和天皇の戦後直後の東条観に加え、その後、東京裁判で、昭和天皇不起訴の為に身命を尽くした東条の姿を聡明な昭和天皇はわかりすぎるくらいわかっているはずですから、最近一部のマスコミで安直に言われるような昭和天皇のA級戦犯不信論は、こと東条に関しては絶対にありえないというべきでしょう。
   陸相時代から首相にかけての東条の天皇への報告に関しては「東条さんの内奏癖」と陰口を叩かれるほど頻繁で、しかも記憶力がよく鋭い質問を投げかける天皇の内心に充分配慮して、いつもしっかりと緻密に勉強してから報告に来るので、知的な天皇の評価は非常に高かったわけです。反面、昭和天皇が否定的評価をくだしている人物は石原莞爾、宇垣一茂、平沼騏一郎、松岡洋右といった諸氏ですが、とりわけ松岡に関しては、天皇への直接連絡もないまま、外交的にたえず策謀を弄する人間としてとられられており、「松岡という男はヒトラーに買収されたのではないか」とまで、断じられています。松岡と東条は満州時代や近衛内閣の閣僚時代、一時期親密に行動していた、歴史的にはほぼ同じ思想の持ち主といっていい人物ですが、しかし昭和天皇にとっては全く正反対の評価を受けている人物です。宇垣一茂にしても、陸軍の実力者にしては珍しい英米派的な政治的立場の持ち主で、結局総理にはなれませんでしたが、終戦に至るまで、戦争回避派や講和派に幾度となく首班に担ぎ出されかかった人物です。思想的立場からいえば先述の米内とほぼ同等の人物であるにもかかわらず、昭和天皇からは腹黒さや策謀を好むタイプと映ったため、「昭和天皇独白録」では昭和天皇は宇垣に関して、非常に低い評価を与えています。
   昭和天皇にとっては、思想信条の左右はあまり問題でなく、自分とのかかわりにおいて正直であるかどうか、が何より問題になるわけです。この昭和天皇の政治家観は、戦後の各首相観に対しても全く一貫しており、内奏による細かい報告繰り返す吉田茂や佐藤栄作に親近感が強く、反面、独断専行的なイメージを感じさせる田中角栄に対してはかなりの距離感を感じていたといわれています。もちろん昭和天皇の好悪がすべてではないですが、昭和天皇の「良識」を近代日本における最善のものの一つと考える以上、それを無視することはできず、また参考にしなければならないといえるでしょう。
   この東条が組閣後、「苦しい段階とは思うが、なお最善を尽くして戦争を回避せよ」と言う昭和天皇の苦渋に満ちた言葉の意味を理解し、すでに完全に戦争突入論に傾斜していた陸軍と世論に反し、対アメリカ交渉を軌道に乗せようとしたことは、外相に、硬骨な英米派の代表的人物である東郷茂徳を起用したことに、まず最大に明白であるといえましょう。もし東条がただちに戦争突入を謀るのなら、松岡洋右や、イエスマン的な広田弘毅を起用した方が、全然話はスムーズに進むはずです。戦争突入を最終決定したアメリカ側のハル・ノートの提示まで、東条は、昭和天皇の言葉に心底うちふるえて、「穏健派」として振るまったことはただこのことだけでも、間違いないといえる。事実、東郷外相や側近の回想でも、東条は親ドイツ・反英米派だった首相就任前とは別人のように、気が狂ったのではないかと思えるくらい、外交交渉に奔走しています。
    アメリカ側が拒否した日本側の妥協案の甲案・乙案にしても、これで妥協が成立すれば、当時の日本の過熱化した世論からすれば、暴動がおきかねない内容といえます。世論はむしろ東条に苛立ちを感じていたとさえいえるでしょう。最悪化する対米世論に加えて、日本を戦争になんとしてもひっぱりこみたいというアメリカ側の挑発の真意を見抜いている東郷外相が、甲案・乙案提示に際して「これだけ妥協しても戦争回避の可能性は1割がせいぜい」と言ったとき、東条は「いや、4割の可能性はある。信じている」と真剣な表情で言ったそうですが、確かにこんなことを言う東条は、陸相時代の東条とは完全に別の人物といえます。本当は別の人物でなく、典型的な役人らしい役人、そして最も忠義心に厚い人物という人間の同じ面を示していたにすぎないのですが、少なくともいえることは、おそらく他のどんな首相人選でも、この場において、東条をこえた努力はできなかった、といえましょう。
    言い換えればどんな人選をしても、この段階では戦争回避は難しかったのであり、もし、木戸が、回避派であったとしたら、東条選択の人選は正しかったといえます。公平にみて、開戦にいたるまで、東条に政治的誤判断は存在しておらず、「責任」も存在していない、といえるでしょう。東条という、政治的に「凡庸な人間」を操作し非常時の首相に選択した木戸の判断は実に正しかったといえるでしょう。
     しかし木戸の慧眼はここまでしか行き届かなかったといえましょう。戦争に突入し、緒戦に大勝した段階で、東条の政治的欠陥が顕になります。日本の戦勝の形は外交交渉による判定勝ちしかありえない。それが日清戦争・日露戦争の日本の歴史的教訓なのですが、世界の戦争の方法は、第一次世界大戦で、絶滅戦争=無条件降伏の獲得へと移行しています。この戦争に本格的参加をしていない日本には、戦争設定が二次大戦向けできない宿命を背負わざるをえない。
    ところが東条は、二次大戦的な戦争設計はもちろんのこと、旧来的な判定勝ちへのもちこみの方法も、ほとんど配慮ができない。戦争の継続を、戦闘の継続としか把握できていない。端的に言えば、優勢な段階(ミッドウェー海戦まで)あるいは互角な段階(ガダルカナル)までに、矢継ぎ早に、外交的策略を弄する必要があった、ということです。東条はそういう策略ができない人間であるだけでなく、非常に嫌い排除する人間でした。せっかく起用した東郷外相も、戦争突入して一年経たずに、東条との閣内衝突(大東亜省設置を巡る問題対立)であっさり解任されています。戦争が外交策略までを含んだ広範な戦争設計である、という面を、東条内閣は全く認識できていなかったことは間違いない事実です。この戦争設計の欠如こそ、東条の戦争指導の欠如の最たるものだった、といえましょう。そして東条のこの側面を見抜けなかった木戸の眼力は、家康の天才的な慧眼には及ぶべくもないものであった、といわなければならないでしょう。木戸にしてみれば戦勝という結論に至ろうが敗戦という結論に至ろうがどちらでも、天皇と皇室の安全が図れればいいのですから、戦争を終わらせる工作の能力の欠如した東条の政治性のなさは、致命的なことなのです。
    東条は次第に増してくる反対派を憲兵隊で監視する、という方法論を採用したため、たちまち人気を失う。東条反対派の中には「反対」でなく、良心的な批評も少なくなかったのですが、東条のは「責任的立場にないものは、意見を言うことも許されない」という官僚主義を徹底してしまいます。この憲兵隊への直接指揮が、東条の不人気を致命的なものにしたのか知れません。ごく一部の人間が監視されていた戦前と違い、非常に多数の人間に監視が敷かれるという状況に、日本人は全然耐えられなくなってしまいました。東条の憲兵隊政治など、ドイツのゲシュタボの数百分の一くらいのものですが、それすら、日本人には耐えられない。所詮、日本人の全体主義への憧れなど見せかけだけで、日本はナチス型の国家などできないという、一つのいい証拠なのですが、中野正剛、大川周明、平沼騏一郎といった典型的な右翼指導者までが、またたくまに反東条と化したところに、東条の戦争指導の世論とのあまりのずれが、はっきりと現れているといえましょう。
    東条が憲兵隊に命じて監視下に置いた人物は、公然と東条内閣に反旗を翻した中野正剛だけでなく、旧来のライバルである石原莞爾、さらに穏健な保守主義者である岡田啓介、鈴木貫太郎、吉田茂など広範に及んでいます。彼らはすべて熱烈な愛国者であり、戦後本格的に政治家の人生をスタートをした吉田茂を除けば、国民的人気を有していた人物ばかりでした。このことから歴史学者の秦郁彦氏は、たとえ東京裁判が存在せず、日本が早い段階で巧妙に講和し陸海軍や帝国憲法体制が残存した「戦後」であっても、東条がその甚だしい職権濫用によって、軍法会議あるいは国民裁判にかけられることは避けられかった、と指摘していますが、これは一理ある意見だといえましょう。
    戦局が有利な段階では目立たなかったのですが、陸海軍が互いの手のうちを見せあわないという分裂状況に陥ったときも、東条は有効な手をほとんどうつことをしませんでした。皮肉な言い方ですが、もし東条が「独裁者」的であったなら、強引な粛清をして、陸海軍を一体化した「国防軍」へのスムーズな統合ができたはずなのです。戦局が劣勢・守勢に転じてからも、陸海軍間は情報交換すらままならない状態で、結果論的に防ぐことのできた作戦上の失策があまりにも多すぎた、といわざるをえません。飛行機生産などでも、陸海軍の割り当ての凄まじい言い争いが、毎月のように繰り返されるけれど、東条はこういう意見をねじ伏せるということはしない。一見すると不能率に見えるアメリカ・イギリスのようなデモクラシー国家が、実に能率的な管理システムをもっており、また正真正銘の全体主義的独裁者国家であるドイツ・ソ連が、独裁者を中心とした統帥システムを完成していたのに比べ、日本はまこと中途半端な戦争体制しかもっていなかったのですが、その中途半端なまま、戦争の時間は推移していってしまう。その無為な時間の推移にもまた、東条の責任があるといわざるをないでしょう。システムを合理化したり破壊したりすることは、東条という官僚的人間の権化のよような人物にとって、最も不得手な行為に他なりません。実に逆説的な言い方ですが、東条が独裁者的でなかったことにこそ、東条の「責任」が存在する、といわなければならないのです。
    もちろん、東条が能力を発揮した面もないわけではありませんが、それがいかにも彼らしい発揮の仕方でした。1943年11月に戦時下の東京で開催された大東亜会議で、形式的に独立させたアジア各国首脳への配慮、会議の運営に関して、東条の手腕はいかんなく発揮されています。ビルマ代表のバー・モウや、自由インド代表のチャンドラ・ボースなどは、滞在中の生活や会議の場での彼らの面子の尊重という面における東条の親切丁寧に、深く感動したといわれています。毎日、会議開始前遥か前の時間に首相の東条が早々とやってきて、会議場の点検を自分の目で細かく行うのはこの大東亜会議の風物詩ともいうべき光景でした。バー・モウの長文の声明が各誌に掲載される際、各新聞社は用紙不足を理由に全文掲載に難色を示したのですが、東条が用紙の不足を補ってでも全文を掲載させるよう、奔走してくれたことを、戦後もビルマ政界の重鎮であり続けたバー・モウは戦後の著作で伝えており、東条こそ、ビルマ独立の最大の功労者である、と明言しています。見逃されがちなことですが、このときの大東亜会議の精神的な好影響が戦後の日本の好印象に連続していて、たとえばタイなどは日本の国連加盟など戦後の日本の国際的地位回復に尽力してくれたのですが、その国際的な親日活動の中心人物であったワンワイタヤコーン殿下(通称ワラワン殿下、戦後、第11回国連総会議長)は大東亜会議におけるタイ代表であり、彼もまた、東条の気配りに非常な感銘を受けた、と記しています。つまり、こういう官僚的・事務的なイベントに関しては、東条の能臣ぶりは非常なものなのです。しかし、このアジア各国の独立を、政治的に利用する能力には東条はやはり全くかけている。
     たとえば、このときに、この大東亜会議の宣伝効果を、アフリカなど、連合国の植民地支配におかれているエリアに普及させて、連合国を混乱させるという方法を考え付いてもよかった、という指摘も可能なはずです。たとえ敗戦的事態は避けられなかったとしても、大義名分を全面化すれば、より違うニュアンスが戦後生まれたに違いありません。結局、大東亜会議の成果は、第二次世界大戦の時間的範囲においては、その中にのみ留まってしまいました。つまりこういう政治的創造性には、東条はほとんど配慮が行き届かない。あるいは東条という人間を動かすだけの「制度」があれば、東条という人間はその通りに動いたでしょう。しかし最も政治的決断が要されるこの事態において、東条は自分の政治的権力の濫用によって逆に孤立を深めてしまい、彼の存在を操作する第三者的な何かの介在は、いっさいその可能性を絶たれてしまいました。
    凡庸な人間(指導者)をコントロールするようなシステムが存在しているかどうか、というどころの話ではなくなります。木戸の賭けは最悪の結果をもたらし、「凡庸な人間」は、その凡庸さを、凡庸な次元において露呈するという事態に陥ります。戦局が更に悪化し、残存勢力を集結して挑んだマリアナ防衛戦に大敗しても、東条は外交交渉を開始する気配も退陣する気配もない。東条は実は「引き際」さえよく認識できない、というレベルの役人的な政治家なのです。最も役人的な役人をやめさせる手段は、お上の介入しかない、ということになってしまうでしょう。
    かくして、皮肉にも、木戸自身がかかわる東条内閣倒閣運動により、東条は退陣を余儀なくされることになります。この退陣についても、東条らしい、政治性のなさがあらわになるような、彼のイメージが現実的に非常に損になるような振る舞いに終始しています。閣内にあって倒閣運動の中心だった岸信介国務相と、重臣の岡田啓介元首相を憲兵隊を使い脅迫しながら、実はこの倒閣運動に木戸がかかわっていることに皆目見当がつかず、結局、マリアナ戦の失敗に関しての昭和天皇の落胆を知るとあっさり総辞職する。この昭和天皇の意志の伝達についても、実は木戸がかかわっていたのですが、しかし岡田や木戸への反感を総辞職後もジクジクと言い続ける、というふうな、いかにも政治的能力を欠いた人物らしい、ある意味人間臭い、幕の引き方により、東条は政治の第一線から去ることになります。
    もちろん、この一連の話を違う視点から考えてみれば、木戸の次元の低い策略に利用された東条英機という人間こそ、最大の犠牲者であった、という観点も成立することになる、ともいえましょう。東条を凡庸という以上に、木戸という人間の、「凡庸な人間を扱う能力」の凡庸さをこそ、指摘するべきなのかもしれません。東条にしてみれば、自分自身の中に確立していた自律に忠実であっただけ、なのですね。「最高の官僚は最低の政治家」(マックス・ヴェーバー)という言葉の権化のような東条に期待する方が間違い、というものです。家康という知性がもし二十世紀の同じ時期にあったとすれば、木戸のような選択はしなかったでしょう。政治的誤判断の責任を根本的に負う人物は、東条ではなくこの木戸であると考えるべきだと私は思います。
   結論的なことを言うと、東条英機という人間についていえることは、凡庸な政治家」を嘆きながら、実はそれを操作しうる知性やシステムの不在に嘆くということを忘れている私達にとって、今なお教訓をもたらしてくれる世界でもある、ということができるように思います。
私達は歴史観も、現実政治観も、人物評価ばかりを独立させて語りたがりますが、「人物」が個人の力でなしうることなど、限られているといわざるをえない。そういう人物評価というのは安易な英雄史観にしかつながりません。江戸時代を演出した家康の凄味は、そうしたレベルでの英雄史観では見えてこないし、また二次大戦の問題点もなかなか見えてこないでしょう。こういう意味での東条論が今年の終戦を巡る数々の東条特集の中でも全くみえてこないことが、私には非常に不満なことに思えたのです。
  先述のチャンドラ・ボースの、興味深い言葉が残っています。大東亜会議における東条の気配りに感謝し、日本の印象について、ボースは、高い技術力を有した日本人の善良さ、勤勉さへの深い感銘を言い、この国は偉大な国である、と言った後、「しかしこの国にはよきステーツマン(政治家)がいない」といったといわれています。ボースのその言葉はもしかして、まさに善良かつ勤勉であり、しかしながらあまりに善良で勤勉であるがゆえの人間の限界をもっていた、東条という非政治的人間に対しての裏返しの評価の言葉だったのかもしれません。
  東条氏のような善人で、家庭人・能臣として非常に好感を持てる人間は私達の周囲には、意外なほど多く存在しています。個人的な好悪をいえば、私はこのタイプは好きでもないし嫌いでもありません。しかし、問題は、こういう善人を、政治的指導者として選んでしまう「弱さ」を私達はもってしまいがちだ、ということではないかと思います。能臣が指導者になれるとは限らない。まして、国運を担う人間に関しては、私達はより自分達の「弱さ」に警戒しなければならないでしょう。「凡庸な人間」という私の表現は、不適切な面を含んだかもしれません。しかし、それを時代や状況に配慮する知性の存在、あるいは政治的システムの存在、そういったものがない限り、私達は、その人物の政治的能力の欠如にどこかで実害を受けてしまうということですね。東条氏を巡る論争というのは、そういうものに帰着するべきではないか、と私は考えます。

     
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コメントコメント


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《国運を担う人間に関しては、私達はより自分達の「弱さ」に警戒しなければならない》に惹かれました。我々は自分自身にもっと厳しくあらねばなりませんね。

知足 | URL | 2006年12月22日(Fri)11:02 [EDIT]


メール ありがとうございました。

丁寧なメールをいただきありがとうございました。
リンクを貼らせていただきましたので、報告がてらコメントさせていただきました。

今後ともよろしくお願いいたします。

@隼人正 | URL | 2007年01月14日(Sun)17:49 [EDIT]


丁寧なメール、ありがとうございます。
早速ですが、リンクを貼らせていただきました。

記事を読ませていただきました。日本人論を扱った本格的なサイトですね。できましたら、記事を更新されたときにはトラックバックを頂きたいのですが、いかがでしょうか。更新時には必ず読ませていただきます。

今後ともよろしくお願いします。

かずひろ | URL | 2007年01月16日(Tue)11:13 [EDIT]


すばらしいです

 友人の紹介で覗かせていただきました。すばらしく重厚な考察に圧倒されました。同じ憂国の士として、これから大いに頼りにするところです。のちほど連絡させていただきます。

憂国の徒 | URL | 2007年01月21日(Sun)12:48 [EDIT]


少し,長論文読みにくい。もう少しまとめて書かれるといいと思いました。

ざっと通して目を通しましたが、「凡庸」 論?などは、戦争に負けたがために始まった「後」論な感想を持ちました。もし、初戦において、ハワイ奇襲の際南雲が奥のコンビナートまで叩いていたらその後の戦局は全く変わっていたと思います。歴史にIFを持ち出すとどうしようもないですが…。

 私はすべて個人の能力と言うよリも、ヒューミントの弱さだと思っています。

先きの戦争の始まる1、2年前ニューヨークの日本領事館にFBIと海軍の関係者が忍び込み、暗号表を盗まれており、すべてお見通しだったこと。
(戦争の始まる前、アメリカで発売された本には、日本が攻めるとしたらハワイしか無いと言うことが書かれ周知のことだったにもかかわらずハワイを襲わせたことが何を物語るのか。ここでも全てお見通しだったわけですね。)

だから、誰が首相になっても、戦争に突入して行くことは必至だった。
最初から仕組まれていました。

さらに、ハリーホワイト(ソ連のスパイ)の手によって書かれたハルノートの真意をアメリカも見抜けなかった。これも、ヒューミントの欠如ではないでしょうか。

私の結論は、やはり「正確な情報収集」があってそれをつかむことで九割方「凡」「非凡」は決まると思っています。それで負ける奴こそ凡くらと言えると思います。





NO NAME | URL | 2007年02月01日(Thu)04:28 [EDIT]


進化論もビックバンも神話の一種だと思いますよ。
その一番最たるものが、科学的社会主義、唯物論、即ち、共産主義です。
共産主義こそ、現代の神話ですよ。
又、共産主義的神話、唯物論的神話、科学的神話だから、
現代社会がこれ程、荒廃し、殺伐としてしまったんではないんですかね。
文学的な神話のほうが、余程、温もり、文化がありますよ。
イスラムの方が余程、人間的ですよ。

日本人が日本の神話を大切にしていたら、
日本の自然はこれ程、破壊されなかったんではないですか。
山に入る時は、山の神に祈り。
木を切るときは、切り株に挿し木をする。
川を汚さず、海を怖れる。
科学の方がずっと野蛮ですよね。

小谷野です | URL | 2007年11月12日(Mon)19:34 [EDIT]


むしろ共産主義は封建時代や古典資本主義、そして現代日本よりかはまし

>共産主義こそ、現代の神話ですよ。
>又、共産主義的神話、唯物論的神話、科学的神話だから、
>現代社会がこれ程、荒廃し、殺伐としてしまったんではないんですかね。

その意見に真っ向から反対意見を申し上げたいです! むしろ、唯物理論がまかり通る以前の方が後輩し殺伐していたでしょう! 合理主義がもたらされた故に、人人はより唯物論の名の基に科学的理論を打ち出しその制度への忠信を高めたと見ております!

小生自信は無心論者とは言い難いですが、社会が宗教による影響を濃くすることを懐疑しています!


進歩主義者であります、小生の理論から推測しますと、人人および社会は、昔の制度への長所を追及しそのノスタルジーに浸るのではなく、進歩そして伝統への懐疑を徹底的に進めていき、人間性そして神話より遠い位置に立てば立つほど、その自分と社会の更なる進歩が約束されるという理論を展開していきます。 

過去が良かった、科学的共産主義は反面教師的進歩主義理論んであるという理念ではなく、その社会において欠如していた点をまとめ、伝統社会を否定した進歩的発想などを取り込み、自分の中にうけいれて、より今までに存在しなかった社会構造の実現にむけていくべきです!

ここで一つ提言いたしたいことは……




    『教主国は天国である』





 つまり、この世の中において過去と現在において究極の社会は存在しなかった。 それゆえに、未来へ向けて、過去や現在に存在しなかった、我々の伝統的概念を上回る超時限的な社会像の髣髴へ向かって行進していくのです!!!

もし、信仰対象を上げるとすれば、悪魔の指揮官の一人、金と享楽の魔人『アモン』を上げるかもしれません…。 これはまあ半分冗談として受け取っていただきたいですが、あくまで魔教の信仰を例に出していますのは、やはり現存する社会への固定概念の形成に結びついた主流派宗教への反抗意識であるのです!

小生も一時期、縋るものを求めて、宗教への帰化を心の安楽として求めたことがありますが、すべては期待を裏切られました…。 

っといっても小生が神話という存在を信じているのではなく、その存在そのものを大切にするためにも、社会をまとめる手段としての唯物理論を貫き、主張の多元性として数多の神話の存続を願います。

また、小生は法律というのも一種の神話だとみております。 ですから、もしその法律が気に食わないものであれば、自分の安全と社会におけるリバティ(制限のある生産的な意味での自由)を確保した上であれば、いくらでも破り犯罪を犯す勇気があります!

恩義(Oblige) | URL | 2007年11月13日(Tue)04:52 [EDIT]


科学は優秀な選民により制御されるべきなのです

科学による自然の荒廃は科学そのものよりもむしろ科学を操る人間にあったと思います。

民主主義そして共産主義に代表される制度においては、階級の平等性そして弱者への福祉などが災い、本来崇高であるはずの科学が、衆愚により制御されていたからに他なりません!

前のコメントにて共産主義国家を庇護するような意見を書きましたが、実際小生は反共主義者でございます!

そもそも、唯物理論に基づいた合理的会見による多元的価値観を認めつつも一つの模範的制度としての唯物理論を強調しております。

共産主義においては、その国家制度に従う人間であれば社会階級において昇格する権利が与えられていたゆえに自由競争において勝ち取った成果主義的な名誉による昇格によるトップへの君臨でなかったから科学をより制御するものへの貴族的犠牲の精神が培われなかったのです。


日本においても、その自然破壊の凄まじさは、伝統を捨てたという理由ではなく、議会重視型の民主主義が生んだ制度の落ち度であると見ております。 小生は民主主義を否定しているのではありません! 民主主義において必要な条件は『階級の認識』に他ならないでしょう! 小生はヨーロッパ社会における『階級登録制度』を支持しております! この制度において、その個人そしてそれを支える家族や共同体の努力と成果、そしてその社会へ担う責任制の度合いによる個人の階級決定を行う制度です。 日本においては、概念上において階級の存在を否定してしまったために、『個人全員が中産階級である』という錯覚に陥ってしまいました。 そのため、『責任制』への重要視が軽蔑され、その制度を担う存在の責任制の欠如が顕著に見られるのではないかと思います…。


恩義(Oblige) | URL | 2007年11月13日(Tue)05:31 [EDIT]


 小谷野さんがおっしゃる科学の「野蛮さ」ということは、こういうことではないかと思います。
  これは科学というものへの誤解から生じた思考法なのでしょうが、世界という事象が「事実」や「物質」の反映に過ぎない、事実や物質の扱い方で、世界に幸福がもたらされると考えることに、唯物論的思考法の間違いがあったということができるでしょう。しかし「唯心論」が正しいのかといえば、これも全くそうはいえないわけで、唯物論と唯心論は同一のものの裏返しだといえましょう。「唯」という言葉を使った時点で、「心」という得たいの知れないものを物質的に扱うという誤謬がすでに開始されてしまっているということも可能なのです。ショーペンハウアーはこのことに早くも気づいていて、童話の題名をもじり「ほら吹き男爵の冒険」といって唯物論を徹底的に批判し、さらにはその根源にあるヘーゲルの唯心論的弁証法をこきおろしました。
  「唯」物・心論的神話が非常に野蛮であるのは、世界が理解できてしまっているのだという傲慢さを少しも隠そうとしないところにあるといえましょう。たとえば宇宙飛行士が宇宙から地球を眺めて「青い地球には国境がない」というと、その感動が平和会議の科学者の神話になる。「わかったつもり」の神話ということです。国境がみえないんだったら人間もみえないんだから、人類の存在も廃止すべし、という神話はなぜかできない(笑)「事実」や「物質」の反映はこの地球の事象にすぎないと思い、そして世界を説明しつくせると思っているからこそ、こんな話をつくりあげてしまうのです。野蛮であるというより、あまりに単純すぎるのです。
  古来の文学的神話には、「驚き」「不可解」がゆえの謙虚さがあるのです。世界をそのまま感じ取り、その背後にある何かを感じようとする無邪気さというべきものですね。こういう感性が哲学を学ぶ上でどれだけ大切かは、強調して強調しすぎることはないといっていいでしょう。当たり前のことに驚かなければ、世界への認識も考察も深くならないのです。コミュニストも科学的唯物論に通俗的に追随する世界の多くの人も、「結論」があらかじめある話にしか関心をもたないようになっているのです。これは人間と「神の視点」を取り違えたおそるべき錯誤だと私は考えますね。

N.W | URL | 2007年11月14日(Wed)15:27 [EDIT]


 
 

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軍事等々

近年「日本は降伏の条件を認めて降伏したのであり、これは有条件降伏(ゆうじょうけんこうふく)である」と言う珍説が現れているが、って珍説といいほどおかしいのですかですか?・【コードギアス 反逆のルルーシュ】 # 18話 枢木スザク に 命じる # を ...・昨日の、第53回 [続きを読む]

軍事等々 / 2007年03月16日(Fri) 23:35


 
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