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歴史教育について

「誰某は歴史に詳しいね」という言葉がよく飛びかうのを聞きます。「詳しい」もいくつか意味があるのでしょうが、「知識が多い」というニュアンスで使われているような気配を感じるとき、私はつい反発したくなります。「歴史に詳しい」ということは、実はなかなか難しい言葉なのですね。私見をいえば、「歴史」を勉強する上で一番大切なスタートラインは、「歴史教育」と「歴史研究」が別のものである、と考えることだと思います。
たとえばアメリカにせよフランスにせよ、建国革命やフランス革命といった栄光の歴史の裏に、いろいろな卑しむべき歴史的事実がたくさんあります。アメリカ建国にきわめて重要な役割を果たしたジェファーソンが奴隷女性に子供を産ませたこととか、フランス革命を急進的に進めたサンジェストが血に飢えた異常人格者だったこととか、ですね。しかしこうしたことは彼らの「国民の歴史」ではほとんど教えられることはありません。「教えない」ことが、彼らのずるさ、したたかさだ、ということでしたら、それはとんでもない見当違いというものです。
初等教育の段階では、人工的・作為的な物語であったとしても、栄光のアメリカ、美しいフランスを教えて、とりあえず「アメリカ人」「フランス人」をつくることが国民国家では大切なのですね。その上で、高等教育機関、特に大学以降において、次第に「歴史研究」の要素を増やし、裏のアメリカ、裏のフランスを知っていく、ということになります。「裏の歴史」を初等教育の段階で教えることと高等教育の段階で教えることでは、歴史理解に雲泥の差が現れます。歴史にせよ政治にせよ、「裏」ということは総合理解を要するものですが、前者の段階ではそれはなかなか難しい。戦後日本における左派的な自虐史観の最大の欠点が、歴史教育におけるこの二元論の必要性を見落としていたことにあるでしょう。そして今後、いずれ後退するであろう左派的な歴史観に変わる歴史観・歴史教育論においても、この二元論は絶対に必要なものだと思います。
「本当のことを教えないの?」といわれるかもしれませんが、たとえば「家族」にしても、初等教育機関から、過剰な性教育なり離婚の実体なりで、家族形成のカラクリを客観的の教えてしまう必要はないはずです。家族や夫婦とは尊重しなくてはならないすばらしいものなのだよ、と多分に物語的に教える必要がまずあります。小中学生にいきなり「お父さんとお母さんの性行為であなたが生まれた」と科学的に教えたところで、家族観の育成にはまず無意味なのですね。「家族教育」と「家族研究」も違うものなのです。大人になるにつれ、結婚や出産を通じて、子供のころ教えられた物語を消化していって、「家族」が本当はどういうものか、各々が「研究」していけばいいのです。性教育の多くがこのことを見落としています。もちろん「家族研究」は高等教育機関で教えてもらうものではありませんけれどね(笑)
ですから初等・中等教育機関では歴史教育は排他的な雰囲気をつくらないように注意を払えば、「その国の栄光ある過去」を教えて差し支えないと思います。現代の子供はいろいろなことを知っていて、大人を困らせる質問をしてくる場合もあるでしょう。その場合は教師の側も素直に「歴史研究」の場を避けないこともまた大切だと思います。日本軍の残虐行為について質問してくる小中生がいたら、卒直に受けとめて彼らと質疑を応答すればいいのですね。「先生はこう思うが君はどうだろう」とむしろ本格的に本気で言わないと、子供たちは誠実さの欠如に失望して、「歴史教育」の場そのものが危うくなってしまいます。ですから私は「隠して教えるべき」と言っているのでは決してありません。そして歴史は何も近代史だけではありません。
こういうと「自国の歴史ナンバーワン」人間を傲慢な中国人のようにつくりだすだけなのでは?ということをいわれそうですが、歴史教育や道徳の授業での愛国心教育は、確かにそれだけではたちまち中国の歴史認識の押し付けのように、世界で孤立してしまいます。愛国心教育には大賛成ですが、何かしらのプラスアルファを付随させて、中国の歴史教育のような倣岸なものにしないというディフェンスが必要なのではないだろうか、と思います。
たとえばアメリカでは大学以前の教育で、「歴史教育」と同時にコミュニケーション論を徹底して教え込まれるといいます。日本人からするとアメリカ人は不思議なほどに「コミュニケーション」の授業を大学以前の段階で重視します。いわゆる「知識」に関しては、大学以前のアメリカ人が非常に劣っている、といい日本人の優位を言ったりする人もいますが(最近は中国人も多いようですが)こういう見解はアメリカという国のおそろしさを何ら本質的に理解していない。このコミュニケーション教育こそ、アメリカ人のキャパシティの根源であるとさえ言っていいと思います。私の見たところ、この過剰なコミュニケーション教育こそが彼らの「歴史教育」と「歴史研究」の二元論を防御する、つまり国のフィクショナルな神話的歴史を防御するものなのですね。
たとえば他人(他国)の過去は、法的に清算されたものである限り(清算されたものでなくても)絶対に追求しない、というルールをアメリカ人はよく知っています。「過去」そのものの意味というより、「過去」を追及することの意味を熟知しているからです。たとえば、他人の体型について口軽く干渉することもしません。「太ったりやせたりすることはいろんな過去の事情がある」というコミュニケーション教育のたまものなのですね。すなわちいくら自分がナンバーワンであっても他人=他国の過去=歴史に干渉することはないのです。それでいてアメリカほどダイエットすなわち体型を就職や昇進で重視する国もまた他にありません。矛盾しているように思われますが、私に言わせれば、少しも矛盾していません。それは「体型」が現在的なその人の判断要素であるから重視されるのであって、「過去」を含むところの,日常的な総合的な人間評価ということとは区別されるのですね。肥満していることの過去については追求されないということです。だからこそ、アメリカ人は他人に無関心(他人の過去に無関心)なのですが、他人の現在については強い関心がある(他人は今何を考えているか)ということです。これは非常に意図的で、意識的なものなのです。これを全体的なものに敷衍すれば、非常に矛盾しているように見えませすが、現在のアメリカ的な「よきもの=デモクラシー」を、現実の世界に普遍的なものとして流布して押しつけることと、他人への無関心とはアメリカ人にとって全く両立しています。
これがどうして「歴史教育」の防御になるのでしょうか。「(他国への)歴史教育」への無関心は「他人への無関心」と同質だからです。関心と無関心を比べれば、実は「関心」こそが人間の常態であって、「無関心」の方であることの方が難しい。その「無関心」を常態的なものとして作り出すには、コミュニケーション教育が必要ということになるのです。かくして、アメリカ人は、他国への「歴史教育」に全く関心もないし、干渉しようとは露ほどにも思わない。にもかかわらず、ダイエットを判断基準にするように、デモクラシーを、その人(国)の現在に押しことについても、何とも思わない。裏を返せば、アメリカ人のデモクラシー押し付けに関して、彼らの国民教育・愛国心教育を攻撃・論難しても、彼らはびくともしないようにできているのです。コミュニケーションが、彼らの「歴史教育」ひいては「歴史」ということを防御するように、確固として存在しているのです。アメリカを叩きのめすためには、まずこの巧妙極まりないコミュニケーション教育の伝統から、叩きのめす必要があるのではないかと思います(笑)
私は中国や韓国の歴史観の押し付けには大いに抗議するべきだとは思います。しかし「歴史研究(あるいは事実主義)」の衣を被りつつその実排他的な「歴史教育」にしか過ぎないことをやっている彼らに対して、「歴史研究」だけで応戦するのでは徒労感ばかりが残ります。「歴史」とは、「事実」そのものではないのです。アメリカ式の教育方法がすべて正しいとは思いませんが、「歴史」や「自国」を主張防御するのはコミュニケーションの問題でもある、ことは認識するべきだと思います。たとえば一言安倍総理が「なぜ歴史観が問題になるの?」と純粋な小中高生よろしく質問してみれば、雰囲気はガラリと変わる(白けたのち)かもしれません。「なぜ」を繰り返してみればいいのです。子供の「なぜ」ほど厄介で、しかしたいせつなものはないのですからね。その「なぜ」がおそらく政治的に利用しているだけの彼らの「歴史研究」と「歴史教育」のゴタマゼの衣を一番有効に剥いでくれるでしょう。「なぜ靖国問題が・・・」「なぜ裁判で決着したはずの戦犯のことが・・・」「なぜ他国の教科書のことが・・・」しかしこのゴタマゼはあまり他人事ではないですね。私は日本の戦後教育において、人権偏重とかイジメとか偏差値問題とかと並んで、この「歴史そのもの」という考えのいつの間にかの定着、すなわち「歴史研究」の教育の場での過剰ということをあげてもいいのではないかと思います。
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