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国を「好きになる」ということ

司馬遼太郎さんのエッセイで、彼が中国を長期旅行中、本国の出版社に送った紀行文を中国の諜報機関がすべて解読分析していたことが判明した、という話があります。他の作家だったら怒り狂うところですが、司馬さんらしく、正面きって文面に怒りをあらわさない。大体司馬さんという人は、正面きって喧嘩や論争する人間を軽蔑しているのが持ち味なところがあります。正面きって喧嘩や論争し、結局収拾つかなくなってしまうことが多い私としては、こういうスタイルはちょっと見習わなければならないところかも知れません。
諜報機関による解読分析ということは、全体主義国家だから仕方ないのかもしれないのですが、司馬さんの文章に関して、彼ら諜報機関が総力をあげて、いったい何を分析していたかというのが面白い。それは「この人物はいったい中国に好意をもっているのかどうか」ということのための分析だった、ということが後に司馬さんにわかった、というのですね。以前私はこのエッセイを読んで、これが本当だとしたら中国という国はずいぶん器の小さい国だし全体主義国としても脇の甘い国だな、と思いましたが、実際、中国の人との知識人レベルでの交友が増えるに連れて、どうも司馬さんに届いた情報というのは間違いなく本当のことだったのだろう、と、実感をもって考えることができるようになりました。
相手国人の「好き・嫌い」を自国のナショナリズムの評価の中心に持ち込む。これが一要素でなく、全体的要素だといえるとしたら、中国のナショナリズムあるいは愛国心というのはまことに幼稚なものです。自分の国が「嫌い」な人間であっても、状況や戦略によって、利するような存在になるというのは、国家でなくても、個人のレベルでも大人の世界になれば常識的なことだといえるからです。子供の段階では「好き・嫌い」が支配してしまうということはあり、それがゆえの喧嘩が絶えないということはあります。言い換えれば、中国のナショナリズムは、幼稚な段階にとどまっているといえるわけですね。私のみる限り、中国の知識人の国家意識の多くに、間違いなく、この「幼稚さ」が存在しているといえます。
中国の人たちが世界で一番その傾向がある、というのは断定的かもしれませんが、「中国のことを好きかどうか」ということを外国人(日本人)に対しての判断基準にするのは、やはり「好き・嫌い」の傾向が比較的強い、日本人からみて度が過ぎるように思えます。もちろん日本人もアメリカや中国の首脳を「親日」「反日」で分類しますが、中国の知識人の「レッテル貼り」「分類」のすごさ、というのは疑いようもなく、その比ではありません。
彼らによれば、田中角栄は「親中国」派、福田赳夫は「反中国」派という分類からまず日本の政治論を始めます。この分類は絶対的なものだといっていいでしょう。その分類の仕方があまりにも絶対的であるため、聞いている方はだんだん、退屈してきます。しかも彼らは政治だけではなく、日本のあらゆる分野の人間に、いったんまずこのような分類を施すのですね。そしてどうも日本に対してだけ、というのでなく、どの外国に対してもこういう「親中国」「反中国」の分類の癖があるようです。
中国には国家意識が希薄である、という反面のこの習性をどう理解すべきか難しいですが(ナショナリズムが未成熟だから、といっても世界には未成熟な国はたくさんありますし)「好きか嫌いか」を異常に気にする精神のスタイルがいわゆる「中華思想」とは無縁である、ということだけは明白です。何度も言いましたように、「中華思想」というのは大人びた態度、王道でもって嫌が応なく中華世界を好きになってしまうような、懐の深さを意味するものです。「好きか嫌いか」に神経質になっていることは、中華思想からすれば、いかにも器の小さい行為で、中華思想的には、嫌いな人間をこそ徳化して「親中国」化してもらわなければならない、ということになるのでしょう。しかしこうした近代中国人の器の小ささ、が私たち日本人と無縁と言いきれるかどうか、ということを私たちは考えなければならない、ということもいえるのではないかと思います。そのためには、世界の「親日国家」について、少し考えなければならないでしょう。もちろん、「親日」的国家というのも色々な国々があります。
よく言われるのはゲオポリティックス(地政学)上、ロシアの侵略に苦労してきた国家が日露戦争を演じた過去のある日本を好きだ、ということですね。フィンランド、トルコ、ポーランドなどがこれに該当します。彼らのロシア嫌いは、歴史的根拠を強くもつものですから、まず誠実なものだといって差し支えない。そして「嫌」がバランスをもったものになるために、「嫌」に敵対した国を「好」になる、という感情論理になります。ロシア嫌いの国というのは親日的な傾向があるのですが、奇妙なことに、ロシアでも、世論調査や国民教育は圧倒的に親日的なのですね。ロシアからすると、唯一打ち負かされた相手だ、ということなのですが、これは「力の論理」が逆作用するという、ロシア人の非常に特殊な性格を意味している面があるといえます。
これもゲオポリティックスと歴史認識の結合の延長上にあることですが、最近は中国の反日政策の反動で、反中国的な国家が日本に好意をもつ、ということがあるのですね。たとえばモンゴルがこれにあたりますが、「反中国的国家」の親日は日露戦争と同様、あれほど不評な日中戦争において、日本が中国を叩いた(叩いてくれた)ということから生じるものなのですね。国民国家どうしの歴史観が全く相対的なものである、ということがこの「反中国=親日」国家を追うとますます認識できます。私たちは何となく日中戦争が絶対悪であるという考え方に慣らされていますが、日本が中国を叩くことに拍手を送る国というのも実在して、日露戦争の肯定・賛美と全く同じ論理の日中戦争の肯定・賛美ということがありうるわけです。私は戦後の対中国反省論というのは、戦前の陸軍皇道派や石原莞爾グループの精神的根拠であった日中提携論の焼き直しを国民多数が信じ込まされてきたものに過ぎない、と思うのですが、いずれにしても、いろんな国民国家のナショナリズムへの出会いを通じて、彼らの「親日」から日本の近代史をすべて肯定する、ということは決して不可能ではないのですね。そしてあるいは、日本のノーテンキな平和主義者が、韓国人の世論が「原子爆弾で日本人が報復されたのは当然である」という韓国人のナショナリズムに出会う度に愕然とする、ということとも表裏一体のこととであり、日本の平和主義の浅さを完全に暴くこともまた可能だといえると思います。
しかしこうしたタイプからの「親日」はそれはそれでいいとはいえ、決して手放しで日本人が喜ぶべきことではないのではないか、と思います。たとえば有名なエピソードですが、孫文が日本に感動したきっかけは日露戦争でした。このエピソードに、左右を問わず多くの日本人は感動しますが、しかし、あらためてよく検討しなければならないエピソードだともいうべきなのです。孫文が感動した日本というのは、実に限られた時間幅の「日本」でしかない、ということです。孫文は1924年になくなるまで、ついに近代史の或る一点での日本理解にとどまり、日本史そのもの、日本文化そのものを理解する視点を持とうとはしなかった、ということがいえます。孫文は反ロシア・反中国諸国家とは違う形とはいえ、日本という特殊な近代化の成功を隣においてしまった、やはりある種の地政学に巻き込まれた人間だった、というべきだったと思われます。
あるいは感情的段階の「親日」にとどまるのならまだしも、孫文のようにその「親日」を通り越して「わが国が日本を模範としたい」となると、日本人をより感動させて、物事の本質が見なくなってしまうだけに、話がますますややこしくなってきます。孫文の言及に、明治以前の日本人や日本文化への言及や考察は、ほとんど見られません。明治期の近代化が江戸時代という非常に優れた前近代社会をバックグラウンドにして成立している、ということ、あるいはいまだに中国が達成できていない国語的統一という最重要の問題を、日本は平安期においてほぼ達成しており、その認識を通じて、平安期の国民文学の成立や、当時の国際事情を考えなければならない、ということなどを、孫文がどう考えていたかは、皆目わかりません。日本の偉大さに感動しすぎることは同時に、日本の偉大さの特殊性について考察することを忘れさせてしまう。感動して「日本を模範にしたい」というロマンを語っているうちはいいですが、「いつまでたっても日本みたになれない」というこれまたあたりまえの歴史的現実が、近代日本に感動したそれらの国に、やがてやってくることになるわけです。
「親しみ」はやはり確かな根拠に基づいてほしいのですね。もちろん「嫌い」ということに関しても同様です。中国にしても韓国にしても、あれほど「反日」を言う割には、「日本学」「日本研究」という分野がほとんど成長していない、ということがいえます。理由は簡単なことで、「好き・嫌い」の感情判断を国家政策自体が最優先させてしまっており、知識人を筆頭に個人の頭の中も「政策的」になっているから、いつまでたっても研究が進まない(始まらない)のですね。
これを司馬さんふうにいえば、中国・韓国のこうした独断は宋学・朱子学の悪影響で、日本もそれらから決して無縁ではない、ということになるのかもしれませんが、戦時下に日本学・日本研究を逆に著しく発展させたアメリカ、そしてゆるやかで内実にはかなりあやしいものを含むといっても、1990年代に至り日本学をほぼ一分野化させたヨーロッパ各国に比べて、中国・韓国はいまだに近代史中心の「日本研究」しか存在していません。言い換えれば孫文の時と基本的に全く同じであり、孫文の感動が「嫌い」に裏返っただけのことなのですね。たとえばパールハーバー直後のアメリカの反日感情の激しさは、今の中国どころではなかったでしょう。あるいはフランス人の日本好き気取り(ジャポニズム)はなかなか有名ですが、好き嫌いという自分たちの感情に溺れることなくその「好き・嫌い」を「日本学・日本研究」として体系化していく、ということがあっさりとできるのですね。私は「歴史研究」と「歴史教育」は二元論で行かなければならず、前者はマイナス面も含めて客観的な歴史認識が必要だけれど、後者は「対象への愛情」ということを優先して教えるものでなければならない、と思いますが中国や韓国には日本に関しては、「歴史研究」ということが不在なのですね。「歴史研究」が不在である「歴史教育」がどうなるかは、皇国史観が過剰になってしまった、それこそ近代史の或る一時期の日本を思い浮かべればいいでしょう。
「歴史研究」なき「歴史教育」による日本理解ということは、たとえばこういうことです。少し以前、中国の某有名大学の教授が「日本とドイツ人は世界で一番よく似ている」と堂々というので呆れて、「いったいどのような根拠に基づくのですか?」といったら「第二次大戦で同盟国でした」という答えが返ってきました。軍事的同盟国の経験を共有していることが歴史学上、国民性の類似の根拠かどうか尋ねるのも子供だましだと思いましたが一応控えて、「イタリアも日本の同盟国であり近代国家の成立も同じくらい、しかも二次大戦時まで君主制を有していましたが、日本とイタリアは似ていないのですか」という問いには、「わが国ではそうは教えていない。日本とドイツが似ているというのが多数派である」という、答えならぬ答えしか返ってきませんでした。いくら質問してもそこから先はもう「1+1=2」の世界で、堂々巡りという以下のレベルになってしまいました。もちろんこれはその人物が悪いのではなく、近代史のみの日本理解しかしていない、という中国の国家教育のせいなのだ、と私は絶望的に納得する思いでした。しかも結論を優先し、そして結論を操作する教育である可能性すらあるのですからおそろしいものです。そしてもしかしたらそれは、司馬さんのエッセイにあるように、本来好き嫌いと一番無縁に情報と事実を扱わなければならない諜報機関までが「自分の国が好きかどうか」という器の小ささを背負っていることと無縁ではないのでは、という気がしてきたのですね。私たちの日常でも、どうしても好かれたい、という人間はその感情に取りつかれて器をどんどん小さくしてしまいますね。中国の人たちがいう「自分の国が好きかどうか」ということも「1+1=2」の、おそろしく冷たいシンプルな世界なのだ、とすると納得できる気がします。ものすごく変なたとえですが、中国人の「自国を好き」という言葉には「数字」を感じてしまいます。「好き」という言葉はどんなものに対してであれ、血の通った「熱い」あるいは「あたたかい」言葉ではないのでしょうか。「好き・嫌い」は数学や算数の授業で教えることではないですよね(笑)
日本人の「親日」「反日」への意識はおそらく中国人ほど敏感ではないと言えると思います。しかしもし何かのきっかけがあってそれらを意識せざるをえないときは、「親日感情」そのものよりも「日本研究」を含んだ「親日感情」を歓迎する余裕があってしかるべきだと思います。近代史のどこかの部分をとりあげては賞賛する、あるいは賞賛してほしい、といったパターンの「親日」とはそろそろ縁を遠くした方がいいと思います。そういった近代史的な「親しみ」アレルギーに陥って器をどんどん小さくしている中国をみれば、親しみは得ようと思って得られるものでない、ということが自然と理解されるでしょう。これからの日本は「日本研究」を大事にして育てようとする国をこそ大事にするべきだと思いますね。
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コメントコメント


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 地方で議員をやっているものです。
 たいへん面白く読ませていただきました。
 国を好きになる、ということのすばらしさと難しさみたいなことがよくわかりました。
 N.Wさんのような方がいらっしゃることが、非常に励みになります。
 知り合いにも宣伝させていただきます。
 私の本名と連絡先、掲示されているご連絡先にメールさせていただきます。
 今後ともよろしくお願いします。

ゴッドファーザー | URL | 2006年12月03日(Sun)14:25 [EDIT]


インターネット規制の序章か?

はじめまして

真の自由が保障されてきたインターネット言論に規制の危機が迫っています!!

【引用元ここから】
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20061226k0000m040135000c.html

発信者情報:同意なしで開示へネット被害で業界が新指針
インターネット上のプライバシー侵害や名誉棄損について総務省と業界団体は、情報を書き込んだ発信者

の同意がなくても被害者に発信者の氏名や住所などを開示する方針を固めた。これまでは発信者が開示を

拒否すれば、誰が悪質な情報を流したか被害者側には分からず、泣き寝入りするケースが多かった。業界

団体は新たなガイドライン(指針)を年明けに作り、来春から導入する。【ネット社会取材班】

02年に施行されたプロバイダー責任制限法はプライバシー侵害など正当な理由があれば、被害者がプロ

バイダー(接続業者)に対し、書き込みをした発信者の情報開示を求める権利を初めて認めた。しかし、

実際の運用では「どのような内容が侵害に当たるか明確な基準がなく、業者側で判断できない」(社団法

人テレコムサービス協会)との理由で、発信者の同意が得られなければ事実上、開示できなかった。

このため、業界は総務省とも協力し、同法に基づく自主的な発信者情報開示のためのガイドラインを策定

することを決めた。原案によると、他人の氏名や住所、電話番号など個人を特定する情報を掲示板などに

勝手に書き込む行為を幅広く「プライバシー侵害」と認定。個人を名指しして病歴や前科を公開すること

も含まれる。

こうした場合にプロバイダーが被害者からの要請を受け、発信者の同意がなくても、その氏名や住所、電

話番号、電子メールアドレスなどを開示できるようにする。

一方、名誉棄損については、プロバイダーによる任意の発信者情報開示をあまり広く認めると「政治家や

企業経営者らの不正や問題点の内部告発までネット上からしめ出す懸念もある」(業界団体幹部)と判断

。これまでの名誉棄損裁判の判例も踏まえ、公共性や公益性、真実性などが認められない個人への誹謗(

ひぼう)や中傷に限って自主的な開示の対象とする。

被害者は裁判で発信者情報の開示を求めることが多かったが、悪質な書き込みをした発信者を早急に特定

し、損害賠償請求できる可能性も高くなるとみられる。

業界と総務省は一般からの意見も募集したうえで、早ければ来年2月にも導入する方針。

英文を読む
毎日新聞2006年12月26日3時00分
【引用ここまで】

これに対して,保守Blogの本部的存在「新しい風を求めて NET連合」様より

http://shinpuren.jugem.jp/?eid=32

〝ネット規制〟に対する協賛ブロガーの見解

とのことです.

皆様のご懸念の通り,人権擁護法案のインターネット版になりかねません.
例えば北朝鮮や総連批判→個人情報開示要求→開示→報復の懸念があり,言論が思うようにできなくなる

危険があります.
在日のように,弱者・被害者を装った無法者をのさばらせることになりかねません.

戦後の言論・思想の自由とは,国への反対や批判だけの自由であって,賛成や支持の自由は弾圧されてき

ています.唯一それがなかったのがインターネットでしたが,そのインターネットまでもが左翼だけの自

由の場にされかねません!!

引用先Blog様のコメントともども,是非ご覧ください.

抗議先:自民党への意見

http://meyasu.jimin.or.jp/cgi-bin/jimin/meyasu-entry.cgi

抗議先:総務省への意見

http://www.soumu.go.jp/menu_00/opinions/index.html

安倍総理や自民党,維新政党・新風様,そして心ある憂国政治家・評論家の先生方にどんどんメールしま

しょう!!

くちべた日本人 | URL | 2006年12月28日(Thu)01:14 [EDIT]


管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

| | 2006年12月31日(Sun)21:35 [EDIT]


 
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