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日本人のアイデンティティ


古代史や言語分布を通じて「日本人の起源」を追求する人は一時期ほどではないにせよ、依然として存在するようです。それはそれでいいのですが、私に言わせれば、こういう起源探究と、日本人のアイデンティティを混同することは、非常な間違いです。そして危険でさえある。たとえばよく「皇室は朝鮮半島から来た」ということをいう人がいます。「だから・・・」という言葉が続く場合がほとんどです。後日の文章で述べますが、これは実証的見地からいっても全く間違いなのですが、それ以上に、こういう言い回しは、起源探究と日本人のアイデンティティを混同してしまっています。
たとえば中国にとって歴史的連続性を意味する最大のものは「漢民族」の連続性ですが、この漢民族の起源についてはさまざまな説があり、海洋民族であったという説もあるのですが、しかし現代中国は、「中国四千年」というプロパガンダの中で、「起源」の問題になどほとんど関心がありません。起源をたどればアフリカの類人猿が偉いことになるよ、とある中国人知識人に言われたことがありますけれど、それは存外間違いなことではありません。
「起源」の問題と現代のナショナリズムはなるべく区別して考えていかなければならない、ということですね。古代史への憧れの源には、こうした混同があり、混同しているがゆえに、魅力に満ち満ちている、ともいえます。しかし私も日本人ですから、古代史に日本人の何らかのナショナルアイデンティティをとらえてみたい、という願望がないわけではありません。一般の人たちが群がる「起源さがし」とは別の意味で、日本人のアイデンティティを見出すことは可能でしょうか。私に言わせればそれは充分に可能です。
私達の国は古来から「大和」「扶桑」などいろいろな名称を有していましたが、対外的には中華世界の蔑称である「倭国」を外交上、とりあえず使用していました。三世紀の都市国家・邪馬台国は倭国内の連合王国の代表であり、五世紀の「倭の五王」は履中天皇や雄略天皇など、当時の天皇たちを意味するわけですね。この「倭国」という言葉と「大和」「邪馬台国」という言葉の類似性・関係性について周知のように侃々諤々の議論なのですが、もちろん私はそんなことが証明されたりされなかったりすることは「日本の起源」ということと、全く関係ないと考えます。
大事なことはこの「倭国」の称号がいつ「日本国」に変更になったか、ということですね。記録を追うと、670年、新羅に到着した倭国の使者が日本国への国名変更を通告してきた、とあります。その少し前、中国(唐)にきた倭国の使者は依然として「倭国使者」ですから(唐の文献に日本国への変更が記されているのは701年)日本国への国名の変更は670年(あるいは669年)というふうに考えるのが妥当でしょう。「日本」という意味は「太陽のもとの国」という意味で、世界の中心を意味する「中華」に対して引けをとらない堂々たる名前なのですが、なぜこの670年に倭国の日本国への名称変更が行われたのでしょうか。これはこの7年前、朝鮮半島の白村江で行われた大戦と敗北ということが、大きく原因しております。
当時の朝鮮半島では中国(唐)側にたつ新羅と倭国(日本)側にたつ百済が対立状態にありましたが、半島の覇権を巡り、ついに全面衝突に陥りました。新羅を支援するため、世界最大の帝国(当時)の唐が大軍を朝鮮半島に派遣してきたのですが、倭国側の斉明天皇(女帝)も百済支援を決意し、のべ約五万人の大軍を三次にわたり半島に派遣します。今まで朝貢の対象でしかなかった中華世界に対して軍事的対決を決意したことに、まず大きな意義が見出されるべきでしょう。当時の日本列島の人口が現在の二十分の一、そして東北・北海道などはまだ中央政府の傘下に入っていないのですから、この五万という人数が二次大戦に等しい軍事規模であったことがよくわかると思います。しかし白村江で唐・新羅と対決した百済・倭国の連合軍は大敗してしまいます。
白村江の敗戦が倭国の首脳に与えた影響はすさまじいものでした。唐の絶対的国力からして、唐が続いて日本列島に大挙侵攻してくることは容易と考えられたからですね。国防力の整備は当然のこと、そのための税制や地方管理など、さまざまな「国のかたち」の整備を緊急におこなわなければなりません。それまでの日本(倭国)の安穏とした統治ではとても世界最強の唐に敵わず、百済のようにひとたまりもなく踏み潰されてしまう。日本の行政制度の整備が645年の大化の改新の政変に多くおこなわれた、ということに歴史教科書上はなっていますが、実は本格的な大変革はその18年後の白村江の大戦後におこなわれたのですね。いずれにしても、日本列島を襲った驚嘆、恐怖、苦悩ということは、どんなに私達が努力して想像しても及ばないほどの激しいものだったことでしょう。明治初期、ヨーロッパ列強のパワーへの驚嘆と恐怖から、近代化に奔走した明治政府首脳の苦悩と、当時の倭国朝廷の苦悩に類似を見ることは、決して間違いではないでしょう。急に対抗しなければならなくなったのは軍事力やそれを支える経済力だけではありません。
中華世界に互角に張りあえるだけの「世界」を独自に構築し、内実ともに中華世界に対抗しなければならない、という壮大な建国作業がここに始まります。すなわち白村江の大戦こそが日本の「起源」であり、日本という国のナショナルアイデンティティというものが古代史にあるとするならば、中華世界への対抗意識つまり「反中国」ということなのですね。「反中国」が古代史上、日本のアイデンティティである、というと、「魏志倭人伝」などに気を奪われている人たちからは「気でも狂ったのか」といわれそうですが、残念ながらそういわざるをえません。
かくして「日本国」の国名変更とほぼ同時に「大王」あるいは「治天下大王」といわれていた日本の天皇は「天皇」と名前を変えることになります。日本国への国名変更を外国に通告したのは668年に即位した天智天皇ですが、「天皇」という称号を使ったのは彼が始まりであり、つまり中華帝国の「皇帝」に対抗する、という意味なのですね。そして壬申の乱を経て即位した天智の弟の天武天皇により、わが国初めての歴史書である「日本書紀」の編纂が681年に開始されます(720年に完成)日本書紀の前後を通じ、漢語を利用しつつ巧妙に漢語の影響を排除した「国語」も急速に整備されてくる、というふうに、それまでアジアの辺境だった日本列島は急に忙しくなってきます。私達はこの「日本成立」にさまざまなナショナルアイデンティティの形、すなわち「反中国」ということを見ることができます。
たとえば「日本書紀」に関していわれるきわめてステレオタイプな悪口に、初代神武天皇の即位年を紀元前660年という縄文時代のど真ん中においている、というものがあります。史実性がない、ということです。しかし紀元前660年という数字が事実でないということを、戦前の人が無前提に信じていた、ということではありません。「歴史教育」と「歴史研究」は区別されるべきもの、と言いましたが、戦前、実証的歴史学の権威で、神武天皇は実在したとしても紀元後の人間である、ということを明言した那珂道世博士でさえ、歴史教育として、神武伝説は教えなければならない、といっています。「日本書紀」の伝説性ということには、それを信じることによって、何らかの意味がある、ということを戦前の人間は知っていた、ということになります。それは「日本書紀」という書物が、いったいどういう目的をもって書かれたか、ということと関係します。その目的とはつまり、白村江の敗戦、国名の変更、国語の編纂という一連の「中華文明への対抗」ということと関係します。
「紀元前660年」ということは、始皇帝が中華世界を初めて統一した紀元前221年に対抗するための、数字上のフィクションととらえるべきなのですね。フィクションはフィクションなのですが、7世紀の日本の難しい政治状況の中での日本の建国、ということを考えるならば、複雑な意味をこめたフィクションである、といわなければならないでしょう。そして7世紀の政治的現実(建国)や国際的現実(反中国)ということを考えれば、この数字上のフィクションはある意味で「事実」であるともいえる、と私は思います。「事実」ということは、7世紀の建国事業の経緯の中での「日本国」の構築ということです。
あるいは租税を何年も免除する仁徳天皇の有名な聖帝伝説は史実性を含むということ以上に、中華世界的な聖帝が我が国にもかつて存在した、ということを中華世界に向かって宣言しようという巧妙な意図が存在します。仁徳天皇という優れた天皇の実在の伝承に加えて、プラスアルファで物語的に「中華世界・中華文明への対抗意識」をこの仁徳帝の伝承にふんだんに含ませているわけです。
私としては「日本書紀」は数多くの史実性を含んでいる、と考えていますけれど、その史実性以上に大切なことは、7世紀、苦しい状況の中にありながらも「倭人」から「日本人」に堂々と変貌した私達の国の首脳が必要としていた「神話」を読みこまなければならない、ということなのですね。国民国家について説明したように、どこの国であっても、あるいは国民国家でなく王権国家であっても、国家が必要とする神話はそもそもが人工的なもの、フィクショナルなものなのです。その「フィクション」を「嘘」と嘲笑することは全く子供じみた行為であるのはもちろんのことです。フィションの中に、建国時にどうしても必要としたもの、建国に携わった人の身悶えするような気持ちを読み込むことが何よりも大切なのです。ですから私は「日本書紀」をいろいろな意味で深読みすることで、日本人の神話を知ることができる、そしてその「日本人」とは7世紀に目覚めた、そして苦しんだ人たちなのだ、と思います。こう考えれば、古代の天皇の「いる・いない」の果てしない真偽判定に日本人のナショナルアイデンティティを見つけようとあくせくしている客観主義を自負する人たちが愚かである、ということが多少なりともいえるのではないかな、と思いますね。
繰り返しになりますが、「日本書紀」を例にして、そこから察することのできる私達の先祖のアイデンティティ、日本人の起源ということは「反中国=反中華文明」ということなのです。その後日本は対中華文明的には鎖国状態に陥り(あるいは意図的にその方向性を選択し)ついに近代にいたるまで中華世界を単なる文献上の存在、でとらえ続けました。中国を勝手に聖人君子の国と誤解して「日中友好」や「日中提携論」を唱える人は本当に困ったものだと思いますけれど、それだけでなく「中国への対抗」ということが実は我が国の「起源」である、ということを知らない、というのは戦後の日本の歴史教育(古代史教育)の大きなミステイクだったといわなければならないと思います。「反中国」という根本的かつ歴史的背景にしっかり裏付けられたナショナルアイデンティティに比べれば、陸軍皇道派や戦後の自民党田中派、旧社会党などの親中国路線というのは近代になって登場した全く真新しい概念で、しかも対象的・歴史的根拠にきわめて乏しい考え方であるといわざるをえないでしょう。
結論的にいえば、日本人が7世紀に作成した建国神話のいたるところに散りばめた「反中国」のテーマは、近代の一部分の曲解の上でしか成立しない「反日」の「反」よりも、よほど大きく幅の広いものをもっている、と私は思います。
      
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コメントコメント


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論旨には反対ですが、

教えは受けました。

 なお、東条英機は卑怯未練な屑野郎だと思います。

 自らが立案・制定した戦陣訓で、多数の日本人を犬死させておきながら自らは戦陣訓の訓絵に反して敵軍の捕虜となり、捕虜となる意思を巧妙に隠蔽するために、逮捕要員が自宅に到着する寸前を狙って狂言自殺を図ったのをみても、彼が如何に卑劣・卑怯未練な屑人間化が明らかです。

 大体、本当に責任を感じていたならば敗戦当日に自殺すべきでした。それをおめおめ逮捕当日まで生き延び、その自殺方法も、拳銃自殺なら銃口を口にくわえれば、仮に空砲であったとしても確実に死ねるのに、なんというう卑劣なことか、前日に掛かりつけの医師に心臓のありかを教えてもらってそこに印をつけ、左利きなのに右手でその場所に銃口を当てて引き金を引いたと言うのですから、それではよほどうまくやらないと死ねないことは明らかです。しかも、茶伊保舞台が玄関に入ったとたんに引き金を引いたと言うのですから、失敗をすると直ちに救急治療を受けられることを計算に入れていたことは確実です。

 逮捕ぬ来ることは前から分かっていたのですから、この得のように本当に自殺するつもりがあったのなら、前夜にでも首吊り自殺でもすりゃあ良かったのです。それをしないで、逮捕舞台が厳寒に入った瞬間を狙い済まして自殺未遂をする。いやな奴ですね。まるでヒロヒト同様。

 なお、以上の東條自殺に関することは

亀井宏著 昭和の天皇と東条英機 光人社

を参考にしました。

福田恒存をやっつける会会長 | URL | 2007年01月19日(Fri)11:57 [EDIT]


 
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