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「管理」されるイメージと文化



犯罪の多発ということがマスメディアでよくいわれます。このまま犯罪が増加を続ければ、いずれこの日本の社会は身動きが取れなくなってしまうだろう、というきわめて暗い認識です。しかし「暗い認識」であるにもかかわらず、それを語る人達がそれほど暗そうではなく、「暗い認識」を再生産している気配、これが犯罪報道の世界の常態です。少しも暗そうでなく、その「暗い認識」が語られ、誰が話しても同じような言葉が新聞やテレビに現れ、数日もたてば忘れ去られていきます。
    カントがその実践理性論で、本当の悪とは悪をなしたかどうかではなく、悪を他人事のように語る精神的闘争状態のなさだ、ということの切実さが露ほどもこの国にはないかのように思えます。殺人事件の殺人という行為を倫理的に批判することは、実は途方もないほどの不可能性をもっているかもしれないのです。なぜならば私達の大部分は、殺人行為や殺人の故意と無縁なまま、その一生を終えるだろうからです。それなのに殺人を論じることが果たしてできるのだろうか。このことは少なくとも私にとってはいつまでも解決不能な大問題です。にもかかわらず、マスメディアでは連日、夥しい数の「犯罪批評家」が現れては消えて、犯罪とそれを生み出した土壌について、様々な言葉を視聴者に投げかけています。
    犯罪はもちろん由々しきことで、被害者の心中を察するに、同情の言葉をどれほど並べても足りないものがあるでしょう。しかし当たり前すぎることですが、倫理的応報をくだすのは裁判所であり、またある意味で犯罪捜査機関であって、別にメディアではない。ならば犯罪があった事実のみを伝えるのがメディアの役割なのでしょうか。さにあらず、でしょう。大体、事実そのものを伝えるということ自体が絵空事であって、報道段階において報道的事実を選択しているという段階からして、メディアが純粋客観的である、ということは不可能です。主観主義と客観主義の対立をいえば、メディアはそもそもが主観主義的なものです。にもかかわらず、客観主義の御面を被った上での主観主義ということが、メディアの主観主義をかなりタチの悪いものにしている。主観的でしかありえない宗教を、客観的に語るという根本的な虚偽を知らない振りをして主観的に語る宗教学者一般を、「哲学銀行の出納係」と手厳しく批判したキルケゴールに倣えば、彼ら犯罪批評家は「犯罪学銀行の出納係」とでもいうべき存在なのでしょうか。
  「犯罪とは何か」という哲学的・思想的探求をメディアで語るべきだ、ということを言いたいわけではありません。まさかそんな時代が来るはずもないでしょうが、メディアの語りが哲学的になってしまうということの方が、ある意味で哲学の危機や哲学の根本的喪失といえるかもしれないと考えるべきだからです。あるいは統計的なデータを観ると、我が国の犯罪率は欧米に比べてまだまだ圧倒的に低く、また犯罪の種類によってデータの観方も色々と異なるのはいうまでもないですがしかし、こういう反対事実のカウンターオピニオン的事実もせいぜい、メディアの擬似客観主義の範疇にあることでしょう。一昔前に比べれば、犯罪は我が国において、全体的に増加しているといえる、ということになれば、ああそうか、ということで話が平行線になったり短絡的に決着してしまうだけでしょう。しかし「犯罪の増加とは何か」ということ、つまり犯罪と社会とのかかわりへの考察の欠如、ということになると、話は違ってくるように思います。
    たとえば、家庭内暴力や児童虐待の話です。日本で家庭内暴力や児童虐待が「増加」しているという。おそらくそうなのでしょうし、またそれに対しての反対事実の指摘も可能でしょう。しかしたとえば、アメリカで数万の件数毎年起きているような、父親と息子が母親を略奪愛して凶悪事件化するというような、生々しい性愛がらみのものが「増加」すれば、たちまちメディアの犯罪批評家の安穏とした饒舌は深刻な沈黙へと変わってくるのではないでしょうか。量的な犯罪の増大ではなく、アメリカの犯罪の質的な現状が日本に全くそのまま現出したときに、日本がそのことに果たして耐えられるかどうか。この一例だけでも、メディアの「犯罪学銀行の出納係」が、全く狭い射程でしか「犯罪」や「悪」を議論していないことがたちどころに判明してしまいます。犯罪報道はイカモノの三文サスペンス劇場と似たかよったかのあまりにも脆いフィクションに過ぎないということでしょう。
    アメリカでは、近親相姦を通り越して近親間のレイプはほとんど日常的な風景になっているといわれています。或る刑事学説によれば、20人に1人の女性が、幼年期に、男性の家族に、何らかの性的な行為をおこなわされている、ともいいます。ですからアメリカでは、強姦罪というのは家庭内でのそれが深刻に増えており、幼児性愛が、親子間のものという二重の異常性を背負っている。恐ろしい世界ですが、恐ろしいとだけいっていても何も成りません。近親愛の禁止が文明の発生であるという人類学の通説に従えば、まさにアメリカは文明崩壊の危機に瀕していて、しかし世界の政治的主導を行い、文明的先端をはしっているという奇妙な事態を生じている、というふうに考えることもできるわけです。アメリカが犯罪大国だから、ということで話を片付けるのは容易いですが(犯罪発生率自体はアメリカよりイギリスやスウェーデンの方がはるかに高い)日本での家庭内暴力や児童虐待の増加が、アメリカの現状のような、ほとんど文明の根幹にかかわる「悪」の進展とかかわる可能性もある、ということについて、おそらく犯罪批評家の「深刻な認識」は何も答えられないに違いありません。つまり、「犯罪の増加」が、文明社会の根幹を崩壊させるかもしれないという真の危機感がない。
   犯罪というものは、そもそもが文明破壊的なものをもっているものなのです。だからこそニーチェは「あらゆる犯罪には煌くような存在の輝きがある」と断じたのです。「我が国がアメリカのようにならないようにしよう」というような政策的発言は実は何も言っていないことに等しい。文明は、破壊への激しい危機感があるからこそ、すべてをかけて秩序を求める、ということになる。実は懐疑主義ということもそこから生まれます。ほとんど破滅的な犯罪発生状況になれば、人間への懐疑や自己への懐疑が生まれるのが必然だからです。「悪」は他人事ではないからです。これらのほとんどが、日本の犯罪批評には全く欠けているといわざるをえない。きわめて逆説的な言い方ですが、或る意味において我が国には「犯罪」がリアルに存在しえない国だ、ということもできるのです。
    かくして我が国こそが「犯罪の増加」と文明や国家の関係について、ほとんど考察を欠いているという指摘も可能になってしまう。毒気は、毒の量がほどほどだから、毒を抜くことを楽しんで、それを論じながら食することが可能なのです。「犯罪とは何か」という哲学的考察と一生無縁なままな人間が大多数でも、社会にとって、さしたるマイナスはないでしょう。しかし「犯罪の増加とは何か」について考察がないということ、言い換えれば文明や社会にとっての「犯罪」の意味が不明であるということは、文明的態度の喪失の一つであって、なかなかに深刻なことだといわなければならないでしょう。妙な言い方ですが、メディアの犯罪報道に、私達は或る意味で「安心」してしまう。更に奇妙に聞こえるかもしれませんが、犯罪の毒性が、マスコミによって保護防衛されている、ということもいえるかもしれないのです。あるいは私達が不安になるのは安心できないような犯罪状況が起きたときで、安心できるような解釈へと、必死で逃れようとする。空気と水と安全はただだ、というのが日本の思想だと山本七平はいいましたが、犯罪は安心できる軽いものだ、というのも、日本人の思想だということができるでしょう。犯罪が起きたと伝えられるとき、なぜ安心すること(安心しようとすること)が私達はできるのかでしょうか。
   おそらく、私達は何かの絶対的な評価というものを既にしているからこそ、安心という精神状況を得ることができるのでしょう。アプリオリといっていいほどに固定的なものだといってよいのかもしれませんが、私達の中に秘められたアプリオリ的なるものと、報道的現実が一到するときに、私達は未来と現在が連続したかのような感覚に浸り、安心して、犯罪に言葉を投げることができるのだ、といえるのではないだろうか、と思います。アプリオリ的なるもの、とは、アプリオリなものと錯覚しうるような、日本人にとって完全に近いからくりがそこにあることを意味するといえましょう。
    どんな犯罪が、ということでなく、「どんな人が犯したか」ということに関しても、私達はアプリオリな価値判断を有している場合が多いことに気づかされます。たとえば政治家の職にある人達が贈収賄系の犯罪を犯した(嫌疑をかけられた)ときでも、私達は自分でコントロールできる範囲の怒りを言うことができる。もちろん私は政治家の贈収賄犯罪はけしからん、と思います。しかしそうした情報に触れるとき、自分の中に、アプリオリな判断といっていいほど固定的にイメージ化されたもののフィルターを通じて、彼らの行為を考えてしまっていることをどうも認めざるをえない。どうも「贈収賄犯罪」ということにリアルに向きあっていない。犯すべき人間が犯したのだ、私の思っていた通りのことが起きた、という認識からどこかで自由でないのです。政治家犯罪への、私達の、ともすればサディスティックな、同情の余地のない価値判断というものは、何とも不思議なくらいのものです。政治家とはそういう職業なのだ、という認識なのです。政治家を選挙システムによって選択している選挙民としての正統なる怒り、という正論ではとうてい納得できない何かがそこにあるというべきでしょう。
    日本の政治家をイタリアのマフィアになぞらえたら政治家の方々の激怒を買うかもしれませんけれど、イタリアがマフィアを社会から排除できない(しない)理由というのは、イメージ論から掘り起こせば、国民国家の形成の何処かで、ナショナルなものの光景の一部としての刷り込みがあったのだ、と考えることができるでしょう。イタリアでマフィアへの悪口を言うことができないということではぜんぜんない。むしろ悪口をいい、マフィアの排除を言うという言説を際限もなく再生産しているまさにそのことによって、マフィアはイタリア人の精神性とともに固定化しているのだ、ということがいえるのではないでしょうか。そしてそのことによって、イタリア人は、マフィアとの対立を裏返しに放棄しているといえるのではないでしょうか。その社会にとって必要不可欠なイメージというものは自然な形で管理されるといっていいでしょう。日本人の場合、「犯罪」というものが一種のイメージ管理として存在しているのではないだろうか、と私は思います。極論すれば、日本ほど「悪」を厳重に管理してしまおうとする文化も、他にはないといえるのではないかと考えます。
   たとえば、田中角栄的手法が政治的悪としてずいぶん次元の低い宣伝をさんざんあちこちのメディアでされてきました。しかし、私からすれば、田中的手法を月並みに批判する人々政治家あるいは政治家的な立場の人間にこそ、安易な田中的手法が見受けられる。これはひとえに、田中的手法への批判が、イメージの世界だけでおこなわれてきたことによります。中国ほどひどくないですが、我が国は明らかに複雑なコネクションを重視する世界であって、田中批判を期に、それが革命的に改められたということは全くない。ある哲学教授が「東京大学にヴィトゲンシュタインが教員公募してきたとしても、書類に彼を推薦する教授がいなかったらふるい落とされるだろう」といいましたが、地方公務員就職などまで含めて、就職斡旋をすることが、国民規範的に公正に反することである、というふうに考えるモラルは依然として確立されていません。「頼みます」「お願いします」の世界です。当たり前のことで、イメージ的に田中的手法を批判することと、自分の存在論として田中的手法を自己検証することは、全く別のことになってしまっているからです。
    それはまさしく「犯罪」というものへの態度と同一で、しかもその「犯罪」が今度はイメージ管理の武器になって、「政治家」というものを意味づけることになるのです。「日本には優れた政治家がいない」などと嘆く前に、いかに私達がメディアとの共同の作為で、私達が政治家というものの意味を管理しているか、自省してみればいいでしょう。全く同じように、「家庭内暴力」も「児童虐待」も、依然として刷り込まれたときのままのイメージで、私達は安心して怒ることができる。刑罰と倫理ということは密接に関係しているものですが、しかし本当の激しい犯罪というものは、刑罰の実際を忘れるくらいの倫理の問題がそこにあるからだ、という言い方が可能です。しかしメディアでの犯罪報道での批評家の「怒り」は、刑罰論に終始している。これほどの犯罪者は厳罰に処すべきだ、という類のロジックなのです。しかし、「怒り」は本来は刑罰論とは別個のところで徹底されるべきものなのではないでしょうか。
     考えれば考えるほど、「許された悪いこと」をつくりだそうとするのが、マスコミの作為の目的だということがわかってきます。「人はよくあって未だに自分を満足させる可能性のあるものを改変することを容易に肯んじない」とヴァレリーは言いました。「許された悪いこと」との共存という文化の根源的なパターンを、日本人はそう易々と変えようとしないのでしょう。歴史的なことをいえば、近代日本で繁栄が謳歌された時代というのは明治以来、星亨(帝国議会制度の確立期)、三木武吉(戦後再建期)、田中角栄(高度成長期)といったダーティなイメージを背負う政治家を必要としてきたのです。もちろん政治家にも予想されない犯罪が頻発しはじめたら(たとえば予想しにくいことではありますが、政治家が殺人事件を起こしはじめるとか)私達は「政治家犯罪」へのこの何とも不思議な安心感というものを失うことになるでしょう。
     繰り返しになりますがどうも、「犯罪」というものの意味づけが、この国の巨大なぬるま湯の神話の一部でなければならないような作為を、メディアとその受け取り手である私達は失うことができない。何処の国でもメディアの悪癖というものはあるのでしょうが、どうも我が国の場合は、「犯罪」というものに関して、それが甚だしいものなのではないでしょうか。私達は政治家は時として予想されたかのような犯罪を犯すのだ、というモラル意識を有しているという甚だ矛盾した精神神話をもっているというべきなのでしょう。そしていろいろな犯罪について、こうした予定調和的なものがあって、それを乱さないようになるでしょう。
    「犯罪(あるいは犯罪者)へのアプリオリな価値判断」というものを考えるとき、犯罪の現実があって私達は物語を描くのではなく、物語があって犯罪のイメージがディファレンスを伴い生じるのだ、というとらえ方は、主体がまずあって主体の思惟・意思が生じるのではなく、客体である書物のイメージがあって、そのずれを繰り返すことよって、私達は「思わされて」思惟や意思が生じる、というデリダをはじめとするポストモダニズムの主張を何処となく思い出させるものです。たとえば、近代純文学からテレビドラマのシナリオに至るまで、汚職に塗れた政治家というのは箒で掃いて捨てるほど現れる。そのイメージ化はたとえば近代以前の時代にまで及び、江戸期は同時代の欧米や中国に比べて圧倒的に汚職が少ない世界だったにもかかわらず、近代以降の社会の政治世界のイメージを、江戸時代にほとんど乱暴な形で投入するという物語を延々と再生産して、物語から、江戸時代と現代社会の政治家への価値判断をしてしまう、ということをしている。
   私は人間の主体性に否定的なデリダの思想的主張には、昔からあまり賛同できません。デリダ的なロジックというのは俗化したときにたいへん危険な面をもっていて、たとえば実存主義をはじめとする既存の思潮のすべてに視覚中心主義のレッテルをはって、あたかもかつてのマルクス主義のような権威的暴走を来たしかねないのです。しかし少なくとも「犯罪」に関しての私達の思惟のからくりの解体においては、非常に有効であるような気がします。私達があまりにも物語という(文字)客体ということと主体性の間が固定化しきっているから、です。物語があるからこそ現実が作り変えられる、という主張が一面をとらえているということです。多くの人が江戸時代をおぞましい汚職時代と錯覚しつつ、反面、水戸学という、司馬遼太郎曰く「近代になり日本人の柔軟性を奪うことに最大に貢献した思想を確立しようとした」徳川光圀の問題性を和やかに覆い隠してしまう、という物語装置が、今でも毎週ゴールデンタイムで発動しているわけです(笑)
    このような「犯罪物語化」(あるいは登場人物化)の垂れ流しは何も政治家を対象としたものに限ったことではなく、大学教授や元警官やらも、犯罪物語の登場人物化のテクノロジーに乗って現れ、「大学教授」や「警官」への私達の思惟そのものを左右している、ということが少なくないのですが、反面、どういうわけかマイナスイメージの登場をなかなかしない職業もあるのです。
     その好例中の好例が、たとえば判事だといえます。法廷ドラマや法廷小説がありふれている中で、判事の倫理を扱ったストーリー、つまり欲望や絶望といった人間的な業を背負った判事というのは、純文学からテレビドラマまで、わが国の物語にはほとんどないような気がします。これは私の寡聞のせいなでしょうか。判事が自分の身を持ち崩すような恋愛をしても不思議ではないのに、なぜかそういう物語は私が追う限り、ほとんど流通していない。性犯罪や凶悪犯罪に手を染める、とまでは言わないまでも、賄賂や情痴にかかわって判決を捻じ曲げる判事の物語があっても不思議ではないのに、と私には昔から不思議に思えて仕方ありませんでした。実際そういう判事がいないから読者や視聴者がリアリズムを感じられないのだ、という意見もあるかもしれませんが、報道事実的な言い方をすれば、実際は判事による犯罪は政治家に比べても、皆が思っているほど少なくはないのです。
    あるいは、馬鹿らしいと思いながらけっこういつも何気なく私がみてしまっている、江戸時代の時代劇ドラマでの「悪代官」「悪奉行」というのは、どうみても政治家的存在として描かれ、判事的存在ではない。代官・奉行というのは判事的な色彩が強い官職であったにもかかわらず、です。面白いことに、代官や奉行が、買収されたり個人的な欲望で、誤判決をくだすという判事的場面の「悪」というのは、ほとんど描かれることはない。代官や奉行の「悪」の場面は、政治家的場面、せいぜい行政官的場面での賄賂の授受や民間への暴力というものに限られます。ここにも、意図せざるイメージの管理を見て取ることができるといえましょう。「犯罪を犯さない(犯してはならない)」判事というイメージに、私達は何かを感じなければならないのでしょう。日本以外の国、諸外国の国民文学やメディアドラマのこのことに関しての状況は、いったいどうなのでしょうか。「犯罪物語」の配置による国民意識の形成ということは、どこの国においても、日本ほど明瞭なものなのでしょうか。
    ヨーロッパ大陸法の世界では、判事あるいは判事的存在というものに対しては、まるで日本の政治家に対してのように、非常な不信感をもっています。フランスでは司法機関が貴族階級に買収されることは頻繁でした。艶笑文学に登場する判事も少なくない。ドイツに関していえば、近世の時期に、魔女裁判や動物裁判(動物を起訴して被告にして裁くという奇妙なことが、16世紀から17世紀に頻発した)などでとんでもない判決をくだし、そのまま近代へと引き継がれているという印象があるといえましょう。あるいはナチス時代にしても、判事がナチス法の適用者である、という印象が極めて強い。いくら私達が日本の戦時体制時、特高警察や検察をミリタリズムの手先として批判することがあっても、判事が、戦時体制の手先であるという印象は、不思議なことにほとんどないのではないでしょうか。アングロサクソン世界だけでなく、ヨーロッパ大陸法の世界にあっても陪審制度の要求は強く、歴史的に何度も導入されているのですが、それは判事をはじめとする司法機関が、政治家や行政官と同じような不信感を抱かれているからに他ならないのです。犯罪物語による管理から全く免れている判事・司法官のイメージを固定化して有している私達からすれば、こうしたことは理解しがたいことです。
  イメージがメディア的に生成管理されるということがいけないということではぜんぜんありません。犯罪についてリアリティを有しているアメリカにしても、たとえばキリスト教的な宗教世界に対して、イメージの管理や防衛をしていることは容易に想像できることです。ただ少なくともいえることは、そのレベルの管理を施されている限りは、その文化的要素がその文化的ナショナリズムにおいて自立性を確保できるということはとうていありえないということです。ましてその文化的ナショナリズムの要素が世界に誇るべきナショナルアイデンティティを形成することはとうていありえない。真の意味での批判的対決が放棄されているからです。「犯罪」が然りであり、「政治家」が然りであり、実は不自然なほどに過保護にされている「判事」すなわち日本の司法文化というものもそうである、というふうに私は思います。




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