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「神話」と歴史についての一考察

「神話」と教育についての一考察


    先日、とある場所で自己紹介を書かされ、自己紹介の一部に、血液型の箇所があることに気づきました。そのことをその日の晩の酒席で不意に思い出して、「これが本当に紹介する自己の一部なんだろうか」と呟いたら、「やはりお前は天の邪鬼なB型だな」という答えならざる答えが返ってきたのでちょっとカチンときた。血液型の話題が普段から大好きな友人なのです。「じゃ血液型で性格を判断しようとする血液型と、血液型で性格を判断しようとしない血液型はそれぞれ何型なんだろうか?」と聞いたら、彼は腕組みして、「やはりそういう質問をすること自体が、君がB型だということなんじゃないのか」という答えが返ってきて、私は思わず大笑いしました。彼の真面目ぶりが、非常におかしかった。こういう類の血液型を巡ってのお話は、毎日、この国のいたるところで繰り返されていることでしょう。
    「出身民族で個人をどうこう判断してはいけない」、あるいは「両親やそれ以前の先祖の先天的能力や先天的異常でその個人を先入観的に判断することはおかしい」そういいながら、私達は「先天的なるもの」に、どうしても関心をもってしまいます。平等主義といいながら、能力や容姿なりが少しも平等でないという現実に対するどうしようもない不条理の説明を、「説明できないもの」に求めようとする私達の本能といっていいものが私達にはあるのです。不平等という不条理が不幸なのではなく、不条理の説明への関心を禁じられてしまっていることの方がはるかに不幸である、という現状がそこにあるでしょう。「血液型」というものへの関心もそういうものの一種だといえる。科学教育に少しも関心を抱かないような人達が、血液型という科学ないし疑似科学に群がるのを観るたびに、不条理への関心を禁じられた現代人の不幸というものを感じてしまいます。この不幸というものを考えることが、私にとってはなかなかの問題です。
    「血液型」の話自体はおそらくくだらない。まさか世界に住む人間が4種類にしか区分できない、ということはありえないからです。しかし血液型の話に群がる人をくだらないと退けることもまた、実にくだらないことなのです。「血液型」が、科学的に正しいのか疑似科学に過ぎないのか、というような大真面目な議論に、私は少しも関心はありません。血液型の話の大好きな私の友人に向かっても、「性格、性格というけれど、性格という概念自体が実は認知科学がつくりだしたフィクションである可能性もあるんじゃないのだろうか?」というようなディスカッションをその場ですることもできたでしょう。
    しかしそんな大真面目なことをすることは野暮なことなのです。なぜ野暮なことなのでしょうか。御伽噺が客観的でないと目くじらをたてるより、御伽噺を信じる演技ができるくらいに私達は大人であるべきだ、とゲーテは言いました。私達は21世紀になっても、客観的という言葉をますます誤解していて、御伽噺とのかかわりさえ、相変わらず定かになっていないという現状がある。御伽噺の真偽を吟味することではなく、御伽噺に関心をもたざるをえない私達の姿に真実を感じなくてはいけない、ということが、ゲーテの言葉の言わんとするところでしょう。民族や遺伝子をめぐる疑似科学の大半もまた然り、といっていいでしょう。こうした御伽噺に関心をもたざるをえない、ということは、御伽噺の中に、「自分達は何処からきて、何処にいくのか」ということを解き明かしてくれる何かを感じるから、なのです。御伽噺がないならば、御伽噺をあえてつくりだそうとする。それくらい強いものだからこそ、「本能」といっていいものなのです。こういうふうに話をしてもなお、「事実しか信じられない」と言うふうに反論する人は少なくないでしょうし、その中には、疑似科学を全面的に悪用したナチズムの例をだす人もいるかもしれませんが、ナチスの場合は「疑似科学」を「科学の地位」すなわち「事実」の世界へと持ち上げるという、忌むべき大真面目なことをやったわけで、御伽噺を信じる振りをすることとは全く逆方向にあったというべきでしょう。オカルティズムなんていうのも大半が、事実かどうか、科学かどうかなんていうことをやっているのですから、ナチズムと大差はないのだと言わなければなりません。ナチスもオカルトも、私に言わせれば、これほどのものはないといっていいくらいに野暮な連中なのです。
   「自分達は何処からきて、何処にいくのか」これが私達の永遠に続く関心です。この単純かつ根源的な関心は決して満足して果たされることはない。果たされることがないからこそ、本当に永続する関心なのです。この類の「関心」は、一見すると荒唐無稽な形や幼児的な形で発現する場合が少なくありません。たとえばハイデガーは、「万物は水である」(ターレス)「万物は空気である」(アナクシメネス)「万物は無限なるものである」(アナクシマンドロス)等、一見すると荒唐無稽な学説をたてた古代ギリシアの哲学者の一群を評価し、「存在」の不可思議さに正面から向きあったこれらの哲学者が、相対性理論に到達した20世紀の科学者と比べて、存在論のレベルで劣るとはいえない、と言いました。ハイデガーは、彼らは「忘却していない」という表現を用います。何を忘却していないか、といえば、「何処からきて、何処にいくのか」という、説明しがたい存在の不思議さです。彼らの荒唐無稽な学説は、存在と格闘した彼らの「心」を意味する。
   だから彼ら古代ギリシアの哲学者の荒唐無稽な説明は、科学的には誤謬であっても、存在論的には間違ってはいない、ということを導くことができるのです。ハイデガーの「忘却していない」はそういうことを意味しています。事実か非事実か、ということではなく、説明できないことを説明しようとした「心」が感じられる限り、その言葉の群れは限りなく真実なのだ、ということです。しかし、ハイデガーの言葉を裏返せば、私達は「忘却している」ということになってしまう。血液型に関していえば、そこに「何処から来て、何処からくるのか」ということを無邪気に読み込もうとした関心が生きている限り、その疑似科学的な御伽噺は真実である。しかし、血液型が科学的に正しいかどうかということに取りつかれて、肯定論・否定論へと際限のない事実・非事実の論争になるとき、血液型は真実からは離れていくことになります。ここに、神話ということを定義できる一つの余地があるというふうに、私は考えています。私達は神話なしでは生きていくことはできない。しかし態度一つで、神話を生かすことも殺すことも可能である。これもまた私達の不幸の一つの精神的光景なのです。
    神話と対立し時には敵対的であると一般には思われている科学にしても、神話と固く結びついています。たとえば、アインシュタインとボーアの量子力学を巡る論争の中で登場する有名な喩え話「神様はサイコロ遊びをするか?」というくだりを高校生の時読んで、私はアインシュタインという人は物理学者の割にはずいぶん文学的比喩をよく知っている人なんだなあと思いました。しかし今になって考えれば、私は全く科学というものを知らないからこそ、そう思ったのです。アインシュタインにとって、数式や理論的整合と同様に、「神話」もまた、科学を形成する道具に他ならないという正しい認識があった。「完全な科学」というものが存在したら、説明不可能なものはなくなってしまうのですから、神話は必要でなくなる。しかしそんな科学は古今東西あったためしはないし、これからも永遠にありえないでしょう。優れた科学者というのは、優れた神話の語り手でもある、ということになるわけです。しかしある保守派哲学者が嘆いたように、我が国の科学教育・理科教育は「科学はここまでしかわからない」という教育を施していないために、科学でさえが神話を必要とし、神話によって根拠付けられなければ存在しなければならない、ということに気づきにくくなってしまっているといえましょう。科学の素人の方が、「完全な科学」を信じ込んで、神話の必要性の不可避を軽視する、ということになってしまっている。或る意味で、あらゆることに、「神話」というものは欠かすことができないものだ、ということさえいえるのです。血液型に関していえば、「性格」という日常的事象にさえ、私達は厄気になって、新しい神話づくりにいそしまなければならない。
   かくして「神話」というものは、近代社会的な事象が展開すればするほど、必要とされなくなるどころか、逆に必要とされてくる。情報や認識対象が増えれば増えるほど、つまり、「世界」が広がれば広がるほど、それらの意味と私達の間の「神話」を必要とする。数十億年の宇宙が広がるならば、その宇宙の説明不可能性に付随する神話を思いつかなければ、私達は押し潰されてしまう。アメリカという国が日本に比べていかにこの文明的な原則に忠実であるかは、映画文化一つみてわかることで、たとえ大衆映画的な通俗的内容の作品であっても、21世紀的現実に合致した神話づくりを繰り返していることからして一目瞭然なことです。教育機関においても同様で、性の問題にしても歴史の問題にしても、アメリカは神話の必要性を徹底しています。たとえば進化論教育を憲法違反であるとしたアメリカの最高裁判決を、アメリカのプリミティヴな文明原理と嘲笑するのは確かに一面ではあるけれども、しかしアメリカ人と「神話」ということを考えれば、嘲笑するだけでは重要なことを見逃してしまう、ということもまたいえることなのです。私にしてみれば、神話をいたるところで排除してきた、先述の科学教育に例示されるような、教育の場における神話の排除、ということの方が、よほど嘲笑の対象になります。教育の場のいたるところににおいて、神話的なるものを排してきたことの我が国の戦後教育の誤謬について、それをどれほど指摘してもしすぎることはないのではないか、と私は考えます。
    たとえば性教育の話について。「性の機能についての説明にとどまるべきだった性教育が、性の意義について説明しはじめたことに、誤謬がはじまった」と福田恒存は言いましたが、このことをより正確に言うと、「意義」というのは可能性と不可能性の双方を含有したものでなければならないにもかかわらず、現代の教育機関での性教育は、不可能性を否定して、その意味がすべて把握管理できると思い込んでいることに誤謬があると考えられます。「お父さんとお母さんの性行為で貴方が生まれたのよ」とか「妊娠や性病をコンドームをつけるのが正しい性行為なのよ」ということは、性の機能的側面を説明したとしても、性の意味も性行為の意味も、そして性教育が目的にしているらしい生命発生の意味も実はほとんど説明してはいないのです。
   生命発生の、やはりほとんど不条理といっていいほど不可思議なことは、数十億年の宇宙史の中で、せいぜい百年くらいしか存在できない私達の存在とはいったいどういうことなのか、ということです。性行為も同様で、数十億年の生命史の中で、男女がその日その瞬間、交わることに、何か果てしない必然性があるような気がする。この不思議な感覚はどういうことなのか。本当の性教育だったら、こうした問いかけを考えることを欠かしてはいけないのです。しかし現実はそうはなっていません。私が高校生の時、コウノトリの御伽噺について、科学的性教育はこういう御伽噺を受け付けないのだ、ということを大真面目に言う教師がいて、当時すでに呆れたのを憶えていますが、「野暮」とは、こういう教師みたいな人物をいうのでしょう。たとえ生命も性行為も全くの無意味だとしても、その無意味を認識している自分があるわけであって、無意味であるということも、何かの「神話」に基づかなければならない、ということから自由ではないのです。ニヒリズムもまた、「ニヒリズムの神話」を最低限に要求する逆説的な存在だといえる。
   「性欲を感じて(性行為を)やりたいと思う」という、老若男女がほとんど信じ込んでいる定理にしても、「なぜこの対象に性欲を感じるか」ということは、客観的な説明では説明不能です。たとえばマックス・シェーラーは「科学は愛を遠ざける」と言いました。性欲を起こさせる対象が「美形だから」「性格がいいから」という「科学的理由」に基づくならば、結局、世界最高の美形や性格の相手にこそ、愛や性欲を感じる、ということにならなくてはいけない。にもかかわらずそうはならないという、科学的には説明できないことに、性愛の「意義」というものが存在する。このことからしてすでに、私達は神話的説明を必要とせざるをえないのです。「意義」を説明するためには、民話なり童話なり文学で展開されてきた、性の不可思議さへの膨大な神話に触れることが、何より大切になります。しかし性教育の現場でこんなことは何もおこなわれていません。
    国民教育のより根本である歴史教育は、性教育よりもっとずっと深刻な状況にあるように思われます。「神話の不在」がより確立してしまっている。性教育は戦前はほとんどなかったため、過剰反省というものがないのですが、歴史教育には、反省という実に厄介なものを抱え込んでいます。たとえば、神武天皇が紀元前660年に即位したことや、景行天皇が3メートル以上の身長があったことがフィクションだ、それを事実として教えた戦前の教育は正気でなかった、という指摘をしてそれを「客観主義」だと得意気になっている、幼児的な言説がいまだに少なくない。再び福田恒存の言葉からですが、戦前、神武天皇の伝説をはじめとする様々な建国神話の話を実在のものとして真剣に信じた人間など、よほどの狂信者でない限り、ほとんどいなかったのです。にもかかわらず、それをある種の「真実」として受け入れる度量が、戦前の歴史教育の世界にはあった、ということができるのです。
    「日本書紀」や「古事記」の世界で展開される建国神話のかなりの部分が、七世紀の国史・国語編纂者の再編に基づくもので、たとえば皇室に関していえば、実在性が認められる天皇が崇神天皇以降であり、継体天皇のときに直系が断絶している可能性も極めて高い。しかしこれらのことは、戦前からきちんと指摘されていたことです。たとえば戦前歴史学の権威の一人の那珂道世は、神武天皇の実在性に正面から反論し、たとえ初代天皇が実在したとしても日本書紀の記載よりもずっと後世の人物だ、と「科学的」に断じました。しかし同時に那珂は、神武天皇の伝説を「日本書紀」通りに教えることに同意しています。矛盾しているように思えますが、しかしその実は少しも矛盾していません。歴史というものへの那珂の思考のスタイルは、戦前の日本人の歴史教育のスタイルのほぼ通説を示している、ということができるでしょう。
   那珂は「歴史研究」と「歴史教育」は別のものであって、後者に関しては、神話教育が不可欠である、というのです。ここで那珂の見解から「神様はサイコロ遊びをするか」というアインシュタインの喩えを連想することは、決して的外れではないといえます。「歴史」が、日本という国の始まりから今までを、完全に事実的に説明することはできない。科学に完全な体系や理論がありえないことと全く同じです。その説明できない部分に関して、何かの根本的な説明を付随させなければ、歴史はまとまりにはなりません。とりわけ歴史教育の場については、そのことがいえるでしょう。日本人が「何処からきて、何処にいくのか」ということを、日本人ならば誰しも関心をもたざるをえないからです。この関心を禁じてしまったら、それは日本人として根本的に不幸ということになってしまうでしょう。日本人は「何処から来て、何処にいくのか」ということについての、七世紀の建国事業に携わった人達の格闘、その「心」の真実が、「日本書紀」や「古事記」にはある、ということに他ならないでしょう。もう少し具体的にいえば、「心」の真実は、白村江の敗戦以降、中華世界の侵略の気配に苦しんだ七世紀の人達の激しい不安の中での「願い」というべきもの、ともいえるでしょう。
   「何処から来て」の「何処から」がそこにあるのです。あえていえば、七世紀に至り気づいた中華文明に対抗せざるをえないアイデンティティが日本人の原風景の場所の一つであり、そしてその場所において、皇室による国土統一が中国の始皇帝による統一(紀元前221年)に負けず劣らないものであったことを言おうとしたのが、「紀元前660年」という数字のフィクションの意味するところなのです。あるいは歴史学者の遠山美都男氏は古代史の通説を代表して、実在性と神話性が混合している崇神天皇以降の天皇について、四道将軍派遣による朝廷政権の安定(崇神)伊勢神宮建立などによる祭祀政治の確立(垂仁)九州巡幸などによる地方支配の確立(景行)地方自治制度の確立(成務)朝鮮半島進出による国際的政治力の獲得(仲哀、応神)と、あまりにも図式的に国の形成を順序だてて説明しているとし、その多くが事実に反するというだけでなく、意図としても「日本書紀」が最初からフィクションとして書かれたもので歴史書ではない、としていますが、それは「日本書紀」を近代史的な史書として(としてしか)読んでいるからそういえるのであって、私は順序だてられているからこそ、「国家の各システムはそれぞれに起源を有している」という見事な神話の存在をそこに読み込むべきだ、と思います。
   これら数字上や説明上フィクションは、ハイデガー的にいえば「忘却していない」、つまり真実なのです。「何処から」は何世紀に実在の天皇や人物がいたのかいないのか、ということではありません。先述の神武天皇の即位年に関しても、「何年にあったのか?」を学ぶのでなく、皇室とともにはじまった我が国が、中華世界に屈しないという気概のもとに展開されていったのだ、というニュアンスを知ることができれば充分であり、また崇神から応神までの建国神話についても、七世紀に確立した各システムが、何かの起源を有している、ということを事実的にではなく、ニュアンスとして知ることができれば充分なのです。神話教育の復活・復権の必要性が、こうしたニュアンスの獲得の連続にある、ということができるように私には思えます。そして戦前と戦後を比べて実は戦前の方が或る根源的な意味において自由であり幸福であった、というロジックもまた成立しうる。それは「神話的思考」ということによって可能な自由であり幸福なのです。 
   神話的思考を禁じられてしまった結果、「単に世界がある」「単に自分がある」こういうふうに考えさせられてしまっていることに、私達の不幸の根源がある、と考えなければならないように思います。「単に私自身である」という言説を「形而上学的プライド」と巧みな表現でからかったのが誰かといえば、20世紀を代表する無神論的実存主義者であったサルトルです。サルトルという人は、意識的な主体によりその都度、自分の存在をつくりだしていくことがすべてであって、フロイト流の無意識の存在も完全に否定し、人間にはその都度の現実しかない、つまり過去と断絶しているという実存主義を徹底した思想家です。そのサルトルでさえが、そう考えていたのです。この人にしてこの言あり、というべきでしょう。「形而上学」はこの場合、神話と同じ意味ととらえてよいでしょうが、形而上学や神話を否定し喪失した不幸の挙句、私達は「形而上学的プライド」に従って生きなければならない。そしてこの悪しきプライドは、日本の戦後教育において甚だしい猛威を振るい、なお振るい続けている、といえましょう。「単に・・・ある」という言葉ほど、観念的暴力をもって、言葉の世界を記号化してしまう言葉はないといえましょう。しかしこの言葉ほど、戦後民主主義教育を象徴する言葉もないのです。
   より注意しなければならないのは、この戦後教育の誤りを指摘する立場が、新たな事実主義に陥ることのないようにしなければならない、ということでもあるように思います。たとえば、左翼的歴史家のでっちあげた南京事件や従軍慰安婦といった事実誤謬を指摘することに、私は大賛成です。しかしその指摘をしただけでは、歴史が蘇生するとは限らない。言い換えれば私達の生き方が蘇生するとは限らないのです。性教育でいえば、間違った避妊方法を指摘するだけでは何も生まれない。根本的な性の意味の問題を蘇生させることは、もっと違うところにある価値転換です。「単に性行為がある」「単に歴史がある」こうした「形而上学的プライド」からの解放が目指されるとき、戦後教育の誤謬の指摘ははじめて創造的なものになるでしょう。こんなプライドから解放されて、「何処からきて、何処にいくのか」という本当の関心に向き合うことで、この国の精神風景はもっとずっと風通しのよいものになるに違いない。私は心からそう思います。                                                                        



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