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ある戦後の「真贋」の光景

      
 (江藤)「僕は思うんだけれども、君は文学をやろうとすると何か余っちゃうんじゃないか」
 (石原)「うん、余っちゃうね。何やっても。だから何かやらないでおられない」
 (江藤)「政治をやろうとしても余るんじゃないか。その余るものが何かということは、どうも大問題なんだな。それが石原というものを、困ったことに無視できないものにしているゆえんだと思う。いつか三島さんが君にいったろう、夕焼みて綺麗と思ったら、政治家になれないぞ、って」  

(「季刊藝術」江藤淳・石原慎太郎「人間・表現・政治」)
  

  骨董品の世界では偽物(贋作)は本物よりもずっと綺麗に隙なくできている、ということをその道のプロフェショナルから聞いたことがあります。しかし、とその人物はいいます。別の基準がある、偽物は決してザラザラしていない、本物はザラザラしている、そこが違うのだ、ということが妙に印象に残っています。私などいくら頑張っても骨董品の真偽がわからず、その手のテレビ番組では悔しい思いをするのですが、しかしそんな私でも「ザラザラ」ということは、おもしろい表現だなあと思いました。「ザラザラ」とは何か。専門家でない私はなかなかうまく言えないのですが、贋物が本物よりずっと綺麗にできている、ということは、贋物の骨董品の美しさが何か外在的なものに由来するからだ、ということなのではないでしょうか。
   たとえば絵画なんかでも、コンピューター的技術を使えば、いくらでも精緻な贋作をつくることができる。しかし、作者の精神というような内在的なものの在り処を、精緻な贋作というものはついには持ち得ません。本物はまるで人間の心のようにザラザラしていて、贋作はまるで人間の外在的な構築物に過ぎないかのような、説明しやすい綺麗さがある、ということなのでしょうか。骨董品の世界の相当な玄人でもあった小林秀雄は「・・・所謂書画骨董という煩悩の世界では、ニセ物は人間のように歩いている。煩悩がそれを要求しているからである」(「真贋」)と、これまたなかなかうまいことを言っています。「煩悩」というのは、内在的なものであるようですでに外在的なものになってしまっている人間の心の一種に他なりません。
   昭和12年の南京事件の存在をラディカルに否定する東中野修道氏の研究の本の幾つかを開いてみます。緻密な資料の扱い、論理の展開・・・そういうものの向こうに、東中野氏の野太い人柄というようなものがみえてくる。東中野氏は決して南京事件否定の外在的思想を単に語っているのではないことがわかります。「ザラザラしている」という言葉が不意にリアリティをもってくるのです。もしかしたら東中野氏自身は世間が括るところの保守派といわれることに本意ではないかもしれません。しかし私は東中野氏の格闘的とさえいえる南京事件否定の研究書に、極上の骨董品を鑑賞するかのようなものを味わうことができる。一言でいえば東中野氏の精神、というものでしょう。東中野氏の書物は私にとってまことに「ザラザラしている」のです。
  「ザラザラしている」言葉の世界は何処かにないだろうか。私はいつもそのことを考えて、言葉の世界を覗き込みます。しかし、絶望的なほどに、何処にもないような気がしてくる。東中野氏の書物との出会いのようなことは実に稀なのです。比べて、古人の世界というのは本当にさすがです。古典の世界には何処かしこに「ザラザラ」があふれかえっています。小林秀雄は同じエッセイの中に「真物は限られたものしかないのだから、贋物がますます多くなるのは自然な当然だ」ともいいます。
  真贋の真、すなわち「ザラザラしている」を求めて、石原慎太郎の書物を開いてみます。なぜ石原なのか。戦後日本ということを考えるとき、彼は或る意味で戦後日本で一番有名な言葉の世界の人物であるといえるかもしれません。戦後日本の言葉の真贋の「贋」がますます多くなっているとすれば、石原という人間をより徹底して知ることによって、日本という国で語られている言葉の真贋の全体像のようなものが、意外にすっきりわかるのではないか。私はそう思うからこそ、石原の言葉の世界が気になるのです。石原を知り尽くし考え尽くすことが、戦後日本そして現代日本の真贋ということを知る上での、大きな手がかりになるのではないでしょうか。

  たとえば石原には、「国家なる幻影」(文藝春秋)というよく知られた自伝がある。石原には幾つかの自伝がありますが、この自伝は最も長く詳細なもので、石原をよく知るには格好の書といえるかもしれません。「ザラザラしている」に飢えている私にとって、この「国家なる幻影」は、久々に私の心の琴線に触れるような面白い書との出会いでした。私はそれまで、読んだ石原の本はほとんどが彼の小説ばかりで、正直言って文学作品として評価できないものばかりでしたが、この自伝に関していえば、そのマイナス評価を大きく変えるような面白さを強く感じることができました。
  たとえば美濃部革新都政との対決し都知事選に出馬したときの章、その対決相手である目の前の美濃部亮吉がどういう人物であったかを回想的に描く石原の筆致は冴え渡っています。
  ・・・作家時代、美濃部や伊藤整と一緒に講演旅行したときの宿泊先での美濃部のエピソードの場面は、何度読んでも皮肉、ユーモアがたっぷあふれています。美濃部がどうしようもない世間知らずの我がまま男で、食事時、ウイスキーを「ホイスキー」という意味不明の高級語(?)でわざとらしく発音したりして周囲を困らせ、石原がそれを「翻訳」する労をとったりする場面。美濃部は名だたる社会主義者ですが、この場面そのものが、冷たいブルジョア・ソーシャリストである彼へのリアルな皮肉になります。ちょっとしたコメディの場面のようです。しかもその晩、美濃部が女を連れ込むのですが、翌朝、みんな周囲が石原がそれをしたのだと勘違いして嘲笑していても、美濃部は「いや俺だよ」というふうには少しもそれを訂正しようとしてくれない。確かに、このような人物によって都政は巨大赤字に突入したのかもなあということが伝わってきます。言うまでもなく石原はこのときの選挙では美濃部に敗北したのですが、これが普通ならばイジイジした敗者の遠吠えになるところ、石原の文章は全くそうなっていません。時間が経過した後書いているからだろう、ということは説明にはならないでしょう。イジイジする人間は、時間が経過すればよりイジイジするものです。
  あるいは時々出てくる、右翼運動の指導者である赤尾敏とのやりとりについてのくだりも実に痛快です。左右の政治的立場関係なく、ああ日本にはこういう精神的な大人物がいたんだなあとしみじみとした気分にさせてくれるものです。自身も泡沫候補で都知事選に出馬していた赤尾が自分のアピールなどそっちのけで、こんなふうに石原を応援するくだりがあります。

 「・・・・美濃部は石原のことをファシストというが、石原はなぜ言い訳するんだ。それでいいじゃないか、みんなはファシズムが何のか知っているのかね。いいかね、イタリアの国が乱れてバラバラになりそうなとき登場したのがムッソリーニだよ(中略)今の日本をみたまえ、バラバラじゃないか、それを、きちっと束ねる仕事を石原がやるべきなんだ。それを美濃部くらいにファシストだって言われたら、僕は違う、ファシストじゃないってなんで言い訳なんぞするんだ。そこが彼のまだ駄目なところだ、まだお坊っちゃんなんだな。でも,私は彼に期待しているんだよ。彼がこの東京できちんとファシズムをやることをね。彼はそのために立候補したんです。彼はまだちょっと若いが、いいファシストなんです・・・・」
                    (「国家なる幻影」)
                   
  石原は少し苦笑ものだけれど赤尾の応援、御高説はやはりとても嬉かった、というふうに書いています。赤尾と石原の間には主に赤尾の意外な交流があったようで興味深いのですが、私はこの生き生きとしたくだりから、高校生のとき東京に遊びに来て、たまたま数寄屋橋で、あの辻説法演説をしていた最晩年の赤尾敏をみて、なかなか筋の通ったことを堂々と言っているこの風変わりな御老体はどんな方だろう、おそらくたいへんな人物に違いない、と思ったことをふと思い出しました。石原の筆致のおかげです。
  美濃部の話といい赤尾の話といい、「ザラザラ」があります。それは内在的なものから政治の真実に迫ろうとするからでしょう。これが昨今の私をうんざりさせる書物の類だったら、美濃部は革新都政を担った国賊の社会主義者だ、とか、あるいは赤尾は過激な右翼である、とか、いわば「外在的なこと」から話を掘り起こして、延々とその「外在的なこと」の周囲をフラフラしているだけことを述べるにとどまるに違いない。世間に出まわっている書物の大半がいつのまにかそのようなものになってしまっています。それでは保守思想の主張だろうがリベラル思想の主張だろうが、少しも刺激を受けないのです。当たり前のことですが、その当たり前のことを忘れて、ほとんどの人間が言葉を贋物のように語ることに慣れてしまっています。
  内在しているもの、外在しているもの、という区分にちょっとこだわってみると、私はかつて、江藤淳が書いた「ユダの季節」という有名な論文のことを考えます。江藤はこの文章で、河上徹太郎のユダ論を引用して、「左翼」が、政治的・思想的意味をもつものでなく、「人間的気質」を指す言葉だといいます。江藤によれば、ユダは内在的な人間性を拒み、外在的な教義にのみ依存する人物であり、その冷酷な知性によってキリストを裏切った。ユダがキリストを裏切った、という事実そのもの以上に重要なのは、ユダが外在的な教義のみによってキリストを裏切ったという精神的プロセスであると江藤はいいます。
  江藤は「左翼」という言葉を、私達が日常的に使う「左翼」という言葉とは全然違う意味において使っているのです。たとえば、外在的な教義を「イデオロギー」と置きかえれば、彼の言っていることはきわめてわかりやすい。人間をイデオロギーでぶつ切りにして内在的な心に迫ろうとしない人間を江藤は単に、しかし、激しく論難しているのです。マルクス主義、ポストモダン主義、新自由主義、保守主義、リベラル主義・・・あいつは「主義」者だ、というふうにしか話を起こせない人間が「左翼」という一つの人間的資質なんだよ、と江藤は言っているのです。だからマルクス主義の時代が終わって保守主義の時代が来た、なんていう言い方は一番警戒しないといけない。ユダたちが、単に外在の仮面を取り替えただけである可能性が大だからです。「心」や「人間性」はマルクス主義全盛の時代と同様、相変わらず不在であり、もしかしたらわかりにくい形で、ますます不在をきわめているかもしれないからです。
   江藤は江藤なりの真贋の基準をもっていて、「贋」を彼はたまたま「左翼」という表現で言い換えたに過ぎないのです。「ザラザラしている」という私の感覚は、江藤の言葉を言い換えたものであるように思います。東中野氏の著作や石原の「国家なる幻影」が面白いのは、江藤曰くの「ユダ=左翼」ということとまさにその逆だからであり、あるいはそれに尽きる、というふうにいえるでしょう。石原という人間にあったことはなくても、主義その他の外在的なものでぶつ切りにするような退屈な人間ではない、彼にあった多くの人間が言うように、懐の深い柔軟な人物であることが予感できるような気がしてきます。

  そんなふうに読める「国家なる幻影」なのですが、ところが、その筆が弟の裕次郎に触れる箇所になると私はどうにも読む速度が落ちてきてしまいます。喉もとまででかかった、石原慎太郎は「贋」ではない、と言いたくなる気持ちが急に萎えてしまう。
  このことは裕次郎のことを記した別著の「弟」についてもそうなのですが、裕次郎の話になるとどうしても石原が、「裕次郎の兄」という、一種の外在的な仮面から物事を語っていて、その内容も硬直してくるように思えます。多くの人が批判的に指摘することですが、「石原裕次郎主義」の教祖みたいなところが石原にはあります。たとえば、彼がはじめての国家議員選挙に出て、弟裕次郎の支援のもとにでたくだり次の箇所などは、私は少し閉口してしまいます。

  ・・・弟もいっていたが反応も強く、演説の後下に降りて握手の相手もひきもきらなかった。誰かが弟にも下で握手してやってくれといったら弟が笑って
 「俺が降りちまうと、誰が候補だかわからなくなるぜ」
  いったがその通りだろう。
  実際その後何度か弟と同じ車の前後に乗りあって名前を連呼して窓から手をふって進むとき、いつも強い反応はあったが、手を振り返す通行者の視線が必ずかすかに後ろにずれているのに気づいた。
  そうわかって
 「お前はあんまり手をふらなくていいよ」
  半分本気でいったら
 「ああそうだろ、妬くなよ、でもその方が俺も楽でいいよ」 
  いったものだ。
                    (「国家なる幻影」)    

  こういう場面につい閉口してしまうのは、私が単に裕次郎礼賛の世代でなく、裕次郎の話を聞いても少しも痺れないことに拠るのでしょうか?
  依然として多数存在する裕次郎ファンを意識しながら、あえて理屈めいた解釈を言うと、弟を語るときの石原は、外在化され固定物語されてしまっている裕次郎のことを月並みに語っているだけで、少しも裕次郎の「心」、あるいは裕次郎の「心」に対決しようとする自分の「心」の問題を語ろうとしていないようにみえます。どうも「主義」を語っている人物の「ザラザラしない」が感じられてくる。
  たとえば、自分の当選は実は弟の人気に依存したに過ぎないのではないだろうか・・・というふうに、弟の献身に何か得たいの知れない疑念をもつ、というような感性があることで、兄弟の愛憎がテーマをもつのは、「兄弟」に関しての古今東西の優れた書物に共通することだといっていいでしょう。「愛」と「憎」が同じものかもしれない危うい自己意識のもとに、本当の愛を巡る古典が描かれるのです。愛を愛としてしか描かず、弟や恋人を自慢するだでしたら、何も考えていない凡庸な芸能人の自伝と大差はありません。
  裕次郎との選挙活動は「国家なる幻影」の第三章で、つまりはじめの方に記されているのですが、途中からこの本を読み始めた私などからすると、最初の方に、石原の十八番の裕次郎の話が入っていて、この本を最初から読み始めたとしたら読むのをやめてしまったかもしれないなあ、と変なことを考えたりもしてくる。裕次郎が嫌いだ、ということではないのです。裕次郎を語る石原の急なトーンダウンが、実に退屈なものなのです。
  そしてこの書には・・・つまり石原に対して・・・もう一つ、より重大な疑問の部分があります。
  それは弟と参議院選挙の章のさらに前、序章が、ベトナム戦争のルポルタージュと感想によって始まっていることです。実は石原はこのベトナム経験が自分の政治的人生をはじめるきっかけになった、として、このベトナムでの話から、この長編の自伝を書き起こしているのです。今では段々と忘れ去られつつあるベトナム戦争ですが、しかしこの戦争は、ほとんどマイナスの意味において、我が国の知識人の多くに大きな精神的影響を与えた重大な戦争でした。このベトナム戦争は、多くの日本人知識人を、真贋の「贋」としてしまった事件である、と私は考えています。つまり日本の知識人を、外在的なイデオロギーからしかものをとらえられないようにしてしまった戦争です。日本国内でおこなわれた戦争ではなかったにもかかわらず、です。
  福田和也氏は「石原慎太郎の季節」で、石原を、常に20世紀のヨーロッパの政治的事件に作家・政治家の両方からかかわったマルローに擬えて、「現代史の路地のすべてにマルローはたっていた」如く石原は戦後日本のすべてに石原はたっていた、と言いますが、ベトナム戦争という戦後日本の重大な精神的事件にも、石原はやはりかかわっていたのです。私はこの書物の最後にこの序章を読む、という実に天の邪鬼な読み方をしました。石原に真贋の「真」を期待したい私は、ハラハラした気持ちで、この序章を最後に読みました。
  ・・・ベトナム戦争という日本を精神的に危うくした事件が彼の政治的人生のスタートのきっかけであった、ということは、いったいどのような意味をもったのでしょうか?
  「弟」と「ベトナム」という、二つの疑問点から、石原という人間の言葉の世界の真贋を、以下、追ってみることにしましょう。


 「弟」について語る石原がどうにも外在的な「弟」思想を語っているだけにみえる、と私は言いましたが、それについて考えるためには、まず石原の生い立ちを簡潔に追うことが妥当です。
  意外に知られていることのようですが、石原にとって「弟」より遥かに大きな精神的支柱を与えているのは「父」の存在であるといえるでしょう。石原は弟について語るのと同じくらい、父についてあちらこちらで語っています。 
  石原には「スパルタ教育」という実に面白い書物があります。全共闘運動華やかりしころに書かれた本で(1969年)伝統的価値のラディカルな破壊を唱える全共闘に真っ向から反論した書で、伝統的な父権の復活を主張しています。怖がられるカミナリ親父よ蘇れ、と、月並みといえるくらいの伝統的家父長の復権を主張する書なのですが、その単調さに辛抱して最後まで読むと、まるで背負い投げを食らわされるような不思議な名前の章があらわれるのです。「父親は夭折することが理想である」そういう名前の章によって、この書は締めくくられます。カミナリ親父を復権せよといいながら、「父親は夭折することが理想である」とは、いったいどういうことなのでしょうか。   

  石原の父は山下汽船の幹部クラスの人間で、二次大戦を控えて、船関係の業界が好景気にわきかえっていたこの時期、たいへんな羽振りのよい暮らしを許されていた人物でした。何しろ一晩の交際費が、当時の大卒初任給の10倍はくだらないというのですから、その豪奢さが偲ばれます。慎太郎も裕次郎もそのお蔭で、幼年期は不自由の全くない生活を許されていました。欲しいものは何でも買えた幼年期だったと石原も裕次郎も語っています。しかし、この父はただの遊び人の実業家ではありませんでした。
  主に裕次郎について語った石原の「弟」では、山下汽船の船が遭難沈没したとき、その船の残骸が打ち上げられたところに父が息子達を連れていくという印象的なエピソードの場面があります。父は無残な姿にうちあげられた航海士の死体のところに子供達を連れていく。実はその航海士は父の知己であり、仲間を助けるために海に飛び込んで死にいたったのです。まるで石原の小説か裕次郎の映画の一場面そのもののようですが、父はその死体を前にして、幼い息子達に向かい、こうきっぱりと言うのです。

 「・・・彼は死んだがみんなはお蔭で助かった。偉いだろう、見てみなさい、綺麗な顔をしているから」

                        (「弟」)            
  石原の父はそんなふうにして、海によく息子達を連れていきます。それは海水浴とか釣りとかという、日常的な意味での海の教育ではない。海を目の前にして、いろいろな精神教育をしていく、そういう時間をつくる父だったようです。彼は幹部とはいえ、安穏としたエリートコースで出世したのではなく、叩き上げで幹部クラスまでなった人物でした。だから叙事詩的に死んだ航海士の知己もいたのです。石原の父はいわゆる「海の男」だったといえましょう。石原の感受性の醸成にとっては、この父親の精神教育が非常に大きな影響を与えたのはもちろんいうまでもありません。
   福田和也氏は、「太陽の季節」をはじめとして、石原の小説のいたるところに「海」の世界がイメージが非常に濃厚である個性がある、と指摘します。海を描いた作家なら大勢いました。しかし石原にとって「海」はただの海ではない。福田氏は、海をただの海としてしか描けなかった幸田露伴のような伝統的な日本の作家の、平板な海のイメージを指摘したのち、石原の文学の「海」について次のように解釈します。

 「・・・・そのように直接かつ深刻に海とかかわりつつ海を描いた作家は他にいないと断じてかまわない。石原氏にとって海は知識でもなければ観念でもなく、何より眼前の現実であり、さらには父と父の同僚がそれと闘い、そこで生活をしてきた場であり、自分もまたそこにおいてあらゆることを味わい、覚えた人生の場であるのです・・・・」

 「・・・越すに越され人の命が失われたという、陸の上であれば何ともやりきれない絶望的な事態が(海の)荒天下の危機の中ではむしろある種の歓喜、活気になってしまう。このような心理は陸の感覚からすれば非人間的なことにみえますが、むしろこのような生々しい無意識の露呈にこそ人間性の真実はあるのでしょう。石原氏は海を自らの光景とすることで、戦後日本の閉ざされた人間性の不可思議きわまる閉塞に触れ、そこを出発して、あらゆる事物をみている・・・」

                    (「石原慎太郎の季節」)
  
  私は石原慎太郎の文学は通俗的でほとんど評価できない、と言いました。しかしこの評を読むと、評価できないというだけではすまないような気もしてきます。そこで私が思い出すのは、福田恒存がへミングウェイの行動主義的な文学を通俗的なものとして評価できないと言いつつ、しかしその福田が唯一、絶賛しているへミングウェイの長編である「老人と海」について触れている文章です。
  福田恒存は、自分がどうしてヘミングウェイはじめアメリカ文学一般を好きにならなかったか、ということについて、「アメリカの文学には空間しかない」という文化論を紹介し同意しています。これはまさしく私の石原の小説への不満と同一のものです。石原の青春小説なり恋愛小説の大半には「空間」しかない。つまりヨーロッパ文学や日本の伝統的純文学にあるような時間の蓄積の重みがほとんど感じられないのです。ヨーロッパ文学は逆にその時間の蓄積による緊張に耐えられないので、「空間」しかないアメリカ文学を脱出口として評価してしまう。私なりに言うと、日本文学は伝統文学の時間の蓄積の緊張の反動で、「空間」しかない石原慎太郎に、脱出口、息抜きを求めた。それがゆえに、あんなふうな過大評価を石原文学は得ることができたのだ、私はそう考えていました。
   しかし福田は、「老人と海」に関しては、ひたすら外面的描写を繰り返すだけのへミングウェイのハードボイルド的文体が、英雄叙事詩的な世界の完成していて、ギリシア神話的な重みを充分にもっているアメリカ文学に稀少な例として高く評価するのです。福田はそれをへミングウェイの筆力、文体の功績としますが、私は、それに加えて、「海」を神話化することに成功したことにより、「空間」に時間的蓄積なようなものを与え、それによって「老人と海」が名作になったのではないかと思います。「老人と海」を英雄叙事詩たらしめているのは、変幻自在に主人公を優しくいたわり、時には激しく飲み込もうとし、ついには老人に敗北を与える「海」ではなかったのでしょうか。
  私は石原の小説のどの作品からも、「老人と海」ほどの感動を受けることはできません。しかし、確かに、「海」というものへの独特のかかわり方という特色は認められる。石原の小説の死や性の世界の多くが、「海」にかかわる形で展開されています。石原の幾つかの自伝や伝記を通じて伝わってくる石原自身のエピソードからは、もっとはっきりとした形で、「老人と海」の世界と何か似たような「海」のイメージを受けることができます。「海」に「父」という要素が加わることによって、「空間」のみにしかすぎないように見える石原の言葉の世界に、より時間的蓄積を与えてくれるようにはたらいているのです。こうして「海」と「父」の交錯したところに、石原の原体験が形成されていったという指摘が可能になるように思われます。
  しかしそんなふうに「海」への導き手であった父は、石原が高校生のときに、過労により急逝してしまいます。以後、石原家の家計は急激に傾きます。時折、芸術に脇目を注ぎながらも、まずまずエリートコースを歩む兄の慎太郎に比べ、弟の裕次郎は乏しい家計をものともしない放蕩を繰り返す。これから数年間、石原の人生で最も困窮した時期が訪れるのです。

  慎太郎は家計を助けるべく公認会計士になろうと試験勉強をはじめたりして(ただし半年で挫折する)家計の貧困をなんとかささえようとします。絵画の勉強に深入りできなかったのも、芸術に没我すれば家族を苦しめてしまう、という苦悶の気持ちからでした。実に不思議なことですが、石原の母は、これほど真面目に家のことを考える慎太郎については厳しく、裕次郎の放蕩についてはほとんど何も愚痴をいわない。石原によれば、この当時の両者の小遣いには百倍近い差があった、といいます。裕次郎のせいで石原家はまっさかさまに転落していくといっても過言ではないのですが、そのようなことが繰り返されているうちに、石原は大学在学中に芥川賞を受賞し、一躍、時代の寵児となり、この困窮の時期はあっさり終焉を迎えます。
  石原はこの困窮の時期、不完全な形で或る意味での「父」を演じざるをえなかったのでしょう。そう考えると、石原の「弟」という思想の正体が判明します。
  たとえば、「スパルタ教育」の「父親は夭折することが理想である」という謎めいた章で石原が言っていることは、おそらく、この頃に培われた思想なのです。石原はこの章でこういいます。自分(石原)がこの書で述べてきた家父長的な理想的父親像は、父親から子へと完璧な形で伝えられるということはない。むしろ、あってはならない、子供はここでいう理想的父親像を手探りで、死に物狂いでつかまなければならない。父親がいつまでも子供の前にあって、「父親」であることを伝授しつくしてしまうとき、もうそれは父親でなくなる。だから父親は夭折することが理想だ、と言うのです。
  ・・・石原は高校生のとき、自分の精神的支柱であった父を不意に失い、自分自身が父親的立場にたたされる苦境にたたされました。放蕩を繰り返す裕次郎は弟というよりむしろ、困惑する新しい父親にとっての「息子」であったということができるのではないでしょうか。裕次郎について正面から描いた「弟」でも、石原の裕次郎への不自然な優しさは相変わらずです。「スパルタ教育」で論理展開される石原の厳しい家父長主義からすれば、裕次郎みたいな男性は最も排撃されてしかるべきでしょう。しかし呆れるほど一貫してそうしていないのは、裕次郎という弟ならぬ「息子」が、なりきれない「父」をいつまでも手探りにさせてくれる観念的装置のようなものだから、なのではないでしょうか。ここに石原という人間のたいへんな複雑さを垣間見ることができるように思われます。
  たとえば、現に、現実的父親としての石原は夭折もしていない。引退もしていない。息子が父親の影に隠れてしまっているという感さえいだくほどに、彼は実は、夭折していない、彼自身の基準からすれば「未完成な父」であり続けています。こうして、石原にとって、裕次郎が一種のイデオロギーであって、裕次郎を描くときに、彼が不意に、裕次郎との「心」の対決を避けるのではないか、ということが考えられるように思います。もしかしたらそれは、石原にとってだけの、外在的イデオロギーなのかもしれません。
   私は石原のそういうところはどうにも好きになれない。けれどこう分析をしてみれば、石原の裕次郎というイデオロギーが、単に真贋の贋を形成するようなものだ、と断定することもできないともいえると思います。福田和也氏をはじめ、多くの人は石原が絶えず時代の寵児でありつづけることの不思議さをいいますが、私は、その不思議さのカラクリの一つとして、裕次郎という石原にとってのみの観念的装置があるのではないだろうか、と私は思います。
  石原にとってのこの裕次郎というイデオロギーめいたものについて、これ以上深入りはできそうにもありません。私は石原裕次郎の世代ではなく、そのすさまじい国民的人気についても基本的に伝聞で知るのみです。裕次郎という社会現象について、膨大な資料に基づいて、いったんはそれを相当深く考察しなければ、最終的に石原の裕次郎という主義の正体は明らかになりそうにもありません。これはあらためて他日の課題になる問題でしょう。

  他方、私が気にかかるのは、福田氏の石原慎太郎論で述べられていた「海」の論理ということについて、福田氏が「陸」の論理という概念をその対極に持ち出して、石原氏はその両極で苦しみつつ、「海」の論理の人である、と繰り返し断じていることです。
  なぜ気にかかるのか。それは私が「国家なる幻影」で私が疑問を感じた、石原の政治活動のスタートにおけるベトナム戦および南ベトナム国家での体験が、いったい石原の「海」の論理とどう結びつくのか、という問題とかかわってくるように思われるからです。ベトナム戦争で受けた精神的影響から、国内での政治的活動を決意するということは、果たして「海」の論理なのでしょうか、それとも「陸」の論理なのでしょうか。つまり、石原の人生の基準から、ベトナムでの体験ということはどう説明できるのでしょうか。
  1960年代後半、多くの知識人がベトナムに渡り、そこでの取材経験を通して、帰国後、政治的活動、その多くは平和主義活動・ベトナム反戦活動に没入するということが繰り返されました。その代表的な人物に、作家の開高健がいます。開高には、この取材活動で、九死に一生を得た体験をもとにしたルポルタージュ「ベトナム戦記」や小説「輝ける闇」などがあります。開高はやがて、小田実らと「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)を結成、旺盛な反戦平和活動を開始することになります。
  吉本隆明は、開高健のこれらの作品について、彼のベトナム反戦運動への傾斜とあわせて、「国外逃亡者」「危険な思想家」として厳しく批判しました。
  吉本の言わんとするところは、開高がやっていることは、戦争が消滅した戦後日本から離れた別の国で、国家間の戦争を第三者的立場で気楽に経験して帰国して、それをどうこう言いながら自分の政治的な立場を決める、というのはなんともおめでたいことだ、ということです。「戦争がない日本」ならば、戦争がないという、深刻な停滞をもたらしつつある文明的状況の段階に日本人として向かいあうこと、そのことで、自分の政治的立場ということを考えるということこそが正しく倫理的な態度ではないか、というのが吉本の主張です。
  この開高よりもっとずっと低俗な例が、先年死去した小田実です。小田はベトナム反戦運動の最大の時代の寵児ともいえる人物といえましょう。開高がベトナム戦争が終わると同時に政治への絶望を彼なりに感じて、政治運動から離脱して一作家活動に戻りましたが、小田の方はベトナム戦争終結後も左翼的言論活動を生涯展開する。「ベトナム反戦屋」が、それをきっかけに教条主義的左翼へと転じる。北朝鮮への卑屈な擁護、ソビエトに肩入れしただけの反核運動、さらには神戸大震災での政府の態度について、ナチスドイツの災害対策の方がはるかにすぐれていた、という支離滅裂な暴言を公然と吐いたりもする。この小田に至っては、ベトナムという海外での他国の戦争が、一種の宗教的体験といえるほどにまで徹底されてしまったいます。小田は繰り返し繰り返し、ベトナム戦争と本土空襲の惨禍を同一視するというようなことを言い続けましたが、「ベトナム」での体験から、政治的自己そのものを喪失し、一生を終えてしまったのです。しかし、小田のような人物は決して少なくなかったのです。
   小田や一時期の開高を見ていて感じるのは、吉本のいうような「亡命」というより、私には、以後、日本の青年に定着してしまったおそるべき「軽さ」ではないか、と思います。
  早い話、ある日、日本のテレビでニュースを観るなり新聞を読むなりで、何処でもいいから世界で戦争がおこなわれるところをチェックし出かける。「壮絶な経験」をその国でしたのち帰国して、それを語りながら何処かしらの政治党派に参画する。この行為の何処に、必然性というものがあるのか。たとえば、開高や小田はなぜベトナムを選んで、同時期ソビエトに進攻弾圧を受けた東ヨーロッパを選ばなかったのか。アジアにおいても、お隣の中国ではチベット問題がすでに顕在化しています。これらを捨ててなぜベトナムに敢えてかかわりをもたなかったのか、ということについて、どうにも根源的説明がつきません。
  にもかからず、開高や小田の組織したベ平連には、鶴見俊輔、久野収、高畠道敏たち第一線の進歩派知識人が広範に集い、一大文化現象の様相を呈するに至ったのです。小田の笑いたくなるくらいの稚拙なアジテーションに、多くの知識人が拍手喝采したのです。ベトナム戦争というのは、このような深刻にマイナスな精神的影響を与えた経験だったということができるでしょう。

  比べて、石原慎太郎のベトナム体験はどのようなものだったのでしょうか。
  彼は当時、日本で一番高い原稿料をとる流行作家でしたが、連載していた小説の関係の読売新聞の派遣という形で、念願だったというベトナムの地に足を踏み入れます。前線にも赴きますが、彼の視点はむしろ、前線から離れた南ベトナム国家の人々の表情に注がれていたようです。ベトナムでの印象を彼はこう表現しています。   

 「・・・(ベトナムからの帰路立ち寄った)ホンコンでの滞在中に足をのばしてみたマカオで一番印象的だったのは、これが国境だという中共軍の番兵の姿だった。運河べりの立ち枯れたススキに似た草むらの向こうにも同じような草が一面にひろがっていて、他には何もなかった。ああこれが共産圏というものか、と私は思いながら、そしてあの愛らしいベトナムもいつかこんなことになるのか、と思った・・・」

 「・・・共産主義という、今になれば懐かしいほど古めいた名の方法論がこの国を支配し、無機的な運命が彼らをおおって、国家と民族が実質的な死を迎える前に私は臨終に立ち会うような気分で、彼らを眺めていたのだ・・・」

                    (「国家なる幻影」)     

  ここで「臨終」という言葉にまず注目するべきでしょう。
  石原は多くのベトナム戦争への知識人と異なり、無内容な平和主義をベトナム経験から思いついたのではなく、強烈な反コミュニズムを感受したようです。開高や小田の文章にあるような北軍のベトコンへの愛情は彼にはほとんどありません。石原は、いずれ北ベトナムに押し潰されてしまうだろう南ベトナムの人間達に執拗な愛着を注ぐのです。しかし、それはどう読んでも自然なものとは思えません。
  コミュニズムがそれを受容した国に対して深刻な文化破壊をもたらすということについて私はもちろん同意します。しかし民族そのものがコミュニズムによって終焉してしまう、という感性は明らかに突出したものだといわざるをえないのです。
  中共国境への感想もどうもおかしい。「運河べりの立ち枯れたススキに似た草むらの向こうにも同じ草が広がっていて、他には何もなかった」という中共の国境内の状態は確かに忌むべきすさんだものですが、それは中国漢民族の国民性の問題、そもそもの後進国性の問題、いろいろ考えてもいいものであるのに、それをすべてコミュニズムのせいと考えています。裏返せばコミュニズムを解き放てば、中国のその景色はたちまち繁栄に満ちたものに姿を変えるとでもいうのでしょうか。
  また、たとえば次のような一節があります。

 「・・・あの国に潜んだ豊穣さを愛して惜しんだ開高健がいろんな作品に描いていたような優れた感性を備え、思いかけぬほどの知識をもち、人生への洞察にもすぐれたような人々に私も数多く出会った。彼らのほとんどは、観念をかざしてはしゃぐことを進歩的と信じている日本の知識人より遥かに魅力的で深いものをもっていた・・・」
  
                    (「国家なる幻影」)

  石原は戦争にさらされているベトナムを、コミュニズムに対してレジスタンスしている悲劇的国家であるというふうに読んでいます。しかしおそらく、石原の言葉はその裏を読まなければならないでしょう。すなわち、コミュニズムによって滅ぶのは(滅ぶ可能性があるのは)実はベトナムではなくて「日本」なのではないでしょうか。石原はベトナムを見ているようで、実は日本を見ている。日本人を改めて愛しているのです。そう考えると、ベトナム人に対して抽象的な愛情表現を繰り返す石原の言葉が急に納得できるものになるのです。
  日本でベトナムの共産化と同じことが起きれば、少なくとも日本の歴史的伝統の中心にある皇室の存在は危機に瀕する、という認識を、多くの日本人は共有しています。共産党支持者でさえおそらくそう思いつつ、いい加減な気持ちで共産党を支持しています。日本において共産党独裁政権と天皇制度が両立することは、厳密には不可能ではないとしても、やはり根源的にありえないことだといっていいでしょう。つまり、ベトナムは共産化によって滅ぶことはないけれども、1500年以上の皇室とともにあった日本は、共産化によって滅ぶ。石原のベトナム経験は、結局のところ、ベトナムを日本と同一化するという錯誤を綺麗に完成して、それを通じて自分の政治的人生をスタートさせるという物語を演じてみせているのです。
  あらためて、石原のこのベトナム経験は石原の生涯を考える上で「海」の物語なのでしょうか、それとも「陸」の物語なのでしょうか。悲劇的国家ベトナムを描く石原の筆致は、少なくとも彼が小説や自伝やエッセイで幾度も描いてきた悲劇的犠牲者を連想させます。石原は実は、ベトナムを「海」の世界の話として描いているのです。安穏とした世界で暮らしつつ際限のない無意味な争いを繰り返す「陸」の世界とは対極な世界のものとして描かれる「海」の世界の人々、それが確かに、石原の世界の真骨頂なのでしょう。
  しかしはっきりいうと、その二元的構図のレトリックは、少なくともベトナムというものを観る視点では、脆い方向にはたらいてしまっているようです。ベトナムは「海」の世界に生きるような純粋な世界ではないのです。ベトナム人の強かさもあるでしょうがしかし、政治や戦争というものがそもそも、そんな純粋なものとは縁もゆかりもないものだから、なのです。ですから、「国家なる幻影」のこのベトナムについての章は、外在的な主義めいたものしかもっていない、最も空虚な章であるように思えてきます。
  石原はたとえば次のような、いかにも平和主義者がいいそうな説教めいたことも言っています。なぜこのような表現をするのかというと、ベトナムという神聖なる「海」の世界に対して、現代日本は俗なる「陸」の世界であるという図式的構図の中に、石原はいったんすっぽり入ってものを考えているからです。こういう表現はいわば「石原流」といって差し支えないように思います。

 「・・・しかしこの他人(他国)の戦争が、実は実質さまざまにわが身にもかかわりあるという実感、とまで言わずともせめての心得くらいはもってしかるべきと一部の識者は説いてはいても、一向にそれを改めぬままこの国(日本)はともかく今までは僥倖にも無難にすませてきたようだが・・・」
                     (「国家なる幻影」)

  ならば、石原は開高や小田と似ていると考えなくてはいけないのでしょうか?再び福田和也氏の「石原慎太郎の季節」をひくと、彼は石原慎太郎について次のように概括的な評価をしています。

  「・・・石原氏の政治家としての幸福は、自分が何を欲するかという「自我集約」が非常な普遍性をもつという自信に由来している。「おれが政治という手法を通じて欲しているものと、非常に多くの大衆が欲しているものはしあわせなことに重なり得る」という時代の寵児として戦後半世紀を生き抜いた石原氏においてもちうるものだったのでしょう」
  「・・・私(福田)は思うのですが、石原慎太郎はどういう男かといえば、23歳のときから、「私は石原慎太郎と申します」ということをいったことのない人間だ、ということです」

                  (「石原慎太郎の季節」)


  要するに、石原というのは、これほどまでに、「時代」ということと一体した人物だった、ということです。言い換えれば、時代が「ベトナム」を要請しているとすれば、それに無理なく溶け込み、そして時代が求める方向に吸収消化することのできる人物である、ということです。
  福田氏は石原の天才性について、「大衆社会の中の非大衆的人物」という表現で、「海」をはじめとする石原の時代と結びつきやすい要素をいろいろと解説しますが、私の考えでは、これは石原という人物の固定的な要素というより、石原が「海」や「父」や「弟」といった、彼が人生の早い時期に身につけた諸要素を使い、時代というものを吸収消化する技術に実に長けている、というふうに表現することが妥当ではないかと思います。
  ですからベトナム戦争という題材を彼は「海」という自分に身についている戦略的ロジックで、巧みに悲劇物語化して、それをいつのまにか、自分の政治的ステップアップにしていってしまうことができてしまうのです。それは彼の父性の未完成についての裕次郎の存在を語るときと同様、彼のほとんど意識していないうちにおこなっていくことのできる彼の実に独特な戦略的な個性だ、といっていいでしょう。ある種優等生的といっていいほど絶えず時代の寵児であり続けることのできる石原のスタイルは、不器用にベトナムに足をとられていってしまった開高や小田と全く対極的なのです。この不思議な戦略性は、確かに稀有な時代的天才だといえるでしょう。
  石原を論じようとすればするほど、時代をリードしながら、時代に埋没できない彼の何かを感じることができます。裕次郎という「弟」につっかかればそこから「父」の思想があらわれ、ベトナムという同時代的経験につっかかればそこに「海」の思想があらわれるというふうに、最も時代的であるとみえるところから、最も時代的でないものがあらわれてくる。私はそれらを、外在的イデオロギーのようなマイナスイメージなものというふうに感じましたが、それは彼の言葉が、言葉の贋物であるということではなく、彼の戦略的ロジックが時々不意にみせてしまう危うさではなかったのでしょうか。
  江藤淳は石原との対談で彼にむかって、「君は文学や政治をやっても何か余ってしまうだろう」となかなか的確なことをいいました。私はこの「何か」の正体を、その危うさだというふうに思います。この「何か」こそが石原の存在根拠であり、私達が幻惑され彼を時代の寵児にし続けているものなのでしょう。それを善しと考えるべきか、悪しと考えるべきか。私にはすぐにその判断をすることはできません。それには彼の全体像をもっと求めたのちでなければならないからです。つまり彼の言葉の世界についての真贋の結論はずっと先送りしなければならず、そしてそうするべきでしょう。
  石原にはさらに、「肉体」というこれまた実に厄介な問題があります。今までの論考では、石原の正体を明らかにしたことには実はほとんどなりません。「肉体」ということにもまた、江藤の曰くの「余ってしまうもの」が驚くほどいろいろと見え隠れするのです。次回以降はこの石原の「肉体」の問題について論考していきたいと考えています。


  
 
  





   


    
  


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