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或る空想的平和主義(再録)

 或る空想的平和主義


   終戦の日の前後の「平和」に関するメディア各方面からの合唱は、ある種の風物詩みたいなものですが、以前のような喧しさはなくなり、多くの人が「平和」という空語に自覚的になりつつあるように思えます。真夏、しかもお盆ということで、宗教的感情が伴ってしまうのかも知れませんが、やはり8月15日の周辺の日本人の反省行動は、異常としか思えないところがあります。
   もちろん、「平和主義」の合唱は、全くの混声(混成)で、耳を澄まして聞けば声はバラバラです。それが時代がすすめばすすむほど、明白になってくる。たとえば、戦後史観ということは実は「第二次世界大戦絶対史観」です。日清戦争、日露戦争、第一次大戦という、二次大戦とは別の日本の対外戦争に関しては、いったいどういう「平和主義的評価」が可能なのか、不明です。数年前、民主党の管直人さんは、「昭和天皇は退位すべきだった」とおこがましくも言いましたが、では日露戦争とその後の朝鮮半島併合に携わった明治天皇も、退位すべきだった、ということになるのでしょうか。おそらくこういう反論を管さんは予期しないで政治的発言したのでしょう。
    管さんの言わんとするところは、敗戦責任という意味での「戦争責任」ではなく、侵略行動の責任をとれという意味での「戦争責任」ということなのですから、戦争の勝敗に関係なく、そういう退位論が論理必然的に成立することになってしまいます。
    あるいは日本は第一次世界大戦には連合国の一員として参戦し、中国でドイツ軍と戦闘行為を行いました。この第一次世界大戦はヨーロッパに関して言えば実は第二次世界大戦に匹敵する大戦で、国によっては第二次大戦を遥かに超える死傷者(フランスは11倍、イギリスは4倍)が出ています。「グレート・ウォー」とは実はヨーロッパでは第一次世界大戦のことを意味します。その反省からパリ不戦条約など、日本国憲法的な平和理想主義の実験が行なわれるのですが、こうした平和主義の営みはほとんど挫折し、むしろ第二次世界大戦の原因になってしまうという逆効果を誘発してしまいます。不戦条約と自衛権のパラドックスについても、まるで日本の戦後の平和憲法の賛否が如く、様々な議論の応酬がこのときに行われています。
    このことから、保守派の論客が、第一次世界大戦に研究検討の目を向けています。しかし、日本の平和主義者は、この第一次世界大戦と第二次世界大戦の因果関係にはほとんど無関心であるばかりか、戦闘が自国で行なわれていない、ということでもって、第一次世界大戦にはほとんど関心の目を向けようとしません。ヨーロッパでは「戦争と平和」ということについて、「第一次世界大戦」ほど考察のヒントを与えてくれたものはない、という意味もこめて「グレート・ウォー」と呼ぶようですが、第一世界大戦が自国に惨禍を及ぼさなかったというただそれだけの原因により、第一次世界大戦への無関心がずっと継続しています。平和主義ということが、自国で行われたかいなか、という、実は屈折したナショナリズムである、ということが、このことからいえるでしょう。
    本当の「平和主義」というものがあるとしたら、それは日本の左派勢力が考えてきたようなものではない、もっと常軌を逸するような激しい、非近代的な精神性の中にしかありえないのではないでしょうか。眼前で侵略、略奪、強姦が行われても無抵抗を貫く、というのは、ほとんど狂気といって差しつかえない行為(無行為)です。たとえば、マハトマ・ガンジーは確かにそれを実践しました。私は彼の非暴力主義の誠意を信じることはできますけれど、しかし、それを実践するということは、常人に出来ることではありません。狂気でさえあります。彼の非暴力主義という「狂気」を「正気」のものにさせてくれたのはヒンズー教の宗教性やインドの精神風土であって、彼の非暴力哲学はそれらと不可分に存在しているのですね。つまり、彼はある意味で徹底したインドの保守的・反動的な人間なのです。もちろん日本の戦後平和主義に、ガンジーのようなすさまじい精神を発見することは不可能というべきでしょう。非暴力を徹底するのならば、暴力にかかわるおそれのある、自分内の人間性を切り捨てるということからスタートしなければならない、ということになります。
ガンジーの激しすぎる精神、ということは結局、自国のインドにすら根づくことはありませんでしたけれど、「国家」と「平和」ということで検討すべきなのに、なぜかわが国の平和主義の合唱隊が取りあげない、歴史的時間が我が国のある時期にあります。どうすれば「絶対平和国家」という空虚なものが実体化できるか、半ば絶望的に教えてくれる時代、それは江戸時代の日本ですね。
私達の国の江戸時代は、世界史上、稀にみる優れた近代社会の準備段階という面をもちながら、260年間、対外的な常備軍が不在であったという、非常に奇妙な反面をもっていました。平和憲法のお題目もないのに、なぜそのような「実験」が成功をおさめたのでしょうか。それは一言で言えば、戦争を引き起こさないための一つの絶対条件である「自制」ということを、江戸時代を演出した人々がよく心得、民意としても定着しえたからですね。巧みにつくりあげられた自足的な階級社会のおかげで、本格的な階級闘争が起きない、武家政治と朝廷権威の二元構造がいよいよ明確になって革命を起そうにも標的が定まらない、という政治体制的なことだけでは江戸時代の「平和」は説明できません。国民国家にせよ、前国民国家にせよ、戦争の理由の多くが、正義や正当性だけでない、人口増加やマーケット拡大ということでした。二十世紀も半ば以降は、そうした戦争理由も少なくはなりましたが、歴史的にみれば、実にほとんどの戦争理由を形成しているといっても過言ではありません。江戸時代の人口増加は、非常に緩やかですが、これは農業生産のほとんど意図的な抑制によって可能であったことです。あるいは手形制度の自然発生や不換紙幣の発生といった、世界的にみて奇跡的とさえいっていいヨーロッパ型資本主義の下地の発生がみられるにもかかわらず、どんな優れた商人も海外市場の開拓を企てない。もちろん商人だけではなく、知識人も海外への知的関心を自制しなくてはいけなかったのですね。「自制」というと何となく聞こえがいいですが、優れた才能の夢や国際交流の野心を否定しなければならない、ということも同時に意味します。だから、鎖国の禁令に反して海外渡航を企てたものを処刑することは、絶対平和主義を貫くためには妥当であり好ましいことであった、というパラドックスが妥当とされなければならない、ということになってしまいます。
つまり、国全体が「自制」することによって、江戸時代の日本という「平和国家」はなんとか存在しえた、ということですね。「自制」ということならば、ガンジーの徹底した精神と一脈(だけ)通じるところもあうかもしれませんが、現代の日本の平和主義は、「平和」を叫ぶのと同じ口で、政府の経済政策の愚を責める幼稚さがあるのですね。ありふれたところにある、という戦争の原因の深刻さが全くわかっていない。そして平和主義者たちは日本の江戸時代の「平和国家」をほとんど評価しない。なぜなら江戸時代は階級社会であり、圧政が敷かれていたから、なのですね。「平和」そのもののためには「階級」も「圧政」も必要だという、歴史上の絶望的なまでの結論、すなわち「自制」ということの意味が全然、理解できていないのですね。しかも「自制」は「永遠の平和」にとって、あくまで一つの条件にしか過ぎません。「自制」を幾ら徹底しても、ガンジーは自分の理想主義の破産を自分の暗殺によって証明せざるをえず、また江戸260年の平和というのも、本格的な対外侵略が奇跡的になかったというファクターなしには存在しえない。江戸時代の終焉は、まさに、その侵略の危機を感じるという自衛的な意識によって訪れたのです。「絶対平和」などということは殆ど不可能である、というのが、歴史の示す結論なのですね。
しかし私も、旧社会党や日本共産党が言うような次元の低い(低過ぎる)戦後平和主義とは別に、「戦争がなくなることはありうるのか」ということをぼんやり考えてしまうことが時々ないわけではありません。どうも「戦争」が人間の病なのではなく、「平和主義」こそが人間の病であるような気もしてくるのですが(笑)「戦争が永久になくなる」ということは、戦争を引き起こす国民国家が世界から消えてなくなる、ということしかありえません。「国家の消滅=戦争の消滅」という驚くべきオプティミズムは、日本国憲法にもあるのですが、これだけ国民国家の時代が経過したのだから、その消滅も近い、という、何となしの予感に支えられています。結論的にいえば、国民国家の消滅は、半永久的にありえません。しかしそう言いきる私の胸の何処かにも、その奇妙な予感が漂ってくる感じがして、私も病原菌に感染しているのではないかと(笑)思うのですが、もう一つ結論的に言えば、国家どうしがエゴイズムを剥き出しにしたほうがむしろ、国家間のルールとマナーが確立され戦争は減少傾向に向かうと考えるべきなのですね。しかし「半永久的にありえないこと」をもう少し実証的に言わないと、「戦争が世界からなくなる」という病的なことを言う人は後を絶たないのですね。これは自分の中に潜むモヤモヤとしたものとの対決でもあるのですが、これほど世界各地で平和主義が破産しているのにもかかわらずなお「反永久的にありえないこと」にこだわる人達の根拠というのは、いったいどのようなものなのでしょうか。ここで前回お話しした「未来とは何か」ということを思い出していただきたいと思います。
「平和主義者」にもいろいろなタイプがあって、左派的な歴史論や憲法論からではなく、SF的な感性から、世界平和の実現を説く、という人間がいて、それは私の周囲にもおります。三島由紀夫さんの「美しい星」を連想するのは、間違いではないかも知れません。政治世界の思考にどっぷり浸かった人間(私)からみると、非常に特殊なタイプの平和主義者に見えなくもないのですが、こうした人間の「平和主義」というのは、以下のようなものです。
戦争の原因である国民国家がなくならない限り、いくら国連をつくろういふが平和条約を作ろうが、「平和な世界」というのは完成されるはずもない。そこで地球内部という意味での「世界」に替わる概念が必要になる。それは「宇宙」である。国民国家の存在を無意味にしてしまうような「宇宙化」が近未来、必ず世界(宇宙)に訪れる、ということを前提として、私達は平和組織や平和思想を再構築しなければならない、ということです。
つまり、国家内部の内戦や対立が根本的な意味で無意味になったのが国際化という国家の外部の発見であるように、世界にも、世界内部の対立を無意味にしてしまうような世界外部の発見が訪れる、ということですね。現在、このような理想論はやや成りを潜めているようにみえます。90年代になって、宇宙計画の多くがなぜか急速に頓挫、失速して、宇宙論の世界から世界(地球)の現実や過去を見下ろす、ということができなくなってきたからですね。ですから、こうしたSF的平和主義ということを聞くと、時代遅れの感をおぼえる人も少なくないのではないかと思います。90年代より以前は、宇宙論と国際政治論を混同して「未来の平和」を楽観的に語るということは、世界中で非常に多く語られた言説であり、左派的な平和主義などよりもよほど強烈なインパクトをもった理想主義でした。
たとえば地球外から地球を見たときの美しさに神秘的なものを感じた、というガガーリンやアームストロングの言葉を、耳にタコができるほど聞かされた、という経験をもっている人間は私だけではないでしょう。そして彼ら宇宙飛行士が実際言ったり、あるいは彼らの言葉に枝葉をつけたりして、「あの青い星の何処にも国境はない」ということが、反論を許さないようなヒューマニズムの形になり、彼らの感動を強制されるというふうな話になる。天の邪鬼な私は「国境」が見えない、以前の問題として、「人間」が一人も見えないことは問題にならないのか、と宇宙飛行士の言葉に傲慢を感じて、教師に怒られましたけれど(笑)ともかく「宇宙」ということが天文学や物理学の説明から勝手に離れて、国際政治学の次元に乱暴に降りてきて、「世界」や「国家」の否定を語らせる、という平和主義なのですね。確かに一見すると非常に、政治とかかわらないようにして、政治の世界そのものを否定できるような、便利な思想です。私に言わせると、この思考パターンは、未来史を虚構しています。通常の平和主義者が過去の国民国家の歴史や事実を虚構するのに対し、SF的平和主義者は、未来史の虚構、という、全然異なる方向にベクトルを向けることになります。
しかし、「宇宙」はただ宇宙という物理学的・天文学的な存在だけでは、20世紀(あるいは21世紀)の世界に降りたつことはできません。私達は「宇宙」に何かを予感しなければ、そこにユートピアを感じることは出来ません。それがなければ、未来史を虚構することさえできない。わが国の憲法的平和主義者は、第二次世界大戦の数年間に、ある種のディストピア的ユートピアというものを予感しているからこそ、延々と「理想」を語ることが出来るのです。だから、「宇宙」ということにしても、そこに何かの血を通わせなければなりません。そしてSF的平和主義者の作為は、ここにこそ向けられる、と言っても過言ではないように思えます。
たとえば「宇宙人」というと、ここより先はオカルティズムの世界、ということでせせら笑う人が少なくないでしょうが、「宇宙人」を、宇宙という汎神論的自然の中に予感される知性、と定義すれば、話は違ってきます。そして宇宙人は「未来=宇宙」のイデオロギーを信奉するものにとって、なくてはならないもの、ということになります。なぜならその「予感される知性」が、人類の平和主義や進歩主義を担保してくれるものだからですね。宇宙がただの冷たい虚無であっては断じて困るのです。もしそうだとすれば、宇宙はただの地球の延長ということになっていまいます。結論的に言えば、宇宙が虚無かどうかはわからない、ということなのでしょうが、「宇宙」と「地球的理想」を連結させる人は、「宇宙=虚無」という理念を、概して強く否定します。そこにこそ作為の始まりがある。宇宙論を交えた未来史が実のところ非常に危険なのは、こうした知性の予感を、いい加減なサイエンス理論や実証主義で、宗教的に肯定することが可能だからなのですね。たとえ宇宙における知性の存在が肯定実証できたとしても、それが「地球の未来」とどうかかわるかは全く不明とすべきです。極端な空想を言えば、「宇宙人」が地球人より遥かに知性の低い生命体である可能性もあるわけです。あるいは99%遺伝子が同一であるにもかかわらず他の哺乳類動物とのコミュニケーションが不可能であるという科学的現実を考えれば、遺伝子が絶対に異なる宇宙人・宇宙生命体とのコミュニケーションは、まず絶対に不可能である、ということから考えることの方が、科学の理に適っているのです。しかし、SF的理想主義者にとって、そういう理解は断じて拒絶されなければならない。拒絶するために、憲法的平和主義・理想主義などよりも、よほど巧妙な作為を、「宇宙」に存在させてしまうのです。
以前、作家の荒俣宏さんが、テレビでこんな面白いことを言っていました。・・・宇宙人の写真が見つかった、と皆さんあたり前のように大騒ぎするけれど、20世紀初め、あるいは写真技術が誕生した19世紀終わりくらいから、それらしき写真はあった。しかしその時期に「撮影」されたという「宇宙人の写真」はすべて「妖精の写真」として扱われていた・・・・というのですね。考えてみれば、20世紀初めに、「宇宙人」という概念は存在していない。私たちは完全に未知のものを観たとき、それに対して、書物にせよ人生経験にせよ、「過去」からしか、評価をくだせないという枠組みから自由ではありません。ずっと以前から、世界各地の古典にあらわれる、ファンタジー的な「宇宙人」ならいくらでもいるだろう、といわれるかもしれません。考えようによっては月世界を行き来する竹取物語の話だって、「月人」という、宇宙人の話といえるかもしれませんね。しかしそうした古典世界に登場する宇宙人は、世界(地球)の現在や過去を否定する宇宙人としての条件を欠いています。ユートピア主義や平和主義を与えてくれる(与えてくれてしまう)「宇宙人=虚構された知性」はいかなる形であれ、現在の人間を超えた「知性」を持たなければならないのです。そうでなければパーフェクティビリティ(完全性)の迷妄を可能にしてくれないから、なのですね。だから、竹取物語その他、20世紀以前の世界各地の「宇宙人」は、ここで考えるような、「宇宙人」ではなかった、ということになります。
やはり私達はサイエンスフィクションの力で、「宇宙人」という二十世紀の進歩主義・空想的平和主義にとって必要とせざるをえなかった他者を「発見」してしまった、というべきなのではないでしょうか。SFの力が侮れないのは、タイムマシンというのも、サイエンスそのものが考え出したものではないのに、SFの力で、何時のまにやら概念上存在させられてしまった、ということからしてわかることですね。SFという形式は、あくまで現在と過去に存在するにしかすぎない問題をSF的修辞学で、あたかもそうではないように見せかける、ということに真骨頂があります。H・G・ウエルズが描いた、ロンドンを攻撃する無言の宇宙人は、植民地を軍事力と科学力で無言に侵略し続ける帝国主義国家イギリスの姿なのであり、スピルバーグが描く異様なほどの友好的な宇宙人は、未開の地を友好的な雰囲気を演出して訪問する白人社会の探検家や人類学者を弁解がましく演出しているのであり、アーサー・C・クラークの小説に登場する「進化を管理する宇宙人」は、優生学による人類の未来管理を目論むナチスの科学者を濃密にイメージしているのですね。こうして人類の想像力によって「発見」された宇宙人は、「薄められたSF」概念として、次第に私達にとって実体化されていきました。オカルト世界的には宇宙人・空飛ぶ円盤ブームの始まりは1947年ということになっていますけれど、これは宇宙=未来の楽観主義、すなわち国連主義というアメリカニズムによる国民国家否定のイデオロギーの出現と時期的に見事に対応していますね。このアーノルド事件以後、怪奇現象の殆どが、宇宙人という未来の他者の投影にすりかえられてしまうようになります。SFの世界で発見(発明)され、オカルティズムの世界に暫し立寄った「宇宙人」という、二十世紀の進歩主義・平和主義が虚構した知性は、究極的な平和主義を肯定するものとして、私達の見えないととろに隠れているのですね。私はもちろんジェノサイド否定論者ですが、人類の現在や過去を否定するものとして虚構された「宇宙人=虚構された知性」はどうしても一人残らず殺戮しなければならないと思いますね(笑)サルトルは「他者(他人の自由)は地獄である」という認識を前提とした上で、「他者の概念を極限化したものが神という虚構物に過ぎない」と言ったわけですが、私達はいつのまにか未来の知性という虚構に踊らされ、得体の知れない「他者」を未来に予感して、それをこれまたいつのまにか「地獄」ともなんとも思わずに、現実否定や過去否定の道具、にしてしまってきたのではないでしょうか。トータルでいえば、「唯物論の宗教」の危険性、ということですね。「神は存在しない」という無神論的実存主義にならって、私は「宇宙人は存在しない」と言いたいですね(笑)
結論をいえば、宇宙は特権化された「未来」でも何でもない、ということですね。大西洋や太平洋、南極を発見したことと同じように、宇宙を捉えていかなければなりません。ましてその「未来」の視点を勝手に獲得したつもりになって国民国家や国家間戦争を否定する、という議論を弄ぶのは言語道断なことです。何度も言いますが、宇宙というのはなかなか厄介な「未来」概念の一つで、不意にあらわれては、いろんな悪戯をするのですけれど、それをここできちんと否定することで、「半永久的にありえないこと=国家の消滅」ということが近未来に来る、などということを信じないことの方が正気でありコモンセンスである、ということが多少なりともいえるのではないか、と思いますね。私は憲法的平和主義も信じませんが、SF的平和主義はもっと明確な論理的理由によって、それを信じることはできない、といわざるを得ません。

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