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「制度改革」とは何か

最近街を歩いていて、数年後の裁判員制度の開始に関してのポスターをよく見かけるようになりました。
政治について考えているといいながらほとんど新聞も読まずテレビのニュースも観ない私は、いったい、いつこんな法案が国会通ったのだろう、と自分の寡聞につい情けなくなったのですけれど、裁判員制度に関しては、導入開始を知らせる政府広報のポスターだけでなく、あちらこちらでこれに関しての自主的な勉強会やら講習会が開かれる案内も目につくようになって、社会の動きに取り残されている自分をますます感じて、これからますます新聞もニュースも読まなくなりそうな自棄な気持ちを感じている今日この頃なのです(苦笑)もちろん裁判員制度がそのまま=陪審制度という訳ではなく、立法趣旨も両者では微妙に異なりますが、勉強会や講習会の内容を見ると、大体、陪審制度に関してのメジャーなアメリカ映画が使われ、上映会の感想の語りあいが「勉強」や「講習」であるパターンが多いようです。そうした勉強会や講習会の成果かどうかわかりませんが、電車の中で、それについて語る人たちの言葉も耳にするようになりました。
この司法制度の改革はしばらく前から準備されていたもので、一昔前の小泉改革の中では他の改革に比して一線を画するものといえると思いますが、いつのまにか規定路線化してしまった改革についていこうとする人々の集いを見るにつけ、この国には幾度かこういう風景があって、私のような呑気な人間は、その時々に生きていたとしても、ちょっと息苦しいくらいの、どうにか変わろうとする生真面目さについていけず、やはりその時代に生きていても自分みたいな人間は白けていたんだろうな、と妙な納得する思いを感じました。
    どういう白け方か、ということですが、私あるいは私のような人間が言いたいことは、「改革」のきっかけが外国に由来することがオリジナルなことではない、というようなことではありません。我が国においてはどの時代も、外国文化を受容しながら、内実は全く受容していない、というような不思議な受容の仕方を繰り返しているのは私も理解しているし、それは良し悪しの問題ではありません。ただ、受容する際に、妙に硬直化した教科書主義のようなものが罷り通る。それがやむを得ないように思えはしますが、私のような教科書嫌いの人間からすると、どうしようもなく堅苦しいように思えてくる。受容の際には確かに体系は必要なのでしょうが、しかしそれが果たして「教科書」という教条にまでいたる必要があるのかどうか。言うまでもなく「教科書」は言葉の型通りの教科書という意味ではありません。     
     裁判員制度を表面的でなく、歴史的な面まで深く学習されている方々はご存知のことではないかと思いますが、陪審制あるいは「陪審制的なるもの」というのは決してアメリカ文化の専売特許ではありません。これらの起源は市民自身が裁判の評決をおこなうという中世フランク王国の風習に基づきますが、その後イギリスでフランク王国の風習のスケールを大きく逸脱して発展し、これがやがてアメリカに渡りました。法制史的な言い方をすれば、ヨーロッパ大陸法と英米法の中間的な性格をもっているといえます。実は日本にも昭和2年から昭和18年まで被告人の選択によるものとはいえ刑事陪審制度が存在していましたが(272件の陪審評決あり)これはヨーロッパ大陸法の影響が強かった戦前においても決して奇異なことではないといえるでしょう。
    しかし陪審制そのものでなく、「陪審制文化」という視点で考えるならば、陪審制を題材にした二十世紀のいろんなシナリオやストーリーの殆どが、アメリカから発せられていることにも目を向けなければならない、とはいえます。これは陪審制度の導入や制度の有無という客観的側面を超えて、陪審制度がアメリカという国家の文化的ナショナリズムの一面を形成しているからということになります。
    「文化的ナショナリズム」ということは何処の国にもあり、厳密にいえばほとんどどの人間にもあります。「日本という国を放棄した」という人でも、食事や精神生活で、いっさい「日本」を放棄することができるわけはない。ラディカルな国家主義批判をする日本共産党の人達が、「青々とした空や水の世界を取り戻そう」というとき、すでにその主張は何らかの形で「文化的ナショナリズム」と無縁ではありません。「文化」という言葉は普遍的かもしれませんが、「かけがえのないもの」というものを持ち出したとき、愛情という個別性が普遍性にかぶさり、文化的ナショナリズムを形成する、といえましょう。近代的制度がこの文化的ナショナリズムにかかわる倒錯も、国によっては当然に生じてきます。アメリカ人の民主主義崇拝ということはよく言われますが、陪審制ということは、そういう文化的ナショナリズムの一要素ということになります。彼らは決して自己批判的に陪審制を批判することを厭わないですけれど、しかし根本的な解消ということはほぼ絶対に考えない。要はこのシステムがアメリカという国の体の一部である、すなわち「アメリカニズム」一部分である、ということだからです。
    私が考えるのは、受容しつつも内実は実は全く受容していないにもかかわらずいつのまにか受容し終えている、という不思議だけれど実は巧妙な受容吸収を繰り返してきた私達の国にとって、こうした戦後のアメリカニズムの受容は果たして私達の国の「受容」の伝統にあてはまるものかどうか、ということです。
   たとえば7世紀の我が国において、中国文化をギリギリまで受容することによって、逆に中国文化に成りきれない日本文化というものをそこに発見することができたわけです。白村江の敗戦による建国の必要性という厳しい要求があったとはいえ、その要求の中で、単なる間に合わせではない、精神的ドラマをたとえば太安万侶の漢文受容に見出すことができる。明治維新の時のヨーロッパ文化の受容吸収にしてもほとんど同様で、明治の終わりにいたるまでの知識人の数多くの苦悩を私達は多く読むことができます。ゆえに、我が国の不思議かつ巨大な全体像を知るためには、「和・漢・洋」を知らねばならない、という公理が成立するのですね。しかし果たして戦後日本のアメリカの受容(あるいは擬似受容)ということに、同様の精神的ドラマがあったのかどうか。アメリカ文化を純粋な「洋」でないと考えてみて、「和・漢・洋・米」となっていないのは、アメリカ文化の性格に根ざすのか、それとも私達の不完全なアメリカ文化受容の形のせいなのか、この根本的な点が意外に見落とされたまま、裁判員制度のようなアメリカ文化の更なる受容が繰り返されているのではないか、と私は思います。そしてそれは、「文化」と「文化的ナショナリズム」の区別のつかないくらいに、私達が生半可なアメリカ文化受容をしてきたから、といえるのではないでしょうか。いったい、アメリカ人になりきることで、アメリカ人と日本人の境界線を逆に明瞭化した知識人が戦後日本にいたのでしょうか。ほどほどにアメリカ被れであることが、アメリカを理解した、というような理解になっている場合がほとんどであった、というべきでしょう。 
   このことについて、少し別の角度から、考えていくことにしましょう。    
   私の親友はよく知っていることなのですけれど、私はサルトルとメルロ・ポンティの哲学書と小説が昔から今に至るまで(いつまでたっても)何となく好きで、というか不思議と手離せず、今でも気が向くと彼の本を片手に喫茶店なり公園なり居酒屋に出かけることがあります。特にサルトルはよく読みます。しかしまず、政治的傾向という面からすれば、私自身はサルトルともメルロ・ポンティとも、根本的に世界観を相違します。私が同時代のフランスに生きていたとしたら、当時フランスで頻発していたという、保守派の反サルトル・デモに参加していた可能性は極めて高い。政治論がこうですから、マルクス主義の影響が濃厚な両者の歴史論は拒絶対象の最たるものです。
    残されたのは文学作品や哲学理論について、ということになりますが、サルトルに限っていえば、それらですら、彼の作品は普通の意味で「面白い」ものではないのです。しかし「面白い」とはいったい何か、なのですね。たとえば哲学と文学の境界線で両方の世界の嗜好を楽しむなら、ニーチェの方がよほど刺激的で感動的です。キルケゴールもまた然り。比べてサルトルの世界は形式や方法論が優等生然としているところが、どうしても堅苦しい。つまりニーチェやキルケゴールは面白くてサルトルはつまらないということが普通にはいえそうですが、しかし私にとっては、サルトルの面白さは、常に反面教師としての魅力に他なりません。たとえば、芥川龍之介の小説は、年をとればとるほど、私にとってはつまらない書生文学に思えてきました。にもかかわらず、その不器用な芥川の小説が、日本人のとらえにくい特性を、実に巧妙に描き出している面があることに逆に気づいて、そこに逆説的な面白さを見出す、というような読み方が、できるようになってきました。
    サルトルの「面白さ」ということにもう少しこだわると、たとえば小林秀雄は三島由紀夫との対談で、サルトルの魅力を正面から卒直に否定する三島に対して、いやサルトルはドストエフスキーをはじめ様々な文学を器用に読みこなしているんですよ、と言い返していますが、小林の言いたいことは、サルトルは方法論といい主題の捉まえ方といい、実に優等生的に優れている、しかしそうであるからこそ、文学の本質である得たいの知れないものからは遠ざかっていく、ということのように思えます。ある意味でサルトルは勉強家でありすぎ、頭がよすぎるということなのだ、だからこそ、文学を学ぶ者にとっては非常に重要な何かの人物である、ということに他ならないのでしょう。けれど三島はサルトルの逆説的存在は全面的に否定しています。これは、逆説的存在ということも逆説的でなくすような意識家でありつづけた三島のその後の文学的人生を考えると、非常に面白い指摘であるようにも思えます。
     しかしポストモダニムがニューアカデミズムブームの衣装を纏って威力をまだ維持していた私の学生時代、たとえ私のような屈折した形であってもサルトル好きというのは、文学にせよ哲学にせよ議論の場では排撃される格好の対象でした。一にも二にも「サルトルの時代は終わっている」ということがその排撃の理由でした。もちろん、私の屈折が、一時代前の「サルトルの時代」という大流行とその衰退という現象に対して、逆説的な意味を目的にした面がなかったわけではありません。けれど私の心の支えになったのは、大森荘蔵が言うように、「哲学や思想は誰が勝った、終わったというような猿芝居では断じてない」という言葉でした。明らかにポストモダニズムというのは、ある意味でマルクス主義の変種であるかのような、この「猿芝居」の典型であるかのような気配でした。
     たとえば・・・曰く、「サルトルの意識中心主義・視覚中心主義は、デリダ等の批判によって決定的に時代遅れになった」・・・曰く、「無意識をきっぱり否定したサルトルの哲学は、フロイトを再評価する思想の潮流と合致せずこれもまた時代遅れといわざるをえない」・・・こうした反サルトルの見解はあたっています。しかし、では、意識中心主義がデリダの脱構築で否定されたからといって、「意識がない」というふうに意識中心主義が否定されたのかといえば、そんなことはぜんぜんいえません。無意識の問題にしても、現在の心理学全盛の雰囲気では確かに無意識の存在は実在的なようにみえますが、実はそれが実証できているかどうかについては実は幾重にも検討しなければならないのです。
     「決着」は実は全くついていない。あるいはつくはずもないのです。「決着」がついていると判断しうる唯一の絶対的根拠はどうも「時代」ということになります。こうしたデリダを主流としたポストモダニズムの手口は、実は一昔前に、「階級」と「時代」を結びつけて、何もかも「決着」がついたのだ、というマルクス主義者の傲慢な手口に酷似しています。「おまえは誰某の哲学者や思想家が時代遅れだということを端から信じていない」と言われれば、その通りかも知れません。しかし「サルトルが時代遅れだ」と言われても、「時代とは何か」という問いに不器用にとどまることの方が全然哲学的・思想的ではないか、というふうに私は反論します。近代経済学に詳しい方でしたら、サルトルについて私が指摘してきたこの文章の「サルトル」を「ケインズ」と読み替えてみればいいでしょう。ケインズが提出した理論の何が「時代遅れ」になったのか全く判然としないまま、反ケインズの獰猛な嵐が、この国に一時期吹き荒れたのですね。しかしケインズの経済学理論が「時代」によって遅れたものになったかどうか、ということは、ケインズの経済学にとっては少しも本質的でないことは、近代経済学の流れの真髄を吸収された方にとっては誰しもお分かりのことではないか、と思います。
     つまり、哲学・思想はファッションであるというとらえ方がどうもいつまでたっても主流である。対して私はもう少し実践的に考えていて、自分の現実にかかわる言葉を、今よりずっとプリミティヴな形でさがしていた、というだけの違いなのでしょう。本質的でない、と私が言っているだけのことであるのだから、私の指摘も本質的とはいえないでしょう。だからサルトルを批判した彼らが間違っていて、私が正しかったということではもちろんありません。あるいはファッションと知は分かち難く結びついているといわざるをえないし、ファッションだからこそ、読書量や勉強量が著しいということも、当然、逆説的に言えます。ポストモダニズムに関していえば、「彼ら」はスムーズに、知の雰囲気を吸収し、次から次へといろんな本を読みこなしていきました。私はサルトルに付き合わされたあの頃の時間、もっと他の哲学者や思想家に出会えたのではないかという後悔を、今でも真剣に感じているくらいなのです。しかしこのことだけはいえると思うのですが、サルトルを批判してデリダが勝利したといっていた友人達は、思想と思想史の区別がついていなかったのではないか、ということです。ケインズ批判も同様ですが、思想史の狭い文脈だったら、サルトルが時代遅れとかケインズが時代遅れとかはいって差し支えないのでしょう。
     そう思い当時の記憶を整理すると、一度だけ、印象的な現実的場面があります。次から次へとサルトル批判を繰り出してくる(私などよりずっと頭のいい)友人の中の一人に、「君は息苦しくないかい?こんなに毎日同じものを読んでいて・・・」と尋ねてくる一人がありました。私は苦しくないどころか気楽そのものだったので、自分が感じていた「違和感」を彼に説明したのですが、どうも息苦しいのは彼の方みたいだったように思えてきました。時間を少しかけて尋ね返してみると、もう毎日義務感のようなものに取り付かれて読んでいるけど、読めば読むほど、息苦しくて仕方ないのだ、というのですね。「デリダが自分の毎日に関係ないということではないのだけど!」と彼は大声で(彼は私の観察する限りでは、デリダが大好きでした)いって、それほど真剣に聞いていなかった私をびっくりさせました。
   なんだかドイツの教養小説の一場面みたいな話ですけど(笑)私は自分は自分にとって必要だという意味での義務感から、サルトル等を読んでいるだけだ、というと、彼は、「義務感」がどこか自分とは遠い別のところから来て、哲学や思想の流行を追わなければならない、という感じで毎日濫読を強いられているのだ、といいました。話はそれだけなのですが、「自分から遠い何処かからやってくる義務感」という言葉が、今になってあまり知的成長も知的変貌もしていない私に、鮮やかというか強烈に残っていいて、ボロボロになった「存在と無」や「自由への道」「嘔吐」などの本を眺めながら「あれは何か・・・」と考えることがあります。
    司法制度改革に話を戻しましょう。私達がなぜ「改革」ということを懸命に志すのか、と考えるとき、あのデリダ好きの友人の「自分から遠い何処かからやってくる義務感」ということと、無縁ではないかどうか、ということがいえるのではないか、と私は考えます。私達は「時代」ということをあまりにも大文字でとらえることで、思想史的な思想理解と同様の誤謬を、「文化」と「文化ナショナリズム」の混同においてなしているのではないでしょうか。アメリカ文化がいまだに未吸収のまま進行している。繰り返しになりますが「なりきる」ことができなかったことが原因だと私は思うのですが、その原因は何か、ということを考えるとき、「自分から遠い何処かからやってくる義務感」の場所は何処か、ということです。「文化」を吸収する、ということを、7世紀あるいは19世紀の文化的大変動と戦後日本の変動の安穏と比較するに、どうも「時代」ということが、抽象的に独立して、ある種カントの道徳法則みたいな役割を日本人の精神性においてはたらかせているのではないか、と私は考えるのです。
     私は「時代」という言葉をあまり好きではないのですが、「時代」という言葉をあまり意識的でなく使っているとき、私達は「時代」を「歴史」という言葉といつのまにか同義に使ってしまっていることがありますね。つまり幾つかの個別の事象の集合をある程度連結的にとらえたものを「時代=歴史」という意味に限定したのが「歴史」ということなのですが、そのような絞込みをした上で、「歴史(時代)は繰り返す」ということを言う人がよくいます。大体、起こりえないことが起きたときに使う驚きの言葉の一種である場合が多いのでしょうけど、しかし歴史(時代)という人間と事実の集合が神の見えざる手で繰り返す(繰り返された)という事後的な表現と、現在の延長下に未来を支配下におこうとする事前的な表現での繰り返す(繰り返そう)では、この言葉の意味は当然違ってきます。
    たとえば月並みな言い方になりますが、我が国の近代史は欧化政策の成功という、非常に輝かしい成功を「時代」としてもつ幸運に恵まれました。この明治時代の非常に巧妙で実のところ江戸時代の国民文化と致るところで連続性を確保していた欧化政策の「時代」が、ある時点から実は繰り返されているということがいえます。1910年代の大正デモクラシー、1920年代のマルクス主義、1930年代のファシズムと同じパターンを踏みつつ、明らかに違う繰り返しの「欧化」のパターンが生じていくのですね。確かに歴史(時代)は繰り返すという面をもっているのだともいえます。そして大切なことは、その違っていくパターンの中で「繰り返す」が「繰り返そう」というふうに変貌していったことではないか、ということですね。ここにおいて、「時代」ということが、大文字の実体的存在になって、私達に何かの拘束を強いるものになっていくのではないでしょうか。
      反面、明治時代の欧化政策の成功が生々しい人間と事象の集合という生きた歴史(時代)から、ニーチェが言うところの「死んだ過去」になっていくプロセスを感じることもできるような気もします。「時代」が「歴史」という大文字にもかかわらず、内実は「死んだ過去」になって、それが何かの目標になってしまう時、様々な奇妙なことが、不意に現れてくる。ドイツのナチズムもイタリアのファシズムも、古来のある特定の歴史(時代)を目標に掲げて暴走したといえます。日本の場合はその両国のような明確なものとは全然違い、近代の始まりの成功の時代が次第にずれていったところに、いろいろな悲劇があったといえるのではないでしょうか。
      明治初期以来の学問や社会制度の面での現実的なドイツモデル論が、次第にロマン主義的な憧れに転じ、やがて昭和前期の抽象的なドイツ絶対論になっていく。ドイツに関しての情報量はどんどん増えるのに、その把握はどんどん観念的になっていく。やはり何かしらの「時代」が繰り返されている。私には、あれほど東洋人を差別するナチズムと提携することを主張し、それに反する人物に天誅を加えるとまで息巻いた、大戦直前当時の民族派や右翼の人達のリアリズムの欠如をなかなか理解できないのですが、要するに、現実から離脱していく理想化された「ドイツ」というものを、繰り返される「ドイツ」的なるものの観念の輸入の中で、この国の時間の行き先に設定していった、ということなのでしょうね。制度改革や政治改革の本質は、ロマン主義的な幻想とは縁もゆかりもありません。政治にロマン主義を持ち込めば、収容所国家にせよ敗戦にせよ経済破綻にせよ、何らかの形での破滅に直結すると考えるのが自然でしょう。戦前の欧化政策やドイツモデル論が「改革」から本質的に離れていったことと、思想・哲学を本質から離れたファッションとして飲み込んでいることは、同根から生じているといわざるを得ない、と考えるのが自然でしょう。そして私は、戦後のアメリカの文化ナショナリズムと日本の関係というのは、最初からこうした虚しい文化的演技を有したものではなかったのだろうか、と思います。最初から抽象的な「時代」に命令されたことによって進行し、その虚しさがゆえに、いつまでたっても依然として進行している。それが「和・漢・洋」が「和・漢・洋・米」とならない何よりの原因を形成しているのではないのだろうか、と私は思います。ゆえに、根本的意義を見出すことの難しい、虚しい時間が、戦後の大半において流れてきたのだ、ということができてしまうのでしょう。
   荻生徂徠をはじめ江戸時代の儒者の一群が中国人になりきることによって、なりきれない日本人を見出すという逆説的な知的戦略をアメリカ人においておこなう、ということの困難ももちろんありうると思います。たとえば妊娠中絶をおこなう病院があちこちで爆破されるような信じられないような中世ヨーロッパ的保守性ということに「なりきる」ということは、日本人にとってはまず絶対に不可能な精神行為ではないかと思います。ある意味でアメリカほど、中世ヨーロッパの暗黒を身近に感じることのできる国はない。あるいは裁判員制度にしても、アメリカの陪審制度は小中学のときからの激しい自己主張の応酬の習慣というコミュニケーション教育と実に密接なのですが、裁判員制度と小中学教育を結びつけて考える日本の改革論者はまず見あたらないといっていいでしょう。すなわち、困難である、ということより、困難であるという認識自体が困難である、ということなのであって、こういう意味において、私達はアメリカという世界を吸収しすぎどころか、吸収以前の段階にとどまっている、という奇妙な表現が可能なのではないだろうか、と私には思えます。小さな結論をいえば、裁判員制度をはじめいくらアメリカ型の制度改革をしたって、この国に蓄積してきた戦後の徒労感をまた一つ重ねるだけで、何一つ現状の停滞感を打ち破ることにはならないといわなければなりません。






 

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