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日本人のアイデンティティ・2

「日本人のアイデンティティ」の問題を、もう少し掘り下げて考えてみましょう。
様々な捏造や誇張がありますが、中国の反日教育で最も苛立たしいのは特に「日本・ドイツ類似論」ではないかと私は考えます。日本人とドイツ人は似ていて、似ているがゆえに、二次大戦で同盟した、というお話なのですね。イタリアやフィンランドも枢軸国のメンバーでしたが、なぜか「日本・イタリア類似論」「日本・フィンランド類似論」というものは、語られません。
この子供じみた反日教育講話には必ず続きがあって、「ドイツは謝罪したが日本は謝罪していない」というお決まりのお話になるのですね。「類似論」を語る人間にはその成立の根拠などどうでもよく、その成立がかかわる作為がどうも問題なようです。日本国内の左翼勢力も、全く無根拠に、それらに迎合しました。さすがに日本国内でこのドイツの話を反日論に結びつける考え方は最近少なくなりましたけれど、しかしこの「日本・ドイツ類似論」が戦後の日本人に与えた影響力というのは少なくありませんでした。私もよく、中学・高校の時代、この日独類似論ということを授業で聞かされたものです。
この日独類似論の唯一といっていいほどの根拠は、集団主義的生真面目さが日本とドイツ(ゲルマン民族)にある、ということのようです。しかし、「集団主義的性格」というのでしたら、ソビエト期のロシアにおいてそれを見出すことも、充分可能であるはずです。通俗的レベルの比較論でも、島国である日本と大陸国家であるドイツの違いというのはかなり根本的であるはずです。規律正しさということでしたら、イギリスの規律正しさも有名で、ドイツの政治制度よりもイギリスの政治制度の方が日本に類似していますから、日本・イギリス類似論というのは成立しやすいのではないかと思いますが、なぜかそういう類似論は語られません。
第二次大戦の経緯を追えば、類似論の成立を目論んだ人達の意思に反して、日独類似論は一層成立が困難になります。日本はドイツのようにユダヤ人やスラブ人の計画的大量虐殺をおこなっていない、戦後ドイツ政府はしたたかにも「ナチスという団体を選んだこと」について謝罪賠償したけれど実は自分たちそのものの責任は一度も認めたことがない、三国同盟交渉の過程でドイツいったん日本を裏切り、ソビエトと不可侵条約を締結した、等々、事実的反論はいくらでもすることができると思います。結論的にいえば、日独類似論はそれを分析すればするほど、それが幼稚な作為であることが判明してしまうと思います。
大体、「類似論」というのは、国家論としては無意味です。たとえ「類似」が成立したからといって、いったいどういう感情的結論が得られるのか、ということです。たとえば先述したフィンランドやトルコの親日感情にしても、彼らはロシアに苦しんだという共通体験をして日本に「共感」しますが、それをさらに日本に「類似」ということにまでエスカレートさせることはありません。どう考えても日本人の「類似好み」の方がおかしい。そして「成立しない」という指摘の正しさを考えるとともに、私はもっと根本的なところ、なぜ「ドイツ類似論」というような考え方が日本で影響力でもってしまったか、ということを考える必要があると思います。ここには「アイデンティティ・起源探し」大好き、という日本人のナショナリズムの、アキレス腱といっていいほどの問題があります。そのアキレス腱に気づいた誰某が仕組んだ反日ファンタジーが「日本・ドイツ類似論」だった、といってよいわけですが、こういう反日ファンタジーがいかに悪質であるか、ということは、結論から事実を再構成してしまうことにあります。
再び、古代史に話を戻しましょう。たとえば戦後、日本世間一般に与えた影響力が最も大きい学問的仮説の一つに、「騎馬民族征服説」というのがあります。ご存知の方も多いかと思いますが、これは東京大学の江上波夫教授が戦後まもなく唱えた非常に大胆な古代史学説で、彼は神武天皇と10代の崇神天皇を同一人物(すなわち崇神天皇=初代天皇)とみなし、騎馬民族王であった日本の天皇家(崇神天皇)がモンゴル・朝鮮から移動してきて九州に渡り、その後応神天皇(15代)の時代に近畿地方に移動東遷し、次の仁徳天皇の時代になり現在の大和朝廷の原型ができあがった、とする歴史学説です。非常に大胆ですが、江上説の根拠はきわめて乏しく、学問的には全くの少数説といわざるをえないのですが、「日本人の起源は大陸に由来する」というアイデンティティ神話は、その後、姿形を変えて、世間一般に異常なほどの影響力をもつにいたりました。しかも、この江上説は江上氏自身の真摯な探求意思から離れて、日本人の起源が朝鮮半島に由来する、という奇怪な俗説にさえ変貌してしまいます。騎馬民族征服説の目指すところは日本の「起源」はモンゴルである、ということなのですから、騎馬民族征服説が流通する過程で、様々な作為が左翼イデオロギーの方から、悪意的に施されたということを感じなければならないと思います。そしてそういう作為が成立してしまうところに、「起源」探し好きな日本人の非常に特異な個性を感じることができるといえると思います。
以前にも言いましたが、日本人の古代史好きは決して古代そのものをリアルに把握したいがためのものでなく、現代の日本人の起源を知ることがナショナルアイデンティティだから、なのです。「勝者による歴史の書き換え・偽造・誇張」が中国人の歴史観であるとするなら、「果てしない自分たちの起源さがし」が日本人の歴史観でないか、といえるくらいですね。大体、朝鮮半島に国民文化が成立するのは日本よりやや遅く、「成立していない朝鮮文化」が日本に影響を与える、ということ自体が論理矛盾です。また、7世紀以前の朝鮮の文献は実証性に問題のある日本の歴史文献よりもさらに実証性を欠きますが、あえてそれに依拠したとしても、朝鮮半島から日本列島に渡り、「朝鮮型王朝」をつくった人はよほどの大人物として朝鮮で伝説化しているはずですが、それに該当する人物を見出すことは全く不可能である。こうした根拠の欠如の問題をすべて無視し、江上説はさらに原型をとどめないほどに俗説化してしまい、今では「日本文化は朝鮮文化の模倣である」という杜撰な歴史認識の「根拠」にさえなってしまっています。ここまでくるともう架空小説のレベルで、ひどい話になると聖徳太子が大陸から渡ってきた王子だという説が(一歴史学説として)存在しますが、これほどおびただしい「起源説」を可能にしてしまうほどに、私達は「アイデンティティさがし」を必要としてしまう、という傾向にあるということができると思います。
これがいかに全体的傾向といえるかということは、歴史学だけでなく言語学の分野でも「起源さがし」がいつまでもひどく盛んだ、ということからしても明らかです。例によって朝鮮語やモンゴル語との類似点をさがすという比較研究から始まり、膨大な「起源さがし」が言語学の世界でおこなわれてきましたが、ついに「起源」についての確証は琉球語を除いては得られませんでした。不思議なことに、この確証が成立したにもかかわらず、日本人あるいは皇室の起源が琉球である、ということは、ほとんどいわれませんでした。「作為」が存在しなかったのですね。「類似論」が日独類似論以外の類似論を排除するように、「起源論」は大陸起源論以外の起源論を排除するという結論先取り作為によって成立している、ということですね。大体、「言語」というのは歴史以上に相互の言語間の「前後の因果関係」が不明で、たとえ類似や影響が見出せても、ただちに「起源」であるということの根拠にはなりえませんね。しかし言語学でおこなわれている日本語の起源さがしは、歴史学上に、方法論上の短所を軽視して継続されているのが現状だといえるでしょう。或る哲学者は「言語学こそがナショナリズムをつくりやすい」といいましたけれど、「起源」が日本人のナショナリズムにどうしても欠かせないものであるとすれば、その言葉はなかなか正しいものを語っているというべきでしょうね。
ここまで考えると、もはや「起源」という意味が定かでなくなっている、とさえいえるほどなのですが、アイデンティティさがし、起源論に拘るというのは、はっきりいって意味のない徒労なのですね。「起源は実証できない」ということでいったい何が悪いのか、ということです。起源が実証できないから、日本人としてのナショナリズムが揺らぐということはおかしいのです。調べてみると、これは明治期に顕著になってきた日本人の癖であることがよくわかります。自虐史観ほどでないとしても、日本人の不思議な精神性の一部であることは明白ですね。「日本文明」というのは一言で言うと、アジア世界で全く独自の展開をとげてきたものであり、本質的な意味での「仲間」は世界のどこにもいない、ということなのですが、そのことの「寂しさ」に気づいた明治期の日本人は、いつの間にか起源論の虚構をナショナリズムの一部に組み込む、ということを癖にしてきたのですね。「日本・ドイツ類似論」は起源論ではありませんけれど、やはり起源論に類似した「寂しさの埋めあわせ」の一種であるということができます。「類似のファンタジー」はたとえば「騎馬民族征服説」をノルマンコンクエストになぞらえ、フランスとイギリスの関係を騎馬民族と日本の関係に「類似」していることを見つけだして「安心」する、という説すらあるようですけれど、ここまでくると、起源論や類似論がどうも私たち日本人の「弱さ」からでている、ということがよくわかるのではないでしょうか。
「起源が実証できない」のではなくて、「さかのぼれる時代までしか起源はさかのぼれない」だけのことなのですね。先述しましたように、中国文明は揺るぎない「起源」をもっていると思いがちですが、決してそんなことはありません。人類が誕生したアフリカまでいきつかざるを得ない、ということは極端だとしても、世界四大文明に時間の戦後はもちろんのこと、「相互影響」があるのは確実ですが、だからといって「起源」がどうとかと考えることは意味がないのですね。
「起源さがし」がファンタジーのうちはいいですが、それが皇室の問題についての話になると、その作為の悪質さは無視できなくなります。たとえば、騎馬民族征服説の悪用の典型例というべきですが、日本において、連続性が問題があるといわれている継体天皇以前、存在実証性が問題あるとされている仁徳天皇以前の天皇の存在の「不明」にミステリーを勝手に感じて、すぐさま「大陸からの移動してきた」天皇の物語をフィクションして、いちいち大騒ぎする。私にいわせればたとえ皇室の歴史が仁徳・継体からだとしても、日本の天皇家は単一の王朝としては完全に世界最長であって、そのことを評価することが何より大切です。そしてそれ以前、初期王朝の十数人の天皇に関しては確かに文献上、不明な面がある、ただ神話上はこういうふうに物語的に説明されている、しかしこの神話は私たちが使う意味とは違う意味で「本当の世界」なのだと穏健に教えればいいだけのことではないか、と思います。「起源論」に苦しむということはやむをえないとしても、「起源の不在」により、皇室の歴史などに関して、日本人としてのアイデンティティ不信に陥るというのはとんでもないことだと思います。
繰り返しになりますが、日本は世界で全く独自の文化圏を形成せざるをえなかった、それは「寂しい」ことではなくむしろ「誇り」と考えるべきことである、世界のどこにも類似している文明も国家もない、そして起源はわかるところまでしかわからず、それ以前のことに関しては「わからない」とあっさり考えること・「神話」という複雑な意味での「事実」の双方を、広い意味での「起源」と考えればいいのではないでしょうか。ドイツとの類似論の悪用にみられるように、類似論や起源論のファンタジーに「反日」論がしのびよる可能性があるのですから、近代日本人の「寂しさ」の克服ということは、「反日」を考える上でも重要なテーマになると思います。

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国を「好きになる」ということ

司馬遼太郎さんのエッセイで、彼が中国を長期旅行中、本国の出版社に送った紀行文を中国の諜報機関がすべて解読分析していたことが判明した、という話があります。他の作家だったら怒り狂うところですが、司馬さんらしく、正面きって文面に怒りをあらわさない。大体司馬さんという人は、正面きって喧嘩や論争する人間を軽蔑しているのが持ち味なところがあります。正面きって喧嘩や論争し、結局収拾つかなくなってしまうことが多い私としては、こういうスタイルはちょっと見習わなければならないところかも知れません。
諜報機関による解読分析ということは、全体主義国家だから仕方ないのかもしれないのですが、司馬さんの文章に関して、彼ら諜報機関が総力をあげて、いったい何を分析していたかというのが面白い。それは「この人物はいったい中国に好意をもっているのかどうか」ということのための分析だった、ということが後に司馬さんにわかった、というのですね。以前私はこのエッセイを読んで、これが本当だとしたら中国という国はずいぶん器の小さい国だし全体主義国としても脇の甘い国だな、と思いましたが、実際、中国の人との知識人レベルでの交友が増えるに連れて、どうも司馬さんに届いた情報というのは間違いなく本当のことだったのだろう、と、実感をもって考えることができるようになりました。
相手国人の「好き・嫌い」を自国のナショナリズムの評価の中心に持ち込む。これが一要素でなく、全体的要素だといえるとしたら、中国のナショナリズムあるいは愛国心というのはまことに幼稚なものです。自分の国が「嫌い」な人間であっても、状況や戦略によって、利するような存在になるというのは、国家でなくても、個人のレベルでも大人の世界になれば常識的なことだといえるからです。子供の段階では「好き・嫌い」が支配してしまうということはあり、それがゆえの喧嘩が絶えないということはあります。言い換えれば、中国のナショナリズムは、幼稚な段階にとどまっているといえるわけですね。私のみる限り、中国の知識人の国家意識の多くに、間違いなく、この「幼稚さ」が存在しているといえます。
中国の人たちが世界で一番その傾向がある、というのは断定的かもしれませんが、「中国のことを好きかどうか」ということを外国人(日本人)に対しての判断基準にするのは、やはり「好き・嫌い」の傾向が比較的強い、日本人からみて度が過ぎるように思えます。もちろん日本人もアメリカや中国の首脳を「親日」「反日」で分類しますが、中国の知識人の「レッテル貼り」「分類」のすごさ、というのは疑いようもなく、その比ではありません。
彼らによれば、田中角栄は「親中国」派、福田赳夫は「反中国」派という分類からまず日本の政治論を始めます。この分類は絶対的なものだといっていいでしょう。その分類の仕方があまりにも絶対的であるため、聞いている方はだんだん、退屈してきます。しかも彼らは政治だけではなく、日本のあらゆる分野の人間に、いったんまずこのような分類を施すのですね。そしてどうも日本に対してだけ、というのでなく、どの外国に対してもこういう「親中国」「反中国」の分類の癖があるようです。
中国には国家意識が希薄である、という反面のこの習性をどう理解すべきか難しいですが(ナショナリズムが未成熟だから、といっても世界には未成熟な国はたくさんありますし)「好きか嫌いか」を異常に気にする精神のスタイルがいわゆる「中華思想」とは無縁である、ということだけは明白です。何度も言いましたように、「中華思想」というのは大人びた態度、王道でもって嫌が応なく中華世界を好きになってしまうような、懐の深さを意味するものです。「好きか嫌いか」に神経質になっていることは、中華思想からすれば、いかにも器の小さい行為で、中華思想的には、嫌いな人間をこそ徳化して「親中国」化してもらわなければならない、ということになるのでしょう。しかしこうした近代中国人の器の小ささ、が私たち日本人と無縁と言いきれるかどうか、ということを私たちは考えなければならない、ということもいえるのではないかと思います。そのためには、世界の「親日国家」について、少し考えなければならないでしょう。もちろん、「親日」的国家というのも色々な国々があります。
よく言われるのはゲオポリティックス(地政学)上、ロシアの侵略に苦労してきた国家が日露戦争を演じた過去のある日本を好きだ、ということですね。フィンランド、トルコ、ポーランドなどがこれに該当します。彼らのロシア嫌いは、歴史的根拠を強くもつものですから、まず誠実なものだといって差し支えない。そして「嫌」がバランスをもったものになるために、「嫌」に敵対した国を「好」になる、という感情論理になります。ロシア嫌いの国というのは親日的な傾向があるのですが、奇妙なことに、ロシアでも、世論調査や国民教育は圧倒的に親日的なのですね。ロシアからすると、唯一打ち負かされた相手だ、ということなのですが、これは「力の論理」が逆作用するという、ロシア人の非常に特殊な性格を意味している面があるといえます。
これもゲオポリティックスと歴史認識の結合の延長上にあることですが、最近は中国の反日政策の反動で、反中国的な国家が日本に好意をもつ、ということがあるのですね。たとえばモンゴルがこれにあたりますが、「反中国的国家」の親日は日露戦争と同様、あれほど不評な日中戦争において、日本が中国を叩いた(叩いてくれた)ということから生じるものなのですね。国民国家どうしの歴史観が全く相対的なものである、ということがこの「反中国=親日」国家を追うとますます認識できます。私たちは何となく日中戦争が絶対悪であるという考え方に慣らされていますが、日本が中国を叩くことに拍手を送る国というのも実在して、日露戦争の肯定・賛美と全く同じ論理の日中戦争の肯定・賛美ということがありうるわけです。私は戦後の対中国反省論というのは、戦前の陸軍皇道派や石原莞爾グループの精神的根拠であった日中提携論の焼き直しを国民多数が信じ込まされてきたものに過ぎない、と思うのですが、いずれにしても、いろんな国民国家のナショナリズムへの出会いを通じて、彼らの「親日」から日本の近代史をすべて肯定する、ということは決して不可能ではないのですね。そしてあるいは、日本のノーテンキな平和主義者が、韓国人の世論が「原子爆弾で日本人が報復されたのは当然である」という韓国人のナショナリズムに出会う度に愕然とする、ということとも表裏一体のこととであり、日本の平和主義の浅さを完全に暴くこともまた可能だといえると思います。
しかしこうしたタイプからの「親日」はそれはそれでいいとはいえ、決して手放しで日本人が喜ぶべきことではないのではないか、と思います。たとえば有名なエピソードですが、孫文が日本に感動したきっかけは日露戦争でした。このエピソードに、左右を問わず多くの日本人は感動しますが、しかし、あらためてよく検討しなければならないエピソードだともいうべきなのです。孫文が感動した日本というのは、実に限られた時間幅の「日本」でしかない、ということです。孫文は1924年になくなるまで、ついに近代史の或る一点での日本理解にとどまり、日本史そのもの、日本文化そのものを理解する視点を持とうとはしなかった、ということがいえます。孫文は反ロシア・反中国諸国家とは違う形とはいえ、日本という特殊な近代化の成功を隣においてしまった、やはりある種の地政学に巻き込まれた人間だった、というべきだったと思われます。
あるいは感情的段階の「親日」にとどまるのならまだしも、孫文のようにその「親日」を通り越して「わが国が日本を模範としたい」となると、日本人をより感動させて、物事の本質が見なくなってしまうだけに、話がますますややこしくなってきます。孫文の言及に、明治以前の日本人や日本文化への言及や考察は、ほとんど見られません。明治期の近代化が江戸時代という非常に優れた前近代社会をバックグラウンドにして成立している、ということ、あるいはいまだに中国が達成できていない国語的統一という最重要の問題を、日本は平安期においてほぼ達成しており、その認識を通じて、平安期の国民文学の成立や、当時の国際事情を考えなければならない、ということなどを、孫文がどう考えていたかは、皆目わかりません。日本の偉大さに感動しすぎることは同時に、日本の偉大さの特殊性について考察することを忘れさせてしまう。感動して「日本を模範にしたい」というロマンを語っているうちはいいですが、「いつまでたっても日本みたになれない」というこれまたあたりまえの歴史的現実が、近代日本に感動したそれらの国に、やがてやってくることになるわけです。
「親しみ」はやはり確かな根拠に基づいてほしいのですね。もちろん「嫌い」ということに関しても同様です。中国にしても韓国にしても、あれほど「反日」を言う割には、「日本学」「日本研究」という分野がほとんど成長していない、ということがいえます。理由は簡単なことで、「好き・嫌い」の感情判断を国家政策自体が最優先させてしまっており、知識人を筆頭に個人の頭の中も「政策的」になっているから、いつまでたっても研究が進まない(始まらない)のですね。
これを司馬さんふうにいえば、中国・韓国のこうした独断は宋学・朱子学の悪影響で、日本もそれらから決して無縁ではない、ということになるのかもしれませんが、戦時下に日本学・日本研究を逆に著しく発展させたアメリカ、そしてゆるやかで内実にはかなりあやしいものを含むといっても、1990年代に至り日本学をほぼ一分野化させたヨーロッパ各国に比べて、中国・韓国はいまだに近代史中心の「日本研究」しか存在していません。言い換えれば孫文の時と基本的に全く同じであり、孫文の感動が「嫌い」に裏返っただけのことなのですね。たとえばパールハーバー直後のアメリカの反日感情の激しさは、今の中国どころではなかったでしょう。あるいはフランス人の日本好き気取り(ジャポニズム)はなかなか有名ですが、好き嫌いという自分たちの感情に溺れることなくその「好き・嫌い」を「日本学・日本研究」として体系化していく、ということがあっさりとできるのですね。私は「歴史研究」と「歴史教育」は二元論で行かなければならず、前者はマイナス面も含めて客観的な歴史認識が必要だけれど、後者は「対象への愛情」ということを優先して教えるものでなければならない、と思いますが中国や韓国には日本に関しては、「歴史研究」ということが不在なのですね。「歴史研究」が不在である「歴史教育」がどうなるかは、皇国史観が過剰になってしまった、それこそ近代史の或る一時期の日本を思い浮かべればいいでしょう。
「歴史研究」なき「歴史教育」による日本理解ということは、たとえばこういうことです。少し以前、中国の某有名大学の教授が「日本とドイツ人は世界で一番よく似ている」と堂々というので呆れて、「いったいどのような根拠に基づくのですか?」といったら「第二次大戦で同盟国でした」という答えが返ってきました。軍事的同盟国の経験を共有していることが歴史学上、国民性の類似の根拠かどうか尋ねるのも子供だましだと思いましたが一応控えて、「イタリアも日本の同盟国であり近代国家の成立も同じくらい、しかも二次大戦時まで君主制を有していましたが、日本とイタリアは似ていないのですか」という問いには、「わが国ではそうは教えていない。日本とドイツが似ているというのが多数派である」という、答えならぬ答えしか返ってきませんでした。いくら質問してもそこから先はもう「1+1=2」の世界で、堂々巡りという以下のレベルになってしまいました。もちろんこれはその人物が悪いのではなく、近代史のみの日本理解しかしていない、という中国の国家教育のせいなのだ、と私は絶望的に納得する思いでした。しかも結論を優先し、そして結論を操作する教育である可能性すらあるのですからおそろしいものです。そしてもしかしたらそれは、司馬さんのエッセイにあるように、本来好き嫌いと一番無縁に情報と事実を扱わなければならない諜報機関までが「自分の国が好きかどうか」という器の小ささを背負っていることと無縁ではないのでは、という気がしてきたのですね。私たちの日常でも、どうしても好かれたい、という人間はその感情に取りつかれて器をどんどん小さくしてしまいますね。中国の人たちがいう「自分の国が好きかどうか」ということも「1+1=2」の、おそろしく冷たいシンプルな世界なのだ、とすると納得できる気がします。ものすごく変なたとえですが、中国人の「自国を好き」という言葉には「数字」を感じてしまいます。「好き」という言葉はどんなものに対してであれ、血の通った「熱い」あるいは「あたたかい」言葉ではないのでしょうか。「好き・嫌い」は数学や算数の授業で教えることではないですよね(笑)
日本人の「親日」「反日」への意識はおそらく中国人ほど敏感ではないと言えると思います。しかしもし何かのきっかけがあってそれらを意識せざるをえないときは、「親日感情」そのものよりも「日本研究」を含んだ「親日感情」を歓迎する余裕があってしかるべきだと思います。近代史のどこかの部分をとりあげては賞賛する、あるいは賞賛してほしい、といったパターンの「親日」とはそろそろ縁を遠くした方がいいと思います。そういった近代史的な「親しみ」アレルギーに陥って器をどんどん小さくしている中国をみれば、親しみは得ようと思って得られるものでない、ということが自然と理解されるでしょう。これからの日本は「日本研究」を大事にして育てようとする国をこそ大事にするべきだと思いますね。

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「世界対立」とは何か

私はちょっと変わっている人間なのか、早く齢をとらないかな、といつも考えているのですね。
それなりの精神的努力をすれば、年々ものごとの考え方が深くなっていくような気がするからです。死に近づく恐怖はどうするんだ、といわれるかも知れませんが、セネカが言ったように、若いころの方が、死を確信しないがゆえにずっと死は身近であり、老年になればなるほど、死を確信するがゆえに、死はなかなか身近にならない、という精神図式もまた成立すると思います。このまま80歳や90歳になったらどれだけ自分が深くなることができるか想像するだけでゾクゾクしてくる。今よりずっと考えが浅はかだった今より若い頃に戻りたいとは、どうしても思えない。
しかしそんな変わっている私でも、昔の方がよかった、特に子供の頃がよかった、子供が羨ましいな、と思えて仕方ないところがあります。それは世界への「恐怖感」ということなのですね。「世界を怖い」と思えることだけは、齢を重ねるとなかなかできなくなってきてしまいます。世界から怖いものがいなくなってしまう、ということは好奇心や考え方にとって、あまり好ましいことではありません。「世界を怖い」と思えなくなったことは、「大人」になったことを意味するのでは断じてありません。本当はそれこそが、「老い」そのものではないか、と私には思えます。
羨ましい、戻りたいと思う気持ちは同時に、今の子供たちが可哀想、と思えて仕方ないことでもあります。「私達の世界がどんどん怖くなくなってしまっている」のではないか、ということを感じるからですね。では私たち大人が全く「怖い」ということを感じないかというとそういうことでもなく、何かが不安で仕方ない、という面も確かにある。私たち「大人」が時々感じる、この世界への得体の知れない不安感、私はその不安感の本質のある部分は、実は不安や恐怖というものを失ってしまったこの世界が、今まで経験しなかったようなすさまじいぬるま湯の時間にさしかかっている、というふうなことなのだ、と感じなくてはいけないと思います。
「すさまじいぬるま湯」というのは何となく矛盾めいた言い方ですが、「すさまじい退屈」と言い換えてもいいかもしれません。私達の世界はもう、子供達に不安感や恐怖感を教えることができなくなってしまっているのかもしれない、ということが実は一番恐ろしいこと、不安を感じるべきことなのではないでしょうか。
怖くなくなってしまった「大人たちの世界」はどうして怖くなくなってしまったのでしょうか。このことを考えるとき、或る有名な日本の小説家の「人間の精神は絶対的に敵ということを必要とする。従って敵を失った人間の精神は信じられないほどに衰弱していってしまう」という言葉がどうしても思い出されます。この言葉ほど、私達の世界のどんよりとしたものをずばり言いあてている言葉はない、というべきでしょうね。
戦後日本の最大の幸福、それは間違いなく日本が社会主義国にならず、あるいは分割されることなく、自由主義陣営にいることができた、ということですね。それでは不幸の反面の「最大の不幸」ということは何だったのでしょうか。私に言わせればそれはこのサイトで何度も繰り返してきたように、神話の不在化やら教育の混乱やらで「国民の精神」ということを見失ってきた、ということに他なりません。私達は国民や国家がほぼ存在しない奇怪な憲法体制の中に生かされてしまっているのですね。それをどう考えるべきか、あるいはどうすればいいか、ということはこれまで何度も述べてきました。しかしそんな中でも、社会主義に取りこまれてはならない、社会主義ということはおぞましいものであり私達の世界の「敵」である、という最低限の良心は確保され続けてきた、といっていいでしょう。その社会主義国家勢力は二十世紀後半の政治状況を通じて、ほぼ完全に破産を余儀なくされました。猛威をふるった私達の世界の「敵」が自己崩壊していったのですから、私達は手放しで喜ばなくてはいけないのですが、喜びたい反面、どうも喜べないところもあります。それは社会主義の「破産」ということは同時に反社会主義勢力の「破産」、社会主義の魔の手にきちんと相対してくれていた人たちへ、敵の不在という名の深刻なニヒリズムをも呼び込むことになってしまったのですね。
キリストを信じる人たちが、悪魔というキリストに対抗しうるような冷徹なリアリストをどうしても必要とするように、自分たちの世界の正統性を主張するためには、二元論的世界をどうしてもフィクションしなければならない、という逆説が存在するのですね。
その小説家が誠実に言おうとしたことは、人間というものがおそらく永遠に背負わざるを得ない、大変な不条理のことなのですね。「精神の衰弱」というその小説家の言葉が果たして何を言おうとしたのか、定かではありませんが、二十世紀末のあの喜ばしい世界中での政変以来、なぜか勝利した私達の世界が日に日に緊張感を失ってきてしまっているのは、どうも事実といわなければなりません。私達は私達の世界を吸い尽くそうとする悪魔の不在に悩んでいる、というおそろしく奇怪な、しかしおそろしく本質的な危機に直面しつつあるのです。先進国に挑戦しつづけるイスラム勢力の存在があるじゃないか、といわれるかもしれませんが、私のみたところ、彼らの勢力というのはかつての社会主義国のように、世界を制覇してしまおう、という悪魔的な迫力には大きく欠けるところがある、といわなければならないでしょう。そしてこれは国民国家(日本)の問題とは一応は区別されるべき別の問題、多くの先進国に共通するインターナショナルな問題である、というべきでしょう。
小説家の言葉には続きがあって、「だから僕は自分の精神のために敵を無理にでもつくらなくてはならないのです」というさらに矛盾した表現に移るのですが、彼ほど強靭な精神力をもっているわけでない私に言わせれば、「敵」や「対立軸」ということは、決して血みどろの闘争からリアクションを受ける、ということばかりを意味するのではない、と思います。「敵」や「対立軸」があるということがそのまま私達にリアクションを与えてくれる、そこから普遍的なことを教えてくれる、という意味でのリアクションもあるのですね。そういうふうに修正すれば私は彼(小説家)の言葉に充分同意することができます。なぜなら私は(私達の世代の子供は)まさに敵がある、ということそのものから大きな精神的養分を得た子供達だったからです。
私達の子供の時代(80年代前半)は今に比べてはるかに「平和」ではありませんでした。アメリカとソ連の対立が「核戦争の恐怖」の暗い影を子供の世界におとしてしました。不安と恐怖に満ちた時代だった、といってもいいでしょう。あの恐怖感は決してニヒリズムというようなものではありませんでした。子供たちにとって「虚無」を感じられるほどに世界が実在的ではなかったからですね。しかし何かとてつもなく大きい「魔」としか言いようのないものが、そっとやってくるのです。祖父母が語る幽霊よりも怖い、理科の授業で語られるどんな偉大な科学的現象よりも怖ろしい、なぜならばこの世界が一瞬先、家族や友人もろとも滅びるかもしれない、という世界の究極の恐怖が「核戦争の物語」にはあったからですね。そんな世界に私達はいつもさりげなく放り出されていました。垂れ流し、といっていいほどのドキュメント、シナリオによる「核戦争の物語」の洪水が子供に与える計り知れない影響ということを、大人たちはどう考えていたのでしょうか。現代の子供たちがどっぷり浸っているネットゲームの世界に「殺人」が頻繁である、といって騒がれていますけれど、果たして「滅亡」という全人類の「殺人」が彼らのゲームの世界にあるのかどうか。私達の子供時代の方が、よほど過激な精神体験をしていた、と考えることは決して不可能ではないように私には思われます。
今でも当時の友人と笑いあうのですが、たくさんの思い出が、その恐怖感のまわりに、清清しいほどに残っています。世界が滅んでしまうのならいっそのこと集団で家出しよう、と考えて家出先を紹介してくれる「家出相談所」を電話帳でさがしてみたり(笑)授業中、前日の核戦争のドキュメントをみたその恐怖感だけで、一日中泣いているクラスの女の子がいたり、また「世界滅亡」の話になると安直な平和主義をすぐに語りだす教師もいたのですが、子供である私達には「平和主義」ということがよくわかりませんでした。いろんなことを必死で考え、そしてそのことだけは段々わかってきて、もしかしたらあの頃の唯一の遺産なのかもしれない、と思うのですが、「どんなに楽しいことにも突然終わりがくるのかもしれないんだな」というこを書いて、それを何となく文章にして発表して、クラスのみんなの白けた雰囲気に恥ずかしい思いをした、という経験ですね。恥ずかしいことですけれど、それは核戦争の恐怖ということが私に書かせてくれた文章であるのは間違いないことなのです。世界が不意に消えてしまうかもしれない、という焦りの気持ちが落ち着くと、不意にそんな気持ちになれたのです、家族も友人も、いつか「死」という段階を通じて永遠にしかも不意に別れなければならない、ということを子供は実はまだよく理解できていません。しかし全人類の「死」ということを教え続ける核戦争の物語は、人間の関係の不条理ということを、私にあっさりと教えてくれたのですね。これは「核戦争の恐怖」が私達子供を育ててくれた、ほんの一例だと思います。同年代のドイツ人留学生の友人がやはり私と同じ精神体験を彼の幼年期にしていた、そしてドイツでもそういう風潮が存在した、ということを知ったとき、私は心底、ああ、あの恐怖というのは日本の問題だけでなかったのだな、と感無量の思いでした。今になって考えてみれば、予感された「全人類の死」が、死の本質である「個体しての自分の死」を忘れさす、祝祭的なものだったかもしれない、と思います。しかし全人類の死=個体の死という図式も成立するのですから、やはりあの恐怖は、おそろしく根源的なものだったといえると思います。
「もしも囚人に、一つの手桶の水を他の手桶にあけ、それをまた逆に始めの手にあけたり、砂をかいたり、あるいはまた、土の山を一つの場所から他の場所に移し、それをまた元に戻すというようなことをさせたら・・・囚人は4、5日も経ったら首を吊るか、でなければそんな侮辱や苦痛から逃れようと思ってどんな罪でも犯すだろう」というドストエフスキーの言葉がありますけれど、私達は単調ということ、退屈ということにはどうしても耐え切れないのです。世界が平和になればなるほど私達は怖ろしいほどに退屈し、その退屈を「未知の不安」を感じてしまったりもしてしまうのですね。あるいは恐怖感を知らない子供達の怖ろしさ、という教育的な問題も関係してくるかもしれません。いずれにしても「永遠の平和主義」は決して人間の本性ではない、と言わなくてはいけないでしょう。もちろん「核戦争の物語」が流通していた時代はもしかしたら非常に極端な時代、時間だったのかもしれません。しかし恐怖や不安が存在しない、子供にさえ怖がられない、不安がられないこの平和な、すなわち単調で退屈な、「悪魔」ですらいなくなった時代に私達は生きなければならない、という運命を抱えているのですね。「対立」や「敵」を失ったこの世界に失望して、つまり「平和」に絶望して、ただそのことだけで自殺する人間がたくさん現れても、決して驚くに値しません。ドストエフスキーが言うように、それこそが人間の真実だから、なのですね。
もしそういったものを感じているのだとしたら、「私は得体の知れない「不安」というものの本質を、とりあえず、そういうふうに理解します。「無理にでも敵をつくらなければならない」という小説家の矛盾した言葉が人間性の苦しい真実を言いあてている、と言いましたが、それに倣っていえば私達は「世界の恐怖をもう一度作り直さなければならない」といわねければなりません。その矛盾に満ちた人間観に基づいて、私達は、国家、伝統、家族といったものの復権を考えていかなければならない、ということになると思います。ですからこのサイトのテーマである「反日」の問題、私は実は「親日」や「反中国」を含んだ広範なテーマだと思うのですけれども、そのことも、中国あるいは北朝鮮という横暴きわまる国が消滅したのち、脱力してしまうような中国批判ではいけないのですね。普遍性への緊張感をはらんだ批判でなければなりません。たとえば、なぜ社会主義という理想が世界に現れたのか、「未来」ということへの浅はかで怠惰な依存がその原因だとしたら、二度と社会主義のようなディストピアを生み出さないように、私たちは「ユートピア」というものを考える、いくつかの了解をきちんと得なければならない、というふうに、政治の世界でのビジョンを考えていかなければならないでしょう。退屈しのぎの域をでない批判は、批判対象の消滅により、一層のニヒリズムを批判者にもたらしてしまいます。
あまりにも漠然とした問題意識なのかも知れませんが、つかみづらいそれこそが、世界政治のこれからを考える上で、最もおそるべき問題ではないだろうか、と私は思います。

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歴史教育について

「誰某は歴史に詳しいね」という言葉がよく飛びかうのを聞きます。「詳しい」もいくつか意味があるのでしょうが、「知識が多い」というニュアンスで使われているような気配を感じるとき、私はつい反発したくなります。「歴史に詳しい」ということは、実はなかなか難しい言葉なのですね。私見をいえば、「歴史」を勉強する上で一番大切なスタートラインは、「歴史教育」と「歴史研究」が別のものである、と考えることだと思います。
たとえばアメリカにせよフランスにせよ、建国革命やフランス革命といった栄光の歴史の裏に、いろいろな卑しむべき歴史的事実がたくさんあります。アメリカ建国にきわめて重要な役割を果たしたジェファーソンが奴隷女性に子供を産ませたこととか、フランス革命を急進的に進めたサンジェストが血に飢えた異常人格者だったこととか、ですね。しかしこうしたことは彼らの「国民の歴史」ではほとんど教えられることはありません。「教えない」ことが、彼らのずるさ、したたかさだ、ということでしたら、それはとんでもない見当違いというものです。
初等教育の段階では、人工的・作為的な物語であったとしても、栄光のアメリカ、美しいフランスを教えて、とりあえず「アメリカ人」「フランス人」をつくることが国民国家では大切なのですね。その上で、高等教育機関、特に大学以降において、次第に「歴史研究」の要素を増やし、裏のアメリカ、裏のフランスを知っていく、ということになります。「裏の歴史」を初等教育の段階で教えることと高等教育の段階で教えることでは、歴史理解に雲泥の差が現れます。歴史にせよ政治にせよ、「裏」ということは総合理解を要するものですが、前者の段階ではそれはなかなか難しい。戦後日本における左派的な自虐史観の最大の欠点が、歴史教育におけるこの二元論の必要性を見落としていたことにあるでしょう。そして今後、いずれ後退するであろう左派的な歴史観に変わる歴史観・歴史教育論においても、この二元論は絶対に必要なものだと思います。
「本当のことを教えないの?」といわれるかもしれませんが、たとえば「家族」にしても、初等教育機関から、過剰な性教育なり離婚の実体なりで、家族形成のカラクリを客観的の教えてしまう必要はないはずです。家族や夫婦とは尊重しなくてはならないすばらしいものなのだよ、と多分に物語的に教える必要がまずあります。小中学生にいきなり「お父さんとお母さんの性行為であなたが生まれた」と科学的に教えたところで、家族観の育成にはまず無意味なのですね。「家族教育」と「家族研究」も違うものなのです。大人になるにつれ、結婚や出産を通じて、子供のころ教えられた物語を消化していって、「家族」が本当はどういうものか、各々が「研究」していけばいいのです。性教育の多くがこのことを見落としています。もちろん「家族研究」は高等教育機関で教えてもらうものではありませんけれどね(笑)
ですから初等・中等教育機関では歴史教育は排他的な雰囲気をつくらないように注意を払えば、「その国の栄光ある過去」を教えて差し支えないと思います。現代の子供はいろいろなことを知っていて、大人を困らせる質問をしてくる場合もあるでしょう。その場合は教師の側も素直に「歴史研究」の場を避けないこともまた大切だと思います。日本軍の残虐行為について質問してくる小中生がいたら、卒直に受けとめて彼らと質疑を応答すればいいのですね。「先生はこう思うが君はどうだろう」とむしろ本格的に本気で言わないと、子供たちは誠実さの欠如に失望して、「歴史教育」の場そのものが危うくなってしまいます。ですから私は「隠して教えるべき」と言っているのでは決してありません。そして歴史は何も近代史だけではありません。
こういうと「自国の歴史ナンバーワン」人間を傲慢な中国人のようにつくりだすだけなのでは?ということをいわれそうですが、歴史教育や道徳の授業での愛国心教育は、確かにそれだけではたちまち中国の歴史認識の押し付けのように、世界で孤立してしまいます。愛国心教育には大賛成ですが、何かしらのプラスアルファを付随させて、中国の歴史教育のような倣岸なものにしないというディフェンスが必要なのではないだろうか、と思います。
たとえばアメリカでは大学以前の教育で、「歴史教育」と同時にコミュニケーション論を徹底して教え込まれるといいます。日本人からするとアメリカ人は不思議なほどに「コミュニケーション」の授業を大学以前の段階で重視します。いわゆる「知識」に関しては、大学以前のアメリカ人が非常に劣っている、といい日本人の優位を言ったりする人もいますが(最近は中国人も多いようですが)こういう見解はアメリカという国のおそろしさを何ら本質的に理解していない。このコミュニケーション教育こそ、アメリカ人のキャパシティの根源であるとさえ言っていいと思います。私の見たところ、この過剰なコミュニケーション教育こそが彼らの「歴史教育」と「歴史研究」の二元論を防御する、つまり国のフィクショナルな神話的歴史を防御するものなのですね。
たとえば他人(他国)の過去は、法的に清算されたものである限り(清算されたものでなくても)絶対に追求しない、というルールをアメリカ人はよく知っています。「過去」そのものの意味というより、「過去」を追及することの意味を熟知しているからです。たとえば、他人の体型について口軽く干渉することもしません。「太ったりやせたりすることはいろんな過去の事情がある」というコミュニケーション教育のたまものなのですね。すなわちいくら自分がナンバーワンであっても他人=他国の過去=歴史に干渉することはないのです。それでいてアメリカほどダイエットすなわち体型を就職や昇進で重視する国もまた他にありません。矛盾しているように思われますが、私に言わせれば、少しも矛盾していません。それは「体型」が現在的なその人の判断要素であるから重視されるのであって、「過去」を含むところの,日常的な総合的な人間評価ということとは区別されるのですね。肥満していることの過去については追求されないということです。だからこそ、アメリカ人は他人に無関心(他人の過去に無関心)なのですが、他人の現在については強い関心がある(他人は今何を考えているか)ということです。これは非常に意図的で、意識的なものなのです。これを全体的なものに敷衍すれば、非常に矛盾しているように見えませすが、現在のアメリカ的な「よきもの=デモクラシー」を、現実の世界に普遍的なものとして流布して押しつけることと、他人への無関心とはアメリカ人にとって全く両立しています。
これがどうして「歴史教育」の防御になるのでしょうか。「(他国への)歴史教育」への無関心は「他人への無関心」と同質だからです。関心と無関心を比べれば、実は「関心」こそが人間の常態であって、「無関心」の方であることの方が難しい。その「無関心」を常態的なものとして作り出すには、コミュニケーション教育が必要ということになるのです。かくして、アメリカ人は、他国への「歴史教育」に全く関心もないし、干渉しようとは露ほどにも思わない。にもかかわらず、ダイエットを判断基準にするように、デモクラシーを、その人(国)の現在に押しことについても、何とも思わない。裏を返せば、アメリカ人のデモクラシー押し付けに関して、彼らの国民教育・愛国心教育を攻撃・論難しても、彼らはびくともしないようにできているのです。コミュニケーションが、彼らの「歴史教育」ひいては「歴史」ということを防御するように、確固として存在しているのです。アメリカを叩きのめすためには、まずこの巧妙極まりないコミュニケーション教育の伝統から、叩きのめす必要があるのではないかと思います(笑)
私は中国や韓国の歴史観の押し付けには大いに抗議するべきだとは思います。しかし「歴史研究(あるいは事実主義)」の衣を被りつつその実排他的な「歴史教育」にしか過ぎないことをやっている彼らに対して、「歴史研究」だけで応戦するのでは徒労感ばかりが残ります。「歴史」とは、「事実」そのものではないのです。アメリカ式の教育方法がすべて正しいとは思いませんが、「歴史」や「自国」を主張防御するのはコミュニケーションの問題でもある、ことは認識するべきだと思います。たとえば一言安倍総理が「なぜ歴史観が問題になるの?」と純粋な小中高生よろしく質問してみれば、雰囲気はガラリと変わる(白けたのち)かもしれません。「なぜ」を繰り返してみればいいのです。子供の「なぜ」ほど厄介で、しかしたいせつなものはないのですからね。その「なぜ」がおそらく政治的に利用しているだけの彼らの「歴史研究」と「歴史教育」のゴタマゼの衣を一番有効に剥いでくれるでしょう。「なぜ靖国問題が・・・」「なぜ裁判で決着したはずの戦犯のことが・・・」「なぜ他国の教科書のことが・・・」しかしこのゴタマゼはあまり他人事ではないですね。私は日本の戦後教育において、人権偏重とかイジメとか偏差値問題とかと並んで、この「歴史そのもの」という考えのいつの間にかの定着、すなわち「歴史研究」の教育の場での過剰ということをあげてもいいのではないかと思います。

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日本人のアイデンティティ


古代史や言語分布を通じて「日本人の起源」を追求する人は一時期ほどではないにせよ、依然として存在するようです。それはそれでいいのですが、私に言わせれば、こういう起源探究と、日本人のアイデンティティを混同することは、非常な間違いです。そして危険でさえある。たとえばよく「皇室は朝鮮半島から来た」ということをいう人がいます。「だから・・・」という言葉が続く場合がほとんどです。後日の文章で述べますが、これは実証的見地からいっても全く間違いなのですが、それ以上に、こういう言い回しは、起源探究と日本人のアイデンティティを混同してしまっています。
たとえば中国にとって歴史的連続性を意味する最大のものは「漢民族」の連続性ですが、この漢民族の起源についてはさまざまな説があり、海洋民族であったという説もあるのですが、しかし現代中国は、「中国四千年」というプロパガンダの中で、「起源」の問題になどほとんど関心がありません。起源をたどればアフリカの類人猿が偉いことになるよ、とある中国人知識人に言われたことがありますけれど、それは存外間違いなことではありません。
「起源」の問題と現代のナショナリズムはなるべく区別して考えていかなければならない、ということですね。古代史への憧れの源には、こうした混同があり、混同しているがゆえに、魅力に満ち満ちている、ともいえます。しかし私も日本人ですから、古代史に日本人の何らかのナショナルアイデンティティをとらえてみたい、という願望がないわけではありません。一般の人たちが群がる「起源さがし」とは別の意味で、日本人のアイデンティティを見出すことは可能でしょうか。私に言わせればそれは充分に可能です。
私達の国は古来から「大和」「扶桑」などいろいろな名称を有していましたが、対外的には中華世界の蔑称である「倭国」を外交上、とりあえず使用していました。三世紀の都市国家・邪馬台国は倭国内の連合王国の代表であり、五世紀の「倭の五王」は履中天皇や雄略天皇など、当時の天皇たちを意味するわけですね。この「倭国」という言葉と「大和」「邪馬台国」という言葉の類似性・関係性について周知のように侃々諤々の議論なのですが、もちろん私はそんなことが証明されたりされなかったりすることは「日本の起源」ということと、全く関係ないと考えます。
大事なことはこの「倭国」の称号がいつ「日本国」に変更になったか、ということですね。記録を追うと、670年、新羅に到着した倭国の使者が日本国への国名変更を通告してきた、とあります。その少し前、中国(唐)にきた倭国の使者は依然として「倭国使者」ですから(唐の文献に日本国への変更が記されているのは701年)日本国への国名の変更は670年(あるいは669年)というふうに考えるのが妥当でしょう。「日本」という意味は「太陽のもとの国」という意味で、世界の中心を意味する「中華」に対して引けをとらない堂々たる名前なのですが、なぜこの670年に倭国の日本国への名称変更が行われたのでしょうか。これはこの7年前、朝鮮半島の白村江で行われた大戦と敗北ということが、大きく原因しております。
当時の朝鮮半島では中国(唐)側にたつ新羅と倭国(日本)側にたつ百済が対立状態にありましたが、半島の覇権を巡り、ついに全面衝突に陥りました。新羅を支援するため、世界最大の帝国(当時)の唐が大軍を朝鮮半島に派遣してきたのですが、倭国側の斉明天皇(女帝)も百済支援を決意し、のべ約五万人の大軍を三次にわたり半島に派遣します。今まで朝貢の対象でしかなかった中華世界に対して軍事的対決を決意したことに、まず大きな意義が見出されるべきでしょう。当時の日本列島の人口が現在の二十分の一、そして東北・北海道などはまだ中央政府の傘下に入っていないのですから、この五万という人数が二次大戦に等しい軍事規模であったことがよくわかると思います。しかし白村江で唐・新羅と対決した百済・倭国の連合軍は大敗してしまいます。
白村江の敗戦が倭国の首脳に与えた影響はすさまじいものでした。唐の絶対的国力からして、唐が続いて日本列島に大挙侵攻してくることは容易と考えられたからですね。国防力の整備は当然のこと、そのための税制や地方管理など、さまざまな「国のかたち」の整備を緊急におこなわなければなりません。それまでの日本(倭国)の安穏とした統治ではとても世界最強の唐に敵わず、百済のようにひとたまりもなく踏み潰されてしまう。日本の行政制度の整備が645年の大化の改新の政変に多くおこなわれた、ということに歴史教科書上はなっていますが、実は本格的な大変革はその18年後の白村江の大戦後におこなわれたのですね。いずれにしても、日本列島を襲った驚嘆、恐怖、苦悩ということは、どんなに私達が努力して想像しても及ばないほどの激しいものだったことでしょう。明治初期、ヨーロッパ列強のパワーへの驚嘆と恐怖から、近代化に奔走した明治政府首脳の苦悩と、当時の倭国朝廷の苦悩に類似を見ることは、決して間違いではないでしょう。急に対抗しなければならなくなったのは軍事力やそれを支える経済力だけではありません。
中華世界に互角に張りあえるだけの「世界」を独自に構築し、内実ともに中華世界に対抗しなければならない、という壮大な建国作業がここに始まります。すなわち白村江の大戦こそが日本の「起源」であり、日本という国のナショナルアイデンティティというものが古代史にあるとするならば、中華世界への対抗意識つまり「反中国」ということなのですね。「反中国」が古代史上、日本のアイデンティティである、というと、「魏志倭人伝」などに気を奪われている人たちからは「気でも狂ったのか」といわれそうですが、残念ながらそういわざるをえません。
かくして「日本国」の国名変更とほぼ同時に「大王」あるいは「治天下大王」といわれていた日本の天皇は「天皇」と名前を変えることになります。日本国への国名変更を外国に通告したのは668年に即位した天智天皇ですが、「天皇」という称号を使ったのは彼が始まりであり、つまり中華帝国の「皇帝」に対抗する、という意味なのですね。そして壬申の乱を経て即位した天智の弟の天武天皇により、わが国初めての歴史書である「日本書紀」の編纂が681年に開始されます(720年に完成)日本書紀の前後を通じ、漢語を利用しつつ巧妙に漢語の影響を排除した「国語」も急速に整備されてくる、というふうに、それまでアジアの辺境だった日本列島は急に忙しくなってきます。私達はこの「日本成立」にさまざまなナショナルアイデンティティの形、すなわち「反中国」ということを見ることができます。
たとえば「日本書紀」に関していわれるきわめてステレオタイプな悪口に、初代神武天皇の即位年を紀元前660年という縄文時代のど真ん中においている、というものがあります。史実性がない、ということです。しかし紀元前660年という数字が事実でないということを、戦前の人が無前提に信じていた、ということではありません。「歴史教育」と「歴史研究」は区別されるべきもの、と言いましたが、戦前、実証的歴史学の権威で、神武天皇は実在したとしても紀元後の人間である、ということを明言した那珂道世博士でさえ、歴史教育として、神武伝説は教えなければならない、といっています。「日本書紀」の伝説性ということには、それを信じることによって、何らかの意味がある、ということを戦前の人間は知っていた、ということになります。それは「日本書紀」という書物が、いったいどういう目的をもって書かれたか、ということと関係します。その目的とはつまり、白村江の敗戦、国名の変更、国語の編纂という一連の「中華文明への対抗」ということと関係します。
「紀元前660年」ということは、始皇帝が中華世界を初めて統一した紀元前221年に対抗するための、数字上のフィクションととらえるべきなのですね。フィクションはフィクションなのですが、7世紀の日本の難しい政治状況の中での日本の建国、ということを考えるならば、複雑な意味をこめたフィクションである、といわなければならないでしょう。そして7世紀の政治的現実(建国)や国際的現実(反中国)ということを考えれば、この数字上のフィクションはある意味で「事実」であるともいえる、と私は思います。「事実」ということは、7世紀の建国事業の経緯の中での「日本国」の構築ということです。
あるいは租税を何年も免除する仁徳天皇の有名な聖帝伝説は史実性を含むということ以上に、中華世界的な聖帝が我が国にもかつて存在した、ということを中華世界に向かって宣言しようという巧妙な意図が存在します。仁徳天皇という優れた天皇の実在の伝承に加えて、プラスアルファで物語的に「中華世界・中華文明への対抗意識」をこの仁徳帝の伝承にふんだんに含ませているわけです。
私としては「日本書紀」は数多くの史実性を含んでいる、と考えていますけれど、その史実性以上に大切なことは、7世紀、苦しい状況の中にありながらも「倭人」から「日本人」に堂々と変貌した私達の国の首脳が必要としていた「神話」を読みこまなければならない、ということなのですね。国民国家について説明したように、どこの国であっても、あるいは国民国家でなく王権国家であっても、国家が必要とする神話はそもそもが人工的なもの、フィクショナルなものなのです。その「フィクション」を「嘘」と嘲笑することは全く子供じみた行為であるのはもちろんのことです。フィションの中に、建国時にどうしても必要としたもの、建国に携わった人の身悶えするような気持ちを読み込むことが何よりも大切なのです。ですから私は「日本書紀」をいろいろな意味で深読みすることで、日本人の神話を知ることができる、そしてその「日本人」とは7世紀に目覚めた、そして苦しんだ人たちなのだ、と思います。こう考えれば、古代の天皇の「いる・いない」の果てしない真偽判定に日本人のナショナルアイデンティティを見つけようとあくせくしている客観主義を自負する人たちが愚かである、ということが多少なりともいえるのではないかな、と思いますね。
繰り返しになりますが、「日本書紀」を例にして、そこから察することのできる私達の先祖のアイデンティティ、日本人の起源ということは「反中国=反中華文明」ということなのです。その後日本は対中華文明的には鎖国状態に陥り(あるいは意図的にその方向性を選択し)ついに近代にいたるまで中華世界を単なる文献上の存在、でとらえ続けました。中国を勝手に聖人君子の国と誤解して「日中友好」や「日中提携論」を唱える人は本当に困ったものだと思いますけれど、それだけでなく「中国への対抗」ということが実は我が国の「起源」である、ということを知らない、というのは戦後の日本の歴史教育(古代史教育)の大きなミステイクだったといわなければならないと思います。「反中国」という根本的かつ歴史的背景にしっかり裏付けられたナショナルアイデンティティに比べれば、陸軍皇道派や戦後の自民党田中派、旧社会党などの親中国路線というのは近代になって登場した全く真新しい概念で、しかも対象的・歴史的根拠にきわめて乏しい考え方であるといわざるをえないでしょう。
結論的にいえば、日本人が7世紀に作成した建国神話のいたるところに散りばめた「反中国」のテーマは、近代の一部分の曲解の上でしか成立しない「反日」の「反」よりも、よほど大きく幅の広いものをもっている、と私は思います。
      

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