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「管理」されるイメージと文化



犯罪の多発ということがマスメディアでよくいわれます。このまま犯罪が増加を続ければ、いずれこの日本の社会は身動きが取れなくなってしまうだろう、というきわめて暗い認識です。しかし「暗い認識」であるにもかかわらず、それを語る人達がそれほど暗そうではなく、「暗い認識」を再生産している気配、これが犯罪報道の世界の常態です。少しも暗そうでなく、その「暗い認識」が語られ、誰が話しても同じような言葉が新聞やテレビに現れ、数日もたてば忘れ去られていきます。
    カントがその実践理性論で、本当の悪とは悪をなしたかどうかではなく、悪を他人事のように語る精神的闘争状態のなさだ、ということの切実さが露ほどもこの国にはないかのように思えます。殺人事件の殺人という行為を倫理的に批判することは、実は途方もないほどの不可能性をもっているかもしれないのです。なぜならば私達の大部分は、殺人行為や殺人の故意と無縁なまま、その一生を終えるだろうからです。それなのに殺人を論じることが果たしてできるのだろうか。このことは少なくとも私にとってはいつまでも解決不能な大問題です。にもかかわらず、マスメディアでは連日、夥しい数の「犯罪批評家」が現れては消えて、犯罪とそれを生み出した土壌について、様々な言葉を視聴者に投げかけています。
    犯罪はもちろん由々しきことで、被害者の心中を察するに、同情の言葉をどれほど並べても足りないものがあるでしょう。しかし当たり前すぎることですが、倫理的応報をくだすのは裁判所であり、またある意味で犯罪捜査機関であって、別にメディアではない。ならば犯罪があった事実のみを伝えるのがメディアの役割なのでしょうか。さにあらず、でしょう。大体、事実そのものを伝えるということ自体が絵空事であって、報道段階において報道的事実を選択しているという段階からして、メディアが純粋客観的である、ということは不可能です。主観主義と客観主義の対立をいえば、メディアはそもそもが主観主義的なものです。にもかかわらず、客観主義の御面を被った上での主観主義ということが、メディアの主観主義をかなりタチの悪いものにしている。主観的でしかありえない宗教を、客観的に語るという根本的な虚偽を知らない振りをして主観的に語る宗教学者一般を、「哲学銀行の出納係」と手厳しく批判したキルケゴールに倣えば、彼ら犯罪批評家は「犯罪学銀行の出納係」とでもいうべき存在なのでしょうか。
  「犯罪とは何か」という哲学的・思想的探求をメディアで語るべきだ、ということを言いたいわけではありません。まさかそんな時代が来るはずもないでしょうが、メディアの語りが哲学的になってしまうということの方が、ある意味で哲学の危機や哲学の根本的喪失といえるかもしれないと考えるべきだからです。あるいは統計的なデータを観ると、我が国の犯罪率は欧米に比べてまだまだ圧倒的に低く、また犯罪の種類によってデータの観方も色々と異なるのはいうまでもないですがしかし、こういう反対事実のカウンターオピニオン的事実もせいぜい、メディアの擬似客観主義の範疇にあることでしょう。一昔前に比べれば、犯罪は我が国において、全体的に増加しているといえる、ということになれば、ああそうか、ということで話が平行線になったり短絡的に決着してしまうだけでしょう。しかし「犯罪の増加とは何か」ということ、つまり犯罪と社会とのかかわりへの考察の欠如、ということになると、話は違ってくるように思います。
    たとえば、家庭内暴力や児童虐待の話です。日本で家庭内暴力や児童虐待が「増加」しているという。おそらくそうなのでしょうし、またそれに対しての反対事実の指摘も可能でしょう。しかしたとえば、アメリカで数万の件数毎年起きているような、父親と息子が母親を略奪愛して凶悪事件化するというような、生々しい性愛がらみのものが「増加」すれば、たちまちメディアの犯罪批評家の安穏とした饒舌は深刻な沈黙へと変わってくるのではないでしょうか。量的な犯罪の増大ではなく、アメリカの犯罪の質的な現状が日本に全くそのまま現出したときに、日本がそのことに果たして耐えられるかどうか。この一例だけでも、メディアの「犯罪学銀行の出納係」が、全く狭い射程でしか「犯罪」や「悪」を議論していないことがたちどころに判明してしまいます。犯罪報道はイカモノの三文サスペンス劇場と似たかよったかのあまりにも脆いフィクションに過ぎないということでしょう。
    アメリカでは、近親相姦を通り越して近親間のレイプはほとんど日常的な風景になっているといわれています。或る刑事学説によれば、20人に1人の女性が、幼年期に、男性の家族に、何らかの性的な行為をおこなわされている、ともいいます。ですからアメリカでは、強姦罪というのは家庭内でのそれが深刻に増えており、幼児性愛が、親子間のものという二重の異常性を背負っている。恐ろしい世界ですが、恐ろしいとだけいっていても何も成りません。近親愛の禁止が文明の発生であるという人類学の通説に従えば、まさにアメリカは文明崩壊の危機に瀕していて、しかし世界の政治的主導を行い、文明的先端をはしっているという奇妙な事態を生じている、というふうに考えることもできるわけです。アメリカが犯罪大国だから、ということで話を片付けるのは容易いですが(犯罪発生率自体はアメリカよりイギリスやスウェーデンの方がはるかに高い)日本での家庭内暴力や児童虐待の増加が、アメリカの現状のような、ほとんど文明の根幹にかかわる「悪」の進展とかかわる可能性もある、ということについて、おそらく犯罪批評家の「深刻な認識」は何も答えられないに違いありません。つまり、「犯罪の増加」が、文明社会の根幹を崩壊させるかもしれないという真の危機感がない。
   犯罪というものは、そもそもが文明破壊的なものをもっているものなのです。だからこそニーチェは「あらゆる犯罪には煌くような存在の輝きがある」と断じたのです。「我が国がアメリカのようにならないようにしよう」というような政策的発言は実は何も言っていないことに等しい。文明は、破壊への激しい危機感があるからこそ、すべてをかけて秩序を求める、ということになる。実は懐疑主義ということもそこから生まれます。ほとんど破滅的な犯罪発生状況になれば、人間への懐疑や自己への懐疑が生まれるのが必然だからです。「悪」は他人事ではないからです。これらのほとんどが、日本の犯罪批評には全く欠けているといわざるをえない。きわめて逆説的な言い方ですが、或る意味において我が国には「犯罪」がリアルに存在しえない国だ、ということもできるのです。
    かくして我が国こそが「犯罪の増加」と文明や国家の関係について、ほとんど考察を欠いているという指摘も可能になってしまう。毒気は、毒の量がほどほどだから、毒を抜くことを楽しんで、それを論じながら食することが可能なのです。「犯罪とは何か」という哲学的考察と一生無縁なままな人間が大多数でも、社会にとって、さしたるマイナスはないでしょう。しかし「犯罪の増加とは何か」について考察がないということ、言い換えれば文明や社会にとっての「犯罪」の意味が不明であるということは、文明的態度の喪失の一つであって、なかなかに深刻なことだといわなければならないでしょう。妙な言い方ですが、メディアの犯罪報道に、私達は或る意味で「安心」してしまう。更に奇妙に聞こえるかもしれませんが、犯罪の毒性が、マスコミによって保護防衛されている、ということもいえるかもしれないのです。あるいは私達が不安になるのは安心できないような犯罪状況が起きたときで、安心できるような解釈へと、必死で逃れようとする。空気と水と安全はただだ、というのが日本の思想だと山本七平はいいましたが、犯罪は安心できる軽いものだ、というのも、日本人の思想だということができるでしょう。犯罪が起きたと伝えられるとき、なぜ安心すること(安心しようとすること)が私達はできるのかでしょうか。
   おそらく、私達は何かの絶対的な評価というものを既にしているからこそ、安心という精神状況を得ることができるのでしょう。アプリオリといっていいほどに固定的なものだといってよいのかもしれませんが、私達の中に秘められたアプリオリ的なるものと、報道的現実が一到するときに、私達は未来と現在が連続したかのような感覚に浸り、安心して、犯罪に言葉を投げることができるのだ、といえるのではないだろうか、と思います。アプリオリ的なるもの、とは、アプリオリなものと錯覚しうるような、日本人にとって完全に近いからくりがそこにあることを意味するといえましょう。
    どんな犯罪が、ということでなく、「どんな人が犯したか」ということに関しても、私達はアプリオリな価値判断を有している場合が多いことに気づかされます。たとえば政治家の職にある人達が贈収賄系の犯罪を犯した(嫌疑をかけられた)ときでも、私達は自分でコントロールできる範囲の怒りを言うことができる。もちろん私は政治家の贈収賄犯罪はけしからん、と思います。しかしそうした情報に触れるとき、自分の中に、アプリオリな判断といっていいほど固定的にイメージ化されたもののフィルターを通じて、彼らの行為を考えてしまっていることをどうも認めざるをえない。どうも「贈収賄犯罪」ということにリアルに向きあっていない。犯すべき人間が犯したのだ、私の思っていた通りのことが起きた、という認識からどこかで自由でないのです。政治家犯罪への、私達の、ともすればサディスティックな、同情の余地のない価値判断というものは、何とも不思議なくらいのものです。政治家とはそういう職業なのだ、という認識なのです。政治家を選挙システムによって選択している選挙民としての正統なる怒り、という正論ではとうてい納得できない何かがそこにあるというべきでしょう。
    日本の政治家をイタリアのマフィアになぞらえたら政治家の方々の激怒を買うかもしれませんけれど、イタリアがマフィアを社会から排除できない(しない)理由というのは、イメージ論から掘り起こせば、国民国家の形成の何処かで、ナショナルなものの光景の一部としての刷り込みがあったのだ、と考えることができるでしょう。イタリアでマフィアへの悪口を言うことができないということではぜんぜんない。むしろ悪口をいい、マフィアの排除を言うという言説を際限もなく再生産しているまさにそのことによって、マフィアはイタリア人の精神性とともに固定化しているのだ、ということがいえるのではないでしょうか。そしてそのことによって、イタリア人は、マフィアとの対立を裏返しに放棄しているといえるのではないでしょうか。その社会にとって必要不可欠なイメージというものは自然な形で管理されるといっていいでしょう。日本人の場合、「犯罪」というものが一種のイメージ管理として存在しているのではないだろうか、と私は思います。極論すれば、日本ほど「悪」を厳重に管理してしまおうとする文化も、他にはないといえるのではないかと考えます。
   たとえば、田中角栄的手法が政治的悪としてずいぶん次元の低い宣伝をさんざんあちこちのメディアでされてきました。しかし、私からすれば、田中的手法を月並みに批判する人々政治家あるいは政治家的な立場の人間にこそ、安易な田中的手法が見受けられる。これはひとえに、田中的手法への批判が、イメージの世界だけでおこなわれてきたことによります。中国ほどひどくないですが、我が国は明らかに複雑なコネクションを重視する世界であって、田中批判を期に、それが革命的に改められたということは全くない。ある哲学教授が「東京大学にヴィトゲンシュタインが教員公募してきたとしても、書類に彼を推薦する教授がいなかったらふるい落とされるだろう」といいましたが、地方公務員就職などまで含めて、就職斡旋をすることが、国民規範的に公正に反することである、というふうに考えるモラルは依然として確立されていません。「頼みます」「お願いします」の世界です。当たり前のことで、イメージ的に田中的手法を批判することと、自分の存在論として田中的手法を自己検証することは、全く別のことになってしまっているからです。
    それはまさしく「犯罪」というものへの態度と同一で、しかもその「犯罪」が今度はイメージ管理の武器になって、「政治家」というものを意味づけることになるのです。「日本には優れた政治家がいない」などと嘆く前に、いかに私達がメディアとの共同の作為で、私達が政治家というものの意味を管理しているか、自省してみればいいでしょう。全く同じように、「家庭内暴力」も「児童虐待」も、依然として刷り込まれたときのままのイメージで、私達は安心して怒ることができる。刑罰と倫理ということは密接に関係しているものですが、しかし本当の激しい犯罪というものは、刑罰の実際を忘れるくらいの倫理の問題がそこにあるからだ、という言い方が可能です。しかしメディアでの犯罪報道での批評家の「怒り」は、刑罰論に終始している。これほどの犯罪者は厳罰に処すべきだ、という類のロジックなのです。しかし、「怒り」は本来は刑罰論とは別個のところで徹底されるべきものなのではないでしょうか。
     考えれば考えるほど、「許された悪いこと」をつくりだそうとするのが、マスコミの作為の目的だということがわかってきます。「人はよくあって未だに自分を満足させる可能性のあるものを改変することを容易に肯んじない」とヴァレリーは言いました。「許された悪いこと」との共存という文化の根源的なパターンを、日本人はそう易々と変えようとしないのでしょう。歴史的なことをいえば、近代日本で繁栄が謳歌された時代というのは明治以来、星亨(帝国議会制度の確立期)、三木武吉(戦後再建期)、田中角栄(高度成長期)といったダーティなイメージを背負う政治家を必要としてきたのです。もちろん政治家にも予想されない犯罪が頻発しはじめたら(たとえば予想しにくいことではありますが、政治家が殺人事件を起こしはじめるとか)私達は「政治家犯罪」へのこの何とも不思議な安心感というものを失うことになるでしょう。
     繰り返しになりますがどうも、「犯罪」というものの意味づけが、この国の巨大なぬるま湯の神話の一部でなければならないような作為を、メディアとその受け取り手である私達は失うことができない。何処の国でもメディアの悪癖というものはあるのでしょうが、どうも我が国の場合は、「犯罪」というものに関して、それが甚だしいものなのではないでしょうか。私達は政治家は時として予想されたかのような犯罪を犯すのだ、というモラル意識を有しているという甚だ矛盾した精神神話をもっているというべきなのでしょう。そしていろいろな犯罪について、こうした予定調和的なものがあって、それを乱さないようになるでしょう。
    「犯罪(あるいは犯罪者)へのアプリオリな価値判断」というものを考えるとき、犯罪の現実があって私達は物語を描くのではなく、物語があって犯罪のイメージがディファレンスを伴い生じるのだ、というとらえ方は、主体がまずあって主体の思惟・意思が生じるのではなく、客体である書物のイメージがあって、そのずれを繰り返すことよって、私達は「思わされて」思惟や意思が生じる、というデリダをはじめとするポストモダニズムの主張を何処となく思い出させるものです。たとえば、近代純文学からテレビドラマのシナリオに至るまで、汚職に塗れた政治家というのは箒で掃いて捨てるほど現れる。そのイメージ化はたとえば近代以前の時代にまで及び、江戸期は同時代の欧米や中国に比べて圧倒的に汚職が少ない世界だったにもかかわらず、近代以降の社会の政治世界のイメージを、江戸時代にほとんど乱暴な形で投入するという物語を延々と再生産して、物語から、江戸時代と現代社会の政治家への価値判断をしてしまう、ということをしている。
   私は人間の主体性に否定的なデリダの思想的主張には、昔からあまり賛同できません。デリダ的なロジックというのは俗化したときにたいへん危険な面をもっていて、たとえば実存主義をはじめとする既存の思潮のすべてに視覚中心主義のレッテルをはって、あたかもかつてのマルクス主義のような権威的暴走を来たしかねないのです。しかし少なくとも「犯罪」に関しての私達の思惟のからくりの解体においては、非常に有効であるような気がします。私達があまりにも物語という(文字)客体ということと主体性の間が固定化しきっているから、です。物語があるからこそ現実が作り変えられる、という主張が一面をとらえているということです。多くの人が江戸時代をおぞましい汚職時代と錯覚しつつ、反面、水戸学という、司馬遼太郎曰く「近代になり日本人の柔軟性を奪うことに最大に貢献した思想を確立しようとした」徳川光圀の問題性を和やかに覆い隠してしまう、という物語装置が、今でも毎週ゴールデンタイムで発動しているわけです(笑)
    このような「犯罪物語化」(あるいは登場人物化)の垂れ流しは何も政治家を対象としたものに限ったことではなく、大学教授や元警官やらも、犯罪物語の登場人物化のテクノロジーに乗って現れ、「大学教授」や「警官」への私達の思惟そのものを左右している、ということが少なくないのですが、反面、どういうわけかマイナスイメージの登場をなかなかしない職業もあるのです。
     その好例中の好例が、たとえば判事だといえます。法廷ドラマや法廷小説がありふれている中で、判事の倫理を扱ったストーリー、つまり欲望や絶望といった人間的な業を背負った判事というのは、純文学からテレビドラマまで、わが国の物語にはほとんどないような気がします。これは私の寡聞のせいなでしょうか。判事が自分の身を持ち崩すような恋愛をしても不思議ではないのに、なぜかそういう物語は私が追う限り、ほとんど流通していない。性犯罪や凶悪犯罪に手を染める、とまでは言わないまでも、賄賂や情痴にかかわって判決を捻じ曲げる判事の物語があっても不思議ではないのに、と私には昔から不思議に思えて仕方ありませんでした。実際そういう判事がいないから読者や視聴者がリアリズムを感じられないのだ、という意見もあるかもしれませんが、報道事実的な言い方をすれば、実際は判事による犯罪は政治家に比べても、皆が思っているほど少なくはないのです。
    あるいは、馬鹿らしいと思いながらけっこういつも何気なく私がみてしまっている、江戸時代の時代劇ドラマでの「悪代官」「悪奉行」というのは、どうみても政治家的存在として描かれ、判事的存在ではない。代官・奉行というのは判事的な色彩が強い官職であったにもかかわらず、です。面白いことに、代官や奉行が、買収されたり個人的な欲望で、誤判決をくだすという判事的場面の「悪」というのは、ほとんど描かれることはない。代官や奉行の「悪」の場面は、政治家的場面、せいぜい行政官的場面での賄賂の授受や民間への暴力というものに限られます。ここにも、意図せざるイメージの管理を見て取ることができるといえましょう。「犯罪を犯さない(犯してはならない)」判事というイメージに、私達は何かを感じなければならないのでしょう。日本以外の国、諸外国の国民文学やメディアドラマのこのことに関しての状況は、いったいどうなのでしょうか。「犯罪物語」の配置による国民意識の形成ということは、どこの国においても、日本ほど明瞭なものなのでしょうか。
    ヨーロッパ大陸法の世界では、判事あるいは判事的存在というものに対しては、まるで日本の政治家に対してのように、非常な不信感をもっています。フランスでは司法機関が貴族階級に買収されることは頻繁でした。艶笑文学に登場する判事も少なくない。ドイツに関していえば、近世の時期に、魔女裁判や動物裁判(動物を起訴して被告にして裁くという奇妙なことが、16世紀から17世紀に頻発した)などでとんでもない判決をくだし、そのまま近代へと引き継がれているという印象があるといえましょう。あるいはナチス時代にしても、判事がナチス法の適用者である、という印象が極めて強い。いくら私達が日本の戦時体制時、特高警察や検察をミリタリズムの手先として批判することがあっても、判事が、戦時体制の手先であるという印象は、不思議なことにほとんどないのではないでしょうか。アングロサクソン世界だけでなく、ヨーロッパ大陸法の世界にあっても陪審制度の要求は強く、歴史的に何度も導入されているのですが、それは判事をはじめとする司法機関が、政治家や行政官と同じような不信感を抱かれているからに他ならないのです。犯罪物語による管理から全く免れている判事・司法官のイメージを固定化して有している私達からすれば、こうしたことは理解しがたいことです。
  イメージがメディア的に生成管理されるということがいけないということではぜんぜんありません。犯罪についてリアリティを有しているアメリカにしても、たとえばキリスト教的な宗教世界に対して、イメージの管理や防衛をしていることは容易に想像できることです。ただ少なくともいえることは、そのレベルの管理を施されている限りは、その文化的要素がその文化的ナショナリズムにおいて自立性を確保できるということはとうていありえないということです。ましてその文化的ナショナリズムの要素が世界に誇るべきナショナルアイデンティティを形成することはとうていありえない。真の意味での批判的対決が放棄されているからです。「犯罪」が然りであり、「政治家」が然りであり、実は不自然なほどに過保護にされている「判事」すなわち日本の司法文化というものもそうである、というふうに私は思います。




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21世紀の政治「敵」について


 論壇誌がつまらない、売れないという言説をよく耳にする。実際、多くの論壇誌が休刊を余儀なくされている。だがこうした批判的な言説を正しいものとして鵜呑みにすることにも私は賛同する気持ちになれない。今の論壇誌がつまらない、売れない、という諸氏の言説の何割かに、「おもしろく」「売れていた」頃の論壇誌に戻れば、ふたたびよき論壇誌の時代が復古するだろう、というような楽観主義が見受けられる。しかし私には、そうした「楽観主義的批判論」にはとうてい組する気にはなれない。
  たとえば、 左右の政治的言論対立において、保守派言論人の多くは依然として、共産党や日教祖に「反ナショナリズム」を見出す。ところがたとえば昨今、論壇誌で、雅子妃をめぐる論争というものが保守派的な陣営の方から提出され、そののち華やかにおこなわれ、それは今もある意味において続いているといえる一つの状況がある。私本人としては、雅子妃問題についての事実論争、価値論争に大いに関心はある。しかしそうした論争的意味をいったん別にして、この論争をやや遠距離から眺めてみてまずいえることは、この雅子妃の問題意識というものが、従来の左右対立というものと異なっているものから提示されているということである。
 「敵」という概念がある。だが「敵」という概念がいったい何であって、そして「敵」がいったい何処にいるのか、ということは、わかりやすいようにみえて、実はたいへんな難問なのである。たとえば、孫子の兵法以来の重要な戦史の原理の一つに、「敵なるもの」が明確である敵に対しては、準備さえ怠らなければさほどおそれるに足りない、という原則がある。戦史的に言えば、むずかしいのは、敵に対しての準備よりも、「敵なるもの」を見定める認識力を備えるであって、正しくいえば、この認識力をもつことこそが政治の延長である戦争、そしてもちろん、政治そのものにとっての最重要の準備であるといえよう。
 この最適でわかりやすい例の一つは、第二次大戦のときのアメリカである。アメリカにとって日本は確かに「手ごわい敵」であった。しかし戦後しばらくのアイゼンハワー大統領が岸首相に嘆いて言ったというエピソードが語っているように、アメリカに擦り寄ってきた中国の方がはるかにアメリカにとって本質的に厄介な敵であり、文明的にも理解をはるかに遠くせざるをえない存在であった。しかもその中国が共産帝国化してしまったのである。アメリカは「親しい」ということの意味を間違えたことによって冷戦という難問の時期を背負ってしまったといえる。
 これは国際政治から国内政治、あるいは、個人的な人間関係にまで共通して言うことのできる原則である。「近い」ということは「親しい」ことをまったく意味しない。哲学者ハイデガーは「接近は謎だ」と言ったけれども、この言葉は、政治の世界の比喩としてもまったく該当する。「敵らしい敵」に対しては、人間も国家も自然と平生から警戒態勢をとる。がしかし、「敵らしくない敵」に対しては、警戒態勢をとらないという自分自身の認識力との闘いが待ち受けているのである。

 皇室問題に話を戻せば、従来の保守派的思考では、「皇室を守ること」が従来の唯一の政治的結論であった。けれど、そうした思考法は、アメリカの誤謬と同じような、非歴史的思考だ、といわなければならない。保守派が考えるような伝統破壊的傾向というのは、共産党や日教祖的のような「敵らしい敵」ではなくて、もっとも守るべきものだと思っていた「親しい」皇室そのものから生まれる可能性がある、という発想がそもそも正しかったのである。
 これは皇室の歴史を少しでも追えばまったく明瞭なことなのだけれど、しかし近代史しか見ない大概の保守派も進歩派はこんな簡単なことを見落としている。皇室・公家勢力が源平の武家勢力に敗退と後退を余儀なくされた最大の要因は、「皇室の敵」である武家勢力の「敵意」にあったのではない。後白河法皇はじめとする皇室・公家勢力の政治力の貧困さ、敷いていえば、「日本史」の波長にあわせようとする政治力の欠如、皇室内部に巣食っていた「思想」こそが皇室の勢力を弱めてしまったのである。「皇室の敵」は皇室内部に、見えにくい形であったのである。これは南北朝時代の皇室にもあてはまる。宋学の悪影響をうけて、中華皇帝型の皇帝支配を目指した後醍醐天皇の思想そのものが実は、「皇室の敵」だったのである。
 あらためていうならば、雅子妃問題についてのジャーナリスティックな論争には、様々な結論があってしかるべきであろうが、それを別にして、「敵なるもの」がいったい何処にいるのだろうか、という政治的発想の本質という面に関していえば、非常に有意義なものだったといえよう。雅子妃が抱える戦後民主主義的思想が「皇室の敵」なのかどうかということで、保守派内部はおおいに論争しあった。繰り返そう。「敵なるもの」は見えにくい形であるからこそ敵なのである。

 「見えにくい形での敵」を見出すためには、認識というものは常に一つの枠組みの中でしか成立しない、という原則に立ちかえる一種の知的訓練が必要であるといえよう。たとえば私たちが大好きなお月見であるが、私たちは「月」というとき、月を見ながらの様々な人生的回顧、過去の文明での膨大な文学的表現、月開発の科学上の出来事、月をめぐるデータ、そうした様々な「月」を巡っての想念が統覚されて、「月」という概念を言うことができる。だが、たとえば地球にはじめてきた宇宙人と月について話そうとすれば、私たちはたちまち、自分達の中での「月」という認識の枠組みがまったく役に立たないことに気づくであろう。「月」そのものということを、嫌がおうでも想起しなければならなくなる。「敵」ということを認識することも同じである。「裸の対象」に向いあう知的訓練ができていなければ、私たちは、私たちの中だけの「敵」にしか出会えないであろう。
 ここ10年来、政治選挙がおこなわれる度に、「55年体制の終焉」ということを、お題目のように言う候補者がたくさんいる。最近はそういう候補者も少なくなってきたかもしれないが、私にはこうしたわかりのよすぎる主張には、まったくリアリティを感じられない。哲学者の内田樹は、「わかりやすいことはもっとも大切だけれども、わかりやすすぎることはもっとも警戒する必要がある」、といったけれど、これは政治的言説において特にあてはまることだといえる。「わかりやすすぎること」の流通は、私たちの感性を鈍感にして、認識の枠組みを保つことにしか資しない。
 「55年体制の終焉」を言う人はもちろん、「55年体制」すなわち自民党と旧社会党の保守革新の二大政党制のシステムが終焉したのだ、といいたいのであろう。しかしまずもって、「55年体制」というものが、ある瞬間に滅んでしまったのか、それとも次第次第に滅んでしまったのか、「終焉」の意味がわからない。たとえば、私の見たところ、今の民主党には、旧社会党勢力がおおぜい存在しており、「終焉」はしていないようにみえる。
 人間性というものをリアルに考えれば、人間は往年時の挫折を、老年時に再び取り戻そうとする。歴史が喜劇や茶番をもって繰り返す、とは(生理的に私がとてつもなく嫌いな)カール・マルクスの数少ない正しい言葉であるが、これはすなわち、「終焉」という言葉を、政治や歴史の世界では非常に気をつけて使わなければいけないことを示している。少しも終わってはいない。終わりそうにみえればみえるほど、「55年体制」に依存しなければならないというパラドックスが明瞭になるだけである。要するに、「55年体制」という認識の枠組みはまったく継続してして、新しい時代の到来の発見などは、まったくありえないのである。
 おそらく、「55年体制の終焉」を叫ぶ人にとって、そんなことはどうでもいいことなのであろう。「終われば新しい何かが始まる」という、ノーテンキな楽観主義によって、無意味なスローガンを繰り出したいだけなのである。しかし単にそれだけだとしても、その単純な行為そのものが、私にはさらに意味がわからない。55年体制というのは、自由主義体制と社会主義体制という二元論的対立によって観念的にも現実的にも成立していた。片方を狂信している人にとってはそれは二元論ではなくて一元論なのかもしれないが、とにかくそういう枠組みがあって壊れたのなら、新しい枠組みの可能性を提示することによって、「終焉」は一つの概念たりうる。その概念の提示の試みの思想的作業が、世界のいたるところで、あまりにも貧困である。「終焉した後」はどうなるのか?それを説明してから「終焉」を叫ぶのが、本来の人間の表現の常識というものではないだろうか?
 社会主義の残党がいるからそれを整理するまでは自由主義陣営や保守主義的主張の勝利などとはいえない、という主張は、もちろん、現実的には正しい面を含んでいるとは思う。だがしかし、残党を摘発しおえたのちはいったいどうなるのだろうか?そのビジョンを提示しながら、残党の批判や摘発をおこなうべきなのでないだろうか?それをしないからこそ、たとえば保守論壇誌についていえば、全体的状況は10年前や20年前に比べればはるかに「有利」になってきているにもかかわらず、議論そのものは覇気を失い、衰退や休刊を余儀なくされているのであろう。「自由主義社会を保持せよ」「保守主義を守る」といっていることは、皇室を守れさせすればそれが伝統主義そのものであると錯誤している旧来的な保守派と大差はない。見えにくいところに敵があるのだ、という歴史的思考法がここにも不在である。
 
 以上のことをふまえて、私は、従来的の政治的認識の枠組みから抜け出した、まったく新しい「左翼」の概念の一つを提示し、それが果たして保守派の「敵」たりうるか、ということを吟味してみたいと考える。そのことを語る上でのキーワードは、「マーケットメカニズム」ということである。 
 かつては、マーケットメカニズムというものは、反社会主義というただ一点の共通点において、自由主義陣営や保守主義的主張の親しい仲間であった。しかし、マーケットメカニズムというものの思想的位置づけというものは、実のところ、そう生易しいものではない。
 たとえば「アナーキズム」という思想分野がある。アナーキズムというと、社会主義とさして変わりのない過激な改革思想だ、というふうに思われる方が多いかもしれない。しかし「アナーキズム」というのは非常に広範な意味の射程をもった思想である。
 たとえば昭和初期に顕著であったけれど、近代国家に激しく反抗して、社稷をはじめとする農村共同体を保守しよう、という社稷主義という「古い」思想も、アナーキズムに含まれる。権藤成卿や萩原恭次郎といった社会運動家や詩人がこの社稷主義的アナーキストに含まれる。権藤や萩原は、天皇制を基本的に全面承認する。しかし、その天皇制は、古代日本、農村共同体と一体化していた天皇制度であり、そこから乖離した近代天皇制度は拒絶するのである。社稷主義的アナーキストの中には農本主義的右翼へと傾斜するものも非常に多く、権藤に至ってはは5・15事件に関与を疑われたほどであった。
 マルクス主義的社会主義が実のところ、近代国家の枠組みは少しも疑っておらず、その枠組みの上に、ユートピア的世界を夢想しているのに対して、アナーキズムにおいては、この社稷主義的アナーキズムに典型的にみられるように、近代国家批判という主題を、アナーキズム一般が共有していることがいえるのである。このように多様な面をもつアナーキズムの一角に、マーケットメカニズムを万能的存在とみる、アナルコ・キャピタリズムという思潮が存在する。私はこのアナルコ・キャピタリズムの思想こそが、21世紀の最大の左翼思想になると考えている。アナルコ・キャピタリズムを一言でいえば、商人と資本家のユートピアということに他ならない。

 アナルコ・キャピタリズムの思想そのものを理解することは、体系的にはきわめてむずかしく、アナルコ・キャピタリズムの思想の源流をどこに求めるかについては、思想史的に諸説ある。アナルコ・キャピタリズム的アナーキズムについて、思想史家の浅羽通明は、19世紀中期のアメリカに生じた、ジョザイア・ウォーレンたちボストン派という奇妙な思潮グループに着目している。このボストン派のアナーキズムは、ヨーロッパのアナーキズム思想とまったく異なり、国家や社会などの全体的価値観に、少しの優位ももたせない、徹底した個人主義思想を提唱し、その先に、無政府主義的資本主義社会を描く。現在でも、アナルコ・キャピタリズムの主張者が世界で集中しているのは、アメリカである。もちろんそのことは、アメリカの左翼が日本やヨーロッパのように、マルクス主義的傾向をあまりもっていないことも大きく関係しているといえる。
 しかしながらこのボストン派の思潮は、明治期以降の日本ではほとんど知られることはなかった。これはボストン派の思潮の無名ということ以上に、明治以降の日本の思想哲学が、アメリカにはあまり目を向けてこなかったことにも起因するといえよう。しかしヨーロッパにも、ボストン派の思想にきわめて近い主張をした思想家はいないわけではなかった。その1人に、マックス・シュティルナーがいる。
 私が注目すべきだと思うのは、このシュティルナーの無政府主義的個人主義は、アナルコ・キャピタリズムの支柱になると同時に、引きこもりやニートや精神的鬱の時代の感性に、非常に合致してしまう面があるということである。私にいわせれば、マルクスなど今や少しも「危険な思想家」ではなく(共感する若者はいないであろう)シュティルナーの方がよほど「危険な思想家」であるように思う。

  このシュティルナーの影響を受けた近代日本の重要人物に、戦後派文学の理論的指導者の1人であった埴谷雄高がいる。埴谷という人は非常に独特な思想的軌跡をたどった人物で、青年期、まずいったん、シュティルナーに心酔し、アナーキストになる。その後、レーニン主義に傾斜して、アナーキズムからマルクス主義に「転向」し、共産党に入党する。ところが思想犯として獄中で逮捕されると、獄中でカントを読み、その徹底した「個」の思想に激しい感銘を受けると同時に、カントの思想に、スティルネル的アナーキズムを見出し、今度はアナーキズムに再転向するのである。アナーキズムとマルクス主義の間で揺れ動いた埴谷は、マルクス主義と自由主義には共通する「近代国家」があって、アナーキズム特にシュティルナー的な個人主義にはそれがない、という視点を確保していったのである。
 戦後の埴谷は小説家として活躍しつつ、マルクス主義の硬直性を終始批判しながらラディカルな左翼的言論人のポジションを保ち、しかし資本主義の繁栄は疑問を持たずに楽しむという、一般人からすると理解しがたい思想的な推移を示した。彼こそは、「資本主義も個人主義もを肯定しつづける左翼」の代表ということができるであろう。
 たいへん面白いのは、埴谷が青年時代、獄中で、社会主義からの転向を強制されたとき、「天皇についてなんでもいいから肯定してくれれば釈放する」という官憲の言葉に対して、「宇宙が死滅するまでに人類は死滅する。そのときまでに天皇制はつづくかもしれないが、宇宙の死滅の後はつづかないだろう」というふうな上申書を書いて釈放されたことである。この埴谷の言葉ほど、アナルコ・キャピタリズム、すなわち無政府主義的資本主義の性格をよくあらわしている言葉はないといってよい。
 近代国家としての「日本」が取り払われること、それによって、「個」の完全な自由と確保を目指すこと、これが無政府主義的資本主義の目指すこところなのである。天皇制批判という左翼的テーマに関していえば、天皇が近代国家が取り払われた社会に適応すればよく、そもそもが批判の対象になるかどうかという問題からはずれる。この完全なる「個」の世界にあって、近代国家原理にかわるものとして登場(というより、すでにあるがより完全化される)ものこそ、「マーケットメカニズム」に他ならない。マーケットメカニズムの万能化によって、近代国家は歴史から退場する。アナルコ・キャピタリズム的アナーキストは、そういう思潮をたどるのである。
 それは左翼資本主義、とでもいうべきであろうか。近代国家は解体されてついには国家そのものが法人化・民営化されていくという、おどろくべき逆説的な反体制的思考。しかしそれは、社会主義などよりずっと身近で日常的に生じうる「左翼」である。「左翼」は階級的労働者ではなく、資本家や実業家にこそ生まれる可能性がある。あるいは、シュティルナーな埴谷の主張にしたがえば、完全な「個」の世界に閉じこもっている引きこもりやニートも、自分達を生かしてくれるものが近代国家ではなくてマーケットメカニズムであると判断すれば、もっとも先鋭な「左翼」になってしまう。
 守るべきものだと思っていた「自由主義社会」「資本主義社会」の中から生まれて、それによって近代国家を瓦解させてしまうのである。まさに守ってさえいれば安心だと思っていたその防護対象そのものから生まれるラディカルな過激思想だということができよう。

 マーケットメカニズムを徹底させていく思考実験の幾つかを少しばかり記してみよう。
 最小国家論を主張したアナルコ・キャピタリストのハーバード大学のノジック教授の主張にしたがえば、警察と民間警備会社を比べれば、先進国の幾つかでさえ、すでに後者の方がはるかに能率的で治安維持に役立っているという。日本においては、民間警備会社の利便性は認識されているとはいえ、まだそれを警察に代替させるべしというほどの警察不信はないであろう。しかし、警察が表面化しない形と規模で買収されるのは世界のあちこちの国で日常茶飯事であって、「治安」への期待は、近代国家からマーケットメカニズムに向けられつつあるという指摘は間違いではない。
 警察と民間警備会社の根本的相違は、一言でいえば「正統性」の蓄積の違いということにある。私たち日本人はあまりにも「国家」という思考法に慣れきっている。しかし、世界でもっとも安定した国家把握をしている日本でさえ、江戸時代から明治期への大変革のときには、近代的警察制度への「正統性」を感受することに、たいへんな苦労をしたのである。近代警察組織をすぐには信用できず、自警団組織に治安を委ねた地域もたくさんあったように違いない。国家そのものの「正統性」をつくることは至難の業である。しかし、個別的機構という面をみれば、「正統性」というのは、つくりだされるものであって、決して不変なものではありえないのである。
 あるいは、財政が完全に破綻している第三世界の国々の幾つかでは、社会福祉をもはや国家が運営できず、インターナショナルなマフィア組織がやっているという。このことも、いくら健康保険制度や年金制度が危機的状況にあっても、まだまだ日本では理解しにくいことであろう。だが私たちはここで、日本の近年の大規模災害で、暴力団的組織が自警団を組織し、必ずしも暴力的行為をするのではなく、公的機関が取りこぼしてしまうような救済事業さえも幾つかしていたことに注目するべきである。私はもちろん、そうした暴力団組織の救済事業をまったく支持しない。だが国家的機構ができず、通常法人もできないような救済を、巨大なネットワークをもった組織がおこなうということは、アナルコ・キャピタリズム的思考の実験としては、たいへん興味深いものなのである。
 マフィアにしても暴力団にしてもその実際は、私たちが日常的にイメージするよりはるかに総合的な組織である。特にマフィアはたいへん広範な力をもっていて、国家と対峙するものさえ少なくない。彼らには様々な秩序や掟があるけれど、近代国家よりはずっと柔軟にマーケットメカニズムに順応しているといえよう。とりわけラテン系国家におけるマフィアは、国によっては準国家的機能を有しているマフィアもたいへん多い。マフィアは麻薬販売のような違法行為もするけれども、しかし食料や衣類のマーケット維持などについても巧みな運営をするマフィアも少なくない。国によっては、マフィアは、裁判機関の代替のようなことさえしている国も存在するのである。
 財政破綻も機構腐敗も進行した国家においては、裁判所も完全に信用を喪失してしまっている。だから被疑者を警察に逮捕してもらって検察に起訴して逮捕してもらっても、まったく公平な応報を期することはできず、マフィアあるいは民間的組織に依頼した方が公平を期待できるという状況が生じうるのである。国会の信用が崩壊することがあっても裁判所の信用が崩壊することはありえない日本ではこのことこそが信じがたいであろう。しかし裁判所への信用というものもまた、近代国家が永遠に独占するものではないことは原理的には認めなければならない。
 日本においてもし、左翼資本主義が多数派になり国家が乗っとられた場合、皇室制度はどうなるのだろうか?アナルコ・キャピタリズムを詳細に分析する先ほどの浅羽通明によれば、国家全体を民営化しようとする論者は、近代国家を解体した後、皇室は、国内最大の宗教団体の教祖として存続すると考えるに違いない、という。皇室を階級的として過酷な運命に追いやることを考えるようなマルクス主義者のような「古さ」を、左翼資本主義者たちの革命思想はもたない、ということであろう。 
 こういうふうに記述しながら、私は記述すればするほど、こんな社会などありえない、変だ、と激しく訝しく思う自分を感じていく。それでいいのである。私は、21世紀の左翼、すなわち自分の思想的「敵」なるものとしてこの思潮を説明しているのだから。 
 アナルコ・キャピタリズム、左翼資本主義の性格を語ろうとすれば、幾ら紙幅があっても足りないであろう。近代国家という思考法に今のところは慣れている日本人にとってはあまりに奇抜で、それを解説する私も語るほどにその新奇さに取りつかれていってしまう。取りつかれていきながら、それを読まれる方のほとんども、「変だ」という感じをもたれるに違いない。警察や裁判所が民営化される社会など、今の日本で想像するのは不可能であるし、それが自然である。民主党左派や共産党・社民党といった「左派」に、国家機構全体を民営化せよ、という主張はみられない。逆に、国家による救済の役割の増大を主張しているということで、日本の左翼は依然として二十世紀的な古さを脱していない。これは論壇誌にあらわれる言論人の左翼性においても同様である。

 だが、その状況の根幹は、先年の世界的金融恐慌で一変しつつある、というべきであろう。
 先年来の金融恐慌以来、アメリカ政府が異常なほどのレベルで開始したドル国債の天文学的発行という事象を、私は、「ドル時代の終焉」というような、既存のパラダイム内の出来事というふうには、到底認識できない。
 アメリカ政府が強行していることは、一見すると、政府介入を是とするケインズ主義への回帰のようにみえる。しかしそうした認識は間違っている。そのほとんど無限大に向かってすすんでいくがごとき財政拡大の規模は、確実に完全破綻を迎える。つまりアメリカが歩もうとしているのは、国家の完全な破綻のプロセスに他ならない。アメリカのドル破綻は、一つの国家の財政破綻というようなものではない。
 その破綻がいずれ訪れたとき、欠点が爆発した近代国家を、果たしてアメリカ国民はどう扱うのか。巨額の税金出動をもってまで、近代国家を「救済」しようとするのだろうか。私には必ずしもそうだ、とは思えない。「財政破綻」も「救済」も、すべて、近代国家の枠組みを破砕するような形での意味のそれらの概念に化したものが出現するときに、近代国家の先端を走るアメリカに、今までとはまったく違った反体制的イデオロギーが出現する可能性は充分にありうるといえよう。近代国家への信用度は近代史において最低に近づいている。反面、マーケットメカニズムへの依存は、最大に高まりつつある、ということができるだろう。
 破壊的社会主義や観念的平和主義の主張は明瞭なものであったから、それを嗅ぎつけて、指摘糾弾することは容易であった。絶対的イデオロギーという「神々」を設定しておくことは、ある意味で私たちを考えやすくしていた。しかし「それはマーケット的に成立しないことなのだ」と私たちがいう言説そのもののうちの何割かに、近代国家や近代精神を瓦解させる、おそろしい破壊思想が宿っているのかもしれないという思考法に直面するとき、私たちは「見えない敵」に直面する。その「見えない敵」というものになんとなく気づきながら、しかしそれを明確化することがなかなかできず、結局のところ、20世紀的な古い政治対立図式に後退するところに、現在の論壇をはじめとする政治的言説の閉塞や衰弱の根源的理由があるのは明らかであるように感じられる。
 守るべきものだと思い込んでいた自由主義や資本主義の社会にこそ「敵」があるのだ、という歴史的思考法に加えて、私たちの存在や言葉の「間」にこそ、最大の敵があるのだ、という思考法に私は慣れていないのである。言い換えれば、「政党」や「個人」に、政治思想が宿っているという公式を修正しなければならないかもしれない。それほどの魔的な、そして見えにくい力をもっているもの、それがこの左翼資本主義という思潮なのであると考える。こうした思考法の転換こそがそれこそが20世紀的思考と21世紀的思考の分水嶺なのであって、今の私たちがその転換期にさしかかっているのだ、と考えれば、いろんな現象に納得ができる、と私は思っている。






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日本人にとって「宗教」とは何か

日本人にとって宗教とは何か、という問題を語るとき、私達は大概、「宗教心」と「宗教」を混同していることからしてその考えの躓きをはじめてしまっています。あるいは「信仰」と「信念」ということを混同することもよくやらかしてしまう。これらの躓きに慣れているせいで、「日本人と宗教心」というテーマは、幾重にも考えにくいふうにされてしまっているのが常です。

 たとえば「日本人は無宗教である」ということをいう人は、「完全な無宗教」とは何か、ということについて答えられるのでしょうか。生物学的な修辞をえいば、人類は数万年前から、目の前で親が死ぬことが何となく気になりはじめた、とされている。死の認識ということは「否定」や「無」の認識可能性ということと絶対的に不可分ですから、まずは言語が生まれ、そののちに他人の死(在ることについての「否定」「無」)の認識すなわち「他人がない」「他人がいなくなる」を通じた後、自分の「死」を他者の交換可能なものに把握する段階に至り、そしてやがて、「死」を説明するためのいろんな御伽噺は神話を考え付くようになった。死への認識の始まりと、死についての御伽噺の中間に、「哀しみ」という感情が生まれているわけです。
  この時点のいずれにおいても、もちろん宗教教団など発生してはいません。しかし「宗教心」は発生しているといいうるでしょう。するとこの数万年前の、目の前の親の死が何となく気になりはじめ、そして、段々と「哀しみ」に至り始めたとき、「宗教」があったのかどうか。たとえば、この「哀しみ」自体は「無宗教」なのでしょうか。
  あるいは「信仰」と「信念」について、イスラム原理主義者の政治的テロリズム行為やキリスト教原理主義者の避妊病院の爆破行為などについて、「信仰心の強さ」として彼らの畏敬や畏怖を賞賛したり批判したりする日本人がいます。しかしこうした行為は何ものかを崇め奉る「信仰」ではなく、「信仰」によって担保されている「信念」というべきでしょう。彼らの猛然とした宗教戦争的行為は信仰心から発している行為かもしれませんが、しかし同時にほとんど無思慮というべき他者否定行為は、プリミティヴな「信仰」とはいいがたいと思います。
 たとえば、宇宙や存在についておそろしく純粋な問いを発する子供たちは、決して宗教的原理主義者のような勇気、信念をもたない。しかし子供たちは「信仰」についてはまったき純粋でより完全に近い存在だ、といえるでしょう。世界や他者の存在に驚き、感動し、感謝する。「信念」の段階に至ると、こうしたプリミティヴな精神は失われてしまいます。そういった驚き、感動、感謝を失うからこそ、世界や他者を、自分の信じる宗教に従い否定できるからです。平和な世界の宗教団体形成行為や維持行為も、基本的に「信念」のレベルの宗教の問題です。そういうことを考えれば、「原理主義者」と縁遠い日本人の宗教的感情は、単に「信念」の面で劣っているにすぎず、果たして「信仰」を有していないのか、といえば、まったくそうはいえない面をもっているともいえるでしょう。

  しかし、この類の話は私はどうも苦手な話題です。まず自分自身が宗教を語る資格がないのではないか、と思えるほどに霊感に乏しい。もちろん、霊感と宗教心ということも混同しやすいものだ、ともいえるでしょうけれど、しかし霊感はやはり何かの宗教的な才覚、感覚の一部ではないかと思います。霊感とは、オカルティズムによって定義されるものではなく、「この世界を感覚的にいったん離れる才覚」と定義すべきでしょう。「感覚的」ということが大切で、たとえば哲学というのは、この「感覚的」が「言語的」と入れ替わることになるわけですね。

 たとえば私は何年か前に或る急性の病で、これは大袈裟な話ではなく真面目な話、あやうく死にかけたのですけれど、そのときのことを今でもときどきぼんやり考えます。
 気持ちも、実際の容態も(医師は、あと半日病院に搬送されるのが遅ければ完全に危なかった、といいました)「死」を激しく意識しなければならなくなったそのとき、自分でも、自分の存在的な危機の時間だ、と感じていました。「自分にとって宗教的な時間」としかいいようのない「時の訪れ」でした。しかし自分は決して宗教的救済を必要とする気持ちを感じませんでした。少なくとも自分にとって、死後の世界を保証してくれる意味での宗教はいっさい不要、であるという確信を感じたのです。つまり自分がこのまま自分が永遠に「無」になること、数十万年も数十億年も目覚めない、ということをさりげなく受け入れることができてしまったように思えてしまった。

 竹山道雄さんが、若いときの不意の昏睡体験で、死後の世界の不在を確信してしまったそうですけれど、私にとって、あの数日間の「死」への無感情ということが、どうもある種の「無宗教体験」を形成してしまっているようです。多くの世間の書で語られているような臨死体験その他、いっさいの擬似的「死後」体験はそこにありませんでした。もちろんこれも「死」そのものの経験ではないので、私の経験は少しも絶対性をもちませんが、やはりどうにも「死後はない」という直観が、私に固定されてしまいました。
  いうまでもなく「無宗教体験」も「宗教体験」と同様、日時が過ぎると、鮮明な記憶が鈍ってきてしまいます。健康体である今の方が、遥かに「死」は恐怖なのです。だから健康体である今、宗教について書くと、あの瀕死のころの気持ちに反して、「自分には宗教が必要である」とつい軽々といってしまいそうで、宗教の話をなるべくしないで、いつまでも救われないでいたい。この私の逃避的な感性の構図が、「死後はない」ということをさらに重く証明してしまうようにも思えます。
  唯物的な意味でしかない、「死」と「生」の交錯は、誰にでも起こりうるものです。もし宗教的な経験、超越的経験といいことなら、この交錯のどこかの瞬間に、「何か」の侵入が起こりうるはずだ、といえます。しかし私には起きなかったのです。
  しかしあらためて、この凡庸さは、果たして「宗教」ということの必要が、私にとって絶対起きないものだ、ということを意味しているのでしょうか?

 たとえば、必ずしも死後の世界を欲する、ということだけで宗教を必要とする人間が後を絶たないわけではありません。 
 儒教の開祖の孔子は、死後の世界についてたずねられたとき、自分は何も知らない、と公然と言いました。つまり儒教は死後の世界を知らない宗教なのですが、ここでまず、宗教とは何か、ということそのものが問題になります。
 死後の世界を知らない儒教が宗教でない、という意見もないわけではありませんが、まず社会学的に「宗教」とは、戒律をはじめとする行為規範をもたらすものである、と定義されます。行為規範とは「モラル」と言い換えてもいいかもしれませんが、その定義に従えば、血縁や政治を厳しく規定する儒教も、たとえ死後の世界のビジョンをもたなくても、宗教である、ということがいえるわけです。
 この定義に従えば、「宗教」の範囲はぐっと広がるような気がしてくる。そして「死」の問題でなく、「自由」の問題こそが宗教の本質である、ということになるといえましょう。人間が生きる上でどうしようもなく負荷になるための「自由」を拘束するものとして、宗教なるものが存在するわけです。原始的神話の世界にあっても、その神話が「死の説明」であると同時に、複雑かつ精緻な規範を描きだし、円環的な時間の社会、すなわち「冷たい社会」の時間の根拠であると考えるレヴィ・ストロース的な考え方と、社会学的な宗教の定義ということは、意外に近いところにある、ともいえるでしょう。
 
  私達は自由をより多く得れば得るほど、その自由に不安を抱かざるをえない存在なのですけれど、その不安は「不自由への欲望」というものが私達の本能の一種であることを意味します。国家も家族も結婚も宗教的根拠を欠いたものであれば、最初から「不自由への欲望」を満たしてくれるものではありません。たとえば国家の意味からネーションを抜いて、ステートの意味にますます限られてきている現代日本の「国家」など典型です。私達は納税や経済不況といった「不自由」と等価値の「自由」を、ほとんど形而上学的根拠を喪った(喪わせた)日本という国家に求めなければならない、という思考法を当然に受け入れてしまっています。(最近の)結婚も然り。しかし宗教はいつまでも最初から、私達を「不自由」においてくれるわけです。
 私達が「不自由への欲望」という本能から自由にならない限り、21世紀になろうが22世紀になろうが、私達の世界からどうも宗教は消えてなくならない、ということがいえるわけです。いわざるをえない、ともいえます。言い換えれば、宗教は現世的であればばるほど、「永遠」に存在し続けることになる、というふうにもいえましょう。私達は「自由」という絶対的不安を預ける場所として、宗教の存在を必要とするのです。
 しかし私達の「自由=不安」の預け場所として、私達の世界とともに宗教が共存できるかというと、とてもそんなことがいえそうにないのもまた、周知の通りです。信仰と信念の問題についていえば、「信念」の問題を行為規範としての宗教・「自由」を拘束するものとしての宗教は解決してくれるでしょうが、「信仰」の問題は解決してくれはしない。たとえば、きわめてプラグマティックであり現世的であるとされる儒教でさえ、超越的世界に対して決して禁欲的ではないことにも注目しなければなりません。たとえば孔子は、確かに死後の世界を知らないとはいいましたが、神秘的世界について旺盛な関心をもっていました。孔子に拠らずとも、先祖崇拝・同姓世界崇拝を最大の根拠とする儒教社会の人達が、先祖や同姓族の死後の世界に対して無関心であったなどということは、普遍的解釈からすればまったくありえないともいえます。儒教は、「死」を説明しえない宗教かもしれませんが、しかし「死」に無関心な宗教ではないのです。
 
  もし行為規範・自由の面だけから「宗教」を定義してしまえば、いったいどういうふうに「宗教」の範囲は広がってしまうのか?
 たとえば、宗教感情と宗教教団・教義というものを区別して考えれば、後者の「宗教」は、もはや宗教の体をなしていないのではないか、といえるほど、私達の「自由」のサイズにあったものに変貌してしまっています。「自由のサイズにあったもの」ということはつまり、私達の自由の不安のサイズにあわせて不自由を導いてくれる、ということです。たとえば「汝、偽証するなかれ」という戒律は、どんな状況においてもその戒律を守らなければならないというある意味で異常な掟ですが、その掟に縛られるという不条理が、逆に人間に宗教的感性や宗教的思考を可能にしてくれるということでもあるのです。ところが現代的な新興宗教には、こうした異常なほどに正直であることによって宗教的な戒律というものはない。「状況によっては偽証してよいが、偽証の仕方によっては不幸になる」というふうに、スマートに受け入れられやすいようになっています。新興宗教の何が「新興」といういかがわしさかといえば、すなわちこのような行為規範のスマートすぎる形である、といえるわけです。
 たとえば、人生の根本的な意味を考えることとは別の意味での人生ゲームの指針を与えるに過ぎない自己啓発セミナーが、あるいはネズミ講という資本主義世界でのマネーゲームを悪質に教えるに過ぎないグループが宗教団体化しています。確かにこれらも、「自由」の果てしなさに疲れ果て、そして行為規範を求めてそれに集う人々です。そうした団体も、社会学定義に従えば、明らかに「宗教」だと言わなければなりません。
 つまり宗教団体とは、かならずしも死後の世界へのビジョンを提示している団体ばかりとは限らない、といえます。「信念」は旺盛かもしれない。しかしこれら現代的宗教団体の大半が、「信仰」を、せいぜい数代しか続かないリーダーの忠誠心に向ける虚しいものに限定しています。「信念」ならば、精神力だけ必要な「ゲーム」であっても差し支えないのです。国家転覆を目論んだ例のカルト教団も、ヨガ道場という、健康指導の世界から生まれて進化したのです。私達の「不自由の欲望」のサイズにあった教団がまるでマーケットメカニズムに沿う形であらわれ、そしてこれまた私達の欲望のサイズにあった「宗教ゲーム」を演じる。「ゲーム」は教団の逮捕摘発で終わり、彼らは第二の人生をリセットして再スタートすることになります。確かに自己啓発セミナー教団は限られた意味での「人生の規範」を与え、ネズミ講教団は拝金主義という規範をそれ自体では隙のないような説得術で「資本主義社会の規範」を教え、ヨガ道場は健康という「唯物論的な規範」を教えてくれはします。
  もちろん中世ヨーロッパの果てしなく不毛な神学論争もある種の観念「ゲーム」であり、現代日本に重なりあうような世俗性がありました。世俗的であるということが宗教の失格を意味するとは限らないのです。しかし既存の宗教が世俗化することと、世俗的な要求そのものから宗教が生まれることは全く違います。それを混同して、宗教には何でも許される、と考えるときに、過去の世界の宗教者を唖然とさせるような「軽さ」が、宗教に、取り返しのつかない蝕みを与えてしまう。ここで私は宗教についての社会学的定義につっかえを感じはじめます。
 哲学者ボードリヤールは、資本主義が煮詰まると、消費対象は商品価値としてでなく記号化された形で消費は無限に無意味化していく、といいましたが、これは宗教についてもまったく同様で、私達は宗教団体をマーケットメカニズムの派生として考える限り、ついには「消費」の対象として、記号的存在と考えるに至るに陥る、といっていいでしょう。「宗教心」が消費行為の一種として記号的存在と化し、宗教団体が他の法人と同じように消費行為で説明しつくされてしまうような記号的存在と化す。ボードリヤールの指摘がおそろしいのは、他の人間の感情と同様、「信仰」という、もっとも数量化されてはいけないものまでが数量化されてしまうということにあると思います。
 やはり宗教というものは規範の有無だけでその存在を説明できるものではない。「不自由への欲望」は確かに宗教の本質かもしれない。しかし自由や不自由が、マーケットやゲームの軽さをもってしまっては、人間や世界の始原に立ち返らせる、という宗教の性格を、ほとんど無意味なものにしてしまうのです。極大化された自由といえども「死」という絶対的な不自由に屈せざるをえないということ、つまり「死」を説明し、「死」の意味を獲得するものでなければ、自由を拘束できる重さも、不自由への欲望を満たす重さも、宗教には可能にならないのです。
 「死」というものまで追及された、自由と不自由は、おそらく、消費ということでは理解できないようなものを残している、というべきなのでしょう。
 「死の意味」の獲得を通じて、いろんな「始まりの過去」へと、「不自由への欲望」を昇華させていくこと、それが宗教ということでなければならない。それがゆえに、プラトンが「哲学は死の準備である」と定義された哲学と宗教は、きわめて複雑な形で近接している、ともいえるでしょう。自己啓発セミナー教団も、ネズミ講教団にも、「不自由の欲望」の実現の場があるだけで、その「欲望」は少しも昇華されていません。あるいは「死」への緊張を失い尽くしてしまった、多くの既存の宗教教団も、似たりよったりということができるでしょう。

 「日本人にとって宗教とは何か」という話に戻りましょう。
 もう教団や教義の形での宗教には、これからは何も宗教的な期待できないのかもしれない、と言う言説に、私はほとんど同意します。しかし私には、そんな時代になっても、私達(日本人)が「宗教」ということを失わないという確信があります。
 ドストエフスキーは「凶悪犯に殺される被害者といえども死の寸前まで自分の生の存続をどこかで疑わず、どこかで死を信じていない」と或る小説の人物に語らせましたけれど、この文章の冒頭、感傷的に回想している振りをしても、瀕死の中にいた私は、確かに自分の死を信じきるということまではできていませんでした。ドストエフスキーの言葉に従うならば、だからこそ、確実な時間に訪れる「死」こそが、最も残酷である、ということになります。死刑囚の最後の数日間が人間性の極限を示さざるをえないのは、確実に訪れるその「死」の残酷さゆえ、ですね。
 どんな形であれ、私達は執行間近の死刑囚がどこそこの宗教団体に入信することを批判するモラルを有していません。彼らが有してしまった、私達の日常からは想像できない明晰が、私達を畏怖させるからですね。しかしだからといって、おおくの宗教者が言うように、宗教(宗教教団)と私達の間に必然的な関係がある、ということには決してなりません。
 確実な時刻に訪れる「死」の物語ということならば、私達の国の神風攻撃隊の青年達が直面した「死」もまた、確実な時刻にやってくる死だった、ということができます。死刑囚は自分の罪を自覚し尽くすという、論理的に自分の確実な死を納得できる可能性をもっていたかもしれませんが、特攻隊の青年達には、そのような、論理的世界への道はふさがれています。浅はかな平和主義者は、彼らを皇国教育が追い詰めたのだ、といいますが、戦前教育や軍隊教育が、確実に死ななければならないという戦術を教えたということはまったくありません。神風攻撃というのは敗戦までの10か月の間だけ採用されていた戦法であり、決して日本軍の正攻法ではない。まして一般人を巻き込むイスラム教のテロリズムと同視するなどということは言語道断なことです。私が言いたいのは、そこでは「信念」ではなく「信仰」が圧倒的に優位していたのえはないだろうか、ということなのです。

 正攻法から引き離された彼らのほとんどが、宗教教団を信じることとは別に、確実な「死」という最も残酷な瞬間を、迎えることができたのはいったいなぜなのか。言い換えれば、神の視野、といえるほど、おそろしいほどに明晰になれたのかもしれない彼らは何をみることができたのでしょうか。それは体系的言語を拒絶している何かの視野だ、といえましょう。
 私は、目の前でどんな侵略がおこなわれていても、何一つ抵抗しないガンジーの非暴力主義はある種の「狂気」だけれども、その狂気を「正気」へと引き戻してくれるインド的なるものへの密着が彼にはあった、と思います。それは神風攻撃の青年達の「正気」に関してもいえることではないか、と思えます。小林秀雄は、「死を明日に控えた特攻隊の青年達をもし目の前にすれば、私達は言葉を失ってしまうでしょう」といいましたが、その「言葉にならない何か」という感情を、感覚的に、ある意味で非論理的に、解き明かして私達の一部にしていくこと、その終わりのない精神的行為が、私達日本人の宗教感情を解き明かすことになる、としかいいようがないでしょう。彼らが日本の歴史でもしかしたら最も美しい人々であったかもしれない、ということに私は何のためらいもなく同意します。しかし彼らがどうして美しくありえたのだろうか、ということはよく考えなければなりません。
 神風攻撃の青年達は、確実な「死」ということを意識しつくしたとき、おそらく完全な「無」ということを意識したのではないだろう、と私は考えます。完全な無宗教的感覚が、彼らに死を納得させたとはとうてい考えられない。彼らは極限的な状況で、やはり何かの宗教的な境地に到達したのではないでしょうか。たとえば私は自分の「無宗教体験」が永遠の「無」を意識した、といいました。
 しかし「無」ということも、それが概念であり、言葉である以上、何も表現できないもの、ということにはならない。サルトルは「無」には積極的無とでもいうべき、意識がそれを否定することによってある種の実在になるような無と、まったく意識されないようななし崩し的な完全な無としての消極的無を区分して自らの存在論をつくりあげましたが、「積極的無」ということは、言葉が原始的段階で他人の死に関して感じた「不在」という認識に近いといえます。「不在」という無が何かの宗教的感性になりうるということは、ありうるのです。「永遠に虚無になった人」が実在するというのはまったく矛盾しているようにみえますが、しかし言葉の世界というのはその矛盾を矛盾してしまわないようなことが可能です。私は日本人の宗教的感覚というのは積極的無ということのように思います。比べて、原始仏教の空の概念は、この積極的無ということとは明らかに別のもので、言葉の世界の外に飛び出ようとする試みに思えますが、私の説明は安易にすぎるでしょうか。

 そこで自分の「無宗教体験」を懸命に思い出してみて、この世界の自然のどこかに、自分が物質的に存在していくのだろうなあ、という感覚であったような気も「何となく」してきます。この「何となく」なのです。たとえば記述したように、哲学と宗教は実は「死」という要素を前にしてきわめて複雑に近接しています。しかし根源的に違うことは、哲学は徹頭徹尾、「言葉」を武器にして「死」と格闘する、ということです。宗教にとって最終的な武器は「言葉」ではありません。「死」にせよ「無」にせよ、「何となく」という、この広大でつかみ所のない感覚だ、といえるでしょう。たとえば「悟り」というのは、哲学の世界における「わかる」ということとはおそらく無縁の精神的段階だ、といえるのではないでしょうか。

 死後の世界の自分の存在を物質的に信じる、というのは確かに無宗教的ですけれど、しかし完全な無宗教であるか、といわれると、そうでないような気も「何となく」する。或る宗教学者が、「この空気の中にある美しい何か」ということが、日本人の宗教観の根本のすべてである、といいましたけれど、私が信じた死後の私の物質を、「自然」や「時間」と読みかえれば、私自身も含めて、理解しにくいと外国人や外国かぶれに言われるような、日本人の宗教性が、多弁を弄さない形で、明らかになってくるような気がするのです。
 小林秀雄は続けて、「死」は私達日本人にとって帰る場所である、というふうに、神風攻撃隊の青年達の精神性を表現していますけれど、この場合の精神性ということは、ほとんど「宗教性」と言い換えていいものです。そしてそれはやはり、「積極的無」の世界だ、ということができるでしょう。ニーチェはキリスト教(あるいは既存の宗教すべて)の教団と教義を揶揄して「つきつめて考えれば、キリスト教徒はただ一人しか歴史上、存在しなかった。その人物はゴルゴダの丘の十字架で死んだ。そして福音の言葉も十字架で死んだのだ」といいましたけれど、このニーチェの、ある意味においてもっとも宗教的精神を賞賛した言葉を逆行してとらえれば、神風特攻隊に具現化した日本人の宗教観こそが、もっとも宗教的精神らしい宗教観だ、ともしかしたらいえるのでしょうか。

 言論的体系も宗教的教義も、宗教の成立にとってまったく必須の条件ではないことを示すのが、他ならぬ日本人の宗教心である、ということになるでしょう。私がもっとも尊敬するある思想家は「信仰は信念と違い、ためらいながら語られるものである」といいましたが、まさに至言というべきです。「信念」は「何となく」にも「ためらいながら」にもついには対立してしまうものに他ならないのです。
 結論的にいえば、「日本人に宗教心はあるのか」という質問が投じられたら、何のためらいもなく「ある」ということになる、ということです。しかし続けて「ではどのような宗教を信じているのか」と問われれば、たちまち戸惑わざるをえない。「ある」「信じる」という言葉に関して、どのような了解が成立しているのか、確認しなければならないからなのです。
 私に言わせれば、日本人の宗教心というのは「ある(ない)」「信じる(信じない)」というようなシンプルな言葉であらわされるものではありません。しかし困ったことに、最近の優等生然とした人ほど、そういうシンプルな言葉に意識的になることができません。言葉の了解や確認をしないまま、どこそこの宗教教団のちっぽけなエゴイズムのなかのマーケットやゲームに踊らされて、宗教を消費し、その消費を他人に強制するという消費までも演じている。「日本」あるいはその宗教性ということを理解することは、どこそこの教団の教義を理解することより、遥かに知的でスリリングで感動を伴うものなのに、優等生然とした人たちは、この日本を覆い尽す「軽さ」の猛威に身を委ねて、宗教経験をしたつもりになっているようですね。他人事ではないのかもしれませんが、実に嘆かわしいことだと思います。

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「神話」と歴史についての一考察

「神話」と教育についての一考察


    先日、とある場所で自己紹介を書かされ、自己紹介の一部に、血液型の箇所があることに気づきました。そのことをその日の晩の酒席で不意に思い出して、「これが本当に紹介する自己の一部なんだろうか」と呟いたら、「やはりお前は天の邪鬼なB型だな」という答えならざる答えが返ってきたのでちょっとカチンときた。血液型の話題が普段から大好きな友人なのです。「じゃ血液型で性格を判断しようとする血液型と、血液型で性格を判断しようとしない血液型はそれぞれ何型なんだろうか?」と聞いたら、彼は腕組みして、「やはりそういう質問をすること自体が、君がB型だということなんじゃないのか」という答えが返ってきて、私は思わず大笑いしました。彼の真面目ぶりが、非常におかしかった。こういう類の血液型を巡ってのお話は、毎日、この国のいたるところで繰り返されていることでしょう。
    「出身民族で個人をどうこう判断してはいけない」、あるいは「両親やそれ以前の先祖の先天的能力や先天的異常でその個人を先入観的に判断することはおかしい」そういいながら、私達は「先天的なるもの」に、どうしても関心をもってしまいます。平等主義といいながら、能力や容姿なりが少しも平等でないという現実に対するどうしようもない不条理の説明を、「説明できないもの」に求めようとする私達の本能といっていいものが私達にはあるのです。不平等という不条理が不幸なのではなく、不条理の説明への関心を禁じられてしまっていることの方がはるかに不幸である、という現状がそこにあるでしょう。「血液型」というものへの関心もそういうものの一種だといえる。科学教育に少しも関心を抱かないような人達が、血液型という科学ないし疑似科学に群がるのを観るたびに、不条理への関心を禁じられた現代人の不幸というものを感じてしまいます。この不幸というものを考えることが、私にとってはなかなかの問題です。
    「血液型」の話自体はおそらくくだらない。まさか世界に住む人間が4種類にしか区分できない、ということはありえないからです。しかし血液型の話に群がる人をくだらないと退けることもまた、実にくだらないことなのです。「血液型」が、科学的に正しいのか疑似科学に過ぎないのか、というような大真面目な議論に、私は少しも関心はありません。血液型の話の大好きな私の友人に向かっても、「性格、性格というけれど、性格という概念自体が実は認知科学がつくりだしたフィクションである可能性もあるんじゃないのだろうか?」というようなディスカッションをその場ですることもできたでしょう。
    しかしそんな大真面目なことをすることは野暮なことなのです。なぜ野暮なことなのでしょうか。御伽噺が客観的でないと目くじらをたてるより、御伽噺を信じる演技ができるくらいに私達は大人であるべきだ、とゲーテは言いました。私達は21世紀になっても、客観的という言葉をますます誤解していて、御伽噺とのかかわりさえ、相変わらず定かになっていないという現状がある。御伽噺の真偽を吟味することではなく、御伽噺に関心をもたざるをえない私達の姿に真実を感じなくてはいけない、ということが、ゲーテの言葉の言わんとするところでしょう。民族や遺伝子をめぐる疑似科学の大半もまた然り、といっていいでしょう。こうした御伽噺に関心をもたざるをえない、ということは、御伽噺の中に、「自分達は何処からきて、何処にいくのか」ということを解き明かしてくれる何かを感じるから、なのです。御伽噺がないならば、御伽噺をあえてつくりだそうとする。それくらい強いものだからこそ、「本能」といっていいものなのです。こういうふうに話をしてもなお、「事実しか信じられない」と言うふうに反論する人は少なくないでしょうし、その中には、疑似科学を全面的に悪用したナチズムの例をだす人もいるかもしれませんが、ナチスの場合は「疑似科学」を「科学の地位」すなわち「事実」の世界へと持ち上げるという、忌むべき大真面目なことをやったわけで、御伽噺を信じる振りをすることとは全く逆方向にあったというべきでしょう。オカルティズムなんていうのも大半が、事実かどうか、科学かどうかなんていうことをやっているのですから、ナチズムと大差はないのだと言わなければなりません。ナチスもオカルトも、私に言わせれば、これほどのものはないといっていいくらいに野暮な連中なのです。
   「自分達は何処からきて、何処にいくのか」これが私達の永遠に続く関心です。この単純かつ根源的な関心は決して満足して果たされることはない。果たされることがないからこそ、本当に永続する関心なのです。この類の「関心」は、一見すると荒唐無稽な形や幼児的な形で発現する場合が少なくありません。たとえばハイデガーは、「万物は水である」(ターレス)「万物は空気である」(アナクシメネス)「万物は無限なるものである」(アナクシマンドロス)等、一見すると荒唐無稽な学説をたてた古代ギリシアの哲学者の一群を評価し、「存在」の不可思議さに正面から向きあったこれらの哲学者が、相対性理論に到達した20世紀の科学者と比べて、存在論のレベルで劣るとはいえない、と言いました。ハイデガーは、彼らは「忘却していない」という表現を用います。何を忘却していないか、といえば、「何処からきて、何処にいくのか」という、説明しがたい存在の不思議さです。彼らの荒唐無稽な学説は、存在と格闘した彼らの「心」を意味する。
   だから彼ら古代ギリシアの哲学者の荒唐無稽な説明は、科学的には誤謬であっても、存在論的には間違ってはいない、ということを導くことができるのです。ハイデガーの「忘却していない」はそういうことを意味しています。事実か非事実か、ということではなく、説明できないことを説明しようとした「心」が感じられる限り、その言葉の群れは限りなく真実なのだ、ということです。しかし、ハイデガーの言葉を裏返せば、私達は「忘却している」ということになってしまう。血液型に関していえば、そこに「何処から来て、何処からくるのか」ということを無邪気に読み込もうとした関心が生きている限り、その疑似科学的な御伽噺は真実である。しかし、血液型が科学的に正しいかどうかということに取りつかれて、肯定論・否定論へと際限のない事実・非事実の論争になるとき、血液型は真実からは離れていくことになります。ここに、神話ということを定義できる一つの余地があるというふうに、私は考えています。私達は神話なしでは生きていくことはできない。しかし態度一つで、神話を生かすことも殺すことも可能である。これもまた私達の不幸の一つの精神的光景なのです。
    神話と対立し時には敵対的であると一般には思われている科学にしても、神話と固く結びついています。たとえば、アインシュタインとボーアの量子力学を巡る論争の中で登場する有名な喩え話「神様はサイコロ遊びをするか?」というくだりを高校生の時読んで、私はアインシュタインという人は物理学者の割にはずいぶん文学的比喩をよく知っている人なんだなあと思いました。しかし今になって考えれば、私は全く科学というものを知らないからこそ、そう思ったのです。アインシュタインにとって、数式や理論的整合と同様に、「神話」もまた、科学を形成する道具に他ならないという正しい認識があった。「完全な科学」というものが存在したら、説明不可能なものはなくなってしまうのですから、神話は必要でなくなる。しかしそんな科学は古今東西あったためしはないし、これからも永遠にありえないでしょう。優れた科学者というのは、優れた神話の語り手でもある、ということになるわけです。しかしある保守派哲学者が嘆いたように、我が国の科学教育・理科教育は「科学はここまでしかわからない」という教育を施していないために、科学でさえが神話を必要とし、神話によって根拠付けられなければ存在しなければならない、ということに気づきにくくなってしまっているといえましょう。科学の素人の方が、「完全な科学」を信じ込んで、神話の必要性の不可避を軽視する、ということになってしまっている。或る意味で、あらゆることに、「神話」というものは欠かすことができないものだ、ということさえいえるのです。血液型に関していえば、「性格」という日常的事象にさえ、私達は厄気になって、新しい神話づくりにいそしまなければならない。
   かくして「神話」というものは、近代社会的な事象が展開すればするほど、必要とされなくなるどころか、逆に必要とされてくる。情報や認識対象が増えれば増えるほど、つまり、「世界」が広がれば広がるほど、それらの意味と私達の間の「神話」を必要とする。数十億年の宇宙が広がるならば、その宇宙の説明不可能性に付随する神話を思いつかなければ、私達は押し潰されてしまう。アメリカという国が日本に比べていかにこの文明的な原則に忠実であるかは、映画文化一つみてわかることで、たとえ大衆映画的な通俗的内容の作品であっても、21世紀的現実に合致した神話づくりを繰り返していることからして一目瞭然なことです。教育機関においても同様で、性の問題にしても歴史の問題にしても、アメリカは神話の必要性を徹底しています。たとえば進化論教育を憲法違反であるとしたアメリカの最高裁判決を、アメリカのプリミティヴな文明原理と嘲笑するのは確かに一面ではあるけれども、しかしアメリカ人と「神話」ということを考えれば、嘲笑するだけでは重要なことを見逃してしまう、ということもまたいえることなのです。私にしてみれば、神話をいたるところで排除してきた、先述の科学教育に例示されるような、教育の場における神話の排除、ということの方が、よほど嘲笑の対象になります。教育の場のいたるところににおいて、神話的なるものを排してきたことの我が国の戦後教育の誤謬について、それをどれほど指摘してもしすぎることはないのではないか、と私は考えます。
    たとえば性教育の話について。「性の機能についての説明にとどまるべきだった性教育が、性の意義について説明しはじめたことに、誤謬がはじまった」と福田恒存は言いましたが、このことをより正確に言うと、「意義」というのは可能性と不可能性の双方を含有したものでなければならないにもかかわらず、現代の教育機関での性教育は、不可能性を否定して、その意味がすべて把握管理できると思い込んでいることに誤謬があると考えられます。「お父さんとお母さんの性行為で貴方が生まれたのよ」とか「妊娠や性病をコンドームをつけるのが正しい性行為なのよ」ということは、性の機能的側面を説明したとしても、性の意味も性行為の意味も、そして性教育が目的にしているらしい生命発生の意味も実はほとんど説明してはいないのです。
   生命発生の、やはりほとんど不条理といっていいほど不可思議なことは、数十億年の宇宙史の中で、せいぜい百年くらいしか存在できない私達の存在とはいったいどういうことなのか、ということです。性行為も同様で、数十億年の生命史の中で、男女がその日その瞬間、交わることに、何か果てしない必然性があるような気がする。この不思議な感覚はどういうことなのか。本当の性教育だったら、こうした問いかけを考えることを欠かしてはいけないのです。しかし現実はそうはなっていません。私が高校生の時、コウノトリの御伽噺について、科学的性教育はこういう御伽噺を受け付けないのだ、ということを大真面目に言う教師がいて、当時すでに呆れたのを憶えていますが、「野暮」とは、こういう教師みたいな人物をいうのでしょう。たとえ生命も性行為も全くの無意味だとしても、その無意味を認識している自分があるわけであって、無意味であるということも、何かの「神話」に基づかなければならない、ということから自由ではないのです。ニヒリズムもまた、「ニヒリズムの神話」を最低限に要求する逆説的な存在だといえる。
   「性欲を感じて(性行為を)やりたいと思う」という、老若男女がほとんど信じ込んでいる定理にしても、「なぜこの対象に性欲を感じるか」ということは、客観的な説明では説明不能です。たとえばマックス・シェーラーは「科学は愛を遠ざける」と言いました。性欲を起こさせる対象が「美形だから」「性格がいいから」という「科学的理由」に基づくならば、結局、世界最高の美形や性格の相手にこそ、愛や性欲を感じる、ということにならなくてはいけない。にもかかわらずそうはならないという、科学的には説明できないことに、性愛の「意義」というものが存在する。このことからしてすでに、私達は神話的説明を必要とせざるをえないのです。「意義」を説明するためには、民話なり童話なり文学で展開されてきた、性の不可思議さへの膨大な神話に触れることが、何より大切になります。しかし性教育の現場でこんなことは何もおこなわれていません。
    国民教育のより根本である歴史教育は、性教育よりもっとずっと深刻な状況にあるように思われます。「神話の不在」がより確立してしまっている。性教育は戦前はほとんどなかったため、過剰反省というものがないのですが、歴史教育には、反省という実に厄介なものを抱え込んでいます。たとえば、神武天皇が紀元前660年に即位したことや、景行天皇が3メートル以上の身長があったことがフィクションだ、それを事実として教えた戦前の教育は正気でなかった、という指摘をしてそれを「客観主義」だと得意気になっている、幼児的な言説がいまだに少なくない。再び福田恒存の言葉からですが、戦前、神武天皇の伝説をはじめとする様々な建国神話の話を実在のものとして真剣に信じた人間など、よほどの狂信者でない限り、ほとんどいなかったのです。にもかかわらず、それをある種の「真実」として受け入れる度量が、戦前の歴史教育の世界にはあった、ということができるのです。
    「日本書紀」や「古事記」の世界で展開される建国神話のかなりの部分が、七世紀の国史・国語編纂者の再編に基づくもので、たとえば皇室に関していえば、実在性が認められる天皇が崇神天皇以降であり、継体天皇のときに直系が断絶している可能性も極めて高い。しかしこれらのことは、戦前からきちんと指摘されていたことです。たとえば戦前歴史学の権威の一人の那珂道世は、神武天皇の実在性に正面から反論し、たとえ初代天皇が実在したとしても日本書紀の記載よりもずっと後世の人物だ、と「科学的」に断じました。しかし同時に那珂は、神武天皇の伝説を「日本書紀」通りに教えることに同意しています。矛盾しているように思えますが、しかしその実は少しも矛盾していません。歴史というものへの那珂の思考のスタイルは、戦前の日本人の歴史教育のスタイルのほぼ通説を示している、ということができるでしょう。
   那珂は「歴史研究」と「歴史教育」は別のものであって、後者に関しては、神話教育が不可欠である、というのです。ここで那珂の見解から「神様はサイコロ遊びをするか」というアインシュタインの喩えを連想することは、決して的外れではないといえます。「歴史」が、日本という国の始まりから今までを、完全に事実的に説明することはできない。科学に完全な体系や理論がありえないことと全く同じです。その説明できない部分に関して、何かの根本的な説明を付随させなければ、歴史はまとまりにはなりません。とりわけ歴史教育の場については、そのことがいえるでしょう。日本人が「何処からきて、何処にいくのか」ということを、日本人ならば誰しも関心をもたざるをえないからです。この関心を禁じてしまったら、それは日本人として根本的に不幸ということになってしまうでしょう。日本人は「何処から来て、何処にいくのか」ということについての、七世紀の建国事業に携わった人達の格闘、その「心」の真実が、「日本書紀」や「古事記」にはある、ということに他ならないでしょう。もう少し具体的にいえば、「心」の真実は、白村江の敗戦以降、中華世界の侵略の気配に苦しんだ七世紀の人達の激しい不安の中での「願い」というべきもの、ともいえるでしょう。
   「何処から来て」の「何処から」がそこにあるのです。あえていえば、七世紀に至り気づいた中華文明に対抗せざるをえないアイデンティティが日本人の原風景の場所の一つであり、そしてその場所において、皇室による国土統一が中国の始皇帝による統一(紀元前221年)に負けず劣らないものであったことを言おうとしたのが、「紀元前660年」という数字のフィクションの意味するところなのです。あるいは歴史学者の遠山美都男氏は古代史の通説を代表して、実在性と神話性が混合している崇神天皇以降の天皇について、四道将軍派遣による朝廷政権の安定(崇神)伊勢神宮建立などによる祭祀政治の確立(垂仁)九州巡幸などによる地方支配の確立(景行)地方自治制度の確立(成務)朝鮮半島進出による国際的政治力の獲得(仲哀、応神)と、あまりにも図式的に国の形成を順序だてて説明しているとし、その多くが事実に反するというだけでなく、意図としても「日本書紀」が最初からフィクションとして書かれたもので歴史書ではない、としていますが、それは「日本書紀」を近代史的な史書として(としてしか)読んでいるからそういえるのであって、私は順序だてられているからこそ、「国家の各システムはそれぞれに起源を有している」という見事な神話の存在をそこに読み込むべきだ、と思います。
   これら数字上や説明上フィクションは、ハイデガー的にいえば「忘却していない」、つまり真実なのです。「何処から」は何世紀に実在の天皇や人物がいたのかいないのか、ということではありません。先述の神武天皇の即位年に関しても、「何年にあったのか?」を学ぶのでなく、皇室とともにはじまった我が国が、中華世界に屈しないという気概のもとに展開されていったのだ、というニュアンスを知ることができれば充分であり、また崇神から応神までの建国神話についても、七世紀に確立した各システムが、何かの起源を有している、ということを事実的にではなく、ニュアンスとして知ることができれば充分なのです。神話教育の復活・復権の必要性が、こうしたニュアンスの獲得の連続にある、ということができるように私には思えます。そして戦前と戦後を比べて実は戦前の方が或る根源的な意味において自由であり幸福であった、というロジックもまた成立しうる。それは「神話的思考」ということによって可能な自由であり幸福なのです。 
   神話的思考を禁じられてしまった結果、「単に世界がある」「単に自分がある」こういうふうに考えさせられてしまっていることに、私達の不幸の根源がある、と考えなければならないように思います。「単に私自身である」という言説を「形而上学的プライド」と巧みな表現でからかったのが誰かといえば、20世紀を代表する無神論的実存主義者であったサルトルです。サルトルという人は、意識的な主体によりその都度、自分の存在をつくりだしていくことがすべてであって、フロイト流の無意識の存在も完全に否定し、人間にはその都度の現実しかない、つまり過去と断絶しているという実存主義を徹底した思想家です。そのサルトルでさえが、そう考えていたのです。この人にしてこの言あり、というべきでしょう。「形而上学」はこの場合、神話と同じ意味ととらえてよいでしょうが、形而上学や神話を否定し喪失した不幸の挙句、私達は「形而上学的プライド」に従って生きなければならない。そしてこの悪しきプライドは、日本の戦後教育において甚だしい猛威を振るい、なお振るい続けている、といえましょう。「単に・・・ある」という言葉ほど、観念的暴力をもって、言葉の世界を記号化してしまう言葉はないといえましょう。しかしこの言葉ほど、戦後民主主義教育を象徴する言葉もないのです。
   より注意しなければならないのは、この戦後教育の誤りを指摘する立場が、新たな事実主義に陥ることのないようにしなければならない、ということでもあるように思います。たとえば、左翼的歴史家のでっちあげた南京事件や従軍慰安婦といった事実誤謬を指摘することに、私は大賛成です。しかしその指摘をしただけでは、歴史が蘇生するとは限らない。言い換えれば私達の生き方が蘇生するとは限らないのです。性教育でいえば、間違った避妊方法を指摘するだけでは何も生まれない。根本的な性の意味の問題を蘇生させることは、もっと違うところにある価値転換です。「単に性行為がある」「単に歴史がある」こうした「形而上学的プライド」からの解放が目指されるとき、戦後教育の誤謬の指摘ははじめて創造的なものになるでしょう。こんなプライドから解放されて、「何処からきて、何処にいくのか」という本当の関心に向き合うことで、この国の精神風景はもっとずっと風通しのよいものになるに違いない。私は心からそう思います。                                                                        



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ある戦後の「真贋」の光景

      
 (江藤)「僕は思うんだけれども、君は文学をやろうとすると何か余っちゃうんじゃないか」
 (石原)「うん、余っちゃうね。何やっても。だから何かやらないでおられない」
 (江藤)「政治をやろうとしても余るんじゃないか。その余るものが何かということは、どうも大問題なんだな。それが石原というものを、困ったことに無視できないものにしているゆえんだと思う。いつか三島さんが君にいったろう、夕焼みて綺麗と思ったら、政治家になれないぞ、って」  

(「季刊藝術」江藤淳・石原慎太郎「人間・表現・政治」)
  

  骨董品の世界では偽物(贋作)は本物よりもずっと綺麗に隙なくできている、ということをその道のプロフェショナルから聞いたことがあります。しかし、とその人物はいいます。別の基準がある、偽物は決してザラザラしていない、本物はザラザラしている、そこが違うのだ、ということが妙に印象に残っています。私などいくら頑張っても骨董品の真偽がわからず、その手のテレビ番組では悔しい思いをするのですが、しかしそんな私でも「ザラザラ」ということは、おもしろい表現だなあと思いました。「ザラザラ」とは何か。専門家でない私はなかなかうまく言えないのですが、贋物が本物よりずっと綺麗にできている、ということは、贋物の骨董品の美しさが何か外在的なものに由来するからだ、ということなのではないでしょうか。
   たとえば絵画なんかでも、コンピューター的技術を使えば、いくらでも精緻な贋作をつくることができる。しかし、作者の精神というような内在的なものの在り処を、精緻な贋作というものはついには持ち得ません。本物はまるで人間の心のようにザラザラしていて、贋作はまるで人間の外在的な構築物に過ぎないかのような、説明しやすい綺麗さがある、ということなのでしょうか。骨董品の世界の相当な玄人でもあった小林秀雄は「・・・所謂書画骨董という煩悩の世界では、ニセ物は人間のように歩いている。煩悩がそれを要求しているからである」(「真贋」)と、これまたなかなかうまいことを言っています。「煩悩」というのは、内在的なものであるようですでに外在的なものになってしまっている人間の心の一種に他なりません。
   昭和12年の南京事件の存在をラディカルに否定する東中野修道氏の研究の本の幾つかを開いてみます。緻密な資料の扱い、論理の展開・・・そういうものの向こうに、東中野氏の野太い人柄というようなものがみえてくる。東中野氏は決して南京事件否定の外在的思想を単に語っているのではないことがわかります。「ザラザラしている」という言葉が不意にリアリティをもってくるのです。もしかしたら東中野氏自身は世間が括るところの保守派といわれることに本意ではないかもしれません。しかし私は東中野氏の格闘的とさえいえる南京事件否定の研究書に、極上の骨董品を鑑賞するかのようなものを味わうことができる。一言でいえば東中野氏の精神、というものでしょう。東中野氏の書物は私にとってまことに「ザラザラしている」のです。
  「ザラザラしている」言葉の世界は何処かにないだろうか。私はいつもそのことを考えて、言葉の世界を覗き込みます。しかし、絶望的なほどに、何処にもないような気がしてくる。東中野氏の書物との出会いのようなことは実に稀なのです。比べて、古人の世界というのは本当にさすがです。古典の世界には何処かしこに「ザラザラ」があふれかえっています。小林秀雄は同じエッセイの中に「真物は限られたものしかないのだから、贋物がますます多くなるのは自然な当然だ」ともいいます。
  真贋の真、すなわち「ザラザラしている」を求めて、石原慎太郎の書物を開いてみます。なぜ石原なのか。戦後日本ということを考えるとき、彼は或る意味で戦後日本で一番有名な言葉の世界の人物であるといえるかもしれません。戦後日本の言葉の真贋の「贋」がますます多くなっているとすれば、石原という人間をより徹底して知ることによって、日本という国で語られている言葉の真贋の全体像のようなものが、意外にすっきりわかるのではないか。私はそう思うからこそ、石原の言葉の世界が気になるのです。石原を知り尽くし考え尽くすことが、戦後日本そして現代日本の真贋ということを知る上での、大きな手がかりになるのではないでしょうか。

  たとえば石原には、「国家なる幻影」(文藝春秋)というよく知られた自伝がある。石原には幾つかの自伝がありますが、この自伝は最も長く詳細なもので、石原をよく知るには格好の書といえるかもしれません。「ザラザラしている」に飢えている私にとって、この「国家なる幻影」は、久々に私の心の琴線に触れるような面白い書との出会いでした。私はそれまで、読んだ石原の本はほとんどが彼の小説ばかりで、正直言って文学作品として評価できないものばかりでしたが、この自伝に関していえば、そのマイナス評価を大きく変えるような面白さを強く感じることができました。
  たとえば美濃部革新都政との対決し都知事選に出馬したときの章、その対決相手である目の前の美濃部亮吉がどういう人物であったかを回想的に描く石原の筆致は冴え渡っています。
  ・・・作家時代、美濃部や伊藤整と一緒に講演旅行したときの宿泊先での美濃部のエピソードの場面は、何度読んでも皮肉、ユーモアがたっぷあふれています。美濃部がどうしようもない世間知らずの我がまま男で、食事時、ウイスキーを「ホイスキー」という意味不明の高級語(?)でわざとらしく発音したりして周囲を困らせ、石原がそれを「翻訳」する労をとったりする場面。美濃部は名だたる社会主義者ですが、この場面そのものが、冷たいブルジョア・ソーシャリストである彼へのリアルな皮肉になります。ちょっとしたコメディの場面のようです。しかもその晩、美濃部が女を連れ込むのですが、翌朝、みんな周囲が石原がそれをしたのだと勘違いして嘲笑していても、美濃部は「いや俺だよ」というふうには少しもそれを訂正しようとしてくれない。確かに、このような人物によって都政は巨大赤字に突入したのかもなあということが伝わってきます。言うまでもなく石原はこのときの選挙では美濃部に敗北したのですが、これが普通ならばイジイジした敗者の遠吠えになるところ、石原の文章は全くそうなっていません。時間が経過した後書いているからだろう、ということは説明にはならないでしょう。イジイジする人間は、時間が経過すればよりイジイジするものです。
  あるいは時々出てくる、右翼運動の指導者である赤尾敏とのやりとりについてのくだりも実に痛快です。左右の政治的立場関係なく、ああ日本にはこういう精神的な大人物がいたんだなあとしみじみとした気分にさせてくれるものです。自身も泡沫候補で都知事選に出馬していた赤尾が自分のアピールなどそっちのけで、こんなふうに石原を応援するくだりがあります。

 「・・・・美濃部は石原のことをファシストというが、石原はなぜ言い訳するんだ。それでいいじゃないか、みんなはファシズムが何のか知っているのかね。いいかね、イタリアの国が乱れてバラバラになりそうなとき登場したのがムッソリーニだよ(中略)今の日本をみたまえ、バラバラじゃないか、それを、きちっと束ねる仕事を石原がやるべきなんだ。それを美濃部くらいにファシストだって言われたら、僕は違う、ファシストじゃないってなんで言い訳なんぞするんだ。そこが彼のまだ駄目なところだ、まだお坊っちゃんなんだな。でも,私は彼に期待しているんだよ。彼がこの東京できちんとファシズムをやることをね。彼はそのために立候補したんです。彼はまだちょっと若いが、いいファシストなんです・・・・」
                    (「国家なる幻影」)
                   
  石原は少し苦笑ものだけれど赤尾の応援、御高説はやはりとても嬉かった、というふうに書いています。赤尾と石原の間には主に赤尾の意外な交流があったようで興味深いのですが、私はこの生き生きとしたくだりから、高校生のとき東京に遊びに来て、たまたま数寄屋橋で、あの辻説法演説をしていた最晩年の赤尾敏をみて、なかなか筋の通ったことを堂々と言っているこの風変わりな御老体はどんな方だろう、おそらくたいへんな人物に違いない、と思ったことをふと思い出しました。石原の筆致のおかげです。
  美濃部の話といい赤尾の話といい、「ザラザラ」があります。それは内在的なものから政治の真実に迫ろうとするからでしょう。これが昨今の私をうんざりさせる書物の類だったら、美濃部は革新都政を担った国賊の社会主義者だ、とか、あるいは赤尾は過激な右翼である、とか、いわば「外在的なこと」から話を掘り起こして、延々とその「外在的なこと」の周囲をフラフラしているだけことを述べるにとどまるに違いない。世間に出まわっている書物の大半がいつのまにかそのようなものになってしまっています。それでは保守思想の主張だろうがリベラル思想の主張だろうが、少しも刺激を受けないのです。当たり前のことですが、その当たり前のことを忘れて、ほとんどの人間が言葉を贋物のように語ることに慣れてしまっています。
  内在しているもの、外在しているもの、という区分にちょっとこだわってみると、私はかつて、江藤淳が書いた「ユダの季節」という有名な論文のことを考えます。江藤はこの文章で、河上徹太郎のユダ論を引用して、「左翼」が、政治的・思想的意味をもつものでなく、「人間的気質」を指す言葉だといいます。江藤によれば、ユダは内在的な人間性を拒み、外在的な教義にのみ依存する人物であり、その冷酷な知性によってキリストを裏切った。ユダがキリストを裏切った、という事実そのもの以上に重要なのは、ユダが外在的な教義のみによってキリストを裏切ったという精神的プロセスであると江藤はいいます。
  江藤は「左翼」という言葉を、私達が日常的に使う「左翼」という言葉とは全然違う意味において使っているのです。たとえば、外在的な教義を「イデオロギー」と置きかえれば、彼の言っていることはきわめてわかりやすい。人間をイデオロギーでぶつ切りにして内在的な心に迫ろうとしない人間を江藤は単に、しかし、激しく論難しているのです。マルクス主義、ポストモダン主義、新自由主義、保守主義、リベラル主義・・・あいつは「主義」者だ、というふうにしか話を起こせない人間が「左翼」という一つの人間的資質なんだよ、と江藤は言っているのです。だからマルクス主義の時代が終わって保守主義の時代が来た、なんていう言い方は一番警戒しないといけない。ユダたちが、単に外在の仮面を取り替えただけである可能性が大だからです。「心」や「人間性」はマルクス主義全盛の時代と同様、相変わらず不在であり、もしかしたらわかりにくい形で、ますます不在をきわめているかもしれないからです。
   江藤は江藤なりの真贋の基準をもっていて、「贋」を彼はたまたま「左翼」という表現で言い換えたに過ぎないのです。「ザラザラしている」という私の感覚は、江藤の言葉を言い換えたものであるように思います。東中野氏の著作や石原の「国家なる幻影」が面白いのは、江藤曰くの「ユダ=左翼」ということとまさにその逆だからであり、あるいはそれに尽きる、というふうにいえるでしょう。石原という人間にあったことはなくても、主義その他の外在的なものでぶつ切りにするような退屈な人間ではない、彼にあった多くの人間が言うように、懐の深い柔軟な人物であることが予感できるような気がしてきます。

  そんなふうに読める「国家なる幻影」なのですが、ところが、その筆が弟の裕次郎に触れる箇所になると私はどうにも読む速度が落ちてきてしまいます。喉もとまででかかった、石原慎太郎は「贋」ではない、と言いたくなる気持ちが急に萎えてしまう。
  このことは裕次郎のことを記した別著の「弟」についてもそうなのですが、裕次郎の話になるとどうしても石原が、「裕次郎の兄」という、一種の外在的な仮面から物事を語っていて、その内容も硬直してくるように思えます。多くの人が批判的に指摘することですが、「石原裕次郎主義」の教祖みたいなところが石原にはあります。たとえば、彼がはじめての国家議員選挙に出て、弟裕次郎の支援のもとにでたくだり次の箇所などは、私は少し閉口してしまいます。

  ・・・弟もいっていたが反応も強く、演説の後下に降りて握手の相手もひきもきらなかった。誰かが弟にも下で握手してやってくれといったら弟が笑って
 「俺が降りちまうと、誰が候補だかわからなくなるぜ」
  いったがその通りだろう。
  実際その後何度か弟と同じ車の前後に乗りあって名前を連呼して窓から手をふって進むとき、いつも強い反応はあったが、手を振り返す通行者の視線が必ずかすかに後ろにずれているのに気づいた。
  そうわかって
 「お前はあんまり手をふらなくていいよ」
  半分本気でいったら
 「ああそうだろ、妬くなよ、でもその方が俺も楽でいいよ」 
  いったものだ。
                    (「国家なる幻影」)    

  こういう場面につい閉口してしまうのは、私が単に裕次郎礼賛の世代でなく、裕次郎の話を聞いても少しも痺れないことに拠るのでしょうか?
  依然として多数存在する裕次郎ファンを意識しながら、あえて理屈めいた解釈を言うと、弟を語るときの石原は、外在化され固定物語されてしまっている裕次郎のことを月並みに語っているだけで、少しも裕次郎の「心」、あるいは裕次郎の「心」に対決しようとする自分の「心」の問題を語ろうとしていないようにみえます。どうも「主義」を語っている人物の「ザラザラしない」が感じられてくる。
  たとえば、自分の当選は実は弟の人気に依存したに過ぎないのではないだろうか・・・というふうに、弟の献身に何か得たいの知れない疑念をもつ、というような感性があることで、兄弟の愛憎がテーマをもつのは、「兄弟」に関しての古今東西の優れた書物に共通することだといっていいでしょう。「愛」と「憎」が同じものかもしれない危うい自己意識のもとに、本当の愛を巡る古典が描かれるのです。愛を愛としてしか描かず、弟や恋人を自慢するだでしたら、何も考えていない凡庸な芸能人の自伝と大差はありません。
  裕次郎との選挙活動は「国家なる幻影」の第三章で、つまりはじめの方に記されているのですが、途中からこの本を読み始めた私などからすると、最初の方に、石原の十八番の裕次郎の話が入っていて、この本を最初から読み始めたとしたら読むのをやめてしまったかもしれないなあ、と変なことを考えたりもしてくる。裕次郎が嫌いだ、ということではないのです。裕次郎を語る石原の急なトーンダウンが、実に退屈なものなのです。
  そしてこの書には・・・つまり石原に対して・・・もう一つ、より重大な疑問の部分があります。
  それは弟と参議院選挙の章のさらに前、序章が、ベトナム戦争のルポルタージュと感想によって始まっていることです。実は石原はこのベトナム経験が自分の政治的人生をはじめるきっかけになった、として、このベトナムでの話から、この長編の自伝を書き起こしているのです。今では段々と忘れ去られつつあるベトナム戦争ですが、しかしこの戦争は、ほとんどマイナスの意味において、我が国の知識人の多くに大きな精神的影響を与えた重大な戦争でした。このベトナム戦争は、多くの日本人知識人を、真贋の「贋」としてしまった事件である、と私は考えています。つまり日本の知識人を、外在的なイデオロギーからしかものをとらえられないようにしてしまった戦争です。日本国内でおこなわれた戦争ではなかったにもかかわらず、です。
  福田和也氏は「石原慎太郎の季節」で、石原を、常に20世紀のヨーロッパの政治的事件に作家・政治家の両方からかかわったマルローに擬えて、「現代史の路地のすべてにマルローはたっていた」如く石原は戦後日本のすべてに石原はたっていた、と言いますが、ベトナム戦争という戦後日本の重大な精神的事件にも、石原はやはりかかわっていたのです。私はこの書物の最後にこの序章を読む、という実に天の邪鬼な読み方をしました。石原に真贋の「真」を期待したい私は、ハラハラした気持ちで、この序章を最後に読みました。
  ・・・ベトナム戦争という日本を精神的に危うくした事件が彼の政治的人生のスタートのきっかけであった、ということは、いったいどのような意味をもったのでしょうか?
  「弟」と「ベトナム」という、二つの疑問点から、石原という人間の言葉の世界の真贋を、以下、追ってみることにしましょう。


 「弟」について語る石原がどうにも外在的な「弟」思想を語っているだけにみえる、と私は言いましたが、それについて考えるためには、まず石原の生い立ちを簡潔に追うことが妥当です。
  意外に知られていることのようですが、石原にとって「弟」より遥かに大きな精神的支柱を与えているのは「父」の存在であるといえるでしょう。石原は弟について語るのと同じくらい、父についてあちらこちらで語っています。 
  石原には「スパルタ教育」という実に面白い書物があります。全共闘運動華やかりしころに書かれた本で(1969年)伝統的価値のラディカルな破壊を唱える全共闘に真っ向から反論した書で、伝統的な父権の復活を主張しています。怖がられるカミナリ親父よ蘇れ、と、月並みといえるくらいの伝統的家父長の復権を主張する書なのですが、その単調さに辛抱して最後まで読むと、まるで背負い投げを食らわされるような不思議な名前の章があらわれるのです。「父親は夭折することが理想である」そういう名前の章によって、この書は締めくくられます。カミナリ親父を復権せよといいながら、「父親は夭折することが理想である」とは、いったいどういうことなのでしょうか。   

  石原の父は山下汽船の幹部クラスの人間で、二次大戦を控えて、船関係の業界が好景気にわきかえっていたこの時期、たいへんな羽振りのよい暮らしを許されていた人物でした。何しろ一晩の交際費が、当時の大卒初任給の10倍はくだらないというのですから、その豪奢さが偲ばれます。慎太郎も裕次郎もそのお蔭で、幼年期は不自由の全くない生活を許されていました。欲しいものは何でも買えた幼年期だったと石原も裕次郎も語っています。しかし、この父はただの遊び人の実業家ではありませんでした。
  主に裕次郎について語った石原の「弟」では、山下汽船の船が遭難沈没したとき、その船の残骸が打ち上げられたところに父が息子達を連れていくという印象的なエピソードの場面があります。父は無残な姿にうちあげられた航海士の死体のところに子供達を連れていく。実はその航海士は父の知己であり、仲間を助けるために海に飛び込んで死にいたったのです。まるで石原の小説か裕次郎の映画の一場面そのもののようですが、父はその死体を前にして、幼い息子達に向かい、こうきっぱりと言うのです。

 「・・・彼は死んだがみんなはお蔭で助かった。偉いだろう、見てみなさい、綺麗な顔をしているから」

                        (「弟」)            
  石原の父はそんなふうにして、海によく息子達を連れていきます。それは海水浴とか釣りとかという、日常的な意味での海の教育ではない。海を目の前にして、いろいろな精神教育をしていく、そういう時間をつくる父だったようです。彼は幹部とはいえ、安穏としたエリートコースで出世したのではなく、叩き上げで幹部クラスまでなった人物でした。だから叙事詩的に死んだ航海士の知己もいたのです。石原の父はいわゆる「海の男」だったといえましょう。石原の感受性の醸成にとっては、この父親の精神教育が非常に大きな影響を与えたのはもちろんいうまでもありません。
   福田和也氏は、「太陽の季節」をはじめとして、石原の小説のいたるところに「海」の世界がイメージが非常に濃厚である個性がある、と指摘します。海を描いた作家なら大勢いました。しかし石原にとって「海」はただの海ではない。福田氏は、海をただの海としてしか描けなかった幸田露伴のような伝統的な日本の作家の、平板な海のイメージを指摘したのち、石原の文学の「海」について次のように解釈します。

 「・・・・そのように直接かつ深刻に海とかかわりつつ海を描いた作家は他にいないと断じてかまわない。石原氏にとって海は知識でもなければ観念でもなく、何より眼前の現実であり、さらには父と父の同僚がそれと闘い、そこで生活をしてきた場であり、自分もまたそこにおいてあらゆることを味わい、覚えた人生の場であるのです・・・・」

 「・・・越すに越され人の命が失われたという、陸の上であれば何ともやりきれない絶望的な事態が(海の)荒天下の危機の中ではむしろある種の歓喜、活気になってしまう。このような心理は陸の感覚からすれば非人間的なことにみえますが、むしろこのような生々しい無意識の露呈にこそ人間性の真実はあるのでしょう。石原氏は海を自らの光景とすることで、戦後日本の閉ざされた人間性の不可思議きわまる閉塞に触れ、そこを出発して、あらゆる事物をみている・・・」

                    (「石原慎太郎の季節」)
  
  私は石原慎太郎の文学は通俗的でほとんど評価できない、と言いました。しかしこの評を読むと、評価できないというだけではすまないような気もしてきます。そこで私が思い出すのは、福田恒存がへミングウェイの行動主義的な文学を通俗的なものとして評価できないと言いつつ、しかしその福田が唯一、絶賛しているへミングウェイの長編である「老人と海」について触れている文章です。
  福田恒存は、自分がどうしてヘミングウェイはじめアメリカ文学一般を好きにならなかったか、ということについて、「アメリカの文学には空間しかない」という文化論を紹介し同意しています。これはまさしく私の石原の小説への不満と同一のものです。石原の青春小説なり恋愛小説の大半には「空間」しかない。つまりヨーロッパ文学や日本の伝統的純文学にあるような時間の蓄積の重みがほとんど感じられないのです。ヨーロッパ文学は逆にその時間の蓄積による緊張に耐えられないので、「空間」しかないアメリカ文学を脱出口として評価してしまう。私なりに言うと、日本文学は伝統文学の時間の蓄積の緊張の反動で、「空間」しかない石原慎太郎に、脱出口、息抜きを求めた。それがゆえに、あんなふうな過大評価を石原文学は得ることができたのだ、私はそう考えていました。
   しかし福田は、「老人と海」に関しては、ひたすら外面的描写を繰り返すだけのへミングウェイのハードボイルド的文体が、英雄叙事詩的な世界の完成していて、ギリシア神話的な重みを充分にもっているアメリカ文学に稀少な例として高く評価するのです。福田はそれをへミングウェイの筆力、文体の功績としますが、私は、それに加えて、「海」を神話化することに成功したことにより、「空間」に時間的蓄積なようなものを与え、それによって「老人と海」が名作になったのではないかと思います。「老人と海」を英雄叙事詩たらしめているのは、変幻自在に主人公を優しくいたわり、時には激しく飲み込もうとし、ついには老人に敗北を与える「海」ではなかったのでしょうか。
  私は石原の小説のどの作品からも、「老人と海」ほどの感動を受けることはできません。しかし、確かに、「海」というものへの独特のかかわり方という特色は認められる。石原の小説の死や性の世界の多くが、「海」にかかわる形で展開されています。石原の幾つかの自伝や伝記を通じて伝わってくる石原自身のエピソードからは、もっとはっきりとした形で、「老人と海」の世界と何か似たような「海」のイメージを受けることができます。「海」に「父」という要素が加わることによって、「空間」のみにしかすぎないように見える石原の言葉の世界に、より時間的蓄積を与えてくれるようにはたらいているのです。こうして「海」と「父」の交錯したところに、石原の原体験が形成されていったという指摘が可能になるように思われます。
  しかしそんなふうに「海」への導き手であった父は、石原が高校生のときに、過労により急逝してしまいます。以後、石原家の家計は急激に傾きます。時折、芸術に脇目を注ぎながらも、まずまずエリートコースを歩む兄の慎太郎に比べ、弟の裕次郎は乏しい家計をものともしない放蕩を繰り返す。これから数年間、石原の人生で最も困窮した時期が訪れるのです。

  慎太郎は家計を助けるべく公認会計士になろうと試験勉強をはじめたりして(ただし半年で挫折する)家計の貧困をなんとかささえようとします。絵画の勉強に深入りできなかったのも、芸術に没我すれば家族を苦しめてしまう、という苦悶の気持ちからでした。実に不思議なことですが、石原の母は、これほど真面目に家のことを考える慎太郎については厳しく、裕次郎の放蕩についてはほとんど何も愚痴をいわない。石原によれば、この当時の両者の小遣いには百倍近い差があった、といいます。裕次郎のせいで石原家はまっさかさまに転落していくといっても過言ではないのですが、そのようなことが繰り返されているうちに、石原は大学在学中に芥川賞を受賞し、一躍、時代の寵児となり、この困窮の時期はあっさり終焉を迎えます。
  石原はこの困窮の時期、不完全な形で或る意味での「父」を演じざるをえなかったのでしょう。そう考えると、石原の「弟」という思想の正体が判明します。
  たとえば、「スパルタ教育」の「父親は夭折することが理想である」という謎めいた章で石原が言っていることは、おそらく、この頃に培われた思想なのです。石原はこの章でこういいます。自分(石原)がこの書で述べてきた家父長的な理想的父親像は、父親から子へと完璧な形で伝えられるということはない。むしろ、あってはならない、子供はここでいう理想的父親像を手探りで、死に物狂いでつかまなければならない。父親がいつまでも子供の前にあって、「父親」であることを伝授しつくしてしまうとき、もうそれは父親でなくなる。だから父親は夭折することが理想だ、と言うのです。
  ・・・石原は高校生のとき、自分の精神的支柱であった父を不意に失い、自分自身が父親的立場にたたされる苦境にたたされました。放蕩を繰り返す裕次郎は弟というよりむしろ、困惑する新しい父親にとっての「息子」であったということができるのではないでしょうか。裕次郎について正面から描いた「弟」でも、石原の裕次郎への不自然な優しさは相変わらずです。「スパルタ教育」で論理展開される石原の厳しい家父長主義からすれば、裕次郎みたいな男性は最も排撃されてしかるべきでしょう。しかし呆れるほど一貫してそうしていないのは、裕次郎という弟ならぬ「息子」が、なりきれない「父」をいつまでも手探りにさせてくれる観念的装置のようなものだから、なのではないでしょうか。ここに石原という人間のたいへんな複雑さを垣間見ることができるように思われます。
  たとえば、現に、現実的父親としての石原は夭折もしていない。引退もしていない。息子が父親の影に隠れてしまっているという感さえいだくほどに、彼は実は、夭折していない、彼自身の基準からすれば「未完成な父」であり続けています。こうして、石原にとって、裕次郎が一種のイデオロギーであって、裕次郎を描くときに、彼が不意に、裕次郎との「心」の対決を避けるのではないか、ということが考えられるように思います。もしかしたらそれは、石原にとってだけの、外在的イデオロギーなのかもしれません。
   私は石原のそういうところはどうにも好きになれない。けれどこう分析をしてみれば、石原の裕次郎というイデオロギーが、単に真贋の贋を形成するようなものだ、と断定することもできないともいえると思います。福田和也氏をはじめ、多くの人は石原が絶えず時代の寵児でありつづけることの不思議さをいいますが、私は、その不思議さのカラクリの一つとして、裕次郎という石原にとってのみの観念的装置があるのではないだろうか、と私は思います。
  石原にとってのこの裕次郎というイデオロギーめいたものについて、これ以上深入りはできそうにもありません。私は石原裕次郎の世代ではなく、そのすさまじい国民的人気についても基本的に伝聞で知るのみです。裕次郎という社会現象について、膨大な資料に基づいて、いったんはそれを相当深く考察しなければ、最終的に石原の裕次郎という主義の正体は明らかになりそうにもありません。これはあらためて他日の課題になる問題でしょう。

  他方、私が気にかかるのは、福田氏の石原慎太郎論で述べられていた「海」の論理ということについて、福田氏が「陸」の論理という概念をその対極に持ち出して、石原氏はその両極で苦しみつつ、「海」の論理の人である、と繰り返し断じていることです。
  なぜ気にかかるのか。それは私が「国家なる幻影」で私が疑問を感じた、石原の政治活動のスタートにおけるベトナム戦および南ベトナム国家での体験が、いったい石原の「海」の論理とどう結びつくのか、という問題とかかわってくるように思われるからです。ベトナム戦争で受けた精神的影響から、国内での政治的活動を決意するということは、果たして「海」の論理なのでしょうか、それとも「陸」の論理なのでしょうか。つまり、石原の人生の基準から、ベトナムでの体験ということはどう説明できるのでしょうか。
  1960年代後半、多くの知識人がベトナムに渡り、そこでの取材経験を通して、帰国後、政治的活動、その多くは平和主義活動・ベトナム反戦活動に没入するということが繰り返されました。その代表的な人物に、作家の開高健がいます。開高には、この取材活動で、九死に一生を得た体験をもとにしたルポルタージュ「ベトナム戦記」や小説「輝ける闇」などがあります。開高はやがて、小田実らと「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)を結成、旺盛な反戦平和活動を開始することになります。
  吉本隆明は、開高健のこれらの作品について、彼のベトナム反戦運動への傾斜とあわせて、「国外逃亡者」「危険な思想家」として厳しく批判しました。
  吉本の言わんとするところは、開高がやっていることは、戦争が消滅した戦後日本から離れた別の国で、国家間の戦争を第三者的立場で気楽に経験して帰国して、それをどうこう言いながら自分の政治的な立場を決める、というのはなんともおめでたいことだ、ということです。「戦争がない日本」ならば、戦争がないという、深刻な停滞をもたらしつつある文明的状況の段階に日本人として向かいあうこと、そのことで、自分の政治的立場ということを考えるということこそが正しく倫理的な態度ではないか、というのが吉本の主張です。
  この開高よりもっとずっと低俗な例が、先年死去した小田実です。小田はベトナム反戦運動の最大の時代の寵児ともいえる人物といえましょう。開高がベトナム戦争が終わると同時に政治への絶望を彼なりに感じて、政治運動から離脱して一作家活動に戻りましたが、小田の方はベトナム戦争終結後も左翼的言論活動を生涯展開する。「ベトナム反戦屋」が、それをきっかけに教条主義的左翼へと転じる。北朝鮮への卑屈な擁護、ソビエトに肩入れしただけの反核運動、さらには神戸大震災での政府の態度について、ナチスドイツの災害対策の方がはるかにすぐれていた、という支離滅裂な暴言を公然と吐いたりもする。この小田に至っては、ベトナムという海外での他国の戦争が、一種の宗教的体験といえるほどにまで徹底されてしまったいます。小田は繰り返し繰り返し、ベトナム戦争と本土空襲の惨禍を同一視するというようなことを言い続けましたが、「ベトナム」での体験から、政治的自己そのものを喪失し、一生を終えてしまったのです。しかし、小田のような人物は決して少なくなかったのです。
   小田や一時期の開高を見ていて感じるのは、吉本のいうような「亡命」というより、私には、以後、日本の青年に定着してしまったおそるべき「軽さ」ではないか、と思います。
  早い話、ある日、日本のテレビでニュースを観るなり新聞を読むなりで、何処でもいいから世界で戦争がおこなわれるところをチェックし出かける。「壮絶な経験」をその国でしたのち帰国して、それを語りながら何処かしらの政治党派に参画する。この行為の何処に、必然性というものがあるのか。たとえば、開高や小田はなぜベトナムを選んで、同時期ソビエトに進攻弾圧を受けた東ヨーロッパを選ばなかったのか。アジアにおいても、お隣の中国ではチベット問題がすでに顕在化しています。これらを捨ててなぜベトナムに敢えてかかわりをもたなかったのか、ということについて、どうにも根源的説明がつきません。
  にもかからず、開高や小田の組織したベ平連には、鶴見俊輔、久野収、高畠道敏たち第一線の進歩派知識人が広範に集い、一大文化現象の様相を呈するに至ったのです。小田の笑いたくなるくらいの稚拙なアジテーションに、多くの知識人が拍手喝采したのです。ベトナム戦争というのは、このような深刻にマイナスな精神的影響を与えた経験だったということができるでしょう。

  比べて、石原慎太郎のベトナム体験はどのようなものだったのでしょうか。
  彼は当時、日本で一番高い原稿料をとる流行作家でしたが、連載していた小説の関係の読売新聞の派遣という形で、念願だったというベトナムの地に足を踏み入れます。前線にも赴きますが、彼の視点はむしろ、前線から離れた南ベトナム国家の人々の表情に注がれていたようです。ベトナムでの印象を彼はこう表現しています。   

 「・・・(ベトナムからの帰路立ち寄った)ホンコンでの滞在中に足をのばしてみたマカオで一番印象的だったのは、これが国境だという中共軍の番兵の姿だった。運河べりの立ち枯れたススキに似た草むらの向こうにも同じような草が一面にひろがっていて、他には何もなかった。ああこれが共産圏というものか、と私は思いながら、そしてあの愛らしいベトナムもいつかこんなことになるのか、と思った・・・」

 「・・・共産主義という、今になれば懐かしいほど古めいた名の方法論がこの国を支配し、無機的な運命が彼らをおおって、国家と民族が実質的な死を迎える前に私は臨終に立ち会うような気分で、彼らを眺めていたのだ・・・」

                    (「国家なる幻影」)     

  ここで「臨終」という言葉にまず注目するべきでしょう。
  石原は多くのベトナム戦争への知識人と異なり、無内容な平和主義をベトナム経験から思いついたのではなく、強烈な反コミュニズムを感受したようです。開高や小田の文章にあるような北軍のベトコンへの愛情は彼にはほとんどありません。石原は、いずれ北ベトナムに押し潰されてしまうだろう南ベトナムの人間達に執拗な愛着を注ぐのです。しかし、それはどう読んでも自然なものとは思えません。
  コミュニズムがそれを受容した国に対して深刻な文化破壊をもたらすということについて私はもちろん同意します。しかし民族そのものがコミュニズムによって終焉してしまう、という感性は明らかに突出したものだといわざるをえないのです。
  中共国境への感想もどうもおかしい。「運河べりの立ち枯れたススキに似た草むらの向こうにも同じ草が広がっていて、他には何もなかった」という中共の国境内の状態は確かに忌むべきすさんだものですが、それは中国漢民族の国民性の問題、そもそもの後進国性の問題、いろいろ考えてもいいものであるのに、それをすべてコミュニズムのせいと考えています。裏返せばコミュニズムを解き放てば、中国のその景色はたちまち繁栄に満ちたものに姿を変えるとでもいうのでしょうか。
  また、たとえば次のような一節があります。

 「・・・あの国に潜んだ豊穣さを愛して惜しんだ開高健がいろんな作品に描いていたような優れた感性を備え、思いかけぬほどの知識をもち、人生への洞察にもすぐれたような人々に私も数多く出会った。彼らのほとんどは、観念をかざしてはしゃぐことを進歩的と信じている日本の知識人より遥かに魅力的で深いものをもっていた・・・」
  
                    (「国家なる幻影」)

  石原は戦争にさらされているベトナムを、コミュニズムに対してレジスタンスしている悲劇的国家であるというふうに読んでいます。しかしおそらく、石原の言葉はその裏を読まなければならないでしょう。すなわち、コミュニズムによって滅ぶのは(滅ぶ可能性があるのは)実はベトナムではなくて「日本」なのではないでしょうか。石原はベトナムを見ているようで、実は日本を見ている。日本人を改めて愛しているのです。そう考えると、ベトナム人に対して抽象的な愛情表現を繰り返す石原の言葉が急に納得できるものになるのです。
  日本でベトナムの共産化と同じことが起きれば、少なくとも日本の歴史的伝統の中心にある皇室の存在は危機に瀕する、という認識を、多くの日本人は共有しています。共産党支持者でさえおそらくそう思いつつ、いい加減な気持ちで共産党を支持しています。日本において共産党独裁政権と天皇制度が両立することは、厳密には不可能ではないとしても、やはり根源的にありえないことだといっていいでしょう。つまり、ベトナムは共産化によって滅ぶことはないけれども、1500年以上の皇室とともにあった日本は、共産化によって滅ぶ。石原のベトナム経験は、結局のところ、ベトナムを日本と同一化するという錯誤を綺麗に完成して、それを通じて自分の政治的人生をスタートさせるという物語を演じてみせているのです。
  あらためて、石原のこのベトナム経験は石原の生涯を考える上で「海」の物語なのでしょうか、それとも「陸」の物語なのでしょうか。悲劇的国家ベトナムを描く石原の筆致は、少なくとも彼が小説や自伝やエッセイで幾度も描いてきた悲劇的犠牲者を連想させます。石原は実は、ベトナムを「海」の世界の話として描いているのです。安穏とした世界で暮らしつつ際限のない無意味な争いを繰り返す「陸」の世界とは対極な世界のものとして描かれる「海」の世界の人々、それが確かに、石原の世界の真骨頂なのでしょう。
  しかしはっきりいうと、その二元的構図のレトリックは、少なくともベトナムというものを観る視点では、脆い方向にはたらいてしまっているようです。ベトナムは「海」の世界に生きるような純粋な世界ではないのです。ベトナム人の強かさもあるでしょうがしかし、政治や戦争というものがそもそも、そんな純粋なものとは縁もゆかりもないものだから、なのです。ですから、「国家なる幻影」のこのベトナムについての章は、外在的な主義めいたものしかもっていない、最も空虚な章であるように思えてきます。
  石原はたとえば次のような、いかにも平和主義者がいいそうな説教めいたことも言っています。なぜこのような表現をするのかというと、ベトナムという神聖なる「海」の世界に対して、現代日本は俗なる「陸」の世界であるという図式的構図の中に、石原はいったんすっぽり入ってものを考えているからです。こういう表現はいわば「石原流」といって差し支えないように思います。

 「・・・しかしこの他人(他国)の戦争が、実は実質さまざまにわが身にもかかわりあるという実感、とまで言わずともせめての心得くらいはもってしかるべきと一部の識者は説いてはいても、一向にそれを改めぬままこの国(日本)はともかく今までは僥倖にも無難にすませてきたようだが・・・」
                     (「国家なる幻影」)

  ならば、石原は開高や小田と似ていると考えなくてはいけないのでしょうか?再び福田和也氏の「石原慎太郎の季節」をひくと、彼は石原慎太郎について次のように概括的な評価をしています。

  「・・・石原氏の政治家としての幸福は、自分が何を欲するかという「自我集約」が非常な普遍性をもつという自信に由来している。「おれが政治という手法を通じて欲しているものと、非常に多くの大衆が欲しているものはしあわせなことに重なり得る」という時代の寵児として戦後半世紀を生き抜いた石原氏においてもちうるものだったのでしょう」
  「・・・私(福田)は思うのですが、石原慎太郎はどういう男かといえば、23歳のときから、「私は石原慎太郎と申します」ということをいったことのない人間だ、ということです」

                  (「石原慎太郎の季節」)


  要するに、石原というのは、これほどまでに、「時代」ということと一体した人物だった、ということです。言い換えれば、時代が「ベトナム」を要請しているとすれば、それに無理なく溶け込み、そして時代が求める方向に吸収消化することのできる人物である、ということです。
  福田氏は石原の天才性について、「大衆社会の中の非大衆的人物」という表現で、「海」をはじめとする石原の時代と結びつきやすい要素をいろいろと解説しますが、私の考えでは、これは石原という人物の固定的な要素というより、石原が「海」や「父」や「弟」といった、彼が人生の早い時期に身につけた諸要素を使い、時代というものを吸収消化する技術に実に長けている、というふうに表現することが妥当ではないかと思います。
  ですからベトナム戦争という題材を彼は「海」という自分に身についている戦略的ロジックで、巧みに悲劇物語化して、それをいつのまにか、自分の政治的ステップアップにしていってしまうことができてしまうのです。それは彼の父性の未完成についての裕次郎の存在を語るときと同様、彼のほとんど意識していないうちにおこなっていくことのできる彼の実に独特な戦略的な個性だ、といっていいでしょう。ある種優等生的といっていいほど絶えず時代の寵児であり続けることのできる石原のスタイルは、不器用にベトナムに足をとられていってしまった開高や小田と全く対極的なのです。この不思議な戦略性は、確かに稀有な時代的天才だといえるでしょう。
  石原を論じようとすればするほど、時代をリードしながら、時代に埋没できない彼の何かを感じることができます。裕次郎という「弟」につっかかればそこから「父」の思想があらわれ、ベトナムという同時代的経験につっかかればそこに「海」の思想があらわれるというふうに、最も時代的であるとみえるところから、最も時代的でないものがあらわれてくる。私はそれらを、外在的イデオロギーのようなマイナスイメージなものというふうに感じましたが、それは彼の言葉が、言葉の贋物であるということではなく、彼の戦略的ロジックが時々不意にみせてしまう危うさではなかったのでしょうか。
  江藤淳は石原との対談で彼にむかって、「君は文学や政治をやっても何か余ってしまうだろう」となかなか的確なことをいいました。私はこの「何か」の正体を、その危うさだというふうに思います。この「何か」こそが石原の存在根拠であり、私達が幻惑され彼を時代の寵児にし続けているものなのでしょう。それを善しと考えるべきか、悪しと考えるべきか。私にはすぐにその判断をすることはできません。それには彼の全体像をもっと求めたのちでなければならないからです。つまり彼の言葉の世界についての真贋の結論はずっと先送りしなければならず、そしてそうするべきでしょう。
  石原にはさらに、「肉体」というこれまた実に厄介な問題があります。今までの論考では、石原の正体を明らかにしたことには実はほとんどなりません。「肉体」ということにもまた、江藤の曰くの「余ってしまうもの」が驚くほどいろいろと見え隠れするのです。次回以降はこの石原の「肉体」の問題について論考していきたいと考えています。


  
 
  





   


    
  


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「政治的指導者」とは何か

「政治的指導者」とは何か・・・「戦争」と「平和」を巡る断章Ⅱ


   家康の天下統一・政権獲得のプロセスを少し斜めから追ってみると、二人の「凡庸な人物」がそれぞれ別の形で大きくかかわっているように思えます。一人は関ヶ原の合戦において、彼に勝利をもたらす決定要因をもたらしてくれた小早川秀秋であり、もう一人は、彼の統一事業を愚直に受け継いだ後継者である息子の秀忠です。秀秋と秀忠、この二人の「凡庸な人物と家康のかかわりを追えば追うほど、家康という人間のずば抜けた「非凡さ」をあますところなく証ししているということができるように、私には思われます。
   私達は「凡庸な人物」を「凡庸な人物」の次元でしかとられられない思考法に陥りがちです。これは天才を天才の次元でしかとらえられない、ということと表裏一体です。戦国時代において他に例をさがしてみると、会田雄次さんの「敗者の条件」に、今川氏真という、歴史上、全くゼロ評価を受けている人物に焦点があてられています。今川氏真は私達がよく知っている「凡庸な人物」の代表例といえます。
   言うまでもなく氏真は今川義元の息子なのですが、信長に討たれてしまった父の義元の芸術的性格のみを受け継いでしまった氏真の、その後の不思議な物語は、果たして悲劇的なものなのか、喜劇的なものなのか、これはなかなか判定できないところがあります。
   義元の死によって一時的に打撃を受けたとはいえ、実は今川家の軍事力と経済力は無傷に近く、いくらでも再建と反攻が可能だった。今川家の傘下にあった若き家康(松平元康)は、信長への反抗を諫言するけれど、家康はとうとうあきらめて、信長についてしまいます。いっさいの政治的状況に無頓着のまま、氏真は足利義政を模範とするかのような、風流の道を選択し、今川家はたちまち衰弱滅亡し、10年とたたぬうちに、今川家はおろか、氏真の消息も行方不明になってしまう。時は流れ、秀吉の天下の時代になり、秀吉と家康が京の街を視察散策していると、家康の耳になんとなく懐かしい、琴の音が聞こえてくる。その琴の音は、この世のものとはいえないほどの美しさで、果たしてこれほどの名手は古今東西いないだろう、というほどです。褒美をとらそうと思いその人物を連れてこさせたとき、秀吉も家康も驚愕してしまう。その音を奏でる琴の音の持ち主、それは流浪者の身に成り果てた氏真であった・・・という話です。
    家康と氏真の再会の話は、物語伝承化されてしまっている面もなきにしもあらずでしょうが、家康が関東転封以降、小規模ながら今川家を再建させたのは歴史的事実で、家康は人質に出されていたとはいえ、家康らしい巧みな気配りで、品川家と名前を変えさせて氏真を住まわせたのですが、それはともかくとして、会田さんが伝えるこのエピソードは、いくつかのことを私に考えさせます。
    これは悲劇なのか喜劇なのか。たとえばこういう比喩は安易かもしれませんが、今川家を現代の大企業家や政治家と考え、その家系に、その家系が求める能力とは別個の能力を有した天才的芸術家が現れ、あくまで我を通して、その道を極めようとした、という話は、私達の常識からすると、どちらかといえば美談の類に入るといえます。時代差を認識できなかっただけなのでしょうか。
    前近代社会にせよ近代社会にせよ、自分の能力とおかれている状況の「ずれ」に苦しんでしまう人間はいます。しかしそのすべてが「ずれ」たまま、というわけでもありません。たとえば、凡庸な人物でありながら、時代状況のキャスティングボードを握ったり、あるいは時代の趨勢を担う人物になることはある。そこに「凡庸な人物」を巡る歴史の大きな逆説があるのだ、ということができます。氏真が「凡庸な人物」として、歴史的人物としては転落を遂げてしまったのは、彼の政治的凡庸さを引き出したり利用したりする非凡さが、状況に欠如していたことを意味するのではないでしょうか。氏真の物語は、彼の才能や存在が時代差の賜物だった、ということではなくて、彼の存在、とりわけ政治的な凡庸さを、非凡な結果へと作り変えてしまえるような第三者の存在が認められない、つまり氏真の存在の孤独さ、凡庸な人物が凡庸な人物として終わってしまったということに求められるのではないでしょうか。喜劇か悲劇かということならば、それはある種の悲劇であったといわなければならないように思われます。
   話を秀秋と秀忠に戻しましょう。
   今川氏真は歴史的人物・・・キャスティングボードを握った人物という意味での歴史的人物・・・ではないですけれど、この両者、秀秋と秀忠はその氏真と明らかに違い間違いなく、日本史の展開の重要局面にいて、重大な決断や判断をくださなければならない立場にいた人物といっていいでしょう。
   いうまでもなく、関ヶ原の合戦で、秀秋が約束通り裏切るかどうかの決断は、その後の歴史的方向を明らかに左右しています。秀秋の裏切り行為がなくても、徳川家が滅びるというところまではいかないでしょうが、少なくとも、すんなりと江戸幕府が出現したとはとうていいえない。秀秋にはその意味は皆目見当がつかない。秀秋という人物は、秀吉の正妻であったねね(北政所)の甥にあたる人物で、当初は秀吉の養子に迎えられる予定の人物でした。これは秀吉の甥の秀次も同様なのですが、秀頼の急な誕生により、秀次は粛清され、秀秋は小早川家に養子に送られます。
   多くの歴史風評は秀秋を愚昧な人物と言いますが、歴史作家の童門冬二さんは、その風評が間違いであるとし、「神童」とさえ言われている子供だったと指摘しました。しかし「神童」が政治的能力をもっているとは限らない、とも童門さんは言います。政治的「神童」ではなかった秀秋は、10代にして、豊臣家の激しい後継者争いに巻き込まれる中で情緒不安定に陥ったのだ、つまり政治的能力が育成される前に、精神的混乱に直面してしまったのだ、というのが童門さんの指摘です。なるほどと思わせるものです。いわゆる「神童」が、凡庸な人物に転落するということは歴史上も、私達の日常的現実においても多々見られることですが、どんなことでも易々と飛び越えてきた天才的人物がハードルを踏み外し、不意に凡庸な人物のレッテルをはられてしまうのは、政治の世界への跳躍の場合が最も多いのではないだろうか、と私には思えてきます。こうして関ヶ原の当日、神童から凡庸に不意に転落した21歳の彼が、歴史的な場面を迎えることになるわけです。
  ここにおいて、「天才」と「凡庸」の不思議な交流が始まることになります。千里眼の如き人物眼を養ってきた家康の眼には、秀秋の性格も、秀秋の決断がもたらす意味も、わかりすぎるくらいわかっているのです。秀秋の臆病に期待しなければならない。凡庸な人間は、たとえ歴史的雰囲気が頂点に到達しているような場面にあっても、その雰囲気とのかかわりをもつことができないという、何かしらの関係性の欠如ということによって、凡庸たりうるのです。家康は、催促の鉄砲の一斉射撃を秀秋の陣に撃ち込むという、この歴史的場面に相応しくない「凡庸な人間」をコントロールするにふさわしい、実に歴史的場面にふさわしくない凡庸な脅迫的行動をあえて選択した、ということなのではないでしょうか。
   東西両軍のどちらが勝つかを臆病で情緒不安定に眺める秀秋に対しては、大義名分はもちろんのこと、もはや恩賞約束の再確認も、もしかしたら、どちらの形成が有利だ、ということもわからなくなっている可能性が高い。西軍の総大将の石田三成は、戦場での法的ルールである狼煙をあげさせて催促したり、ギリギリの状況下で、側近に「金吾殿(秀秋)は今こそ、行動を起こすべきだろう」などと美的な正論をいう「相応しい行為」を行ない続けています。三成の行動は家康と全く対称的で、秀秋への扱い方の相違が、関ヶ原の合戦の結着を左右した、ということができるでしょう。エリート官僚的な、能臣だが政治家ではない三成には、「凡庸な人間」への扱い方が、どうしてもわからない。人間そのものを観る目は欠如してしまっている、としたら、言いすぎでしょうか。「凡庸な人物」というのは、利益利害にさえ左右されない不安定な存在である、ということを、三成は理解しない。いっさいの政治的能力がないのですから、政治的方法以外しか通用しない、ということを、考えなければならないのです。ですから実は石田三成こそ、典型的な「凡庸な人物」という考え方もできます。
   「凡庸な人物」というのはイコール無能ということではない。多才であるにもかかわらず、政治的能力という難しい能力が欠如している人間のことを言うのであって、抜群の能臣であった三成が家康に破れたのは、石高や軍事力の差異ではなく、三成のただ一面の「凡庸さ」を引き出した、これまた巧みな、家康の「凡庸」へのコントロールがゆえ、ということができましょう。
   後継者の任免としても、家康は、能力的には軍事的政治的に秀でていた次男の秀康と、全く凡庸だけれども愚直であった三男の秀忠の両者を比べ、秀忠を選択しますが、これにしても、巨大な統治システムが完成しつつあった時代状況では、むしろそのシステムに追随するようなリーダーが相応しい、という判断があったから、というべきでしょう。秀忠は小早川秀秋のような精神不安定ではありませんでしたが、政治的に無能であることは全く共通です。しかしシステムが優先する時代は、指導者はむしろ凡庸な人物の方が好ましい、という歴史的逆説に家康はきちんと気づいていたわけです。「凡庸な政治家」自体が政治的悪なのではなく、「凡庸な政治家」を操作できない、介在すべき何かの欠如こそが悪なのだ、ということです。
   こうして家康という人間が使いこなした「凡庸な人間」の扱い方の妙が戦国時代の終焉と江戸時代の始まりを演出することになりました。今川氏真の悲劇を若き日において心得ていたことも、決して無駄な経験であったわけではないでしょう。家康をしたたかという評論は多いですが、私はこの「凡庸」さに対しての介在すべき何か、という知性、役回りということを意識していたことが、家康の凄味であったのではないだろうか、とさえ思います。
    少し長い前置きになってしまいましたが、第二次大戦にかかわる日本の指導者論の多くが、この「凡庸な人物」の責任をめぐり色々と展開されている、という議論の場にいる度に、私はどうしてもこうした、戦国時代の、「凡庸な人物」達のエピソードを思い浮かべてしまうということを言いたいと思います。繰り返しになってしまいますが、「凡庸な人物」は、決して人間全体が凡庸なのではない。状況とのかかわり、かかわりのなさによって、「凡庸」にされてしまう。そして、凡庸さが凡庸さの次元に閉じ込められてしまうときに、氏真のような悲劇になり、凡庸さをコントロールする知性の支配が及ぶとき、秀秋のように思いもがけない歴史的決断をさせられてしまったり、秀忠のように、政治的指導者としてそつなく業績を残すことがありうる、ということになる。そういうふうに、少し斜めに視野を広げて、凡庸か非凡かということを、政治的談義としておこなうべきではないか、と私は考えたいと思います。
     よく流通している歴史談義ですが、明治期の日清・日露戦争の頃は明治維新を成し遂げた人物が残存しており、戦争指導も戦争設計も巧妙であったが、比べて、第二次大戦の頃の日本にはそうした指導者がほとんどいなかった、といわれる。司馬遼太郎さんの歴史観に追随する人達が言いそうなことで、それは間違いなく一面の真実でしょうが、凡庸な指導者に歴史的責任があった、という論は、同時に、その指導者の周囲の政界や国民に、凡庸な指導者を使いこなせるくらいの確固たる知性やシステムが不在であった、ということを意味しているという面もある、と考えるべきではないか。私はそう思いました。凡庸さと非凡さ、この境を思考実験として考えさせる、近代史における大いなる人物の一人をここであげることができるように思います。
    昨年の終戦の日の周辺、テレビや新聞の繰り返された戦争特集で、東条英機氏のご遺族の方々が、スクリーンや紙面に繰り返し登場しました。今年の参院選は、ご遺族の一人が選挙にも出馬されました。すべて、彼がA級戦犯の筆頭ということ、と同時に、戦争突入の責任者だった、ということに起因し、それに対しての賛否ということがこれらの事態を引き起こしているといえるでしょうが、私としてみると、従来的な「東条=悪」論というのは、もはや旧説化といっていいくらいの稚拙な見解であると思います。東条氏のご遺族をあえて出すことによって、その旧説が復活したようにもみえなかったし、しかし逆に「東条=悪」論が決定的に否定された、ということもいえないような何かの奇妙さが「東条さんの復権」を巡る騒ぎにあったように私の目には映りました。東条さんのイメージが逆に掴みづらくなった、と考えるのは私だけでしょうか。東条さんの責任論を言うだけで、戦争指導者としての東条さんの実体があまり議論されていない。実はそのことが、「東条さんの復権」を巡っての騒ぎの本質ではなかったのだろうか、と私は考えています。
    「東条=悪」論が旧説化しているということは、「A級戦犯」という概念そのものが連合国側のフィクションであるという面がどうやら国民的コンセンサスとして認識されつつあるという気配、そして「A級戦犯」という概念の成立をもし認めたとしても、東条氏と同等かそれ以上の責任のある人物である近衛文麿(逮捕直前に自殺)や松岡洋右(裁判開始直後に病死)などの諸氏が東京裁判では不在で、その不在の分、東条氏に非難が重くのしかかっている不公平さの面が認識されつつあるということが、大きくその背景にあるといえるでしょう。彼の責任を追及するといっても「責任」そのものが法的に不成立であり、さらに、「責任者」が公平に裁判に登場していない、ということです。
    ですから、中国や韓国が言うような東条批判は、問題外であるといえるでしょう。そもそも、韓国(朝鮮)は1910年に併合されたのですから、「責任」を追及すべきなら伊藤博文など明治時代の政治的指導者を追及すべきであり、また二次大戦時の中国政府は元台湾政権の中華民国で、1949年に成立した中華人民共和国(共産党)とは敵対関係にあったのですから、当時の日本の指導者は「敵の敵」の指導者として把握するのが、論理的である、ということになる。つまり、A級戦犯というのはどう考えても連合国の虚構であるのですが、韓国も中国(中華人民共和国)も、その連合国の一員でもないのに、虚構を言う虚偽に参画しているという二重の虚偽の上に、彼らの東条批判は存在しているといわなければなりません。付け加えれば、1937年に開始した日中戦争を不必要に長期化させたのは近衛内閣で、東条内閣には何も関係はありません。陸相ですらありません。にもかかわらず、韓国でも中国でも、東条氏を悪の根本のように相変わらず政治宣伝している。「悪」が成立せず、「悪」としても他人物の「悪」を背負わされている、ということを明らかにすれば、東条氏は二重に免責される、ということが、東条氏について語るときのスタートライン的前提というべきでしょう。しかしここに至る道は長く、その意味で、ご遺族の心中に同情するということは私は正しいと思います。
    しかし、A級戦犯的な「悪」論は否定できるとしても、もう一つの「悪」論の可能性、つまり、「敗戦」ということについての責任はあるのかどうか、という問題に関しての議論の余地については私達はこれからも東条英機の歴史的意味を真剣に考えなければならない、といえます。つまり「刑事責任」「法的責任」という意味での責任ではなく、「政治的誤判断」としての責任という意味において、東条氏は免責されるのかどうか。
    東条さんを正面から描いた映画「プライド」のある場面をかりれば、東京裁判の弁護士接見で、「東条さん、あなたは日本人と日本民族に対しては有罪です、しかし貴方を起訴する外国に対しては有罪ではない、だからたとえ死刑が確実でも、この裁判を闘いましょう」という清瀬弁護人の言葉の前段に言う「有罪」の意味はいったい何か、ということです。日本人や日本民族にとって「有罪」であるということを判決するのは日本人や日本民族である私達に他ならない。実は清瀬弁護士の表現には考え抜かなければならない曖昧なものが感じられます。東条内閣と戦争突入時の日本の事情のかかわりを考察すると、「凡庸な人間」を操作する知性やシステムの不在としての日本の政治性のなさ、ということが、いろいろと見えてくるように私には思えます。「指導者が不足している」ということと、「指導者を操る術の不足」の関係ということですが、これは当時の日本に限られた話なのではなく、実は現代の日本政治にもかかわってくる可能性のある話なのではないか、と考えることができるように思えます。
     ここで東条英機という人間が、官僚組織の幹部という世界から、「政治」のただ中へと巻き込まれていった当時の歴史的経緯を少し整理してみることにしましょう。
     彼が首相に任命されたのは、日米戦突入のわずか一月半前であり(昭和16年10月17日)対アメリカ交渉は既に決裂寸前の状況でした。ここまでの国際政治的状況の悪化を招いたのは東条内閣以前の内閣の責任、とりわけ近衛文麿(内閣)首相の責任が圧倒的に大きい。もちろん第二次・第三次近衛内閣の陸相としてそれまで約一年、陸軍の対アメリカ強硬論と対ドイツ提携論を主張した東条の責任はあるのでしょうが、それならば、他の陸軍首脳も変わりなく責任があるはずです。この意味において、彼が特に重大な責任を負っていたとは考えられない。たとえばのちに終戦工作で非常な存在を示す、多くの歴史家にとって敬愛すべき阿南惟幾も、この時期、陸軍首脳として、ドイツとの同盟を強く主張しています。もちろんここでいう「責任」の意味は政治的誤判断ということにかかわる意味での責任ということですが、東条一人が政治的誤判断を誘導したり、あるいはそれに追随していたとはとうてい考えられないといえるでしょう。
    士官学校時代から陸相にいたるまでの東条という人物を追ってみえてくる人間像は、福田和也さんの言葉を借りれば、「日本的組織で人望を集める典型的人物」です。今なお、このタイプの人間はいろんなところに見受けられることができ、そして私達日本人の好感を自然に招くということができます。
   天才的直観をもった秀才とはいえないけれど、大変勤勉な勉強家である。しかしその勉強量はきわめて知識的なもので、深い見識を養うものではなかった、といえます。マイナス的に言えば、天才肌の石原莞爾の東条への有名な悪口にいわく、「見識なき東条上等兵」ということになるのでしょう。もっとも、軍人あるいは官僚が独創性を発揮することは近代国家としては好ましいことではないことですから、その意味では石原より東条の方が、軍人らしい軍人、ということもできます。独創的思想家・宗教家のタイプの石原が、歴史上は人気者であっても、もし現在、たとえば自衛隊の組織の中にいたとすれば、私達にはあまり歓迎はされないでしょう。日本人の特性といっていいのかどうかはわかりませんが、軍人らしい軍人、つまるところは役人らしい役人、が好まれる傾向にあるのが日本人の穏当さです。東条という人間を観察するときに、「役人らしい役人」という人生のコース、人間性形成のコースを歩んだ典型的な人間であるというふうにみえる。いうまでもなく、ヒトラーやスターリンのような、革命家的な人生、極端な外れものの人生とは全く対極的な人間であるということができるでしょう。
   当然、満州事変以来、石原自身の意志に反して悪流行してしまった陸軍内の独断専行は東条の最も嫌うところで、2・26事件では、統制派としての派閥意識もあったでしょうが、満州にいた東条は、東京にいた石原以上に、反乱軍討伐派の急先鋒でした。東条が酒色に深入りした気配は皆無で(酒を飲むときは、これ以上飲まないようにと瓶にペンで記しをつけていたというエピソードは有名です)面倒見や気配りには非常に長け、知人の困窮に関しては工面に奔走するなどして部下や近所人に人気があり、家族愛も実に深い人間である。首相在任時、恩寵金を自分の懐に少しも入れず細かく計算して官邸職員にお裾わけしたり、一般家庭のゴミ箱を自ら調べて、配給食料がきちんと行き届いているかどうかを調査把握するところなど、真面目で几帳面な、彼の人物像を伝えるエピソードはたくさんあります。
   しかし長所は同時に欠点でもある。彼はたいへん小心なところがあり、しかも自分の小心を全くコントロールできない面があって、敵対的な派閥や人物の存在を考えると、たちまちいてもたってもいられなくなる。これが実に彼の細やかな気の使い方の裏返しなのです。有名なのは陸軍内のライバルである石原莞爾への苛立ちで、石原の話が出ただけで、彼は何も仕事できないほどに苛立ってしまう。これがのちの、首相時の憲兵隊政治をおこなう精神的な源になってしまったといえるかもしれません。ここにまず一つ、東条という人間の重大な政治的欠点が現れています。
   「情報」を、国家的必要の次元で理解できず、個人的感情の段階でしか理解処理できない。自分への批判が、自分が忠誠を抱く国家の批判と同じに考えてしまう、というのは、軍や団体の指導者としては許容されることであっても、国家指導者としては、ほとんど失格というべきでしょう。東条の憲兵隊政治に関しては彼が一時期、出世コースからはずれて憲兵隊畑にいたことを原因とする説明も少なくありませんが、やはり彼の性格によるものが大きい、といわざるを得ない面があります。こういう人間が国家的指導者になったときに、憲兵隊のような情報組織が、私兵化してしまう必然性があるといるでしょう。情報組織の私兵化というのは、国家組織としてはほとんど致命的な現象だ、といわざるをえないでしょう。
    トータルに考えれば、東条のような人間は、とくに、アメリカとの戦争を目前にした状況では、最も不向きな指導者的人物であるように考えるのが常識的です。いくら大戦前夜の日本に政治的能力の高い人間が少なくなっていたからといって、この東条の政治的能力の欠如を多くの政府上層部が正確に認識していました。東条自身も、東条自身が首相指名に一番驚いたといわれるように、首相の座を狙っていたわけではありません。それでは、対アメリカ交渉が決裂寸前までいったところで無責任に内閣を投げ出した近衛(何度も繰り返しますが、彼こそが最大の責任者です)に代わり、なぜ明らかに政治家としては「凡庸な人物」である東条が後継首相に選ばれたのでしょうか。
    政治史上の異説として、陸軍青年将校が東条を担ぎ上げるべく暗躍した、という説もありますが、やはり通説通り、木戸幸一内大臣が慣習法を無視して東条を後継首相として単独推薦して既成事実にしてしまった、というのが正しいでしょう。首相選択は重臣会議の推挙によるものということでしたが、天皇の最側近である木戸はこのときだけ、その慣習に従いませんでした。後継首相について、重臣や政府の大勢は、穏健派で親アメリカ的な東久邇宮稔彦(戦後、首相)を後継に考えており、そのことで対アメリカ交渉の再建を考えていたのですが、木戸はあえてそれを拒否する。このとき東条を選んだ木戸の心情に関して、戦後も木戸が多くを語ることなく逝去したため、昭和史最大のミステリーの一つになっています。
    このミステリーは木戸という人間の思想が推し量りがたいので、いろいろな推測が可能です。木戸という人間は、穏健な保守的自由主義者とはとうていいえない人物ですが、しかしガチガチのナショナリストや、時局に便乗した統制主義者といえるかというと、そうでもない。大体、近衛くらいのレベルの、それほど定見をもたない、長袖者的な貴族政治家というのが妥当なとことでしょう。しかし優柔不断な近衛と決定的に異なるのは、一度決断すると、政治的策謀を強行におしすすめる策士の面をもっている、というところです。開戦に際しての彼の謎めいた行動とともに、終戦工作において、鈴木内閣と提携した彼のスピーディーな和平工作への動きは、近衛の歯がゆさとは全く対照的です。その木戸が、このとき、たった一人、東条を選択するという行動に出たのはなぜか、というふうに考えなくてはいけないでしょう。
    木戸を主戦派(対米戦争突入派)と考えるか、戦争回避派と考えるかで、違う結論が政治史学で議論されています。木戸を対米戦争突入派と考えた場合、主戦論の陸軍を代表する東条なら踏み切れると木戸は判断した、と考える。対して木戸を、対米戦回避派と考えた場合、東条は昭和天皇の命に非常に忠実な人間なので、回避派であった昭和天皇の意に従い、同時に陸軍を抑えられる人物でもあるので、アメリカ交渉を再開できると考えた、となる。しかしそのいずれも私には図式的であるように思えます。
    これに対し、政治学者の中西輝政氏がそのどちらでもない、非常に面白い説を唱えています。木戸は戦争突入前のこの段階ですでに、今回の戦争は突入しても敗色が濃厚である、と判断し、「敗戦後」を想定し、首相認定をおこなった、とします。戦後の皇室の戦争責任を回避するには皇族出身の東久邇宮や天皇側近の近衛では危険な選択であり、陸軍に全部の責任を負わせるために東条を選択した、という説です。木戸という人間を「思想」から離れて人間的にみると、明治元勲(木戸孝充)の孫という自負と、昭和天皇の最側近という自負をプラスアルファしていた人間というふうにもとらえることができます。この説の拠るところは、彼の関心は皇室の安泰ということのみに注がれていたということにあります。木戸のことを単なる主戦派とは考えないこの説は、たいへん魅力的な考え方ということができるように思います。
    ここで、東条という人間の人物が再び問題になってくる。昭和天皇の崩御の後に公開された、昭和天皇自身の最も自由な論といわれる独白録は、終戦直後に記録されたものですが、昭和天皇の人物眼を知る上で、非常に興味深いものです。この独白録の内容については、資料性を疑問視する向きもありますが、昭和天皇の生き生きとした息遣いが感じられるもので、昭和天皇の自由な意思に基づいた記録であることは間違いないように思われます。注意すべきこと、現代の日本人がきちんと読まなければならないことは、昭和天皇という人間が、表面的な公平さの裏で、人間の性格の好き嫌いを非常に強くもっている方だった、ということでしょう。
   たとえば昭和天皇は戦前から終戦後にいたるまで、東条を非常に信用していたことが繰り返し述べられている。天皇は東条以外に海軍の米内光政にも、飛びぬけて大きい信頼をおいていることです。米内と東条は世界観を正反対にする人物であると考えるのが歴史上、一般的見解ですが、にもかかわらず両者が昭和天皇に絶対といっていいほどに評価されていたのは、この二人には、どんなことでも隠し事なく天皇に報告する愚直さ・素直さという面で、非常に共通する面があったということに他なりません。昭和天皇は情報が正確に伝えられてこない孤立感、そして繰り返される陸軍の謀略的な軍事行動に、絶えず悩みや怒りを感じていたといわれますが、それは陸軍組織に対してだけでなく、自分の周囲の人間にも絶えず向けられていました。そういう陸軍への不信感に対照的に、東条や米内への信頼感は、実に人間的な、心からのものであったということができるでしょう。敗戦直後、の東条バッシングの嵐の中で、昭和天皇が、それら世論とは全く違う見解をもっていたことだけは確かだといえそうです。
   この昭和天皇の戦後直後の東条観に加え、その後、東京裁判で、昭和天皇不起訴の為に身命を尽くした東条の姿を聡明な昭和天皇はわかりすぎるくらいわかっているはずですから、最近一部のマスコミで安直に言われるような昭和天皇のA級戦犯不信論は、こと東条に関しては絶対にありえないというべきでしょう。
   陸相時代から首相にかけての東条の天皇への報告に関しては「東条さんの内奏癖」と陰口を叩かれるほど頻繁で、しかも記憶力がよく鋭い質問を投げかける天皇の内心に充分配慮して、いつもしっかりと緻密に勉強してから報告に来るので、知的な天皇の評価は非常に高かったわけです。反面、昭和天皇が否定的評価をくだしている人物は石原莞爾、宇垣一茂、平沼騏一郎、松岡洋右といった諸氏ですが、とりわけ松岡に関しては、天皇への直接連絡もないまま、外交的にたえず策謀を弄する人間としてとられられており、「松岡という男はヒトラーに買収されたのではないか」とまで、断じられています。松岡と東条は満州時代や近衛内閣の閣僚時代、一時期親密に行動していた、歴史的にはほぼ同じ思想の持ち主といっていい人物ですが、しかし昭和天皇にとっては全く正反対の評価を受けている人物です。宇垣一茂にしても、陸軍の実力者にしては珍しい英米派的な政治的立場の持ち主で、結局総理にはなれませんでしたが、終戦に至るまで、戦争回避派や講和派に幾度となく首班に担ぎ出されかかった人物です。思想的立場からいえば先述の米内とほぼ同等の人物であるにもかかわらず、昭和天皇からは腹黒さや策謀を好むタイプと映ったため、「昭和天皇独白録」では昭和天皇は宇垣に関して、非常に低い評価を与えています。
   昭和天皇にとっては、思想信条の左右はあまり問題でなく、自分とのかかわりにおいて正直であるかどうか、が何より問題になるわけです。この昭和天皇の政治家観は、戦後の各首相観に対しても全く一貫しており、内奏による細かい報告繰り返す吉田茂や佐藤栄作に親近感が強く、反面、独断専行的なイメージを感じさせる田中角栄に対してはかなりの距離感を感じていたといわれています。もちろん昭和天皇の好悪がすべてではないですが、昭和天皇の「良識」を近代日本における最善のものの一つと考える以上、それを無視することはできず、また参考にしなければならないといえるでしょう。
   この東条が組閣後、「苦しい段階とは思うが、なお最善を尽くして戦争を回避せよ」と言う昭和天皇の苦渋に満ちた言葉の意味を理解し、すでに完全に戦争突入論に傾斜していた陸軍と世論に反し、対アメリカ交渉を軌道に乗せようとしたことは、外相に、硬骨な英米派の代表的人物である東郷茂徳を起用したことに、まず最大に明白であるといえましょう。もし東条がただちに戦争突入を謀るのなら、松岡洋右や、イエスマン的な広田弘毅を起用した方が、全然話はスムーズに進むはずです。戦争突入を最終決定したアメリカ側のハル・ノートの提示まで、東条は、昭和天皇の言葉に心底うちふるえて、「穏健派」として振るまったことはただこのことだけでも、間違いないといえる。事実、東郷外相や側近の回想でも、東条は親ドイツ・反英米派だった首相就任前とは別人のように、気が狂ったのではないかと思えるくらい、外交交渉に奔走しています。
    アメリカ側が拒否した日本側の妥協案の甲案・乙案にしても、これで妥協が成立すれば、当時の日本の過熱化した世論からすれば、暴動がおきかねない内容といえます。世論はむしろ東条に苛立ちを感じていたとさえいえるでしょう。最悪化する対米世論に加えて、日本を戦争になんとしてもひっぱりこみたいというアメリカ側の挑発の真意を見抜いている東郷外相が、甲案・乙案提示に際して「これだけ妥協しても戦争回避の可能性は1割がせいぜい」と言ったとき、東条は「いや、4割の可能性はある。信じている」と真剣な表情で言ったそうですが、確かにこんなことを言う東条は、陸相時代の東条とは完全に別の人物といえます。本当は別の人物でなく、典型的な役人らしい役人、そして最も忠義心に厚い人物という人間の同じ面を示していたにすぎないのですが、少なくともいえることは、おそらく他のどんな首相人選でも、この場において、東条をこえた努力はできなかった、といえましょう。
    言い換えればどんな人選をしても、この段階では戦争回避は難しかったのであり、もし、木戸が、回避派であったとしたら、東条選択の人選は正しかったといえます。公平にみて、開戦にいたるまで、東条に政治的誤判断は存在しておらず、「責任」も存在していない、といえるでしょう。東条という、政治的に「凡庸な人間」を操作し非常時の首相に選択した木戸の判断は実に正しかったといえるでしょう。
     しかし木戸の慧眼はここまでしか行き届かなかったといえましょう。戦争に突入し、緒戦に大勝した段階で、東条の政治的欠陥が顕になります。日本の戦勝の形は外交交渉による判定勝ちしかありえない。それが日清戦争・日露戦争の日本の歴史的教訓なのですが、世界の戦争の方法は、第一次世界大戦で、絶滅戦争=無条件降伏の獲得へと移行しています。この戦争に本格的参加をしていない日本には、戦争設定が二次大戦向けできない宿命を背負わざるをえない。
    ところが東条は、二次大戦的な戦争設計はもちろんのこと、旧来的な判定勝ちへのもちこみの方法も、ほとんど配慮ができない。戦争の継続を、戦闘の継続としか把握できていない。端的に言えば、優勢な段階(ミッドウェー海戦まで)あるいは互角な段階(ガダルカナル)までに、矢継ぎ早に、外交的策略を弄する必要があった、ということです。東条はそういう策略ができない人間であるだけでなく、非常に嫌い排除する人間でした。せっかく起用した東郷外相も、戦争突入して一年経たずに、東条との閣内衝突(大東亜省設置を巡る問題対立)であっさり解任されています。戦争が外交策略までを含んだ広範な戦争設計である、という面を、東条内閣は全く認識できていなかったことは間違いない事実です。この戦争設計の欠如こそ、東条の戦争指導の欠如の最たるものだった、といえましょう。そして東条のこの側面を見抜けなかった木戸の眼力は、家康の天才的な慧眼には及ぶべくもないものであった、といわなければならないでしょう。木戸にしてみれば戦勝という結論に至ろうが敗戦という結論に至ろうがどちらでも、天皇と皇室の安全が図れればいいのですから、戦争を終わらせる工作の能力の欠如した東条の政治性のなさは、致命的なことなのです。
    東条は次第に増してくる反対派を憲兵隊で監視する、という方法論を採用したため、たちまち人気を失う。東条反対派の中には「反対」でなく、良心的な批評も少なくなかったのですが、東条のは「責任的立場にないものは、意見を言うことも許されない」という官僚主義を徹底してしまいます。この憲兵隊への直接指揮が、東条の不人気を致命的なものにしたのか知れません。ごく一部の人間が監視されていた戦前と違い、非常に多数の人間に監視が敷かれるという状況に、日本人は全然耐えられなくなってしまいました。東条の憲兵隊政治など、ドイツのゲシュタボの数百分の一くらいのものですが、それすら、日本人には耐えられない。所詮、日本人の全体主義への憧れなど見せかけだけで、日本はナチス型の国家などできないという、一つのいい証拠なのですが、中野正剛、大川周明、平沼騏一郎といった典型的な右翼指導者までが、またたくまに反東条と化したところに、東条の戦争指導の世論とのあまりのずれが、はっきりと現れているといえましょう。
    東条が憲兵隊に命じて監視下に置いた人物は、公然と東条内閣に反旗を翻した中野正剛だけでなく、旧来のライバルである石原莞爾、さらに穏健な保守主義者である岡田啓介、鈴木貫太郎、吉田茂など広範に及んでいます。彼らはすべて熱烈な愛国者であり、戦後本格的に政治家の人生をスタートをした吉田茂を除けば、国民的人気を有していた人物ばかりでした。このことから歴史学者の秦郁彦氏は、たとえ東京裁判が存在せず、日本が早い段階で巧妙に講和し陸海軍や帝国憲法体制が残存した「戦後」であっても、東条がその甚だしい職権濫用によって、軍法会議あるいは国民裁判にかけられることは避けられかった、と指摘していますが、これは一理ある意見だといえましょう。
    戦局が有利な段階では目立たなかったのですが、陸海軍が互いの手のうちを見せあわないという分裂状況に陥ったときも、東条は有効な手をほとんどうつことをしませんでした。皮肉な言い方ですが、もし東条が「独裁者」的であったなら、強引な粛清をして、陸海軍を一体化した「国防軍」へのスムーズな統合ができたはずなのです。戦局が劣勢・守勢に転じてからも、陸海軍間は情報交換すらままならない状態で、結果論的に防ぐことのできた作戦上の失策があまりにも多すぎた、といわざるをえません。飛行機生産などでも、陸海軍の割り当ての凄まじい言い争いが、毎月のように繰り返されるけれど、東条はこういう意見をねじ伏せるということはしない。一見すると不能率に見えるアメリカ・イギリスのようなデモクラシー国家が、実に能率的な管理システムをもっており、また正真正銘の全体主義的独裁者国家であるドイツ・ソ連が、独裁者を中心とした統帥システムを完成していたのに比べ、日本はまこと中途半端な戦争体制しかもっていなかったのですが、その中途半端なまま、戦争の時間は推移していってしまう。その無為な時間の推移にもまた、東条の責任があるといわざるをないでしょう。システムを合理化したり破壊したりすることは、東条という官僚的人間の権化のよような人物にとって、最も不得手な行為に他なりません。実に逆説的な言い方ですが、東条が独裁者的でなかったことにこそ、東条の「責任」が存在する、といわなければならないのです。
    もちろん、東条が能力を発揮した面もないわけではありませんが、それがいかにも彼らしい発揮の仕方でした。1943年11月に戦時下の東京で開催された大東亜会議で、形式的に独立させたアジア各国首脳への配慮、会議の運営に関して、東条の手腕はいかんなく発揮されています。ビルマ代表のバー・モウや、自由インド代表のチャンドラ・ボースなどは、滞在中の生活や会議の場での彼らの面子の尊重という面における東条の親切丁寧に、深く感動したといわれています。毎日、会議開始前遥か前の時間に首相の東条が早々とやってきて、会議場の点検を自分の目で細かく行うのはこの大東亜会議の風物詩ともいうべき光景でした。バー・モウの長文の声明が各誌に掲載される際、各新聞社は用紙不足を理由に全文掲載に難色を示したのですが、東条が用紙の不足を補ってでも全文を掲載させるよう、奔走してくれたことを、戦後もビルマ政界の重鎮であり続けたバー・モウは戦後の著作で伝えており、東条こそ、ビルマ独立の最大の功労者である、と明言しています。見逃されがちなことですが、このときの大東亜会議の精神的な好影響が戦後の日本の好印象に連続していて、たとえばタイなどは日本の国連加盟など戦後の日本の国際的地位回復に尽力してくれたのですが、その国際的な親日活動の中心人物であったワンワイタヤコーン殿下(通称ワラワン殿下、戦後、第11回国連総会議長)は大東亜会議におけるタイ代表であり、彼もまた、東条の気配りに非常な感銘を受けた、と記しています。つまり、こういう官僚的・事務的なイベントに関しては、東条の能臣ぶりは非常なものなのです。しかし、このアジア各国の独立を、政治的に利用する能力には東条はやはり全くかけている。
     たとえば、このときに、この大東亜会議の宣伝効果を、アフリカなど、連合国の植民地支配におかれているエリアに普及させて、連合国を混乱させるという方法を考え付いてもよかった、という指摘も可能なはずです。たとえ敗戦的事態は避けられなかったとしても、大義名分を全面化すれば、より違うニュアンスが戦後生まれたに違いありません。結局、大東亜会議の成果は、第二次世界大戦の時間的範囲においては、その中にのみ留まってしまいました。つまりこういう政治的創造性には、東条はほとんど配慮が行き届かない。あるいは東条という人間を動かすだけの「制度」があれば、東条という人間はその通りに動いたでしょう。しかし最も政治的決断が要されるこの事態において、東条は自分の政治的権力の濫用によって逆に孤立を深めてしまい、彼の存在を操作する第三者的な何かの介在は、いっさいその可能性を絶たれてしまいました。
    凡庸な人間(指導者)をコントロールするようなシステムが存在しているかどうか、というどころの話ではなくなります。木戸の賭けは最悪の結果をもたらし、「凡庸な人間」は、その凡庸さを、凡庸な次元において露呈するという事態に陥ります。戦局が更に悪化し、残存勢力を集結して挑んだマリアナ防衛戦に大敗しても、東条は外交交渉を開始する気配も退陣する気配もない。東条は実は「引き際」さえよく認識できない、というレベルの役人的な政治家なのです。最も役人的な役人をやめさせる手段は、お上の介入しかない、ということになってしまうでしょう。
    かくして、皮肉にも、木戸自身がかかわる東条内閣倒閣運動により、東条は退陣を余儀なくされることになります。この退陣についても、東条らしい、政治性のなさがあらわになるような、彼のイメージが現実的に非常に損になるような振る舞いに終始しています。閣内にあって倒閣運動の中心だった岸信介国務相と、重臣の岡田啓介元首相を憲兵隊を使い脅迫しながら、実はこの倒閣運動に木戸がかかわっていることに皆目見当がつかず、結局、マリアナ戦の失敗に関しての昭和天皇の落胆を知るとあっさり総辞職する。この昭和天皇の意志の伝達についても、実は木戸がかかわっていたのですが、しかし岡田や木戸への反感を総辞職後もジクジクと言い続ける、というふうな、いかにも政治的能力を欠いた人物らしい、ある意味人間臭い、幕の引き方により、東条は政治の第一線から去ることになります。
    もちろん、この一連の話を違う視点から考えてみれば、木戸の次元の低い策略に利用された東条英機という人間こそ、最大の犠牲者であった、という観点も成立することになる、ともいえましょう。東条を凡庸という以上に、木戸という人間の、「凡庸な人間を扱う能力」の凡庸さをこそ、指摘するべきなのかもしれません。東条にしてみれば、自分自身の中に確立していた自律に忠実であっただけ、なのですね。「最高の官僚は最低の政治家」(マックス・ヴェーバー)という言葉の権化のような東条に期待する方が間違い、というものです。家康という知性がもし二十世紀の同じ時期にあったとすれば、木戸のような選択はしなかったでしょう。政治的誤判断の責任を根本的に負う人物は、東条ではなくこの木戸であると考えるべきだと私は思います。
   結論的なことを言うと、東条英機という人間についていえることは、凡庸な政治家」を嘆きながら、実はそれを操作しうる知性やシステムの不在に嘆くということを忘れている私達にとって、今なお教訓をもたらしてくれる世界でもある、ということができるように思います。
私達は歴史観も、現実政治観も、人物評価ばかりを独立させて語りたがりますが、「人物」が個人の力でなしうることなど、限られているといわざるをえない。そういう人物評価というのは安易な英雄史観にしかつながりません。江戸時代を演出した家康の凄味は、そうしたレベルでの英雄史観では見えてこないし、また二次大戦の問題点もなかなか見えてこないでしょう。こういう意味での東条論が今年の終戦を巡る数々の東条特集の中でも全くみえてこないことが、私には非常に不満なことに思えたのです。
  先述のチャンドラ・ボースの、興味深い言葉が残っています。大東亜会議における東条の気配りに感謝し、日本の印象について、ボースは、高い技術力を有した日本人の善良さ、勤勉さへの深い感銘を言い、この国は偉大な国である、と言った後、「しかしこの国にはよきステーツマン(政治家)がいない」といったといわれています。ボースのその言葉はもしかして、まさに善良かつ勤勉であり、しかしながらあまりに善良で勤勉であるがゆえの人間の限界をもっていた、東条という非政治的人間に対しての裏返しの評価の言葉だったのかもしれません。
  東条氏のような善人で、家庭人・能臣として非常に好感を持てる人間は私達の周囲には、意外なほど多く存在しています。個人的な好悪をいえば、私はこのタイプは好きでもないし嫌いでもありません。しかし、問題は、こういう善人を、政治的指導者として選んでしまう「弱さ」を私達はもってしまいがちだ、ということではないかと思います。能臣が指導者になれるとは限らない。まして、国運を担う人間に関しては、私達はより自分達の「弱さ」に警戒しなければならないでしょう。「凡庸な人間」という私の表現は、不適切な面を含んだかもしれません。しかし、それを時代や状況に配慮する知性の存在、あるいは政治的システムの存在、そういったものがない限り、私達は、その人物の政治的能力の欠如にどこかで実害を受けてしまうということですね。東条氏を巡る論争というのは、そういうものに帰着するべきではないか、と私は考えます。

     

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或る空想的平和主義(再録)

 或る空想的平和主義


   終戦の日の前後の「平和」に関するメディア各方面からの合唱は、ある種の風物詩みたいなものですが、以前のような喧しさはなくなり、多くの人が「平和」という空語に自覚的になりつつあるように思えます。真夏、しかもお盆ということで、宗教的感情が伴ってしまうのかも知れませんが、やはり8月15日の周辺の日本人の反省行動は、異常としか思えないところがあります。
   もちろん、「平和主義」の合唱は、全くの混声(混成)で、耳を澄まして聞けば声はバラバラです。それが時代がすすめばすすむほど、明白になってくる。たとえば、戦後史観ということは実は「第二次世界大戦絶対史観」です。日清戦争、日露戦争、第一次大戦という、二次大戦とは別の日本の対外戦争に関しては、いったいどういう「平和主義的評価」が可能なのか、不明です。数年前、民主党の管直人さんは、「昭和天皇は退位すべきだった」とおこがましくも言いましたが、では日露戦争とその後の朝鮮半島併合に携わった明治天皇も、退位すべきだった、ということになるのでしょうか。おそらくこういう反論を管さんは予期しないで政治的発言したのでしょう。
    管さんの言わんとするところは、敗戦責任という意味での「戦争責任」ではなく、侵略行動の責任をとれという意味での「戦争責任」ということなのですから、戦争の勝敗に関係なく、そういう退位論が論理必然的に成立することになってしまいます。
    あるいは日本は第一次世界大戦には連合国の一員として参戦し、中国でドイツ軍と戦闘行為を行いました。この第一次世界大戦はヨーロッパに関して言えば実は第二次世界大戦に匹敵する大戦で、国によっては第二次大戦を遥かに超える死傷者(フランスは11倍、イギリスは4倍)が出ています。「グレート・ウォー」とは実はヨーロッパでは第一次世界大戦のことを意味します。その反省からパリ不戦条約など、日本国憲法的な平和理想主義の実験が行なわれるのですが、こうした平和主義の営みはほとんど挫折し、むしろ第二次世界大戦の原因になってしまうという逆効果を誘発してしまいます。不戦条約と自衛権のパラドックスについても、まるで日本の戦後の平和憲法の賛否が如く、様々な議論の応酬がこのときに行われています。
    このことから、保守派の論客が、第一次世界大戦に研究検討の目を向けています。しかし、日本の平和主義者は、この第一次世界大戦と第二次世界大戦の因果関係にはほとんど無関心であるばかりか、戦闘が自国で行なわれていない、ということでもって、第一次世界大戦にはほとんど関心の目を向けようとしません。ヨーロッパでは「戦争と平和」ということについて、「第一次世界大戦」ほど考察のヒントを与えてくれたものはない、という意味もこめて「グレート・ウォー」と呼ぶようですが、第一世界大戦が自国に惨禍を及ぼさなかったというただそれだけの原因により、第一次世界大戦への無関心がずっと継続しています。平和主義ということが、自国で行われたかいなか、という、実は屈折したナショナリズムである、ということが、このことからいえるでしょう。
    本当の「平和主義」というものがあるとしたら、それは日本の左派勢力が考えてきたようなものではない、もっと常軌を逸するような激しい、非近代的な精神性の中にしかありえないのではないでしょうか。眼前で侵略、略奪、強姦が行われても無抵抗を貫く、というのは、ほとんど狂気といって差しつかえない行為(無行為)です。たとえば、マハトマ・ガンジーは確かにそれを実践しました。私は彼の非暴力主義の誠意を信じることはできますけれど、しかし、それを実践するということは、常人に出来ることではありません。狂気でさえあります。彼の非暴力主義という「狂気」を「正気」のものにさせてくれたのはヒンズー教の宗教性やインドの精神風土であって、彼の非暴力哲学はそれらと不可分に存在しているのですね。つまり、彼はある意味で徹底したインドの保守的・反動的な人間なのです。もちろん日本の戦後平和主義に、ガンジーのようなすさまじい精神を発見することは不可能というべきでしょう。非暴力を徹底するのならば、暴力にかかわるおそれのある、自分内の人間性を切り捨てるということからスタートしなければならない、ということになります。
ガンジーの激しすぎる精神、ということは結局、自国のインドにすら根づくことはありませんでしたけれど、「国家」と「平和」ということで検討すべきなのに、なぜかわが国の平和主義の合唱隊が取りあげない、歴史的時間が我が国のある時期にあります。どうすれば「絶対平和国家」という空虚なものが実体化できるか、半ば絶望的に教えてくれる時代、それは江戸時代の日本ですね。
私達の国の江戸時代は、世界史上、稀にみる優れた近代社会の準備段階という面をもちながら、260年間、対外的な常備軍が不在であったという、非常に奇妙な反面をもっていました。平和憲法のお題目もないのに、なぜそのような「実験」が成功をおさめたのでしょうか。それは一言で言えば、戦争を引き起こさないための一つの絶対条件である「自制」ということを、江戸時代を演出した人々がよく心得、民意としても定着しえたからですね。巧みにつくりあげられた自足的な階級社会のおかげで、本格的な階級闘争が起きない、武家政治と朝廷権威の二元構造がいよいよ明確になって革命を起そうにも標的が定まらない、という政治体制的なことだけでは江戸時代の「平和」は説明できません。国民国家にせよ、前国民国家にせよ、戦争の理由の多くが、正義や正当性だけでない、人口増加やマーケット拡大ということでした。二十世紀も半ば以降は、そうした戦争理由も少なくはなりましたが、歴史的にみれば、実にほとんどの戦争理由を形成しているといっても過言ではありません。江戸時代の人口増加は、非常に緩やかですが、これは農業生産のほとんど意図的な抑制によって可能であったことです。あるいは手形制度の自然発生や不換紙幣の発生といった、世界的にみて奇跡的とさえいっていいヨーロッパ型資本主義の下地の発生がみられるにもかかわらず、どんな優れた商人も海外市場の開拓を企てない。もちろん商人だけではなく、知識人も海外への知的関心を自制しなくてはいけなかったのですね。「自制」というと何となく聞こえがいいですが、優れた才能の夢や国際交流の野心を否定しなければならない、ということも同時に意味します。だから、鎖国の禁令に反して海外渡航を企てたものを処刑することは、絶対平和主義を貫くためには妥当であり好ましいことであった、というパラドックスが妥当とされなければならない、ということになってしまいます。
つまり、国全体が「自制」することによって、江戸時代の日本という「平和国家」はなんとか存在しえた、ということですね。「自制」ということならば、ガンジーの徹底した精神と一脈(だけ)通じるところもあうかもしれませんが、現代の日本の平和主義は、「平和」を叫ぶのと同じ口で、政府の経済政策の愚を責める幼稚さがあるのですね。ありふれたところにある、という戦争の原因の深刻さが全くわかっていない。そして平和主義者たちは日本の江戸時代の「平和国家」をほとんど評価しない。なぜなら江戸時代は階級社会であり、圧政が敷かれていたから、なのですね。「平和」そのもののためには「階級」も「圧政」も必要だという、歴史上の絶望的なまでの結論、すなわち「自制」ということの意味が全然、理解できていないのですね。しかも「自制」は「永遠の平和」にとって、あくまで一つの条件にしか過ぎません。「自制」を幾ら徹底しても、ガンジーは自分の理想主義の破産を自分の暗殺によって証明せざるをえず、また江戸260年の平和というのも、本格的な対外侵略が奇跡的になかったというファクターなしには存在しえない。江戸時代の終焉は、まさに、その侵略の危機を感じるという自衛的な意識によって訪れたのです。「絶対平和」などということは殆ど不可能である、というのが、歴史の示す結論なのですね。
しかし私も、旧社会党や日本共産党が言うような次元の低い(低過ぎる)戦後平和主義とは別に、「戦争がなくなることはありうるのか」ということをぼんやり考えてしまうことが時々ないわけではありません。どうも「戦争」が人間の病なのではなく、「平和主義」こそが人間の病であるような気もしてくるのですが(笑)「戦争が永久になくなる」ということは、戦争を引き起こす国民国家が世界から消えてなくなる、ということしかありえません。「国家の消滅=戦争の消滅」という驚くべきオプティミズムは、日本国憲法にもあるのですが、これだけ国民国家の時代が経過したのだから、その消滅も近い、という、何となしの予感に支えられています。結論的にいえば、国民国家の消滅は、半永久的にありえません。しかしそう言いきる私の胸の何処かにも、その奇妙な予感が漂ってくる感じがして、私も病原菌に感染しているのではないかと(笑)思うのですが、もう一つ結論的に言えば、国家どうしがエゴイズムを剥き出しにしたほうがむしろ、国家間のルールとマナーが確立され戦争は減少傾向に向かうと考えるべきなのですね。しかし「半永久的にありえないこと」をもう少し実証的に言わないと、「戦争が世界からなくなる」という病的なことを言う人は後を絶たないのですね。これは自分の中に潜むモヤモヤとしたものとの対決でもあるのですが、これほど世界各地で平和主義が破産しているのにもかかわらずなお「反永久的にありえないこと」にこだわる人達の根拠というのは、いったいどのようなものなのでしょうか。ここで前回お話しした「未来とは何か」ということを思い出していただきたいと思います。
「平和主義者」にもいろいろなタイプがあって、左派的な歴史論や憲法論からではなく、SF的な感性から、世界平和の実現を説く、という人間がいて、それは私の周囲にもおります。三島由紀夫さんの「美しい星」を連想するのは、間違いではないかも知れません。政治世界の思考にどっぷり浸かった人間(私)からみると、非常に特殊なタイプの平和主義者に見えなくもないのですが、こうした人間の「平和主義」というのは、以下のようなものです。
戦争の原因である国民国家がなくならない限り、いくら国連をつくろういふが平和条約を作ろうが、「平和な世界」というのは完成されるはずもない。そこで地球内部という意味での「世界」に替わる概念が必要になる。それは「宇宙」である。国民国家の存在を無意味にしてしまうような「宇宙化」が近未来、必ず世界(宇宙)に訪れる、ということを前提として、私達は平和組織や平和思想を再構築しなければならない、ということです。
つまり、国家内部の内戦や対立が根本的な意味で無意味になったのが国際化という国家の外部の発見であるように、世界にも、世界内部の対立を無意味にしてしまうような世界外部の発見が訪れる、ということですね。現在、このような理想論はやや成りを潜めているようにみえます。90年代になって、宇宙計画の多くがなぜか急速に頓挫、失速して、宇宙論の世界から世界(地球)の現実や過去を見下ろす、ということができなくなってきたからですね。ですから、こうしたSF的平和主義ということを聞くと、時代遅れの感をおぼえる人も少なくないのではないかと思います。90年代より以前は、宇宙論と国際政治論を混同して「未来の平和」を楽観的に語るということは、世界中で非常に多く語られた言説であり、左派的な平和主義などよりもよほど強烈なインパクトをもった理想主義でした。
たとえば地球外から地球を見たときの美しさに神秘的なものを感じた、というガガーリンやアームストロングの言葉を、耳にタコができるほど聞かされた、という経験をもっている人間は私だけではないでしょう。そして彼ら宇宙飛行士が実際言ったり、あるいは彼らの言葉に枝葉をつけたりして、「あの青い星の何処にも国境はない」ということが、反論を許さないようなヒューマニズムの形になり、彼らの感動を強制されるというふうな話になる。天の邪鬼な私は「国境」が見えない、以前の問題として、「人間」が一人も見えないことは問題にならないのか、と宇宙飛行士の言葉に傲慢を感じて、教師に怒られましたけれど(笑)ともかく「宇宙」ということが天文学や物理学の説明から勝手に離れて、国際政治学の次元に乱暴に降りてきて、「世界」や「国家」の否定を語らせる、という平和主義なのですね。確かに一見すると非常に、政治とかかわらないようにして、政治の世界そのものを否定できるような、便利な思想です。私に言わせると、この思考パターンは、未来史を虚構しています。通常の平和主義者が過去の国民国家の歴史や事実を虚構するのに対し、SF的平和主義者は、未来史の虚構、という、全然異なる方向にベクトルを向けることになります。
しかし、「宇宙」はただ宇宙という物理学的・天文学的な存在だけでは、20世紀(あるいは21世紀)の世界に降りたつことはできません。私達は「宇宙」に何かを予感しなければ、そこにユートピアを感じることは出来ません。それがなければ、未来史を虚構することさえできない。わが国の憲法的平和主義者は、第二次世界大戦の数年間に、ある種のディストピア的ユートピアというものを予感しているからこそ、延々と「理想」を語ることが出来るのです。だから、「宇宙」ということにしても、そこに何かの血を通わせなければなりません。そしてSF的平和主義者の作為は、ここにこそ向けられる、と言っても過言ではないように思えます。
たとえば「宇宙人」というと、ここより先はオカルティズムの世界、ということでせせら笑う人が少なくないでしょうが、「宇宙人」を、宇宙という汎神論的自然の中に予感される知性、と定義すれば、話は違ってきます。そして宇宙人は「未来=宇宙」のイデオロギーを信奉するものにとって、なくてはならないもの、ということになります。なぜならその「予感される知性」が、人類の平和主義や進歩主義を担保してくれるものだからですね。宇宙がただの冷たい虚無であっては断じて困るのです。もしそうだとすれば、宇宙はただの地球の延長ということになっていまいます。結論的に言えば、宇宙が虚無かどうかはわからない、ということなのでしょうが、「宇宙」と「地球的理想」を連結させる人は、「宇宙=虚無」という理念を、概して強く否定します。そこにこそ作為の始まりがある。宇宙論を交えた未来史が実のところ非常に危険なのは、こうした知性の予感を、いい加減なサイエンス理論や実証主義で、宗教的に肯定することが可能だからなのですね。たとえ宇宙における知性の存在が肯定実証できたとしても、それが「地球の未来」とどうかかわるかは全く不明とすべきです。極端な空想を言えば、「宇宙人」が地球人より遥かに知性の低い生命体である可能性もあるわけです。あるいは99%遺伝子が同一であるにもかかわらず他の哺乳類動物とのコミュニケーションが不可能であるという科学的現実を考えれば、遺伝子が絶対に異なる宇宙人・宇宙生命体とのコミュニケーションは、まず絶対に不可能である、ということから考えることの方が、科学の理に適っているのです。しかし、SF的理想主義者にとって、そういう理解は断じて拒絶されなければならない。拒絶するために、憲法的平和主義・理想主義などよりも、よほど巧妙な作為を、「宇宙」に存在させてしまうのです。
以前、作家の荒俣宏さんが、テレビでこんな面白いことを言っていました。・・・宇宙人の写真が見つかった、と皆さんあたり前のように大騒ぎするけれど、20世紀初め、あるいは写真技術が誕生した19世紀終わりくらいから、それらしき写真はあった。しかしその時期に「撮影」されたという「宇宙人の写真」はすべて「妖精の写真」として扱われていた・・・・というのですね。考えてみれば、20世紀初めに、「宇宙人」という概念は存在していない。私たちは完全に未知のものを観たとき、それに対して、書物にせよ人生経験にせよ、「過去」からしか、評価をくだせないという枠組みから自由ではありません。ずっと以前から、世界各地の古典にあらわれる、ファンタジー的な「宇宙人」ならいくらでもいるだろう、といわれるかもしれません。考えようによっては月世界を行き来する竹取物語の話だって、「月人」という、宇宙人の話といえるかもしれませんね。しかしそうした古典世界に登場する宇宙人は、世界(地球)の現在や過去を否定する宇宙人としての条件を欠いています。ユートピア主義や平和主義を与えてくれる(与えてくれてしまう)「宇宙人=虚構された知性」はいかなる形であれ、現在の人間を超えた「知性」を持たなければならないのです。そうでなければパーフェクティビリティ(完全性)の迷妄を可能にしてくれないから、なのですね。だから、竹取物語その他、20世紀以前の世界各地の「宇宙人」は、ここで考えるような、「宇宙人」ではなかった、ということになります。
やはり私達はサイエンスフィクションの力で、「宇宙人」という二十世紀の進歩主義・空想的平和主義にとって必要とせざるをえなかった他者を「発見」してしまった、というべきなのではないでしょうか。SFの力が侮れないのは、タイムマシンというのも、サイエンスそのものが考え出したものではないのに、SFの力で、何時のまにやら概念上存在させられてしまった、ということからしてわかることですね。SFという形式は、あくまで現在と過去に存在するにしかすぎない問題をSF的修辞学で、あたかもそうではないように見せかける、ということに真骨頂があります。H・G・ウエルズが描いた、ロンドンを攻撃する無言の宇宙人は、植民地を軍事力と科学力で無言に侵略し続ける帝国主義国家イギリスの姿なのであり、スピルバーグが描く異様なほどの友好的な宇宙人は、未開の地を友好的な雰囲気を演出して訪問する白人社会の探検家や人類学者を弁解がましく演出しているのであり、アーサー・C・クラークの小説に登場する「進化を管理する宇宙人」は、優生学による人類の未来管理を目論むナチスの科学者を濃密にイメージしているのですね。こうして人類の想像力によって「発見」された宇宙人は、「薄められたSF」概念として、次第に私達にとって実体化されていきました。オカルト世界的には宇宙人・空飛ぶ円盤ブームの始まりは1947年ということになっていますけれど、これは宇宙=未来の楽観主義、すなわち国連主義というアメリカニズムによる国民国家否定のイデオロギーの出現と時期的に見事に対応していますね。このアーノルド事件以後、怪奇現象の殆どが、宇宙人という未来の他者の投影にすりかえられてしまうようになります。SFの世界で発見(発明)され、オカルティズムの世界に暫し立寄った「宇宙人」という、二十世紀の進歩主義・平和主義が虚構した知性は、究極的な平和主義を肯定するものとして、私達の見えないととろに隠れているのですね。私はもちろんジェノサイド否定論者ですが、人類の現在や過去を否定するものとして虚構された「宇宙人=虚構された知性」はどうしても一人残らず殺戮しなければならないと思いますね(笑)サルトルは「他者(他人の自由)は地獄である」という認識を前提とした上で、「他者の概念を極限化したものが神という虚構物に過ぎない」と言ったわけですが、私達はいつのまにか未来の知性という虚構に踊らされ、得体の知れない「他者」を未来に予感して、それをこれまたいつのまにか「地獄」ともなんとも思わずに、現実否定や過去否定の道具、にしてしまってきたのではないでしょうか。トータルでいえば、「唯物論の宗教」の危険性、ということですね。「神は存在しない」という無神論的実存主義にならって、私は「宇宙人は存在しない」と言いたいですね(笑)
結論をいえば、宇宙は特権化された「未来」でも何でもない、ということですね。大西洋や太平洋、南極を発見したことと同じように、宇宙を捉えていかなければなりません。ましてその「未来」の視点を勝手に獲得したつもりになって国民国家や国家間戦争を否定する、という議論を弄ぶのは言語道断なことです。何度も言いますが、宇宙というのはなかなか厄介な「未来」概念の一つで、不意にあらわれては、いろんな悪戯をするのですけれど、それをここできちんと否定することで、「半永久的にありえないこと=国家の消滅」ということが近未来に来る、などということを信じないことの方が正気でありコモンセンスである、ということが多少なりともいえるのではないか、と思いますね。私は憲法的平和主義も信じませんが、SF的平和主義はもっと明確な論理的理由によって、それを信じることはできない、といわざるを得ません。

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「制度改革」とは何か

最近街を歩いていて、数年後の裁判員制度の開始に関してのポスターをよく見かけるようになりました。
政治について考えているといいながらほとんど新聞も読まずテレビのニュースも観ない私は、いったい、いつこんな法案が国会通ったのだろう、と自分の寡聞につい情けなくなったのですけれど、裁判員制度に関しては、導入開始を知らせる政府広報のポスターだけでなく、あちらこちらでこれに関しての自主的な勉強会やら講習会が開かれる案内も目につくようになって、社会の動きに取り残されている自分をますます感じて、これからますます新聞もニュースも読まなくなりそうな自棄な気持ちを感じている今日この頃なのです(苦笑)もちろん裁判員制度がそのまま=陪審制度という訳ではなく、立法趣旨も両者では微妙に異なりますが、勉強会や講習会の内容を見ると、大体、陪審制度に関してのメジャーなアメリカ映画が使われ、上映会の感想の語りあいが「勉強」や「講習」であるパターンが多いようです。そうした勉強会や講習会の成果かどうかわかりませんが、電車の中で、それについて語る人たちの言葉も耳にするようになりました。
この司法制度の改革はしばらく前から準備されていたもので、一昔前の小泉改革の中では他の改革に比して一線を画するものといえると思いますが、いつのまにか規定路線化してしまった改革についていこうとする人々の集いを見るにつけ、この国には幾度かこういう風景があって、私のような呑気な人間は、その時々に生きていたとしても、ちょっと息苦しいくらいの、どうにか変わろうとする生真面目さについていけず、やはりその時代に生きていても自分みたいな人間は白けていたんだろうな、と妙な納得する思いを感じました。
    どういう白け方か、ということですが、私あるいは私のような人間が言いたいことは、「改革」のきっかけが外国に由来することがオリジナルなことではない、というようなことではありません。我が国においてはどの時代も、外国文化を受容しながら、内実は全く受容していない、というような不思議な受容の仕方を繰り返しているのは私も理解しているし、それは良し悪しの問題ではありません。ただ、受容する際に、妙に硬直化した教科書主義のようなものが罷り通る。それがやむを得ないように思えはしますが、私のような教科書嫌いの人間からすると、どうしようもなく堅苦しいように思えてくる。受容の際には確かに体系は必要なのでしょうが、しかしそれが果たして「教科書」という教条にまでいたる必要があるのかどうか。言うまでもなく「教科書」は言葉の型通りの教科書という意味ではありません。     
     裁判員制度を表面的でなく、歴史的な面まで深く学習されている方々はご存知のことではないかと思いますが、陪審制あるいは「陪審制的なるもの」というのは決してアメリカ文化の専売特許ではありません。これらの起源は市民自身が裁判の評決をおこなうという中世フランク王国の風習に基づきますが、その後イギリスでフランク王国の風習のスケールを大きく逸脱して発展し、これがやがてアメリカに渡りました。法制史的な言い方をすれば、ヨーロッパ大陸法と英米法の中間的な性格をもっているといえます。実は日本にも昭和2年から昭和18年まで被告人の選択によるものとはいえ刑事陪審制度が存在していましたが(272件の陪審評決あり)これはヨーロッパ大陸法の影響が強かった戦前においても決して奇異なことではないといえるでしょう。
    しかし陪審制そのものでなく、「陪審制文化」という視点で考えるならば、陪審制を題材にした二十世紀のいろんなシナリオやストーリーの殆どが、アメリカから発せられていることにも目を向けなければならない、とはいえます。これは陪審制度の導入や制度の有無という客観的側面を超えて、陪審制度がアメリカという国家の文化的ナショナリズムの一面を形成しているからということになります。
    「文化的ナショナリズム」ということは何処の国にもあり、厳密にいえばほとんどどの人間にもあります。「日本という国を放棄した」という人でも、食事や精神生活で、いっさい「日本」を放棄することができるわけはない。ラディカルな国家主義批判をする日本共産党の人達が、「青々とした空や水の世界を取り戻そう」というとき、すでにその主張は何らかの形で「文化的ナショナリズム」と無縁ではありません。「文化」という言葉は普遍的かもしれませんが、「かけがえのないもの」というものを持ち出したとき、愛情という個別性が普遍性にかぶさり、文化的ナショナリズムを形成する、といえましょう。近代的制度がこの文化的ナショナリズムにかかわる倒錯も、国によっては当然に生じてきます。アメリカ人の民主主義崇拝ということはよく言われますが、陪審制ということは、そういう文化的ナショナリズムの一要素ということになります。彼らは決して自己批判的に陪審制を批判することを厭わないですけれど、しかし根本的な解消ということはほぼ絶対に考えない。要はこのシステムがアメリカという国の体の一部である、すなわち「アメリカニズム」一部分である、ということだからです。
    私が考えるのは、受容しつつも内実は実は全く受容していないにもかかわらずいつのまにか受容し終えている、という不思議だけれど実は巧妙な受容吸収を繰り返してきた私達の国にとって、こうした戦後のアメリカニズムの受容は果たして私達の国の「受容」の伝統にあてはまるものかどうか、ということです。
   たとえば7世紀の我が国において、中国文化をギリギリまで受容することによって、逆に中国文化に成りきれない日本文化というものをそこに発見することができたわけです。白村江の敗戦による建国の必要性という厳しい要求があったとはいえ、その要求の中で、単なる間に合わせではない、精神的ドラマをたとえば太安万侶の漢文受容に見出すことができる。明治維新の時のヨーロッパ文化の受容吸収にしてもほとんど同様で、明治の終わりにいたるまでの知識人の数多くの苦悩を私達は多く読むことができます。ゆえに、我が国の不思議かつ巨大な全体像を知るためには、「和・漢・洋」を知らねばならない、という公理が成立するのですね。しかし果たして戦後日本のアメリカの受容(あるいは擬似受容)ということに、同様の精神的ドラマがあったのかどうか。アメリカ文化を純粋な「洋」でないと考えてみて、「和・漢・洋・米」となっていないのは、アメリカ文化の性格に根ざすのか、それとも私達の不完全なアメリカ文化受容の形のせいなのか、この根本的な点が意外に見落とされたまま、裁判員制度のようなアメリカ文化の更なる受容が繰り返されているのではないか、と私は思います。そしてそれは、「文化」と「文化的ナショナリズム」の区別のつかないくらいに、私達が生半可なアメリカ文化受容をしてきたから、といえるのではないでしょうか。いったい、アメリカ人になりきることで、アメリカ人と日本人の境界線を逆に明瞭化した知識人が戦後日本にいたのでしょうか。ほどほどにアメリカ被れであることが、アメリカを理解した、というような理解になっている場合がほとんどであった、というべきでしょう。 
   このことについて、少し別の角度から、考えていくことにしましょう。    
   私の親友はよく知っていることなのですけれど、私はサルトルとメルロ・ポンティの哲学書と小説が昔から今に至るまで(いつまでたっても)何となく好きで、というか不思議と手離せず、今でも気が向くと彼の本を片手に喫茶店なり公園なり居酒屋に出かけることがあります。特にサルトルはよく読みます。しかしまず、政治的傾向という面からすれば、私自身はサルトルともメルロ・ポンティとも、根本的に世界観を相違します。私が同時代のフランスに生きていたとしたら、当時フランスで頻発していたという、保守派の反サルトル・デモに参加していた可能性は極めて高い。政治論がこうですから、マルクス主義の影響が濃厚な両者の歴史論は拒絶対象の最たるものです。
    残されたのは文学作品や哲学理論について、ということになりますが、サルトルに限っていえば、それらですら、彼の作品は普通の意味で「面白い」ものではないのです。しかし「面白い」とはいったい何か、なのですね。たとえば哲学と文学の境界線で両方の世界の嗜好を楽しむなら、ニーチェの方がよほど刺激的で感動的です。キルケゴールもまた然り。比べてサルトルの世界は形式や方法論が優等生然としているところが、どうしても堅苦しい。つまりニーチェやキルケゴールは面白くてサルトルはつまらないということが普通にはいえそうですが、しかし私にとっては、サルトルの面白さは、常に反面教師としての魅力に他なりません。たとえば、芥川龍之介の小説は、年をとればとるほど、私にとってはつまらない書生文学に思えてきました。にもかかわらず、その不器用な芥川の小説が、日本人のとらえにくい特性を、実に巧妙に描き出している面があることに逆に気づいて、そこに逆説的な面白さを見出す、というような読み方が、できるようになってきました。
    サルトルの「面白さ」ということにもう少しこだわると、たとえば小林秀雄は三島由紀夫との対談で、サルトルの魅力を正面から卒直に否定する三島に対して、いやサルトルはドストエフスキーをはじめ様々な文学を器用に読みこなしているんですよ、と言い返していますが、小林の言いたいことは、サルトルは方法論といい主題の捉まえ方といい、実に優等生的に優れている、しかしそうであるからこそ、文学の本質である得たいの知れないものからは遠ざかっていく、ということのように思えます。ある意味でサルトルは勉強家でありすぎ、頭がよすぎるということなのだ、だからこそ、文学を学ぶ者にとっては非常に重要な何かの人物である、ということに他ならないのでしょう。けれど三島はサルトルの逆説的存在は全面的に否定しています。これは、逆説的存在ということも逆説的でなくすような意識家でありつづけた三島のその後の文学的人生を考えると、非常に面白い指摘であるようにも思えます。
     しかしポストモダニムがニューアカデミズムブームの衣装を纏って威力をまだ維持していた私の学生時代、たとえ私のような屈折した形であってもサルトル好きというのは、文学にせよ哲学にせよ議論の場では排撃される格好の対象でした。一にも二にも「サルトルの時代は終わっている」ということがその排撃の理由でした。もちろん、私の屈折が、一時代前の「サルトルの時代」という大流行とその衰退という現象に対して、逆説的な意味を目的にした面がなかったわけではありません。けれど私の心の支えになったのは、大森荘蔵が言うように、「哲学や思想は誰が勝った、終わったというような猿芝居では断じてない」という言葉でした。明らかにポストモダニズムというのは、ある意味でマルクス主義の変種であるかのような、この「猿芝居」の典型であるかのような気配でした。
     たとえば・・・曰く、「サルトルの意識中心主義・視覚中心主義は、デリダ等の批判によって決定的に時代遅れになった」・・・曰く、「無意識をきっぱり否定したサルトルの哲学は、フロイトを再評価する思想の潮流と合致せずこれもまた時代遅れといわざるをえない」・・・こうした反サルトルの見解はあたっています。しかし、では、意識中心主義がデリダの脱構築で否定されたからといって、「意識がない」というふうに意識中心主義が否定されたのかといえば、そんなことはぜんぜんいえません。無意識の問題にしても、現在の心理学全盛の雰囲気では確かに無意識の存在は実在的なようにみえますが、実はそれが実証できているかどうかについては実は幾重にも検討しなければならないのです。
     「決着」は実は全くついていない。あるいはつくはずもないのです。「決着」がついていると判断しうる唯一の絶対的根拠はどうも「時代」ということになります。こうしたデリダを主流としたポストモダニズムの手口は、実は一昔前に、「階級」と「時代」を結びつけて、何もかも「決着」がついたのだ、というマルクス主義者の傲慢な手口に酷似しています。「おまえは誰某の哲学者や思想家が時代遅れだということを端から信じていない」と言われれば、その通りかも知れません。しかし「サルトルが時代遅れだ」と言われても、「時代とは何か」という問いに不器用にとどまることの方が全然哲学的・思想的ではないか、というふうに私は反論します。近代経済学に詳しい方でしたら、サルトルについて私が指摘してきたこの文章の「サルトル」を「ケインズ」と読み替えてみればいいでしょう。ケインズが提出した理論の何が「時代遅れ」になったのか全く判然としないまま、反ケインズの獰猛な嵐が、この国に一時期吹き荒れたのですね。しかしケインズの経済学理論が「時代」によって遅れたものになったかどうか、ということは、ケインズの経済学にとっては少しも本質的でないことは、近代経済学の流れの真髄を吸収された方にとっては誰しもお分かりのことではないか、と思います。
     つまり、哲学・思想はファッションであるというとらえ方がどうもいつまでたっても主流である。対して私はもう少し実践的に考えていて、自分の現実にかかわる言葉を、今よりずっとプリミティヴな形でさがしていた、というだけの違いなのでしょう。本質的でない、と私が言っているだけのことであるのだから、私の指摘も本質的とはいえないでしょう。だからサルトルを批判した彼らが間違っていて、私が正しかったということではもちろんありません。あるいはファッションと知は分かち難く結びついているといわざるをえないし、ファッションだからこそ、読書量や勉強量が著しいということも、当然、逆説的に言えます。ポストモダニズムに関していえば、「彼ら」はスムーズに、知の雰囲気を吸収し、次から次へといろんな本を読みこなしていきました。私はサルトルに付き合わされたあの頃の時間、もっと他の哲学者や思想家に出会えたのではないかという後悔を、今でも真剣に感じているくらいなのです。しかしこのことだけはいえると思うのですが、サルトルを批判してデリダが勝利したといっていた友人達は、思想と思想史の区別がついていなかったのではないか、ということです。ケインズ批判も同様ですが、思想史の狭い文脈だったら、サルトルが時代遅れとかケインズが時代遅れとかはいって差し支えないのでしょう。
     そう思い当時の記憶を整理すると、一度だけ、印象的な現実的場面があります。次から次へとサルトル批判を繰り出してくる(私などよりずっと頭のいい)友人の中の一人に、「君は息苦しくないかい?こんなに毎日同じものを読んでいて・・・」と尋ねてくる一人がありました。私は苦しくないどころか気楽そのものだったので、自分が感じていた「違和感」を彼に説明したのですが、どうも息苦しいのは彼の方みたいだったように思えてきました。時間を少しかけて尋ね返してみると、もう毎日義務感のようなものに取り付かれて読んでいるけど、読めば読むほど、息苦しくて仕方ないのだ、というのですね。「デリダが自分の毎日に関係ないということではないのだけど!」と彼は大声で(彼は私の観察する限りでは、デリダが大好きでした)いって、それほど真剣に聞いていなかった私をびっくりさせました。
   なんだかドイツの教養小説の一場面みたいな話ですけど(笑)私は自分は自分にとって必要だという意味での義務感から、サルトル等を読んでいるだけだ、というと、彼は、「義務感」がどこか自分とは遠い別のところから来て、哲学や思想の流行を追わなければならない、という感じで毎日濫読を強いられているのだ、といいました。話はそれだけなのですが、「自分から遠い何処かからやってくる義務感」という言葉が、今になってあまり知的成長も知的変貌もしていない私に、鮮やかというか強烈に残っていいて、ボロボロになった「存在と無」や「自由への道」「嘔吐」などの本を眺めながら「あれは何か・・・」と考えることがあります。
    司法制度改革に話を戻しましょう。私達がなぜ「改革」ということを懸命に志すのか、と考えるとき、あのデリダ好きの友人の「自分から遠い何処かからやってくる義務感」ということと、無縁ではないかどうか、ということがいえるのではないか、と私は考えます。私達は「時代」ということをあまりにも大文字でとらえることで、思想史的な思想理解と同様の誤謬を、「文化」と「文化ナショナリズム」の混同においてなしているのではないでしょうか。アメリカ文化がいまだに未吸収のまま進行している。繰り返しになりますが「なりきる」ことができなかったことが原因だと私は思うのですが、その原因は何か、ということを考えるとき、「自分から遠い何処かからやってくる義務感」の場所は何処か、ということです。「文化」を吸収する、ということを、7世紀あるいは19世紀の文化的大変動と戦後日本の変動の安穏と比較するに、どうも「時代」ということが、抽象的に独立して、ある種カントの道徳法則みたいな役割を日本人の精神性においてはたらかせているのではないか、と私は考えるのです。
     私は「時代」という言葉をあまり好きではないのですが、「時代」という言葉をあまり意識的でなく使っているとき、私達は「時代」を「歴史」という言葉といつのまにか同義に使ってしまっていることがありますね。つまり幾つかの個別の事象の集合をある程度連結的にとらえたものを「時代=歴史」という意味に限定したのが「歴史」ということなのですが、そのような絞込みをした上で、「歴史(時代)は繰り返す」ということを言う人がよくいます。大体、起こりえないことが起きたときに使う驚きの言葉の一種である場合が多いのでしょうけど、しかし歴史(時代)という人間と事実の集合が神の見えざる手で繰り返す(繰り返された)という事後的な表現と、現在の延長下に未来を支配下におこうとする事前的な表現での繰り返す(繰り返そう)では、この言葉の意味は当然違ってきます。
    たとえば月並みな言い方になりますが、我が国の近代史は欧化政策の成功という、非常に輝かしい成功を「時代」としてもつ幸運に恵まれました。この明治時代の非常に巧妙で実のところ江戸時代の国民文化と致るところで連続性を確保していた欧化政策の「時代」が、ある時点から実は繰り返されているということがいえます。1910年代の大正デモクラシー、1920年代のマルクス主義、1930年代のファシズムと同じパターンを踏みつつ、明らかに違う繰り返しの「欧化」のパターンが生じていくのですね。確かに歴史(時代)は繰り返すという面をもっているのだともいえます。そして大切なことは、その違っていくパターンの中で「繰り返す」が「繰り返そう」というふうに変貌していったことではないか、ということですね。ここにおいて、「時代」ということが、大文字の実体的存在になって、私達に何かの拘束を強いるものになっていくのではないでしょうか。
      反面、明治時代の欧化政策の成功が生々しい人間と事象の集合という生きた歴史(時代)から、ニーチェが言うところの「死んだ過去」になっていくプロセスを感じることもできるような気もします。「時代」が「歴史」という大文字にもかかわらず、内実は「死んだ過去」になって、それが何かの目標になってしまう時、様々な奇妙なことが、不意に現れてくる。ドイツのナチズムもイタリアのファシズムも、古来のある特定の歴史(時代)を目標に掲げて暴走したといえます。日本の場合はその両国のような明確なものとは全然違い、近代の始まりの成功の時代が次第にずれていったところに、いろいろな悲劇があったといえるのではないでしょうか。
      明治初期以来の学問や社会制度の面での現実的なドイツモデル論が、次第にロマン主義的な憧れに転じ、やがて昭和前期の抽象的なドイツ絶対論になっていく。ドイツに関しての情報量はどんどん増えるのに、その把握はどんどん観念的になっていく。やはり何かしらの「時代」が繰り返されている。私には、あれほど東洋人を差別するナチズムと提携することを主張し、それに反する人物に天誅を加えるとまで息巻いた、大戦直前当時の民族派や右翼の人達のリアリズムの欠如をなかなか理解できないのですが、要するに、現実から離脱していく理想化された「ドイツ」というものを、繰り返される「ドイツ」的なるものの観念の輸入の中で、この国の時間の行き先に設定していった、ということなのでしょうね。制度改革や政治改革の本質は、ロマン主義的な幻想とは縁もゆかりもありません。政治にロマン主義を持ち込めば、収容所国家にせよ敗戦にせよ経済破綻にせよ、何らかの形での破滅に直結すると考えるのが自然でしょう。戦前の欧化政策やドイツモデル論が「改革」から本質的に離れていったことと、思想・哲学を本質から離れたファッションとして飲み込んでいることは、同根から生じているといわざるを得ない、と考えるのが自然でしょう。そして私は、戦後のアメリカの文化ナショナリズムと日本の関係というのは、最初からこうした虚しい文化的演技を有したものではなかったのだろうか、と思います。最初から抽象的な「時代」に命令されたことによって進行し、その虚しさがゆえに、いつまでたっても依然として進行している。それが「和・漢・洋」が「和・漢・洋・米」とならない何よりの原因を形成しているのではないのだろうか、と私は思います。ゆえに、根本的意義を見出すことの難しい、虚しい時間が、戦後の大半において流れてきたのだ、ということができてしまうのでしょう。
   荻生徂徠をはじめ江戸時代の儒者の一群が中国人になりきることによって、なりきれない日本人を見出すという逆説的な知的戦略をアメリカ人においておこなう、ということの困難ももちろんありうると思います。たとえば妊娠中絶をおこなう病院があちこちで爆破されるような信じられないような中世ヨーロッパ的保守性ということに「なりきる」ということは、日本人にとってはまず絶対に不可能な精神行為ではないかと思います。ある意味でアメリカほど、中世ヨーロッパの暗黒を身近に感じることのできる国はない。あるいは裁判員制度にしても、アメリカの陪審制度は小中学のときからの激しい自己主張の応酬の習慣というコミュニケーション教育と実に密接なのですが、裁判員制度と小中学教育を結びつけて考える日本の改革論者はまず見あたらないといっていいでしょう。すなわち、困難である、ということより、困難であるという認識自体が困難である、ということなのであって、こういう意味において、私達はアメリカという世界を吸収しすぎどころか、吸収以前の段階にとどまっている、という奇妙な表現が可能なのではないだろうか、と私には思えます。小さな結論をいえば、裁判員制度をはじめいくらアメリカ型の制度改革をしたって、この国に蓄積してきた戦後の徒労感をまた一つ重ねるだけで、何一つ現状の停滞感を打ち破ることにはならないといわなければなりません。






 

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政治における「時間」と「時代」の問題について

        友人の女性が匿名でダイエット相談のホームページをもっているのですけれど、これがなかなか好評で、年間1000件以上の書き込みがあるそうです。
        たまにそのホームページを覗くと、忙しい仕事の合間を縫って、あるいは仕事の忙しさを自分で癒すかのように、本当に楽しく真剣に相談に応じています。そこは多くのサイトと同じように、ホームページでのやり取りは完全に匿名で行われていて、よほどの法律問題が生じない限り、彼女も彼女のところへの相談者も、そのまま正体を明かさないで、そこでの言葉のやり取りをもって「関係」が終わってしまう場合が多いのですが、ホームページを読んだり内容や事情を彼女に直接聞いたりしているうちに何とも面白いな、と思ったのは、相談する側の大部分が女性であるこのサイトで、彼女が「男性」を巧みに装って相談に答えているところですね。男女の性別が相談内容そのものに影響を与えることはほとんどないとはいえ、こうした交換の場の成立というのはどうしても私の興味をそそります。中にはダイエット相談の枠をはみ出して恋愛相談になっていて、「男」である彼女が相談に乗るという場面もあったりして、私も「女」を装って、何か匿名相談しようかなと思ったりします。偽者っぽい、と言う人もいるかもしれませんが、私にはどうしてもその交換の場が「嘘」の場であるというふうに思えない。それどころか逆にこれは私達の国の風土において新しいコミュニケーションの一つかもしれない、と思えてしまうところがあります。
         たとえば「ホレーショ・ホーンブロワーの生涯とその時代」という、ミリタリー史に詳しい人間には大変有名な在る英国海軍軍人の「伝記」があります。司馬遼太郎さんのエッセイなどで一般に有名になった「伝記」ですが、なぜ有名かというと、この軍人の伝記が、その軍人の存在そのものを含めて、著名な政治経済学者である著者パーキンソンの実は完全なフィクションであった、という本なのですね。精緻にも、この本には当時描かれたという「肖像画」までが冒頭に掲げられている。それをすばらしいユーモアとして自国の文化史の一部に許容してしまうところに、イギリスという国の知的遊戯の高踏さがある、というエピソードなのですが、ホレーショ・ホーンブロワーなる人物がいるかいないかに関して、イギリス史そのものを偽造したわけなく、あるいは誰それに迷惑をかけたわけでもない。ただの知的遊戯といえばそれで終わってしまうようなところに、この本が存在しているということが面白くもあり、重要なところなのですね。そして私達が疲れきったかのように浸っている事実主義、客観主義そのものを、本書の読者の行為までひっくりめて、物語化してしまったエピソードともいえましょう。我が国で記されている伝記は数多いですが、果たして、架空の政治家や軍人の伝記を信じ込まされたエピソードの形成を通じて、「伝記を書く(読む)」という行為に、軽さという幅を与える風土があるでしょうか。ないのならばあって然るべきだ、と私は思います。「事実」や「客観」はもちろん世間の様々なレベルや次元での尺度足りうるべきでしょうがしかしそこから一足先に成熟というものを想定して、それらそのもの、を楽しむということが許されていないわけではない、ということもできると思います。ゲーテの「主観的な時代は不健全であり客観的な時代は健全である」ということを指して「歴史上の御伽噺を真実でないとわかっていて信じることができるくらい大人びているということが客観的ということで、何でもかんでも客観的といって騒ぎ立てる人間が主観的であるという意味」といった、小林秀雄の解釈も、おそらくそういうところにあるのですね。私達は依然として、というべきかますますというべきか、客観的(事実的)という言葉にふりまわされ、そして疲れさせられているとさえいっていいのですね。私にはなんとなく友人女性のインターネットでの悪戯が、なんとなくこのパーキンソンの悪戯を連想させるところがありました。あるいは問いをさらにすすめてみて、ネット文化における「事実」「客観」と何か、ということが、ネット文化における「言葉」とは何か、という問題を考えさせる面があるように思える、ということですね。
         たとえばどこそこで交わされる言葉に「責任」が伴いにくいということでネット文化を批判するのは正しい面をもっている。しかし「言葉」がそれを発する人間から離れて、そこで行き来するとしたら、ということは、わが国のような風土では、検討に値することである、とも考えられる。我が国では、というのは、たとえば師匠が死を直前に控えた場面で、ソクラテスの弟子たちは、平然と「不死」を否定する議論を展開する。彼らはソクラテスを嫌っているのではなく、尊敬しているからこそ、言葉による真実の探求を、最後の瞬間までやめない。月並みな言い方ですが、そこには、言葉というものへの、我が国の風土とは絶対に違う何かの姿勢がある。パーキンソンの「ホレーショ・ホーンブロワーの生涯とその時代」のフィクションの、騙された読者との共同作業とさえいっていいユーモアを「本当でない」がゆえに理解できない、という人が、果たして死を目前にした人間を前に、「人情」を拒んで、不死を完全に否定できる「本当のこと(本当だと思っていること)」を言葉で吐くことはできるでしょうか。それは事実主義や客観主義とは全く違う次元の問題だ、と言われるかもしれません。しかし私に言わせれば、そういう見解は「事実」や「客観」あるいは「責任」という、言葉と自己のかかわりを逆に卑小に考えているからに他ならない、ということになる。私に言わせれば、「相手の顔が向こうの世界にある」ことの見えにくさが、言い安さということ、入りやすさということでもある、という理解があってもいいのではないか、ということです。
          つい使ってしまいましたが、「客観」「事実」と並ぶこの「責任」ということに関しても、私達はいろいろな疑わなければならない錯誤に陥っているところがあります。政治家が過去の発言に関して間違いや嘘だったことを認めて謝る。あるいは文学者が文学の言葉の無責任的な世界に耐えられない。こうしたことが「責任をとった(感じている)」といえるかどうかは幾重にも疑わなければならないことなのですが、私達は何となく受け入れてしまっています。たとえば吉本隆明は言語における責任を巡る三島由紀夫と埴谷雄高についての対話に関し、言葉に関して死を示すことをもってしてまで責任を持たなければならないという三島の見解を「言葉の前でそれを発した人間は姿さえも見せることはない」と反駁した埴谷を評価しましたが、私達が「言葉に責任をおう」ということに関して、たとえば三島が言うように「キリストという人間は死んだからこそ(=責任をとったからこそ)その言葉は実質化した」というのではなく、埴谷が言うように「キリストが死んでその言葉が実質化したことに(=責任をとったように見せかけてしまうところに)言葉の恐ろしいけれど根拠としなければならないからくりがある」ということがより真実的である、ということなのですね。しかし私達は三島的な潔さがむしろ一般論的なことを知っています。どちらが正しいかという問題ではないのですが、ここで言う埴谷の理解の方が、ネット文化の肯定的理解に近いものを与えてくれる、とはいえるのですね。「向こう側の世界の顔が見えない」ということが、言葉の本質に反する、倫理に反する、ということはただちにはいえない。もちろんネット世界での言葉のやり取りが理想的ということではありません。しかしいろんな柵にとらわれて、「事実」や「客観」あるいは「責任」というものから解放された、日本人がもしかしたら経験したことのないような、言葉のやりとりがある、ということもまた確かであるように思えるところがあるといえましょう。彼女のホームページを読んだ時に感じることができるフワリとしたユーモラスな感覚は、私にはそういうふうに分析できるのですね。もう少し乱暴な言い方をすると、三島的な潔さが、「あなたも同じ」式の日本的平等主義の悪い方向にいってしまっていることに私はうんざりしている。政治家の謝罪一つとっても、「潔さ」が選択される価値や立場でなく、「あなたも同じ」式に雰囲気的に強制される倫理の俗化してしまっている。そこには「客観」も「事実」も「責任」もそれを求めているといいながら何も実体的になっていない。それに比べれば、女性が男性を装って(物語化して)ダイエット相談に応じるというフィクションは、倫理的と思い込んでいた政治家や実業家や教育者の「正体」がばれてしまう「事実」と「客観」の遊戯なんかよりも、よほど何かの成熟を感じさせる遊戯ではないか、ということを乱暴に言いたいのですね(笑)もちろん知的なものととうてい言いがたいとしても、ですね。そして彼女が実はそれほどのシンデレラ体型ででないにもかかわらず(笑)多くのダイエット成功者を排出させているというところもまた、なかなかパーキンソンの伝記作成のエピソードを感じさせてしまうところがありますね(笑)いずれにしても、彼女が行っているこのダイエット相談は、「姿も見せない」倫理を維持できているところに、ユーモアがあり、そしてやはり本音の衝突のしあいがあって、どこぞの星占いの女性などよりも、ずっと入りやすい言葉の世界がある、というふうに思えます。
         これのどこが政治の話なのか、というと、なかなかの理屈屋のこの女性が政治家志望でもある、という、やはり何だか政治に関係ないところあたりからでしょうか(笑)この女性、奇妙な直観を次から次へと思いつく女性で、インターネットの波及がリバタリアニズムを可能にすると急に思いついて電話してきたり「ダイエット」が一つの政治的党派を結成という文章を書いて手紙で送ってきたりして、政治家というよりは、シュールレアリズムを許容していたころの革命家といったタイプなのですけれど(笑)その彼女とこの間電話で長話していてやはりこのインターネットでの相談のことに何となく話が及び、珍しく思いつきでなく、どうも最近相談していてひっかかるところがある、となかなか真面目なことを話してきました。ほとんどの相談者が、「痩せたい」ということを、「若い頃に戻りたい」ということと一致しているようで・・・人によっては、「若い頃に戻りたい」という言葉から一度も「痩せたい」という言葉を使わず「どんなダイエットサプリメントがいいのでしょうか」と結論的に質問してくる人も少なくないようで・・・何だか不思議に思えて仕方ない・・・ということを言っていたのですね。見逃しがちな当たり前のことにこういうふうにひっかかるところが、やはりちょっと普通の女性と違うところです。「若い頃から太っていて若い頃でなくなった今痩せたいという人はどんなふうに言っているのか、というと、「失われた若い頃を取り戻したい」というふうに言うそうなのですね。そして「若い頃」にこだわらない(多くない)人間の方が、ダイエットに関して冷静に向きあい、成功率も高い、と彼女の意見もまた面白いと思えました。
         私のいい加減な感受からすると、こういう人たち(若い頃=痩せた頃)の考えは、たとえば、血液型に群がる人間と類似した浅はかさがどこかにある。血液型は型によっては進化的発生もしてきたし(AB型のように)あるいは今後新しい血液型が生まれる可能性もないわけではない。大体、血液型というのは人類の進化の過程で数万年前に生まれたもので、人間特有なものではありません。しかし血液型の性格理解というのは、そういった時間的な流動を認めないからこそ成立する擬似科学の物語なのですね。あるいはたとえば「日本の皇室は朝鮮半島から渡ってきた騎馬民族である」という(実証的にも間違った)見解を私達がやり取りするとき、「朝鮮」をせいぜい十九世紀以降の世界地図や世界史でしか理解していない。日本の国民文化の発生が朝鮮の国民文化の発生よりやや遅く、存在しない朝鮮文化が日本の国民文化の発生に影響を与えることはありえないという流動的な理解ができていないまま、朝鮮から来た、来ない、という現代に縛られた理解そしているところに根本的な間違いがある。私達は歴史学者が「正しい・正しくない」というのとは別の意味で、歴史的時間を再構成してしまっている。それは十九世紀以降のどこの歴史的時間のポイントかは不明ですが、立ちかえるべき始原があるからこそ、なせる擬似歴史学なのです。血液型も同じで、進化的な把握は全く拒絶され、(何の根拠もない)性格判断により、たとえばO型人間に生まれたという本質に回帰し、あるいはO型人間の発生という時間的始原に立ちかえるかのような錯覚を楽しむというところに、「血液型のレイシズム」のからくりがあるといえましょう。O型人間にはO型人間の、B型人間にはB型人間の本質あるいはイデアがある、そこからの距離(現実)を楽しむ、という疑似科学がフィクションしたあまりタチのよくないメタフィジックスですね。ここでいったん結論的なことを言えば、本質やイデアを時間に関してそれを拒絶しきって私達が日常的に思考するということは、実に難しい、ということなのですね。擬似科学としての血液型を否定したからといって、「正しい性格判断」が存在するという立場からの否定では、サイエンスが実はその起源である一神教的宗教を批判するのと同じで、ある種の近親憎悪的な応酬の始まりがそこにあるに過ぎない、といえましょう。
       「痩せたい=若い頃に戻りたい」という、彼女の相談内容の多くの話に戻って考えてみると、彼ら(あるいは私達)は、「自分の人生の時間の進行」を、単線的に考えているようでいながら、若い頃の理想状態に近づくことで、単線的に進行する時間から疎外されなくなる、という記憶の再構成を絶えずおこなっていることに気づかされます。本当の自分(本質)と、そこから遠ざかったり、近づいたりする自分、ということですね。若い頃が自分の存在の基準であるという保証はどこでもない、ということは、いったいどこの次元で私達のコモンセンスであると考えるべきなのでしょうか。司馬遼太郎はこうした「若さ」への憧憬をからかうかのように「早く歳をとらないか」という逆説的表現を好みましたが、私達が人生の時間の進行を再構成し再評価していることは、果たして健康に関してだけのことなのでしょうか。性欲一つとっても確かに若い頃というのは過剰であるほどに恵まれているかもしれませんけれど、だからといってよい恋愛物語があるとは限りません。老いれば死に近づくから若い頃は理想状態である、という意見もあるでしょうが、それはおそらく違います。「若い頃の方がよほど死は身近であった」とはセネカやキケロなど「若さとは何か」を考え抜いたローマ時代の何人かの哲学者の(この時代に特徴的といっていいほどに)繰り返される主題なのですが、どんな人間でも、自分が死なないかもしれないという確信を捨てきれずどこかで死を信じていない、というドストエフスキーの公理とさえいっていい言葉に従うならば、若い頃は、各々の時間的な感覚からくる(であろう)死なないかもしれない、という確信を強く抱いているからこそ死に直面する場面が少なくなく、老いれば時間的に死を意識せざるをえないから、逆に死から遠ざかる術を心得るようになる、ということなのですね。かくして若い頃が私達の存在の基準であるという保証というのは、ますます不明確なものになってしまう。結論的なことを言えば、「過去」とは何か(存在しないかもしれない)ということでなく、過去を求める(再構成してしまう)私達は何か、ということが、彼女のダイエットのホームページに訪れる人たちに彼女が感じたことから考えられるかもしれない、といっていいのではないでしょうか。私達の人生に本質(あるいは意味)はない、と無神論的に宣言しながら、人生の時間のそれぞれに「本質」や「非本質」を私達は知らず知らすのうちに与えてしまうのだ、という先述した中休み的な結論が、ここでも繰り返されることになってしまいますね。もちろん無神論的立場とメタフィジックスを否定する立場は必ずしも同一ではない。しかしやはり両者のどちらかのみを主張してもう一つを主張しないということはおかしい、といわざるをえないともいえると思います。
       ネット文化のコミュニケーションは言葉を発する「向こう側の誰かの顔がみえない」ということに関し、私達が慣らされてしまっている言葉の倫理観をもう少し広いところに解放するところに面白さや問題性がある、といいましたけれど、「みえない」ということを否定的に言う論者が大体「見える」と主張するであろう、「過去」への理解ということに関して、私達は何かの間違いに陥ってはいないでしょうか。過去は定まったものであり、そことの言葉のやり取りの関係はコミュニケーションというのはおかしいほどに、安定し安心したものである。しかしその実はそうではない。私達はそこで、現在にかかわるものよりもある種遙かに難しい「コミュニケーション」を要求されているのです。たとえば私達は、文化史上の作家や哲学者あるいはその他の人物を、教科書なりその著作に記されている肖像画を通じてイメージしますが、この当たり前のことが実のところ私達を、文学や哲学、思想の生々しい理解から遠ざけ、哲学史や思想史の安穏とした語りの方に引っ張ってしまうことが多いように思える。「向こう側の顔が見える」ということとは何か、という問いをこうした場においては実は私達はあまり深く考えていない。まず「たかが肖像画じゃないか」という考えが、私達の懐疑をスタートさせてくれない。たとえば前述の「ホレーショ・ホーンブロワーの生涯とその時代」という「伝記」は年代や画家を使い、架空人物の「肖像画」まで巧みに描かせたのですが(これは文化人の「伝記」ではないですが)そこに最も精緻なフィクションの術があることを感じます。最も疑われないものを使う術と、言い換えるべきでほうか。「その肖像画が偽物か本物か」という議論はしても、「肖像画とは何か」を議論しないところに、私達の「過去とのコミュニケーション」が陥りやすい落とし穴があるのだ、と私には思えてきます。
         「肖像画」はただの容姿の保存ではないのです。そこには様々な価値が保存されていて、私達はそれを受け入れて、慣れきってしまっています。サルトルの「存在と無」に目覚まし時計の「不安への防護柵」の喩えというのがありますが、私達が目覚まし時計に様々なもの、債権や債務の到来や未到来ですらも予感することによって「目覚まし時計そのもの」を認識することの不安から逃れているように、私達にとっても「肖像画」というのは、絵画であれ写真であれ、重い価値を幾重にも背負わされている。サルトルという哲学者は随分当たり前のことを言うのだな、と笑うことはできません。たとえばカントの肖像画というのは、描かれた年代が接近した「一人のカント」であることは確認できても、いかにも「純粋理性批判」の著者という演技過剰なものもあれば、陰鬱で嫉妬深い表情を浮かべた猫背のカントもあり、それらの肖像画を観た上で、私達がよく知っている晴れやかに澄んだ表情のカントの肖像画というのを観ると、私達が肖像画というものに対して背負わせている「価値」というものが、どことなくわかってくるような気がします。肖像画を描く画家の自己表現という面をもちろん差し引きしても(写真の撮影も自己表現行為の一種であることは言うまでもありません)多くの彼に関しての伝記が伝えるように(そして教科書的エピソード上のカントとは全く異なり)食事の席では哲学の話をいっさい禁じ、全く哲学的能力がない人間に対してほど熱意をこめて自説を説くというほどに、自分の哲学学説に激しい虚栄心と防御心をもち、極度の人間不信が原因としか思えないほどに友情や恋愛を遠ざけ、教科書的に有名な彼の定時刻の散歩も、マフラーで口を覆い、誰とも絶対に会話しなかったという、複雑な人間性を信じることができるような気がしてくる。もちろん、教科書的なカント像というのも、決して虚像なのではありません。どれもかもが本当の、矛盾だらけだからこその、生々しく正しい(可能性のある)カント像なのですね。ところが、「一人のカント」が彼の生涯のディテールを記録として追えば追うほど、実は彼が私達の考える意味においてはいないかもしれない、という、考えてみれば当たり前の理解から、「肖像画」遠ざけてしまう。あるいは少なくとも近づける働きはしてくれない。カントは男は醜くてもよいといいつつ、自分の肖像画のどれも気に入らなかったといいますが、そこに、肖像画というものがもたされている価値というものへの、配慮があったことを感じるのは見当はずれではないでしょう。
          サルトルの目覚まし時計の喩えに戻り考えれば、時計と債権・債務の予感が本当は無関係であるように、「絵」も「写真」も、自分の人生の時間の流れの一部である、ということは全くのフィクションである、ということになりますね。私達は明治時代に写真に出くわしたときの日本人のエピソードの数々を嘲笑しますけれど、そこに立ち止まって考えなければならないことがあることに不思議なくらい気づかない。明治初期の日本人が文明的に遅れていたから驚いたのだ、という考えは、おそろしいほどに浅い見解といわざるをえない。では何に驚いたのか、ということについていえば、彼らは、サルトルが目覚まし時計の喩えで言いあらわそうとした、「そのもの」を認識したときにおきる不安に驚愕したのですね。「写真の中の自分が自分である」ということを、写真に背負わせている「価値」を知らなかった彼らは理解できなかったのですね。私達は写真というものを全く理解できない世界で、果たして「写真の中の自分が自分である」とスラスラ説明できるでしょうか。あるいは、写真を自分の記憶の一部であるとしてまるで命のように大事にする私達を不思議そうに見つめる未開人に出くわしたとき、そこに存在論のレベルでの優劣を素直に感じることができるのかどうか。たとえば私達は、数世紀のち、自分に関しての生物的なレベルから社会的なレベルまであらゆるほぼ完全でそれをディスプレイすれば自分が再現できるという客観的データが、ある小さいディスク(でも何でもいいですが)の保存される時代が来たとき、「ディスクの中にいる自分は自分である」とはしばらくいえないに違いない。「私達は記号ではない」と反論する「時代遅れの人間」が、しばらく後を絶たないことでしょう。
          写真に驚愕恐怖した明治時代の人間も、「絵画の中の自分」は(すでに)理解できていたはずです。「写真の中の自分」が理解できて、「絵画の中の自分」が理解できなかったことに、実は考えなければならない、汲めども尽きぬ何かの自分の人生的時間の流れの抽象化がある。肖像画は時間を止めるだけでなく、私達を時間の疎外から助ける観念的働きをもつからこそ、人類史において重宝されてきたといえると思います。人生的時間が再構成されるということは、時間の変換物である(と思い込んでいるか、あるいはその可能性がある)「記憶」のシンボライズ(象徴化)ということと蜜接なのでしょうが、私達は「違う自分」への象徴化のうちに、自分の人生的時間を再構成して、そこに、本質的な時間と非本質的な時間を価値判断してしまうことに、友人の女性のダイエット相談の疑問が考えなければならない方向性が何かの形である、とどうしても私には思えてくるところがあります。私達は、無数の肖像画(写真)を整理することを通じて、人生的時間そのものを整理できているという錯覚に陥っているのですね。結論をいえば、人生のどの部分においても、本質や非本質的なことはない、ということになります。しかし困ったことに、自分の人生的時間だけならばまだしも、私達は、記憶の象徴化という根拠のない時間の整理を、歴史という他者の世界にまで向けてしまうことがあるのですね。
       写真が存在しなかったカントの時代と必ずしも同一の次元で比較できないかもしれませんが、たとえば、67歳で政治家デビューした吉田茂がなかなかすごい、優れた政治家というのはやはり常人とは違うと溜息をつくように思えてしまうのは、外相就任から五次に渡る首相在任、そして政界引退後、死の直前まで、どの写真の中にも、同じ吉田茂がいるという感覚(錯覚)を、ほとんど信じたくなるほどに与えてくれるというところにあります。「言葉を発する人間の向こう側の顔が見えない」というネット文化批判を忘れさせてしまうかのような、虚像の実体化がそこにある。彼の言葉を、彼の肖像画がスムーズに予感させてしまうのですね。もっと驚くのは政治家デビュー前の、外交官僚やその後の浪人時代に関しても、そのことがいえてしまうような気がしてくるということです。彼の喜怒哀楽や外見の老いの変化ももちろんある。(ウルトラコンサバティヴとして彼を忌み嫌う人たちが言うような)たくみすぎる演技とか、(逮捕をものともしなかった戦時下での講和運動から察することができる)彼の真正直さとか、それぞれに言う人間がいるでしょうが、そのどれもが正しく、そしてそのどれもが説明をしつくせていないような気がしてしまいます。少なくともいえることは、政治家ほど思想的にも、人間関係的にも、巧みな変わり身を要求される職業はいない。しかしそれだからこそ、「変わらない個人」を要求される、ということもいえる。
        たとえば東久邇内閣の外相として政治家スタートした吉田茂は、当初は官僚を好み、内閣を組織するようになっても官僚起用をその特徴としたくらいですが、次第に毛嫌いしていたダーティーな政治家の起用も辞さないような変わり身をする。そのような過激といっていいほどの只中で、やはり周囲の人間、選挙民、国民は、「連続性」を政治家に求めるのですね。私に言わせれば、私達が政治家に求める「政治のわかりやすさ」は決して「言葉のわかりやすさ」ではない。政治家どうしのディベートで、難解な数字的・統計的なデータや解析でもって、論争相手を圧するレトリックを駆使するのを観るとき、「わかりづらさ」もまたある種の政治的レトリックであることを私達は知らずのうちに感じています。私達が「わかりやすく」ということの意味というのは、本当は「連続性」が不明瞭であることによるのですね。数年前と現在の政治家が別のような人格になったとき、それがたとえ「発展」といえるような変貌をとげたとしても、私達は何となくの不安を感じる。数年前自分の選択・非選択が危ういものになってしまうということにおいて、その不安というのは、実は自分の問題でもあって、さらにいえば自分の人生的時間の再構成のフィクションにもかかわることでもあるのです。政治家が「変わり身」を乗り越えたところに変わらない自分をつくりだせるかどうか、という問題があるのですね。だから思想や間関係で変貌しても「一人の政治家」である場合は、その政治家はなかなか支持を失わない。ところが反面、それほど内面的・外面的に豹変したわけでもないのに、いつの間にか国民的人気を喪失してしまう政治家というのは、様々なアクシデントの中で、「一人の政治家」という認識を感じられなくなっていく、ということがよく起きる。そこで表情が複雑であるふうになれば、その政治家は「わかりづらい」というレッテルを暗に貼られてしまう。念のため言っておきますが、それは決していいことである、というのではありません。ただ私達が自分の人生的時間に対しておこなっている、再構成や象徴化という、不安を避けるための営為が他者に向けられる典型例として政治家の在り方がある、ということなのですね。自分の人生的時間が、疑われることのない「時間」であることを求めるように、私達は政治家という、最も身近な歴史的他者(あるいはそれになることのできる可能性のある人たち)に、わかりやすさというものを求めてしまうのですね。こうした理解は制度的な理解に関しても、君主制(立憲君主制、象徴君主制)の方が共和制よりも優れている、なぜならば君主が「人格と歴史」を相続することによって生じる時間的安定性、という私の意見に近いものをもたらしてくれる場合もあります。しかし反面、現在を中心にした短い間でしか政治・歴史を理解できないために、先述したような「朝鮮から皇室が移動してきた」という、古代史の二十世紀的理解という誤謬を犯すことになりやすい、ともいえるのですね。なぜなら、私達の現在を基準にしたに過ぎない歴史(この場合、過去と同じ意味ですね)の再構成を、まるで自分や他人の人生を考えるかのように、「日本史」という「他者」に対しておこなっているからですね。つまり、サルトル的な「不安」の反対概念はこれらの場合、「わかりやすさ」ということにある、ということになるということです。
         このことをもう少し私達の歴史観(あるいは政治史観)において敷衍して考えれば、「わかりやすい時代」というのは、「わかりやすい人物(その多くは政治家)」によって形成される、正確に言うとイメージ化されるといっていいでしょう。特に各人の伝記中心で歴史を理解する場合、こうした認識に陥ります。「歴史をつくるのは人間だよ」という理解ですね。繰り返しになりくどいかもしれませんが、ここで言う「わかりやすさ」というのはそれを操る人間の言葉の平明さではありません。たとえば、近代史における「わかりやすい時代」の例として、戦後民主主義の黎明期があります。そこで活躍したのは吉田茂ばかりではない。彼の政敵の鳩山一郎もまた「一人の政治家」というイメージを背負うことのできた政治家の典型例であった人物でした。これに対し、黎明期をしばらく過ぎたあたりで、政界の中心に現れてきた(正確に言うと再浮上してきた)岸信介は、私はその鋭利な政治的見識と凄まじいまでのしたたかさから、戦後で最も優れた政治家であると確信しておりますが、決して「わかりやすい政治家」ではない。三島由紀夫が、60年安保騒動のトラブルは、首相である岸信介が「小さなニヒリスト」であることに政治的大衆が鋭く感づいたからだ、といいますが、私にはその意味が非常によくわかる気がする。政治家が絶えず変わり身を要求されるということは、「何をも信じてならない」というある種の徹底したニヒリズムが要求されることを意味します。岸信介という人が東条内閣の閣僚から戦犯逮捕を経て、戦後政界に重きをなすまでの様々な変貌の中で、「一人の政治家=ニヒリスト」であるということをどこか微妙なところで隠しきれなかった、ということにあるのでしょうね。ふたたびサルトルの「存在と無」からですが、信じないられない状況という状況の存在の可能性を考えつつ敢えて信じるという決断にとどまるがゆえに、「信じることは信じないことである」という言葉をもじっていえば、ニヒリストというのは、ニヒリズムを演じきれないニヒリズムでない何かによってよって表面化・顕在化してしまうものなのであって、「ニヒリストは(ニヒリストであることによって)ニヒリストでない」存在である、ということがいえるかもしれませんね。
        この時期以降の自民党政治を「保守暗闘」と評する政治評論が多いですけれど、なぜ「暗闘」なのかといえば、それは戦後民主主義の黎明期におけるわかりやすさが次第に後退し、ある意味で政治家がある意味「正直」な人間になっていったことによる、と私は考えています。そして岸信介の例でも明白なように、個人の政治家資質そのものを意味することでないということが重要なのですね。もう少し以前の歴史を遡れば、戦国時代がその後の江戸時代やそれ以前の後期室町時代よりも、遙かに激しい殺戮の時代であったにもかかわらず、好かれるのは、登場人物の「わかりやすさ」によるのではないでしょうか。「歴史は人間がつくる」という、先述の超一般論的見解も、こういうふうに理解すれば、意外に重みを持つ言葉であるといえると思います。戦後民主主義の黎明期もその後の保守暗闘期も、あるいは室町後期時代も戦国時代も江戸時代も、「面白い時代(あるべき時代)」というのは存在しない、ただあるのはそこで活躍した(活躍したとされる)人物への私達の評価があるだけなのだ、ということですね。そして私達は知らず知らずのうちに、自分の人生の時間的な流れと他人の人生の時間的な流れ(政治家をはじめとする歴史的他者)への評価を混同してしまっているということです。歴史の「本質的な時間」というものがないように、自分の人生の時間の流れにも本質的なものはない、というふうな理解が、こういうふうな考え方をすれば、すんなり理解できるのではないか、と思います。
        友人のホームページの話から、すっかり話が脱線してしまったようです。ちなみにその女性も私と同じB型です。私の文章は疑似科学ではないのですからどうでもいいことですね(笑)真面目に政治の話ができるよう努めたいと思います。

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日本人のアイデンティティ・2

「日本人のアイデンティティ」の問題を、もう少し掘り下げて考えてみましょう。
様々な捏造や誇張がありますが、中国の反日教育で最も苛立たしいのは特に「日本・ドイツ類似論」ではないかと私は考えます。日本人とドイツ人は似ていて、似ているがゆえに、二次大戦で同盟した、というお話なのですね。イタリアやフィンランドも枢軸国のメンバーでしたが、なぜか「日本・イタリア類似論」「日本・フィンランド類似論」というものは、語られません。
この子供じみた反日教育講話には必ず続きがあって、「ドイツは謝罪したが日本は謝罪していない」というお決まりのお話になるのですね。「類似論」を語る人間にはその成立の根拠などどうでもよく、その成立がかかわる作為がどうも問題なようです。日本国内の左翼勢力も、全く無根拠に、それらに迎合しました。さすがに日本国内でこのドイツの話を反日論に結びつける考え方は最近少なくなりましたけれど、しかしこの「日本・ドイツ類似論」が戦後の日本人に与えた影響力というのは少なくありませんでした。私もよく、中学・高校の時代、この日独類似論ということを授業で聞かされたものです。
この日独類似論の唯一といっていいほどの根拠は、集団主義的生真面目さが日本とドイツ(ゲルマン民族)にある、ということのようです。しかし、「集団主義的性格」というのでしたら、ソビエト期のロシアにおいてそれを見出すことも、充分可能であるはずです。通俗的レベルの比較論でも、島国である日本と大陸国家であるドイツの違いというのはかなり根本的であるはずです。規律正しさということでしたら、イギリスの規律正しさも有名で、ドイツの政治制度よりもイギリスの政治制度の方が日本に類似していますから、日本・イギリス類似論というのは成立しやすいのではないかと思いますが、なぜかそういう類似論は語られません。
第二次大戦の経緯を追えば、類似論の成立を目論んだ人達の意思に反して、日独類似論は一層成立が困難になります。日本はドイツのようにユダヤ人やスラブ人の計画的大量虐殺をおこなっていない、戦後ドイツ政府はしたたかにも「ナチスという団体を選んだこと」について謝罪賠償したけれど実は自分たちそのものの責任は一度も認めたことがない、三国同盟交渉の過程でドイツいったん日本を裏切り、ソビエトと不可侵条約を締結した、等々、事実的反論はいくらでもすることができると思います。結論的にいえば、日独類似論はそれを分析すればするほど、それが幼稚な作為であることが判明してしまうと思います。
大体、「類似論」というのは、国家論としては無意味です。たとえ「類似」が成立したからといって、いったいどういう感情的結論が得られるのか、ということです。たとえば先述したフィンランドやトルコの親日感情にしても、彼らはロシアに苦しんだという共通体験をして日本に「共感」しますが、それをさらに日本に「類似」ということにまでエスカレートさせることはありません。どう考えても日本人の「類似好み」の方がおかしい。そして「成立しない」という指摘の正しさを考えるとともに、私はもっと根本的なところ、なぜ「ドイツ類似論」というような考え方が日本で影響力でもってしまったか、ということを考える必要があると思います。ここには「アイデンティティ・起源探し」大好き、という日本人のナショナリズムの、アキレス腱といっていいほどの問題があります。そのアキレス腱に気づいた誰某が仕組んだ反日ファンタジーが「日本・ドイツ類似論」だった、といってよいわけですが、こういう反日ファンタジーがいかに悪質であるか、ということは、結論から事実を再構成してしまうことにあります。
再び、古代史に話を戻しましょう。たとえば戦後、日本世間一般に与えた影響力が最も大きい学問的仮説の一つに、「騎馬民族征服説」というのがあります。ご存知の方も多いかと思いますが、これは東京大学の江上波夫教授が戦後まもなく唱えた非常に大胆な古代史学説で、彼は神武天皇と10代の崇神天皇を同一人物(すなわち崇神天皇=初代天皇)とみなし、騎馬民族王であった日本の天皇家(崇神天皇)がモンゴル・朝鮮から移動してきて九州に渡り、その後応神天皇(15代)の時代に近畿地方に移動東遷し、次の仁徳天皇の時代になり現在の大和朝廷の原型ができあがった、とする歴史学説です。非常に大胆ですが、江上説の根拠はきわめて乏しく、学問的には全くの少数説といわざるをえないのですが、「日本人の起源は大陸に由来する」というアイデンティティ神話は、その後、姿形を変えて、世間一般に異常なほどの影響力をもつにいたりました。しかも、この江上説は江上氏自身の真摯な探求意思から離れて、日本人の起源が朝鮮半島に由来する、という奇怪な俗説にさえ変貌してしまいます。騎馬民族征服説の目指すところは日本の「起源」はモンゴルである、ということなのですから、騎馬民族征服説が流通する過程で、様々な作為が左翼イデオロギーの方から、悪意的に施されたということを感じなければならないと思います。そしてそういう作為が成立してしまうところに、「起源」探し好きな日本人の非常に特異な個性を感じることができるといえると思います。
以前にも言いましたが、日本人の古代史好きは決して古代そのものをリアルに把握したいがためのものでなく、現代の日本人の起源を知ることがナショナルアイデンティティだから、なのです。「勝者による歴史の書き換え・偽造・誇張」が中国人の歴史観であるとするなら、「果てしない自分たちの起源さがし」が日本人の歴史観でないか、といえるくらいですね。大体、朝鮮半島に国民文化が成立するのは日本よりやや遅く、「成立していない朝鮮文化」が日本に影響を与える、ということ自体が論理矛盾です。また、7世紀以前の朝鮮の文献は実証性に問題のある日本の歴史文献よりもさらに実証性を欠きますが、あえてそれに依拠したとしても、朝鮮半島から日本列島に渡り、「朝鮮型王朝」をつくった人はよほどの大人物として朝鮮で伝説化しているはずですが、それに該当する人物を見出すことは全く不可能である。こうした根拠の欠如の問題をすべて無視し、江上説はさらに原型をとどめないほどに俗説化してしまい、今では「日本文化は朝鮮文化の模倣である」という杜撰な歴史認識の「根拠」にさえなってしまっています。ここまでくるともう架空小説のレベルで、ひどい話になると聖徳太子が大陸から渡ってきた王子だという説が(一歴史学説として)存在しますが、これほどおびただしい「起源説」を可能にしてしまうほどに、私達は「アイデンティティさがし」を必要としてしまう、という傾向にあるということができると思います。
これがいかに全体的傾向といえるかということは、歴史学だけでなく言語学の分野でも「起源さがし」がいつまでもひどく盛んだ、ということからしても明らかです。例によって朝鮮語やモンゴル語との類似点をさがすという比較研究から始まり、膨大な「起源さがし」が言語学の世界でおこなわれてきましたが、ついに「起源」についての確証は琉球語を除いては得られませんでした。不思議なことに、この確証が成立したにもかかわらず、日本人あるいは皇室の起源が琉球である、ということは、ほとんどいわれませんでした。「作為」が存在しなかったのですね。「類似論」が日独類似論以外の類似論を排除するように、「起源論」は大陸起源論以外の起源論を排除するという結論先取り作為によって成立している、ということですね。大体、「言語」というのは歴史以上に相互の言語間の「前後の因果関係」が不明で、たとえ類似や影響が見出せても、ただちに「起源」であるということの根拠にはなりえませんね。しかし言語学でおこなわれている日本語の起源さがしは、歴史学上に、方法論上の短所を軽視して継続されているのが現状だといえるでしょう。或る哲学者は「言語学こそがナショナリズムをつくりやすい」といいましたけれど、「起源」が日本人のナショナリズムにどうしても欠かせないものであるとすれば、その言葉はなかなか正しいものを語っているというべきでしょうね。
ここまで考えると、もはや「起源」という意味が定かでなくなっている、とさえいえるほどなのですが、アイデンティティさがし、起源論に拘るというのは、はっきりいって意味のない徒労なのですね。「起源は実証できない」ということでいったい何が悪いのか、ということです。起源が実証できないから、日本人としてのナショナリズムが揺らぐということはおかしいのです。調べてみると、これは明治期に顕著になってきた日本人の癖であることがよくわかります。自虐史観ほどでないとしても、日本人の不思議な精神性の一部であることは明白ですね。「日本文明」というのは一言で言うと、アジア世界で全く独自の展開をとげてきたものであり、本質的な意味での「仲間」は世界のどこにもいない、ということなのですが、そのことの「寂しさ」に気づいた明治期の日本人は、いつの間にか起源論の虚構をナショナリズムの一部に組み込む、ということを癖にしてきたのですね。「日本・ドイツ類似論」は起源論ではありませんけれど、やはり起源論に類似した「寂しさの埋めあわせ」の一種であるということができます。「類似のファンタジー」はたとえば「騎馬民族征服説」をノルマンコンクエストになぞらえ、フランスとイギリスの関係を騎馬民族と日本の関係に「類似」していることを見つけだして「安心」する、という説すらあるようですけれど、ここまでくると、起源論や類似論がどうも私たち日本人の「弱さ」からでている、ということがよくわかるのではないでしょうか。
「起源が実証できない」のではなくて、「さかのぼれる時代までしか起源はさかのぼれない」だけのことなのですね。先述しましたように、中国文明は揺るぎない「起源」をもっていると思いがちですが、決してそんなことはありません。人類が誕生したアフリカまでいきつかざるを得ない、ということは極端だとしても、世界四大文明に時間の戦後はもちろんのこと、「相互影響」があるのは確実ですが、だからといって「起源」がどうとかと考えることは意味がないのですね。
「起源さがし」がファンタジーのうちはいいですが、それが皇室の問題についての話になると、その作為の悪質さは無視できなくなります。たとえば、騎馬民族征服説の悪用の典型例というべきですが、日本において、連続性が問題があるといわれている継体天皇以前、存在実証性が問題あるとされている仁徳天皇以前の天皇の存在の「不明」にミステリーを勝手に感じて、すぐさま「大陸からの移動してきた」天皇の物語をフィクションして、いちいち大騒ぎする。私にいわせればたとえ皇室の歴史が仁徳・継体からだとしても、日本の天皇家は単一の王朝としては完全に世界最長であって、そのことを評価することが何より大切です。そしてそれ以前、初期王朝の十数人の天皇に関しては確かに文献上、不明な面がある、ただ神話上はこういうふうに物語的に説明されている、しかしこの神話は私たちが使う意味とは違う意味で「本当の世界」なのだと穏健に教えればいいだけのことではないか、と思います。「起源論」に苦しむということはやむをえないとしても、「起源の不在」により、皇室の歴史などに関して、日本人としてのアイデンティティ不信に陥るというのはとんでもないことだと思います。
繰り返しになりますが、日本は世界で全く独自の文化圏を形成せざるをえなかった、それは「寂しい」ことではなくむしろ「誇り」と考えるべきことである、世界のどこにも類似している文明も国家もない、そして起源はわかるところまでしかわからず、それ以前のことに関しては「わからない」とあっさり考えること・「神話」という複雑な意味での「事実」の双方を、広い意味での「起源」と考えればいいのではないでしょうか。ドイツとの類似論の悪用にみられるように、類似論や起源論のファンタジーに「反日」論がしのびよる可能性があるのですから、近代日本人の「寂しさ」の克服ということは、「反日」を考える上でも重要なテーマになると思います。

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